ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

映画『もち』鑑賞記録 

『もち』という不思議な映画を観た。

mochi-movie.com

 

実在する人々が自分自身を演じ、実在の関係性があり、その人たちが実際に体験したエピソードが盛り込まれている。

かといって再現映像ではない。新たな登場人物や新たな設定が加わり、かれらに経験のないエピソードの脚本がある。だから、ドラマ作品ではある。

61分と、これまた劇場上映作品としては、あまり見かけない尺。


前情報を得ていたこともあったからか、観ている間、この「どちらでもなさ」に揺さぶられ続けた。

変な感覚。戸惑う。どう観たらいいのかわからない。「これは演技なのか素なのか?」「演じ手はどんな心境なのか」などにいちいち気が取られていた。

今ふりかえると、自分が頭でっかちでつまらない人間のように思えるし、逆にそれも仕方がないことのような気もする。

(この辺りの「一体どうやって撮っているのか?」という疑問は、後日こちらのレクチャーで解かれることになる)

 

 

また、この物語に没入するよりも、目の前で展開される物語が刺激になって、自分の過去の記憶と紐づいていく感覚が、終始わたしを占めていた。

わたしが子どもの頃、父方の祖父母の家では、正月に必ず餅をついた。

丸餅、角餅、餡入りよもぎ餅の3種類は必ずつくる。丸餅に丸めたり、餡をつめて丸めるのは子どもたちの仕事。 

餅をつくのは父や祖父で、母や祖母が返す役割。

それを見ながら、自分も大人になったら、餅を返す役になるのだと思っていた。

タイミングを誤ると杵で手を打たれそうで怖いけれど、大人になる頃にはそんなことも難なくこなすようになるに違いないと。

でもそのような日は来なかった。わたしはあの頃の両親よりも歳を重ねたけれど、餅をつくことはなかった。祖父母はわたしが20歳になる前に亡くなり、人の住まなくなった家には、杵と臼が取り残された。

祖父母の看取りや葬儀のことなどが思い出された。

そんな記憶と共に感情がドバーッとあふれてきた。

 

大好きな人の声や手、ずっとここにあると思っていたこと。

大切なのに、いつか思い出せなくなる日が来るのだろうかーーー

この言葉が交わされるシーンはよかった。

何事もずっとは続かない。丁寧に守ってきた土地の文化も、暮らしも、人のつながりも、記憶も、いつか無くなる。

 

肉親との何気ない会話が、そのときの情景が、一生忘れられない記憶に変わることがある。

でも逆に復興されるものもある。その象徴が、本寺地区に伝わる「鶏舞」。
あの人たちに感じるのは、ひたすらに希望。

忘れる、覚えている、留める。
それらを抱えながら生きているわたしたちが映される。

 

▼脚本・監督の小松真弓さんのインタビュー

brutus.jp

 

▼舞台挨拶

岩手県・一関シネプラザ 公開記念舞台挨拶レポート

7月4日 初日舞台挨拶 小松真弓監督×及川卓也プロデューサー レポート  

 

 

実は、2021年1月の〈ゆるっと話そう〉は、この『もち』か『ムヒカ 』かで迷っていた。

1月だし、正月だし、もちはいいんじゃないか。

今年はわたしもコロナ禍ゆえに実家に帰省できないから、郷里を思い起こす『もち』で話したい気持ちもあった。そういう人は多いのでは、という見立てをした。

自分の故郷や家族、喪ったものの話、自分のルーツの話を聴きあい、思いを分かち合う、温かくよい場になるだろう。どの土地にルーツを持つ人にとっても何か語れることはある。

懐かしい思いを語るうちに、「自分にとっての地域や遺していきたい文化」の話にも展開しそう。

たくさんの喪失を経験した2020年だったから、それを丁寧に悼む時間にもなりそう。
映画が撮り方が実験的なので、そこもたくさん語れそう......などなど、いろいろと魅力は尽きなかった。
 

しかし、この作品は「言葉にしたい」「誰かと分かち合いたい」という欲求が湧くよりは、自分の中で温かく持ち帰りたいタイプの映画に感じた。

また、社会や世界が揺れている今は、『ムヒカ』を見て語ることのほうが人々から求められているようにも感じた。根拠はないが、感覚として。

 

苦渋の決断で、『ムヒカ』に決めた。

でも『もち』でも語ってみたかったという気持ちもある。
またそんな機会があれば。

 

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※蛇足、次の展開。

たまたま視聴していた講義の中で、こんな話題が出てきた。
『もち』とつながる話のように感じた。

山本博之准教授「メディアとコミュニティ―東南アジアから考える」第1回

京都大学人社未来形発信ユニット

オンライン公開講義シリーズ「立ち止まって、考える」

災害では人々の記憶の拠所も失われる。災害で馴染んだ風景がすっかり変わってしまったことで、自分が一体誰でどこにいるのかわからなくなったという感覚に襲われた人もいた。風景には、個人の印象や価値観が折り込まれている。個人が社会が風景に意味を紐付けしたものを"文化空間"と呼ぶことができる。災害では人命や財産だけではなく、個人が文化空間も被害を受ける。

文化空間は目に見えるように表現するのが難しい。どのように表現して、どのように共有するのかが難しい。しかし試みはある。被災地で意味の紐付けがされているものを観て、その意味を感じてみるという方法。何か見えているものをその場に置くことで、なんらかのメッセージを伝えようとする。花を置く、石を重ねておいてみる、手書きで張り紙をしたり、有り合わせのものを使う。場合によっては、自分が身体を動かして、自分が何かを行動し、それを人に観てもらう、表現することでも伝えられる。目に見えない文化空間を可視化する。

もしかしたら本人たちはあまり深い意味はなくやっていないとしても、ただその場にあるものを動かしただけなのかもしれない。でもそうであったとしても、それをきっかけとして、文化空間を読み解く糸口になるのではないか。紐付けられているものを見つけ、そこにどんなメッセージが込められているのか考え、その解釈をもとに、できればその地域の人たちと意見を交換していくことで、文化空間を可視化することにつながるのでは。

(※筆者が音声から粗く起こした状態。逐次文字起こしではない)

youtu.be

 

 

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