2021年1月。映画『燃ゆる女の肖像』を観てきた。
先に観た友人の感想を聞いていたら、今観なあかんかも、という気持ちになって、「レディース・デイ」に鑑賞。
この「女性」が特別料金の日があるシステムもそろそろ変わっていくのかねぇ、とも話した。
ここのところ、何を観ても素晴らしい作品ばかりで、常に更新される新しい表現に唸らされてばかりなのだけれど、こちらも例外ではなかった。
音が印象的だった。
まるで耳で観ているような錯覚を起こす。
キャンバスを走る木炭や筆、衣擦れ、砂浜、グラス、はぜる薪、波に叩きつける波、溜め息、笑顔や涙さえも耳から視える。
映像も美しい。絵画を見続けているような感覚。
詩とサンクチュアリ。炎と鏡。
旋律のあるものは最小限。
マリアンヌとエロイーズとソフィーが3人でいるところのシーンがとてもいい。
対等で、親密で、平和。心地良い。
自分の選択できること、自分の力が及ぶ範囲が極端に制限されている人生の中で、それでもささやかな自由と表現と開放の喜びが伝わってくる。
静かさと熱さ。
インタビューを読むと、この繊細な表現のために、美学の共有と多くの創意工夫があったことがわかる。
セリーヌ・シアマ監督へのインタビュー
アリアンヌ役:ノエミ・メルランへのインタビュー
エロイーズ役:アデル・エネルへのインタビュー
また、作中において衝撃を覚えた中絶の扱いについては、この評が参考になった。
オフィシャル・トレイラー
そういえばビスタサイズの映画って珍しい。そのあたりにも"古さ"のようなものが出ていたのだろうか。計算し尽くされていて、考証も丁寧なのだろうと推察。
日本版トレイラーのイメージだけで敬遠している人がいるとすれば、それは非常に勿体ない。今や「女性」や恋愛の表現はどんどん変わっている。宣伝のセンスが旧くて、中身の革新性とのギャップが目立つようになってきた。観てみればわかるのだけど。
少なくともこの映画に関して、ステレオタイプやどこかで見たような焼き直し感は一切ない。
過剰なドラマ性や背景説明を一切排して、会話と振る舞いだけで淡々と進行していく画面。
可哀想でもなく、逞しいでもなく、ただそこに生きる人たちがいる。
だから、移入できる。
登場人物が盛られていないし、決めつけられてもいない。
観客も見方を誘導されない。
削ぎ落とされて簡素だからこそ心が動く。
映画とわたしたちの関係もフラットで、敬意があり、信頼がある。共有しているものがある。
映画は進化し続けている。
「女性」の性と生、今はこのように描けるようになってきたのか、と感じる。
海外のソースにも当たりながら、信頼できる「鑑賞仲間」のレビューを聞かせてもらいながら、良作を見つけていきたいと思う。
時代の流れを読んで、作品を世に提示し続ける表現者たちに拍手喝采!
パンフレットも素敵。題字が筆書き風なのもいい。
ここからは、さらに個人的な覚書として。
映画から展開できることとして、女性の画家についての歴史的背景、「見る」ー「見られる」の関係、ミューズというキーワードがある。
これらの点について知るには、『シモーヌ vol.2 メアリー・カサット』が非常に参考になる。
「19世紀後半から20世紀初頭にかけて印象派の画家として活躍したメアリー・カサットを取り上げながら、芸術分野での男女平等は実現されたのだろうか」という問いを投げかける特集となっている。
アメリカの美術史家リンダ・ノックリンが「なぜ女性の大芸術家は現れないのか?」という論文を発表してから来年で半世紀が経とうとしている。
カサットが没してからも90年以上の時が経った。この間、芸術分野での男女平等は実現されたのだろうか。女性の美術史家は、男性の美術史家と同じように評価され、同じような就職の機会をほんとうに得られているのだろうか。展覧会に出品するアーティストや美術館に所蔵される作品には男女の偏りがないだろうか。女性アーティストの作品が、「女性ならではの感性」などと短絡的に評価されることはもうなくなっただろうか。
メアリー・カサットについて考えることは、これらすべての今日でもアクチュアルな問題について考えることとつながっている。(p.25より引用)
この映画の舞台はメアリー・カサットよりもさらに前の時代なので、マリアンヌにとってどれだけ限定的な中での画業であったかや、当時の女性たちがどんな社会的立場に置かれていたかを想像する手がかりになる。
また、別の映画だが、『ストーリー・オブ・マイライフ』の中で四女のエイミーがパリに絵の勉強に来るが、画家としてのキャリアを断念するくだりがある。その背景を知るにもよいと思う。
この本に関連したイベントに参加して、非常に驚きだったことがいくつかあった。
・ブルジョワ階級の女性たちは、一人で目的もなく出歩くことは許されなかった、常に誰かが付き添った。
・女性が「見る」=はしたないこと、女性が「見られる」=タブーまたは美徳、という社会通念があった。
・労働者階級の女性は、常に「見られる」対象となる。踊り子や娼婦など。
・女性が「見る」という主体的な行為はいずれの階級にも想定されていない。それでいて自らは男性から窃視的な眼差しを向けられる。
・扇は「見られる」から身を守るための重要な小道具だった。
・女性にとって劇場は「見る」行為が可能な、数少ない公的な空間だった。
・これらの点を踏まえると、カサットの『桟敷席にて』は、"オペラグラスで一心に舞台を見つめる女性。向こうの客席から身をのりだすようにこちらを見ている男性。そして、その場面を眺める私たちの視線。三つの視線が交錯するスリリングな画面構成のなかで、男性に見られる存在である女性が、見る主体として堂々と描かれており、カサットの革新的な女性像の表現への意欲を伺うことができる"(SPICE "『メアリー・カサット展』何が見どころなの?鑑賞前におさえておきたい3つのポイント"より)
・表象とは、それを見たいと考える者の欲望の投影である。意図がある。しかし、テキストを読むトレーニングは学校教育の中で膨大に行うが、イメージを読むことは教わらないことが多い。鑑賞教育が貧困なのは課題。
さて、どうでしょう。
一度ご覧になった方は、これを知ると、また『燃ゆる女の肖像』の見え方が変わってきそうではないですか?
また、最近読み始めたこちらの本も、『燃ゆる女の肖像』のおかげで、よりリアリティをもって受け取れそうな予感がしている。
『才女の運命 男たちの名声の陰で』インゲ・シュテファン/著, 松永美穂 /翻訳(フィルムアート社)
こちらの本たちも、同じ線上にある気がしている。
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