ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『推し、燃ゆ』読書記録

『推し、燃ゆ』を読んだ。
宇佐見りん/著、河出書房新社/刊。2021年の芥川賞受賞作。

 

経緯。

今月初めの『きみトリ』の読書会で、共著者のライチさんが紹介していて気になった。芥川賞もとったし、「読んだ、すごい」と方々からつぶやきが上がっていたので、知ってはいたが、わたしはたぶんライチさんがおすすめしなかったら読んでいなかったかもな。

読書会レポートより。

推しを応援すること、表現することで自分と出会っていく主人公に自分を重ねる。人とかかわる上での通じ合えなさ、もどかしさに共感する読書体験をぜひ。(『きみトリ』でいえば、思春期、体調、人間関係(境界線)、恋、仕事などいろんなテーマに関わりそう)

あとは、「感覚の表現の仕方がすごい」と言っていたのも気になった。そういう小説、好き。

 

 

読んでみて。

ああーこういう感じだったのかーと唸った。

ひりひり痛いんだろうなぁと想像していたんだけど、そうなんだけど、「こういう感じ」というのは......正直やられたって感じ!

 

※もしかしたらここから、読書体験に影響するようなことを書いているかもしれないので、そういうの気にしないって方だけ読んでくださいね。

 

主人公のあかりちゃんは非常に独特の感覚を持っている。

特に視覚、嗅覚と皮膚感覚が際立っている。音は繊細に聴こえてくるというより、目から入ってくる感じ。味覚はずさんで、何でもいいというような投げやりな感じでアンバランス。この感覚の描写がリアルなので、わたしもひととき、あかりちゃんになれる。あかりちゃんによって描写される世界に、ひととき身を浸すことができる。

読み進めていくと、もしかしてあかりちゃんは発達障害とか、何か名前のつくような困りごとを抱えているのかもしれないと感じられるようなことが、家の中や学校やバイト先で次々に起こる。

でも、彼女自身はもちろん、彼女にかかわる誰もそのことは思い当たらない様子で、そこにハッとした。わたしの界隈では学んでいる人が多いから、解明されてきたことも多いし、だいぶ世の中の理解が進んできたのかなぁなんて思っていたけれど、そうでない環境にいる人のほうがまだまだ多いという可能性はあるのかもしれない。

周りの人はあかりちゃんに苛立ったり、呆れたり、果ては見捨てたりしている。当人は努力しているけれど、なぜ周りがそんなふうに怒ったり、泣いたり、無視したりするのか、わからなくて途方に暮れている。周りもわからない。これは辛い。

 

ちょうど本を読む前に、お昼を食べに行っていたカフェで、入りたてのスタッフさんが、先輩から教わりながらテキパキと動いていたのを見ていて、「うわぁ、覚えることもたくさんだし、頼まれごとややることがどんどん重なるし、不測の事態も頻発するし、考えてみれば飲食のお仕事ってめちゃくちゃ高度な脳みその使い方だよなぁ」と思っていたので、あかりちゃんが居酒屋でバイトしているくだりを読んでいるときは、すごくリアルだった。

わたし自身、飲食業でアルバイトしたこともたくさんあった。うまくできないことのほうが多くて、怒られたり、呆れられたり、なじられたりして、楽しいこともあったけれど、自分だめだなぁと思うことのほうが多かったのを思い出した。やっぱりわたしは気が利かないんだとか。あのときのいたたまれなさが、ぽこぽこと湧いてきた。ひいー。

 
そうはいっても、あかりちゃんは推しにまつわることでは、驚異的な能力を発揮する。ブログでまめに発信しているし、コメントにはそれぞれの人の背景や関係を考慮してコメントを返す。文章表現力もある。日常生活では抜けてしまうようなスケジュール調整も計算も物品管理も、とにかく推しにまつわることであれば、ナチュラルにやれている。
 
でも、その推し活の中身に、日常で関わっている人は誰も覗けない。いや、見えているのだけれど、「評価」しない。理解さえしたくないと疎まれるし、外界からの刺激を遮断して安全地帯にいる振る舞いにもなるので、やればやるほど蔑まれる。そんな辛さをあかりちゃんは日常的に抱えている。辛い!ここには 「勉強」と「遊び」の断絶というテーマもあったりする。「それは遊びであり、怠けである」という。
 
あかりちゃんは、「人でない」推しを通じて、世界とのつながりや自分の存在を確認している。それが「人」になった瞬間、自分を支えていた構造が揺らぐ。この「自分と世界との間に半透明の膜がある」感じは、映画『勝手にふるえてろ』の主人公ヨシカに酷似している。膜は半透明なのでよく見えない。度のきつい眼鏡をかけているときのように、輪郭がぼやけたり、歪んだり、精細には見えなかったりする。本人も「生き下手」と自分を呼ぶ。
 
わたしはとにかくあかりちゃんの心身の健康が気になった。どうか特性を理解して、生活をしやすくするやり方を一緒に考えたり、実践してくれる人が現れますように。今かかわりのある人の中で違う出会い方をするとか、あるいは全然明後日の方から出会うとか、あかりちゃんがたまたまネット記事で出会うとか、なんでもいいから、なにか間に入って状況説明してくれる人、モノがありますように、とひたすら願っていた。
 
 『勝手にふるえてろ』では、半透明の膜を破って来てくれる人がいるのだが、果たしてあかりちゃんにはそういう存在(人でなくてもいいから)は現れるのか!?
 
ラストがね、またすごいですよ。ご存知の方は、「ホドロフスキーのサイコマジックみたい」と言えばへええ、と思っていただけるのでは。
 
 
おまけ。
この本を読んだ日の深夜、わたしは珍しく起きていました。どうしてかというと、0時ちょうどに映画のチケットを予約するため。
緊急事態宣言が出ているので、当日の0時からオンラインでの予約が開始というふうに変更になって、さらに劇場によっては席数を減らしていたりするので、ぼやぼやしていると売り切れてしまうのです。映画自体も、日本最終上映になっているとか、この先10年、20年かからないかもというような作品を今やっていて、しかも我が青春の映画なものだから、どうしても観たくて......。
 
これとこれ。
 
 
そう、これが推しですよ。アートへの愛ですよ。
推しのためには、人は普段はできないことでも乗り越えられる。推しは力をくれる。
自分の好きなものを大切にしていきましょう。
 
好きなことがわかんなくなったら、子どもの頃にやっていたことを思い出して、もう一度やってみるとかね。
これは子どものやることだから、と切り捨てたものの中に、自分だけの宝物があるかもしれない。
 
 
『推し、燃ゆ』おすすめです。一気に読んじゃいます。
10代にも読んでもらいたいなぁ。
 
 

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