ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

レクチャー『村上浩康の「ドキュメンタリーは創意工夫に満ちている」』参加記録

昨年末、ポレポレ坐でひらかれた、ドキュメンタリー映画監督の村上浩康さんのレクチャーに参加した。

pole2za.com

 

このツイートを見て、すぐに申し込んだ。これ、まさにわたしが知りたかったこと!

 

ドキュメンタリー映画を観ていて、「こんな奇跡的なシーンやカットは一体どうやって撮っているんだろう?」と思うことがよくある。どんな編集をしているのか。

劇映画の作り方はだいたい知っている(と思う)が、ドキュメンタリーについての知識が乏しい。ドキュメンタリーにも演出があると聞いたが、それは具体的にはどういうものなのか、ずっと知りたかった。

そこに特化してレクチャーしてもらえる、しかも現役監督から直接聴ける機会は貴重だ。

「作りを知る」ということは、「鑑賞の視点を養う」ということでもあるから、今回聴くことは、わたしの仕事上、とても重要な学びになることは間違いない、と確信していた。

 

 

わたしは、村上監督作品を2020年公開の『東京干潟』『蟹の惑星』で知った。

higata.tokyo

 

そのときの感想。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

村上監督は映像の作法や体系を誰かから習ったわけではない。映画をひたすら観て、独自の実践力で表現し、創意工夫を繰り返すことを続けてこられたのだそうだ。

 

当日のレクチャーで印象に残ったこと。

※わたしの学びや考察は▶︎で記した。

 

Robert Flahertyロバート・フラハティドキュメンタリー映画の父と呼ばれた映画監督。『極北のナヌーク』(1922年)を投影しながらの解説。

・この画を撮るためには、そこで何が起こりそうか、ある程度予測する必要がある。その予測のために、取材が重要になる。それがどの程度の頻度で起こるのか、パターンがあるのか、変化するとしたらいつ、特徴的なことを確認しておく。(▶︎撮りたい映像が予め自分でわかっている。頭に描ける。そこから逆算して何をすればいいか考える。)

・対象が再度その動作、行為、言動を起こすように、誘導することもある。では「演出」とは「ヤラセ」なのか?その違いは?

・やっているのは、自分の感じた驚きを観客に伝えるための創意工夫。自分の見た現実を自分のフィルターを通して表現する、作品にする。(▶︎ただ現実を写しても、背景や前提が共有できなければ、観客を飽きさせずに最後まで連れていくのは難しい。特に商業映画を撮っているなら余計に大切になる、ということか。そのままをただ見せることも、できなくはないが、そうすると「観られる人」「読み解ける人」が限られてしまう。)

 

▼村上監督作品『東京干潟』を投影しながらの解説。対象とのコミュニケーションについて。

・環境、登場人物、話、生活、人生......などの要素を工夫しながら順に見せていく。人は一気には受け取れない。(▶︎人間の脳の処理能力、知覚能力、心理などを踏まえて、何をどの順で観せていくか、聞かせていくかを考える。像を結びやすくするということか。人に教える、講座を設計するなどにも活かせる話)

・人間が意識しているものは、シーンが重なると次第に忘れる。ただし潜在意識は引きずっているので、事前に少し入れておいて、あとで再度別の形で登場させると印象がつきやすい。

・問い方が大事。その話が出るように"誘導"する。同じ話を何度も聴く。基本人の話というのは再現性がないが、長く撮っていると同じことが起こりやすくなる。どう現実に働きかけるか。「もう一回話してくれませんか」と言って聴き始めるが、帰結点は決める。また、聴きたい質問の2つ手前から聴き始める。(▶︎インタビューにも通じる。敬意は忘れず。伝えたいからこそだが、やりすぎない。コントロールにならない。)

・長い期間撮って関係ができていると、対象が演技をしてくれることがある。期待に沿おうと振舞うようになる、撮られていることを意識するようになる。逆に、人はカメラを意識しないようにする振る舞いも起こる。あたかも撮られてなどいないように。撮る側と撮られる側の心理がある(e.g. 『ニューヨーク公共図書館』by F.ワイズマン監督)

・「いつもと違う」という設えをすると、現実が動くことがある。(▶︎逆に言えば、現実を動かしたいときは「いつもと違う」設えをする。これは他のことにも生かせそう)

 

▼村上監督作品『蟹の惑星』を投影して、ドキュメンタリーの音についての解説。

・その場の音でないものをつけることもある。実際にはそのタイミングでは聞こえないが、効果を高めるために、映画の説明として意図的に。短い時間でぎゅっと体験してもらうために。(▶︎これも"嘘"ではない。ひとえに"自分の感じた驚きを観客に伝えるための創意工夫"と理解できる)

・自分にしかわからないこだわりや秘密を作品に仕掛けておく。誰からも理解されなくてもよく、ただ自己満足のためにやっておくと、「ご批判」があったときにも耐えられる。(▶︎これすごく分かる......。書くこと、作ることの中で、今まで無意識にやっていたけれど、今後は意図的に入れてみようと思った)

・何かに使いたい素材は置いておく。いつか使えるかもしれないから、あきらめない。同時に制作している他の作品と融通しあうこともできる。

・映像と音は独立した表現物として、拮抗させながら一つのものにするのがおもしろい。

 

▼その他。

・環境に負荷をかけないように撮る。

・実は何十匹もの蟹の映像を編集して、一匹のように見せている。同じ条件下で撮る必要があったので、3年を要した。

・現実が浅薄な意図を軽々と超える瞬間があり、そこに圧倒される。

 

わたしが個人的に質問したいこと。(まだ聞けてません)

・村上監督の聴き方が非常に印象的。寄り添う、補う、反復、温かい関心。こんなふうに聴いてもらえるなら、誰でも話してしまうのではないか。これもドキュメンタリーの技術?この聴き方はどこで学ばれたり、鍛錬されたのか?

・話を聴く時に、帰結点は決めるとのこと。帰結点はズラすこともある?手放すこともある?どこに到達するかわからないけれどひたすらついていくときもある?

・どのように関係をつくっていっているのか(ラポールの形成)。撮っていないところでは、ご自分の話もするのか?

・カメラが入ることで、その場にいる人たちの関係性が変わる可能性は高い。人の人生に介入するのは怖くないですか?そういうこともハラを括ってやってらっしゃるんですか?

 

参加しての感想。

村上監督のレクチャーがおもしろすぎて、メモを取りまくっていたらインクが切れた。やはりペンは予備で2、3本入れておいたほうがいい(これも学び)。

ポレポレ東中野の小原さんが冒頭の挨拶で、「参加した人が自分の仕事や活動の創意工夫へのインスピレーションになったらうれしい」というようなことをおっしゃっていた。

聴きながらわたしが思い浮かべていたのは、やはり自分の仕事のことだった。

インタビューやコンサルテーションやファシリテーション

これらはどれも事前に準備して想定する。
身体を運んで、関連事項を調べて、資料に当たって、コミュニケーションして、タイムラインを引いて......どれだけ準備したかで当日の場が決まるから、準備が本当に大切。

実際の場で、用意していた素材やアイディアを使うこともあれば、使わないこともある。その場で思いついて採り入れることもある。

そのときの取捨選択の判断が、関わる相手をできるだけ損ねないような訓練を別途していて(たとえば競技かるたや家事や書き物)、種々準備はするのだけれど、一番の手応えは、現実が想定を遥かに超えてきたとき。これはちょっと言葉にはできない喜び。

Amazing!な瞬間。うわ、キタコレ!と驚いて、わくわくして、圧倒されている。
コントロールが利かないことが怖くて嬉しい。でもこれが起こるには「想定」が大事。

それを村上監督は「創意工夫」と呼んでおられたのではないか。
意図して置く。置き続ける。
真剣に、真摯に取り組み続ける先に起こるご褒美みたいなとき、現象、運命の反転。

能「小鍛冶」にも通じる。やるだけやって、葛藤もしつくして、あとは神様(大いなるもの)に委ねる。意図や想定(三条宗近で言えば、相槌がいて、それが人間である)を超える覚悟ができていれば、準備ができていれば、神様は願いを叶え、相槌を務めてくれる。それは想定を遥かに超えた出来事だし、出来上がった刀剣も想定を超えている。自分が作ったけれど、それだけではないものができる。

映画の持つ深遠さや重厚さ、懐の深さに「ドキュメンタリー映画の創意工夫」という切り口で、束の間、触れさせてもらえたという満足感がある。

この世界の秘密や奥深さを他の人間を通じて教えてもらう、橋を架けてもらうのは、やはりこの上ない喜びである。

また、ドキュメンタリーと劇映画の違いや境界はあるにはあるが、厳密ではないのかもしれないという感触も得た。ワンカットでカメラ回しっぱなしで、俳優に特に演出もつけずに撮る劇映画だってあるわけだ。

いずれにしても、表現を作品としたいなら、鑑賞者がいて完成するものだから、「伝えたいこと」と「受け取ること」の出会うところについて考えるのがやはり大切で、演出も(編集と言ってもいい)当然必要になる。

「素材から演出をかける」のか、「素材自体に意図はなく、集めてから演出をかけていくのか」の違いということなのだろうか。

近頃、脱稿した著書(共著)のことも思い出す。

語り手は「わたしは(一人称)」なのだけど、「わたし」を時系列に、ままに記録したものではないし、伝わるように手直した部分も多い。

だからこれも創作。とはいえ嘘ではない。

でも生(raw)だと誰も食べられないし、調理がたまたま今回はこうだっただけで、また設えや顔ぶれが変われば違う表現になる。

 

先日『もち』という映画を観て、ドキュメンタリーのような劇映画を観て、どうしてこんな映画が撮れるのか不思議だったのだが、今回のレクチャーを聴いて合点がいった。

 

今後、他のドキュメンタリー作品を鑑賞するときに、今回得た学びを使いたい。
具体的に想像力を働かせることができ、これまでよりもさらに奥行きと深みを持って、作品のメッセージを受け取れるはずだ。

 

村上監督、ポレポレ東中野さん、すばらしい機会をありがとうございました!

 

 

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