ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

映画『坊やの人形』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

7本目は、オムニバス映画『坊やの人形』 1983年制作。
原題:児子的大玩偶、英語題:Sandwich Man

概要・あらすじ https://moviewalker.jp/mv11463/

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なんとも重苦しい気持ちになる映画だ。

登場人物たちの不安、焦り、惨めさ、期待、悲哀などは、設定として消費されているのではなく、すべて現実社会の写鏡としてあり、リアリティを映画的に創作していると感じる。

三作品に共通しているのは、貧困と格差、分断と排除。それらを作り出している政治や国交や時代の変化への強い皮肉と怒りのパワーを感じる。

 

この先、感想をかなり詳しく書いてしまったので、鑑賞に影響すると思われる方はご注意ください。

 

一本目は

表題作でもある侯孝賢監督『坊やの人形』

台中の山間のまち、竹崎に暮らす貧しい3人家族。父親は、自分で仕事をつくろうと、ピエロの姿をしたサンドイッチマンになる。この姿がもう悲哀以外の何者でもない。

「職が見つかった!これで子どもがつくれる!」と転げ回らんばかりの喜びようだったのに、次の瞬間は奈落の底に落とされるような、辛い仕打ちが待っている。この感じは、イタリアの1940年代〜1950年代のネオ・リアリスモ映画の金字塔、ビットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』そっくりだ。

音楽で感情表現や情緒を煽っているところもあるので、なおさら悲哀が滲みる。モノクロだったらもっと落ち込んでいたかも。カラーでよかった。

わたしにとって衝撃だったのは、冒頭の妻が経口避妊薬を服用していることを知ったときのくだり。映画が撮られたのは、1983年で、映画の中の世界は1960年代の設定だが、この時代にすでにピルがあって、医師の処方で買えるようになっているということなのだろうか。ちなみに日本で低用量ピルが日本で認可されて販売を開始したのは1999年だ。また、「リングを入れたのか?」というセリフもある。夫婦間、家庭内でこういう会話はできるぐらい普及していたのだろうか。「飲んで子どもができなくなっちゃった人もいるんだぞ」というあたりは、まだ質がよくなかったのか、性教育が不足していたのか。(いや、そんなことを言えるような日本の性教育では全くないのだが)

そして、その後の回想シーンで、涙する妻に夫が「2,3日で流れ出ちまう。またできるよ。仕事があれば。ないのにどうやって暮らせるんだ。さあ、飲めよ」と説得する。堕胎の話をしていると思われる。冒頭からいきなり重い。

途中では、「もうサンドイッチマンなんか何の効果もない」と言われてむしゃくしゃする夫が、妻に「なんで茶が用意されてないだ、ここでは俺が主人だ!」などと喚いて物を投げたりする。

映画館の親方に雇われている夫は、職場の上下関係でも社会構造の中でも底辺にいる。停車場で読書に熱中する制服姿の学生たちをじっと見つめる姿に、オーバーラップする役所でのシーンの中で、夫が字が読めないことがわかる。読み書きができない、学校に行けないほどの貧困にあえいでいた生い立ちだったのだろうか。

なんだかいろいろ辛いのだが、少しずつ状況は上向いていく。劇的ではないが、ほの明るい。「家族が生きる支えになる」というある意味伝統的な家族像だが、描かれているのは今日的課題でもあり、遠い昔の話とも思えない。

 

続いて、

曾國峯(ゾン・ジュアンシャン)監督『シャオチの帽子』

日本製の圧力鍋を販売する会社に入った二人の男性。どこか冷めたところのある兵役明けたての若者と、身重の妻を抱え、新しい仕事に期待を寄せる30代の男。

どちらもやっとありついた仕事だ。

台中のまち、布袋に派遣されて、大量の鍋をかかえ、毎日宣伝活動に繰り出す。住民からの反応はいまいち。「早く調理してどうするんだ」という言葉に都会と田舎の時間の流れのギャップがある。ビジネスっぽい出立も周囲からは浮いている。若者は、彼らの拠点の前を通りかかる少女シャオチが気になり、話しかけるのが楽しみになっている。

物語が進むにつれて、少しずつ高まっていく「圧力」。最大になったときに起こるシャオチの帽子と圧力鍋にまつわる悲劇。

衝撃。まさかこういうこととは!なかなか心理的にくる。物質社会、消費社会、資本主義に絡めとられていく人々の姿が悲しいほどにまざまざと炙り出される。夏の太陽の明るさや、デモンストレーション用に仕込みをしていた豚足の画も脳裏に焼きつく。

また、「日本製の」というところに、自分自身の罪悪感と居所のなさを覚える。日本の支配下から解放されたと思いきや、コントロールできない「地雷」を送り込まれ、危険にさらされ、取り返しのつかない傷を負わされる人々。どういう意図での製作だったのか、また研究者の間ではこのモチーフをどう解釈しているのか、聞いてみたい。

 

最後は、

萬仁(ワン・レン)監督 『りんごの味』

台北の貧民街に住む男が、朝、仕事に向かう途中、駐留米軍の高級将校の車に跳ねられてからの一日を描いた物語。

男には子どもが5人おり、学校に行っていないで口減らしで養女に出されそうな長女と唖の次女が、家事を手伝ったり赤ん坊の三男の面倒をみている。長男と次男は学校に行けているが(家父長制の現れか?)が学級費が払えないため、いつも教室の隅に立たされている。

駐留米軍についている警官は、外省人なのか、北京語を話しており、その言葉は一家の母親には通じない。母親は本省人台湾語しかわからないのだろうか。長女が通訳をしている。台湾の社会にある分断が示される。また冒頭の、「轢いた相手は工員(labour)なのか?」という電話のやり取りからして、駐留アメリカ人たちの態度は、かなり差別的だ。

一家の大黒柱が瀕死であったら路頭に迷うのだ、仕事を求めて台北にやってきたのが間違いだったのではないか、と呆然とする母親を尻目に、生まれて初めて外車に乗った子どもたちは、事の重大さもわからず、はしゃぎまくる。幸いなことに父親は両足骨折で手術はしたものの、生きていた。豪邸のような海軍病院に目を丸くする一家。ほとんどSFの世界だ。

さらに、車に轢かれて全治数ヶ月で普通「ごめん」では済まないのだが、将校がお金を持ち出すと、母親はころっと明るくなる。最初からそれを狙っていたふしもある。唖の娘をアメリカに留学させようとも持ちかけられる。男の職場仲間もやってきて、みんなで喜び、笑い合う。

差し入れでもらったサンドイッチとソーダとりんごを食べ、最後にりんごを一人一個ずつかじる。りんご1個は2kgの米と同等の価値を持つ。ここは南国だからりんごの栽培はしていない。バナナならあるけれど。圧倒的に高価なのだ。

家族に勧め、自分もりんごをかじる男。笑いたいような、泣きたいような、表情をしている。しぶとく生きる庶民の姿とも言えるが、残酷なほどの違いと、差別の眼差しもセットで隠すこともなく描いている。

将校も病院で働いているスタッフも、英語でしか離さないし、わかろうともしない。自分たちが他所の国に来ているのに、「何を言っているのか全くわからない」などと言う。唯一、シスターがなぜか台湾語がペラペラだが、人畜無害で、いてもいなくてもいいような役回りが滑稽だ。

最後の家族写真は、少しあとのものだろう。長男、次男、三男が少し大きくなっている。次女は写っていない。アメリカに行ったのだろうか。

笑えるところもあるが、これまたなんとも言えない後味の悪さが残る作品だ。

 

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いやはや、である。よくこんな映画を三本も撮れたな!

台湾ニューシネマの運動はこの『坊やの人形』が本格的に開いたのだそう。

 

確かに新しさがある。

今観ても新鮮だ。古いとか、一時期だけの盛り上がりや流行りに感じるダサさが一切ない。娯楽とは一線を画した作品として作られ、世に提示されたということだろう。

原作である小説文学の世界を映画で表すことに、それぞれの監督が挑戦を込めて作ったのだろう。またオムニバスということで、他の二人に対する緊張感やライバル心などもあったかもしれない。

企画者の意図としては、「1人の監督ではお金を付けづらいが、3人まとめて才能を発掘するのはいいのではないか」と思いついたというインタビューが『HHH:侯孝賢』で語られていた。

 

やはり観ておいてよかったと思う。

台湾ニューシネマに惹かれる理由がまた一つ、わかったような気がする。

 

お気に入りのチャイナを着て、観に行ってみた。

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台湾ぽい。

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