ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『否定と肯定』鑑賞記録

先日、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のオンライン・スタディツアーに参加した。感想はこちらの記事に記した。

ポーランド人で日本語スピーカーのガイドさんが、レクチャーしてくださるもので、とても学びが多かった。また、これまでの人生で収集してきた経験、知見が一本の線で結ばれて、ひとつの全体像が見えてきた感覚があった。

 
ツアーの最中にはさまざまな思いがめぐったが、その一つとして、「なぜ歴史修正主義者は、これだけの痕跡、記録、証言、研究を見てもなお、"ホロコーストはなかった"と言えるのだろうか」という疑問を持った。
 
そこで、この映画を観ることにした。
 
否定と肯定』(原題:"Denial")
ユダヤホロコースト研究を専門とする歴史学者が、「ナチスによる大量虐殺はなかった」と主張する歴史家を批判し、名誉毀損で訴えられる。否定論者との1779日におよぶ闘いの実話を映画化したもの。2016年イギリス、アメリカ製作。
 
映画館で予告編を観て、気になってはいた。
今これを観れば何かわかるのではないか。
 

 

 
これは期待以上の内容だった。
まず映画としておもしろい。つくりが巧い。テンポとじらし。心理的仕込み。
 
また、史実の否定だけではなく、反ユダヤ主義、性差別、植民地主義アメリカ人とイギリス人の反目、アメリカの中での人種差別など、様々な対立や差別の構造も同時に浮き彫りにする。それぞれに歴史が長く複雑なので、見応えがある。
 
俳優たちの演技も素晴らしい。 主演のレイチェル・ワイズもこれ以上ないというぐらいぴったりだし、アーヴィング役のティモシー・スポールは見事すぎて、今後回ってくる役が類似のものにばかりなるのでは、と心配になるほど。
 
 
訴えられた(ほとんどいちゃもん)側は、否定論者と同じ土俵に立ってみても、決して敬意を払われるわけではない、むしろ酷い辱めを受ける。
衆人、メディアの前に否定論者を引出しても、発言する機会があればあるほど、チャンスを得て喜び、生き生きと裏付けのない主張を述べる。
"彼"は、自分の誤りや差別意識が指摘されることに、まったく恥の感覚を抱かない。
愕然とする言動が続いていくが、ただ正面から反論してもダメ。
こちらの出方によっては逆手にとられてしまう、相手を有利にしてしまう。
 
そんな緊迫した展開を見守りながらも、徐々に思い至る。
これはたまたま映画なのだけれど、現実でもよく目にするものだ。
なぜあの人がトップなのか、
なぜあの人が代弁者を名乗れるのか、
なぜ人の生命を預かる重要な職についているのか......。
 
すべての人間が同じように倫理観と道義心を持つわけではないという前提にも立ち返る。だからといって排除はしない。人権を守りながら、社会の安定を目指そうと、人々は法治国家とその運営のシステムを作り出したのだから。
 
 
また、以下の点が重要。
アマゾンプライムの配信ページのレビュー(Starlessさん)より引用させていただいた。

"まともな学者は膨大な一次史料から史実を読み解き、考え得る解釈を論理的につなぎあわせつつ緻密に歴史を編んでいく。一方、陰謀論者はそういう地道な作業をすっ飛ばして、自らの信条にとって都合の良い史料を取捨選択し、声高に明快な主張をとなえる。すると、後者の方がわかりやすいし、新奇性もあって聞き心地が良い。不特定多数への発信が容易になったネット社会だからこそ、こうした傾向に留意すべきだろう"

 
不満を持つものはわかりやすいものに飛びつく。
惹かれるものが埋め込まれているのだろう。
支持する者がいるから、差別主義者は存在できる。
ますます分断が大きくなる。
それも、環境や要因が整えば、誰でもなり得る。
 
ある発信が、「個人の認知の歪み」では済まされない影響力を社会に対して持ちはじめたときに、わたしたちはどのような行動をするか。どのように闘うか。
そのレッスンの機会を提供してくれる映画にも思えた。
 
 
ちょうどアメリカでは次期大統領の当選が確実となった。
 
4年前なぜトランプが大統領になったのか、
なぜ得票数が僅差になるほどに、差別より"治安"を重視する人が支持するのか、
現職大統領が選挙結果を認めず訴訟に持ち込もうとするのか、
明らかに差別の言動をしているのに"差別ではない"と言うのか。
 
ようやく実感をもって理解した。