5月〜6月、台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っていたときの記録。
※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
15本目は、侯孝賢監督『風櫃(フンクイ)の少年』1983年制作。
原題:風櫃來的人、英語題:The Boys from Fengkuei
日本では1985年のぴあフィルムフェスティバルで『風櫃から来た人』の邦題で上映された後、1990年に『風櫃の少年』の邦題で劇場公開された。
あらすじ・概要:風櫃〈フンクイ〉の少年|映画情報のぴあ映画生活
パラパラと感想と記録。
▶︎侯孝賢にとっての記念碑的な作品と言われているのが、よくわかる。
制作当時、36歳ごろか。思春期から青年期へ移行するときの人間の、荒々しさと瑞々しさが溢れている。勢い。若者をテーマに撮るには、やっぱり若い時が一番いいのかもしれない。
▶︎古い映画だが、デジタル化してあるので、観るときの負担が少ない。
▶1980年代の台湾。初めて見る離島。成長著しい台南の街並み。目に映るものが、なんでも楽しい。映画として残っていなければ、誰もわざわざ記録しないようなものが映っている。その時代に、たまたまあったものたち。変化は少しずつ起こっているが、渦中で生きて暮らしているとわからない。ある程度時間が経ってから変化として捉えられるようになる。
▶︎『風櫃の少年』は、わたしの中では、「男友達映画」。侯孝賢の作品で、真正面から男友達について描いているのは、意外とこの作品しかないかもしれない。
『恋恋風塵』は「少年期の終わり」、『憂鬱な楽園』は「チンピラの兄貴と子分愛」。どちらもテーマは近いようだけれど、ちょっと違う。
▶︎地元ではバカばっかりやってる少年たち。たぶん同い年で幼なじみ。毎日のバイク、ビリヤード(ビリヤード台が小さい!?)、イジリ、ケンカ、冷やかし、ジャンケン飲み......。やれやれだ。
少年たちの世界には基本男しかいない。その他、「口うるさい」母親と、「陰の薄く社会的に弱い立場の」父親と、時々女(「おい、女だぜ」)が出てくる。そうそう、初期の侯映画の感じ。
つるんでいるようで、実はそれぞれに家庭の事情は違い、性格も違うので、人生の道は分かれていく。地元に残れる奴は残って、うまく馴染んでいくし、居場所のなかった奴らは、半ば家出のように出ていく。ある日、港でまずは一人目の男友達との別れがある。
初めて降り立つ大都会、高雄にまごまごしながら、友達の姉を頼って、なんとか住まいを確保する。姉にバカにされつつも、工場での仕事を見つけ、彼らなりに自立しようとしていく。都会は波の代わりに車の音が始終している。
借りた家の向かいには、夜間部の学生ジンフーと、その恋人シャオシンが暮らしている。(「同棲、いいなぁー」と言うあたりにも若さが)
この頃の映画には「夜間部に通う学生」がよく出てくる。どういう教育制度や社会背景だったのか、気になる。恋人である女性と一緒に買い物に出るシーンがあり、そこではじめて、同年代の女性との体格差を比較して、彼らが身体の成長著しい男性であることに気づく。しかしみんな細いな。
向かいの男は、イライラすると椅子を蹴ったりするし、会社の品物を盗んで売り捌いたりする。そういう男をちょっとどうかと思いながら、彼女に惹かれているために言えないアチン。
一緒に出てきた友達は、最近悪い奴らと付き合っているようで、そのことにキレたりもする。「東亜日本語180の時間です。あ い う え お」と、突如流れ出す日本語講座。日本語の勉強をはじめるアチン。(ということは、この頃に日本語ができると仕事上有利などがあったんだろうか?) なんとか現状打破しようとしているのが見えて、このあたりからもう彼がただのチンピラには見えなくなる。
一方で、ジンフーは、「進学しない。稼ぐのが遅れるだけだ」と言い、船に乗る仕事を選ぶ。
これは、この時代の、ある地方の、ある社会階層の人たちのリアルなのだろうか。学ぶこと、稼ぐこと、そして近い将来やってくる兵役。貴重な若い時間を何に使うかは、彼ら自身には、ほとんど選べないように見える。
一方、少女であるシャオシンは働いていないようだし、学校にも行っていないようで、かなり謎な存在だ。彼女がどのように社会とつながっているかはわからない。このことは、ジェンダー格差と関係しているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
そうこうしているうちに、都会に出てきた3人のうち1人には彼女が出来そうになり(失礼な扱いをしたために振られるが)、1人は仕事を辞めて、違法コピーのカセットテープか何かを露店で売るようになる。
「いつまでも一緒にはいられない」が、どんどん現実化していく。
追いうちをかけるように、アチンの父が亡くなる。父はアチンが幼いときにスポーツ中の事故で障害を負い、意思疎通もできなくなっていたが、亡くなるという決定的な出来事は、アチンにとって故郷とのつながりや心の拠り所を失い、一つの時代が終わったことを意味した。
父が亡くなっても誰も悲しまないし、悼む気配もない。やりきれないアチン。やはりここには居場所はないのだと悟る。
高雄に戻ったアチンはシャオシンの存在も失う。台北行きの高速バスを見つめ、呆然とする。
帰り道に2人の友達の露店に寄る。まだ完全に一人ではない。しかし、その片方の友達にも兵役の招集がかかっていた。「兵役記念セールだよ!」と声を張り上げて呼び込みをするアチン......。
▶︎こうして振り返ってみると、少年たちの日々は実に危うく、社会の波に飲まれそうになる小舟のように頼りなげだ。努力でもない、運でもない。特別不幸でもないが、安泰でもなく。何かが完全に詰んでいるわけではないが、未来は見通しにくい。
その一瞬の時期を閉じ込めている。のちの作品に影響を与える記念碑的な作品。それがわかるのは、30年後、40年後の今なのだが、撮られた当時はそんなことはわかるわけがない。ただただ、現状打破していこうとする一人の映画監督、台湾映画の新しい波を起こす人たちの気概がそこにある。
ああ、そうか。やっぱり、その時その時で自分がやりたいことを、ただただ夢中でやるに限るんだな。そして、どんなに先を見通せない時代に生きていたとしても、どうにかみんな大人になってほしい。
侯孝賢作品にいつも共通している、「そして人生は続く」も、この映画がはじまりだったのかもしれない。
▶︎一つ、ものすごくカッコいいシーンがあった。
まだ阿清たちが島にいる頃。
夕暮れ。画面右から、道なりにカーブを描きながらバイクがやってくる。
画面奥には空、海、島。門の前で飛び降りた阿清。バイクはそのまま画面手前を右に消えていく。カメラは門を入り、シャツを捲り上げて脱ぎ捨て、灯の眩しい家の中に入っていく阿清を追う。ポーチには、椅子に座った父親、食事をする家族たちの姿が、家の中から漏れ出る明かりに対して半身が暗く映っている。
何が起こるわけでもない、この一続きのカット、カメラワークがむちゃくちゃカッコよくてしびれた!
『風櫃(フンクイ)の少年』と聞いたら、まずこのシーンを思い出しそう。
たぶん4人が海岸で踊っているところや、廃墟ビルの上から観る、「カラーでワイド」なまちの風景のほうが有名なシーンだと思うのだけれど、それと同じぐらい強い印象。
▶︎後日ふと、「風櫃って今もあんな感じなのかな?」と疑問が湧いて、Googleストリートビューで検索してみた。すると、映画に出てきた、屋根の形状が独特な古い民家の街並みも少し残っていた。外階段から屋上へ上がる、中東か北アフリカに似た家もあったし、石積みの塀も見られる。
楽しくなって、夢中で島中を走り回ってしまった。ああ、飛行機も使わずに瞬時に現地に飛んでいけるなんて、なんて良い時代だ。
▶︎そういえば、映画の中で、台所が外にあるのもおもしろかった。以前、こんなポッドキャストを配信したが、いろんな文化圏の台所を見るのが好きだから、ついつい目がいってしまった。
▶︎澎湖(ポンフー)諸島はおもしろい形をしていて、筆で珍獣の絵を書いたように見える。風櫃はその最後の「はね」のような部分。
大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島である。また、かつて「澎湖」の名を冠した日本海軍の艦艇があった。Wikipediaより
そうだったのか。「馬公」という地名が何度か出てくるが、馬公は島の行政の中心。澎湖県馬公市。
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