9月。
半年ぶりの観能。
すべりこみでとれたラスト1席が、正面の前右寄りだったのはラッキー。
この席から見ると、橋掛かりから能舞台まで、口を開けた龍が迫ってくるようでダイナミック。
狂言「菊の花」-----
太郎冠者ってほんとに憎めない人。チャーミング。主人との関係も主従なんだけど、対等で、お互いに正直さがあって気持ちいい。きょうの太郎冠者は年配の方だったのだけど、そのギャップが不思議によかった。(太郎冠者って若者の前提でよかったんだっけ?)
能「天鼓」-----
初めて観る曲だったけど、とてもよかった。また観たい。
哀しく憐れで美しく、何か大切なことを諭されているような深みや、赦しのようなものも感じられた。
今の感覚からしたら、「帝が横暴だろう!弔いもいいけどお前反省しろ!」と言いたくなる。
でも勅命に背くこと自体あり得ない前提なら、それを罪と呼ぶのもやむを得ないのかと、やりきれない思い。
前シテ・老父が、全身が木肌色で能舞台と一体化して見えた。悲しみのあまり空気になってしまったかのような。降って湧いた災難に、子を失う悲しみから、尽きせぬ涙を流しながらの前場の退出は泣けた。
後シテ・天鼓の美しさ。前場とはうってかわって艶やかな装束は、美の精霊のようだった。溌剌として、少年らしい。少年といっても男性性は感じない。横顔の翳りに色香。
芸術は器や道具だけあってもだめで、演者や表現者がいてこそ命を持つ。
だれでも魂を吹き込めるわけではない。
コロナ禍における芸術文化振興の在り方も思い起こされた。
どんなふうに観てもよくて、自分のこれまでの人生経験のストックすべてを使って楽しめるので、能楽はすばらしい。
600年以上、継いできた方々に、心からありがとうございます。