ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

展示『漱石山房の津田青楓』展 @漱石山房記念館 鑑賞記録

新宿区にある漱石山房記念館で、『漱石山房の津田青楓』展を観てきた。

《特別展》漱石山房の津田青楓-新宿区立漱石山房記念館

 

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漱石山房記念館のことは、近隣に住む友人から、計画段階の頃に聞いており、完成したらぜひ行きたいと思っていた。2017年にオープンしてから4年。ようやく訪問できた。

ここは夏目漱石初の本格的な記念館なのだそう。なんとこんなに有名人なのに、意外。

 

記念館は、東西線早稲田駅から徒歩10分の早稲田南町にある。漱石が1919年(大正5年)に49歳で亡くなるまでの晩年の9年間を過ごした旧居であり、「漱石山房」とも呼ばれたところ。木曜会と呼ばれる文学サロンが開催され、漱石を慕う若きアーティストたちが集っていた。

この木曜会の成り立ちがおもしろい。漱石が有名になるにつれて、訪問客も増え、執筆に差し支えるほどになってきた。それを心配した門下生が、木曜日の15時からまとめて面会するようにしたらどうか、と提案して始まったという。いいアイディア!(木曜以外の来客も結局は多くなっていたらしいが)

 

もともとの漱石山房は、昭和20年5月2日の山の手大空襲で焼失したが、疎開させていた資料は難を逃れたという。東京の空襲といえば、3月10日の東京大空襲が真っ先に浮かぶが、この記事を読むと、終戦までに東京は130回も空襲に遭っていたのだそう。知らなかった。

gendai.ismedia.jp

 

漱石山房の再現。やはり本棚に入りきらないと床に積むんだな。

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ちょうど訪問する少し前に、NHKラジオで『永日小品』を聴いていて、ロンドン時代の漱石に思いを馳せていたところだった。

 

ロンドン留学からまもなく、水彩画を描いた絵葉書をたくさん作って、友人や学生たちに送っていたらしい。

漱石、ほんとうに上手い。キャプションにも「漱石にとって絵画の領分は作家としての領分に劣らぬほど抜き差しならない」とあるほど。わたしにとっては初めて知る意外な一面。いや、でも今の時代だって、例えば俳優が絵画でもファッションでもその才能を発揮する例はたくさんあるし、多芸に秀でるというのは、決して珍しいことではないのかもしれない。バラバラに才能を持っているというよりは、通底しているものから汲み上げているという感じなのだろうな。

 

2階に上がったところの壁には、漱石の作品の中からいくつかフレーズが引用されてパネルにして展示されている。

たくさんある中の一つがわたしは気になった。

世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます、ことに此頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫をたよりに生きてゐます

大正3年3月29日(日)津田青楓あて書簡)

これを書いたのは漱石が47歳の頃。43歳の時に修善寺で倒れて死にかけた後も、どんどんと迫りくる老いと深刻化する病。胃潰瘍を患って、しんどい身体を引きずりながら、どんな心境で書いていたのだろうか。

猫や犬や文鳥など、いろんな動物を飼っていた漱石。慕われてはいたけれど、人間に疲れてしまうこともあったのかもなぁなどと、勝手に想像。49歳の死は当時としても早かったはず。

 

 

パネル展示や本の展示をいくつか経て、いよいよ企画展へ。

 

今回の企画展が津田青楓だったことも、このタイミングで記念館を訪問した大きな理由だった。ちょうど一年前の2020年3月に、練馬区立美術館の津田青楓展を鑑賞した。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

こちらは青楓の生涯の画業を一望する大規模な展覧会だった。漱石本の装丁のコーナーもあったが、全体から見ればごく一部。とにかくこの人は多作、多才。98歳まで長生きして、いろんな経験をして、作風もどんどん変わっていって、どこまでも挑戦していった人。

このときの体感を持って、今回の「漱石との関係における青楓」という、数年間をじっくりと眺められるのは、とてもおもしろい体験になるのではないかと思った。

 

青楓は文筆家でもあった。1907年(明治40年)にフランスに国費留学していたときに、パリから雑誌『ホトトギス』に寄稿した小説を、漱石門下生の小宮豊隆が絶賛し、青楓の帰国後に漱石に紹介したのがはじまり。漱石は最初の面会から青楓を気に入り、親交を深める中で、青楓の子の名付け親にもなったり、青楓に油彩を習っていたそう。

「欧州への留学組」という仲間意識のようなものだったのだろうか。西洋の圧倒的な個人主義に触れて、これから自分たちはどのように芸術を通して「自己の表現」をしていくべきなのかといったことを話し合ったのかもしれない。

明治から大正の激動の時期の同志。特に漱石は留学時代の苦しい時期が、創作の土台になっているというから、それを理解する青楓は心強い存在だったのではないか。また、青楓が、京都という漱石とは異なる文化圏をルーツに持つことも、漱石に刺激を与えた面があるのではとも、勝手に想像している。

 

青楓が漱石山房に出入りしていたのは1911年(明治44年)から漱石が亡くなる1916年(大正5年)までの5年間。

展示を見ていて感じるのは、とにかく漱石への恩義、思慕、敬愛の念。そして、門下生との交流。全員が自分の芸術を追究する者ばかり。仕事の斡旋も相談できる頼りになるネットワーク。才能が生まれ、自由闊達な議論が行き交い、あちこちでコラボレーションが起こるエネルギッシュな場、るつぼ。田端や馬込、上野界隈など、東京のいろいろなところで、こういった芸術家たちが集っていたのかと思うと、わくわくしてくる。

彼らを惹きつけていたのが、まるで父親のような漱石若い人たちを叱り、厄介を引き受け、甘やかし、支え、励ました。気難しいイメージだったけれど、ここでの漱石は父性の象徴のよう。

鈴木三重吉が全集の装丁を青楓に依頼したのに、13巻のうち10巻で辞めてしまったというエピソードも紹介されていたが、これも漱石山房で起こるたくさんの揉め事のうちの一つだったのかもしれないと思うと、微笑ましい。

 

津田青楓は「漱石に最も愛された画家」と言われているらしい。ちょうど今、東京では、小村雪岱の展示が日比谷図書館三井記念美術館で立て続けに開催されていて、「泉鏡花にとっての小村雪岱」と似たところがあるなぁと思っていた。

慕い慕われ、いろんなもの・ことを共有していく関係。どうしてもホモソーシャル的関係に見えてくる。もちろん、男性と女性アーティストがコラボレーションすることがほとんどなかった時代は当然なのだけれども。

それでも、そうやって男の人たちが集ってせっせとこしらえているものは、とにかくどれも可愛く美しく繊細なものばかり、というところがいい。

 

小村雪岱展に行った時に、この時代には、挿画や装丁は、画家が片手間にやるもので、本業とはみなされていなかったが、雪岱はこれを本業として身を立てた人だったと知った。今回の展示では、青楓が「装丁家で終わるつもりはなく、画家として大成したい」という野望を持っていたとある。やはりそういう時代なのだな。

同時期の同時代を対象にした展覧会から見えてくるものがあって、わたしの頭の中でそれらが補完し合ってくれるのが楽しい。たとえば、漱石小泉八雲の後任として東京帝国大学英文学科の講師に着任したと聞くと、昨年行った小泉八雲展が思い浮かぶ。なるほどねえ、ここで繋がる!

 

今回一緒に行った友達とは、手紙、書簡のおもしろさについても話した。ちょっとしたことですぐ手紙を送りあっているのは、現代ではちょっと想像がつかない感覚なので、当時の通信事情などが気になってくる。書簡もだし、日記も貴重な記録資料でもあり、当時の暮らしから社会の動きまで、いろんなことが見えてくる。

この経験があったので、後日、森鷗外記念館で手紙の企画展に行ってみたら、当時の郵便事情がわかった。展覧会同士が響き合っている!

 

これから、漱石とも青楓とも、またどこか別の場所で会えそうな気がする。そのときにはまた別の角度から、別の切り口から照らされているだろう。

同じ人間の生が、照らし方一つでいかようにも変わっていくこと、時代が動いていく限り研究は終わらない。楽しみだ!

 

今回の図録とてもよい。青楓の装丁や絵日記などたっぷり収録。買って損なし。会期は終了しても在庫があれば引き続き販売している。

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併設のカフェでは空也最中や抹茶をいただける。美味しい。日当たりがよい。その分、夏は暑そう。

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またちょいちょいチェックして行ってみたい。

好きなミュージアムが増えていくのは嬉しい。

 

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