ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

METオペラ『ポーギーとベス』鑑賞記録

METライブビューイングでオペラ『ポーギーとベス』を観てきた。 

ガーシュウィン《ポーギーとベス》 | 演目紹介 | METライブビューイング:オペラ | 松竹

 

安定の東劇、好き。


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もともと観るつもりでなかったのだけれど、いつもオペラの話をしている鑑賞仲間が続々観に行っていて、持ち帰ってくるその熱狂ぶりが気になって、わたしも観ることにした。

新型コロナウィルスによる感染症拡大の影響を備忘として記録しておくと、

メトロポリタンオペラは、3月12日以降の今シーズンの現地全公演を中止することを決め、第9作《トスカ》と第10作《マリア・ストゥアルダ》は、公演中止。

 

現地で公演&収録済みの第6作《ポーギーとベス》、第7作《アグリッピーナ》、第8作《さまよえるオランダ人》は日本でもライブビューイングで上映予定だったけれども、4月3日から公開していた《ポーギーとベス》と4月10日から公開の《アグリッピーナ》は政府の緊急事態宣言を受けて映画館自体が休館。

緊急事態宣言が明け、社会が平常に戻りつつある6月26日から、映画館が再開して《ポーギーとベス》が上映、、という流れ。

 

3月からの3ヶ月ちょっとの間、メトロポリタンオペラは過去の公演を日替わりで無料ストリーミングしてくれていて、それを観ながらなんとかしのいでいた。途中ではこんな記事も書いた>ありがとう、MET Opera!

やっぱり映画館で大きなスクリーンで、良い音で観たい〜!!と渇望していたので、《ポーギーとベス》は待望の再開だった。

スクリーンに映る客席では誰もマスクをしていないし、いつものように満席で、人々の笑いさざめきが聞こえ、オーケストラもオペラ歌手たちもそれぞれの表現を目一杯している。それを観ているわたしは、ひと席おきに設定された座席に座り、手は消毒をして、マスクをしている。そのギャップに切なくなったりもした。

でもそうまでしてもやはり観たかった!!わたしにはオペラが必要!

 

また、作品のテーマからいうと、アメリカで起きたBlack Lives Matterのウェーブが世界に大きな影響を与えているときでもあった。

METでの上演も30年ぶりとのこと。

さまざまな意味で、わたしにとって特別な作品、特別な鑑賞になった。

 


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いやー、 観てよかった!ほんとよかった!!

ただいまメト!オペラがあってありがとう!

うれしくて泣いた。

アツい感想が止まらない。

非常に現代的で普遍的な物語。

今後もそのときどきで解釈され演じられて、観た人の一部になっていくのだろう。

 

 

徒然と感想メモ(かなり詳しく書いたので未見の方はご注意を

1920年代のアメリカ南部の町、チャールストンが舞台。オペラ初演は1935年。世界で最初のミュージカル作品は1927年の『ショウボート』だそう。ブロードウェイのミュージカルが全盛になっていく直前の、移行期のような作品。オペラでもありミュージカルでもあるような、不思議な魅力の作品。

ガーシュインのバリエーション豊かな音楽と歌手の表現力(歌唱力と演技力)が全編に渡って素晴らしい。物語の展開も速くて、3時間半近くあるのに、全く飽きない。

・サイコロ博打、運を天に任せて刹那的に生きるしかない彼らの象徴のよう。

・薬物依存症という観点から、『生きのびるため犯罪(みち)』『その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち映画『トークバック 沈黙を破る女たち』などを思い出した。現代の現実社会の話をして観た。それぞれの作品に出てきた、薬物依存を抱えている女性が、男性との関係や人間関係全般に問題を抱えている、というエピソード。

・ポーギーの自立の物語だと感じた。障害を言い訳にして生きてきた自分を捨てて、外の世界に、「物乞い」など、なんの修飾語もつかないポーギーとして立つ。そのための行動のきっかけになったのがベス。ベスを自由にするためにとった行動が倫理的には間違っているけれども、ポーギーを自由にした。

・もしかしたら少し遅れてベスにも自立が訪れるかもしれないという予感。おそらく厳しい生い立ち。境界を侵犯され続けてきた自分、自分の真ん中を明け渡さないと生き抜けなかった自分を恥じることなく受け入れるときがくる。誰から必要とされなくても、自分として生きるタフさを少しずつ身につけていく。

・もしもNYで二人が出会うことができたら、ポーギーの生き様にベスは影響を受ける、育まれる。誰かの物(わたしの男、おれの女)としてではなく、個として相対し、条件のない愛に出会える。ニコイチの関係を脱して、向き合える日がきっと来る。そんな予感をさせる希望に満ちたエンディング。(ニコイチ=二個で一つ。すごく寂しいときやストレスがかかったときに、相手とぴったり重なりあう関係を望んでしまう。自分と相手との境界がなくなって、束縛したり依存する関係。異性、同性、親子、友人同士でも起きる)

・ニコイチ・2人の世界になりかけたけれど、島へのピクニックにベスを行かせるポーギーは、ベスほどには境界は曖昧になっていないし、「あなたは足が悪いからわたしがいてあげなきゃ」という申し出にNOを言える。ここはホッとするシーン。

・閉鎖的なコミュニティは同じ民族、同じ境遇の人たちが集まっているので安心安全な面もあるけれど、行動はすべて筒抜けだし、同質性が自立を妨げるようにもはたらいてしまう。キャットフィッシュ・ロウでは、男性はどれだけ悪さしても比較的ゆるめに包摂されているが、女性は信仰や貞節が無いと疎外されているように見えた(つまりベスの状態)。独身でパートナーもいない女性への風当たりがキツかったのだろうかと想像させる。かつての日本の村社会を彷彿とさせる。

・あのコミュニティでは悼むことが許されないのも、しんどそうだった。人権が認められないから、神の前に人間は皆平等とされる信仰にすがる。でもどんな悲しく辛いことも「神の思し召し」に帰されてしまう。悲しめない、怒れない、絶望がたまる。忘れましょう、というかのような明るい曲調が、パワフルでもあり、同時に残酷。

・(幕間インタビュー)公演期間中に、MET資料室の展示『MET黒人歌手の軌跡』が行われていたそうだ。アフリカ系アメリカ人のオペラ歌手はいたが、出演できなかった人たちも多くいたそう。「歴史を公平に議論するための展示」と担当者。

・黒人の病院がない?かあってもかかるのが難しい?「イエス先生」に祈って治すしかない。社会が人権を認めないときに、すがるものは信仰。祈ることしかできない。過酷。

・男たちの浅はかな行動に女や子供たちが犠牲になっている図。女たちの言葉に男たちは取り合わない。女同士で慰めあうしかない。

・ベスの精神的な弱さ。自分の大事なことなのに、自分で決められない。「あんたはどう思う?」と聞いてしまう。「誰かに必要とされていること」が大事になってしまっているように見える。奪われ続けてきた人なのかも。もしかしたら、親との間にきっと責任を引き受けられないのだよね、、ストレスがかかると全部を捨てて、慣れ親しんだ逃避の行動をとってしまう。ここではない遠くに連れて行ってくれる人やものに惹かれてしまう。しかし葛藤するベス。リアル。

・ポーギーもベスも、生い立ちがハードだったんだろうなぁと想像。親との間で愛着形成がうまくいかなかった者同士が出会ってしまったときの関係の作り方。自分を「必要としてくれる」かどうかで決めてしまう。必要としてくれる人を居場所にするのは、恋愛の一部分かもしれないけど、自立した同士の健全な関係ではなく、依存に陥りやすい。 だから言葉にしていちいち、「おれの女」、「わたしの男」と言い合って確認していたのかもしれない。「愛してる」と歌うけれど、視線はどこか自信なさげで、心からというよりは、どこか不安そう。無条件で受け入れてもらいたくてとる試し行動のようなものも、あれは本当は親にやってほしかったのではないか。そう考えると、お互いに求めてたのは父性や母性だったのかもしれない、、という勝手な想像。

・ クラウンのベスへの感情も恋愛というより、依存や執着。支配欲。「だれも話す相手がいなくて死にそう」という言葉が辛い。クラウンもどうしようもない孤独を抱えている。

・どの人物も物語の設定に振り回されているのではなく、一人の人間としてそこにいて、不幸な人、可哀想な人、酷い人では終わらない、不思議な魅力をたたえていた。困っていたり、困らせていたりするし、絶望も感じているけれど、でも人生終わったわけじゃない、まだこんなにも生きている!という力強さ。そこを見なきゃね、と思う。

・登場する人物や関係は、現代の社会にもある現実の問題を浮かび上がらせていた。

・National Theatre Liveで観た『リーマン・トリロジー』を思い出した。リーマン・ブラザーズはドイツからアメリカに移民してきて、小物屋から、綿花の卸売業をする。綿花園から安く大量に買付して都市に高く売ることで財を成した。あの綿花園の中に、キャット・フィッシュ・ロウ(なまず横丁)のようなコミュニティもあったのかも?なんて想像したりも。歴史の大きな流れからしたら、名を残さない人々の、取るに足らない日常の小競り合いかもしれないけど、たしかに生きている人がいた、という記録のようなものでもある。

・生きている人といえば思い出すのが、2017年にピナ・バウシュ ヴッパータール舞踏団の"NELKEN カーネーション"という公演に行ったとき、演出で、ダンサーが客席に降りてきて、客とハグするっていう時間があった。わたしは1階席前方・通路側の席だったのでラッキーにもハグしてもらえた。そのときのダンサーがアフリカ系アメリカ人の女性で、ハグしたときの感触がすっごかった。筋肉、生命力、肌の質感、祝福、一生忘れられない。このときの感覚を記憶から立ち上げながら『ポーギーとベス』を観ていたら、体温や息遣いを感じられた。リアルタイムでも、生の舞台でもないけれど、感じた。

・殺人が軽く扱われていることの違和感。白人からの暴力もあったし(史実では殺人も多数...)、もしかしたら殺人も日常的な風景だったのかも。乗り切るために、歌って踊って封じ込めていくのかもしれない。だからあのサマータイムの歌詞。現実の辛い状況を真逆の言葉の歌詞にして歌いあげるような。 

・カーテンコール、鳴り止まない拍手、嬌声。白人の役の歌手へのブーイング(こんなの初めて見た)、

 

ここからが二人の物語。
どういう結果になっても未来がある、という晴れ晴れとした気分になって劇場を出た。

一夜明けて翌日は晴れて気持ちのよい日だった。

前日の「ポーギーとベス」を観たからか、気や血が「身体を巡った」ような感じがあって爽快だった。オペラ効果すごい。

 

オペラありがとう!!

オペラ仲間ありがとう!!

 

 

 

舞台であるチャールストンはここ。南東部、サウスカロライナ州(by Google Map)

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チャールストンの歴史。

globe.asahi.com

 

 

こんな歴史も知っておくと、また受け取るものが変わりそう。(読みたい)

www.vogue.co.jp

 

 

音楽で余韻に浸る...。オケの動画はどんな楽器が鳴っているかわかって良いなぁ。

LVのインタビューで「南アメリカではよく上演されている」という南ア出身の歌手が話していたけれど、こちらもケープタウンの方々。指揮者もノリノリでいい。

youtu.be

 

 

 

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