近頃、まとまったブログを書く気力がなく、方々にメモしたものを寄せ集めただけになっているが、それでもなんとか記録をとっておこうと思う。
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イスラエル・ガルバン、観たかったがいろいろ合わず断念。
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月19日
(わたしはたぶんこの代わりに昨年末のフランソワ・シェニョー&ニノ・レネ『不確かなロマンス—もう一人のオーランドー』を観たのだ。きっとそうだ。)
イスラエル・ガルバンって誰?という方に。わたしも知らなかったので、これを読んで予習した。
直前まで諦めていたのだが、 神奈川公演を観に行った友人の話を聞いていたら、どうしても興味が出てきてしまった。
あれ?名古屋公演に行けばいいんじゃないか?と気づいて、衝動でチケットを取ってしまった。「行くならぜひ予習して」とパンフレットを郵送して読ませてくれたりもして、ほんと観劇仲間ってありがたい。
月曜日に衝動的にイスラエル・ガルバンのチケット取って、名古屋に向かってます。神奈川ではタイミング合わず。追っかけ。昨日のレビューを漁りながらワクワクしている。「不思議に一心不乱で、極限的に何かを追求しているようだ」(林田直樹さん)そこに自分のエネルギーも加え、摂取、循環させたい。
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
思い浮かんだ言葉。
慎重、逸脱、流れ、確認、反復、心の赴くままに、突然に、おもしろがって、衝動的に、運命的に、確信、挑戦、発見、固執、選択、離脱、安定、複雑、不調和、和而不同、独立、自由。
#イスラエル・ガルバン @APAT_info 日本ツアー最終日、愛知芸劇2日目ということもあって、演者同士のコミュニケーションはしっくりと。しかし今日ここにしか起こり得ないものをもっと!と、飽くなき探究。踊りを観たというより、ただただ自然現象に居合わせたというか、包まれたような感覚。
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
(と思ったら帰りの新幹線は熱海〜小田原が豪雨で、20分ほど動かなかったりして、まさに自然現象に影響を受けました)
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
不協和音とノイズ、リズムと気配による旋律。戦慄。コンサートホールだったからより音にフォーカスされていた。KAATとは演出も微妙に違うのかな?どうなんだろう?
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
音によって、自分の身体が大きくなったり小さくなったりする。すべてが楽器で、入ってくるものはすべて音。そこに線引きのない世界。
勝手に自分の観たいものを映すこともできなくて、今ここにいるしかない。自然現象に見入るしかない。何も経由せず直で入ってくる、という感じがあった。演者同士、演者と観客の真剣勝負。ワルキューレみたいでもあった。しかし「春の祭典」はやっぱ変な曲だ(すいません)
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
半年前の「不確かなロマンス」のときも思ったが、この難しい時期に日本に来て、こんな奇跡的な舞台を届けてくださるということが、ほんとうに有り難い。それを企画し、調整し、積み上げてこられた主催者の皆様にも感謝。
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
つかんだのは、「このような表現も可能なのだ」という希望。まだまだたくさんの技法、掛け合わせのバリエーション、温故知新の可能性が、わたしたちには残されている。このエネルギー!困難な時を生きる上では迷いも多いが、何度も思い出したい。自ら身体を運んで得たもの。#イスラエル・ガルバン
— 舟之川聖子|Seiko Funanokawa (@seikofunanok) 2021年6月24日
祝祭、叶ったことのお祝いは大事だなと思う。
とはいえ、「自分で自分を祝う」というシンプルなことさえも難しいときもある。
そんなときは、他の人間の表現や、作品の力を借りるといいんだと、この公演で思った。
ちなみに今回の名古屋行きでは、著書を出してくださっている出版社の担当さんにお会いできたり、書店営業でびっくりするような偶然があった。
一つの公演がつくり出す磁場ってつくづくすごい。