ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『軍中楽園』鑑賞記録

映画『軍中楽園』を観た記録。 

 

2014年台湾製作、2018年日本公開。

監督は『風櫃(フンクイ)の少年』の主役だった、ニウ・チェンザー

gun-to-rakuen.com

 

今年6月の侯孝賢監督特集上映で、侯のプロデュース作としてラインナップしていたが、わたしはどうしても観る気がしなかった。

軍中楽園とは、台湾の金門島に設けられた慰安所だ。女性に対する性的搾取を公的に容認する施設で、日本軍の慰安所から、発想から運営まで学んでいる。

これを美麗な映像で、恋愛や青春の物語として見せるのは、果たしてどうなのだろうか、出来事の重大さが無視され、美化されているのではないか、と抵抗感があった。

しかしwam(女たちの戦争と平和資料館)を見学して、どんな感想を抱くにせよ、やはりこれは見ておかねばと思った。

幸いタイミングよくネット配信で観ることができた。

 

※ここからは、映画の内容に詳しく触れています。未見の方はご注意ください

 

観てみて、この映画は、問題作と言ってもいいのではないかと思った。

「特約茶室」の全貌の解明もされておらず、台湾社会でもまだ議論の俎上に載っていないテーマを、加害者の追及も被害者の救済も十分にされてない(かもしれない?)中で、「ロマンス」や「青春」に向けてしまっている。

これが「誰の」「どのような目線」で描かれているかを何度も考える内容だった。

「タブーとされた触れにくいテーマを扱いやすくするために、あえてこのようにした」としても(実際に台湾では大ヒットし、国民党時代に秘匿されていた事実がまた一つ明らかになったようだ)、それでもなお歪である。

結局のところ、この軍中楽園のような施設や性的搾取のためのシステムが生まれる「理由はいつも同じ」ということが実によくわかる作品だった。

 

軍中楽園の背景が、映画の公式サイトからでは不十分なので、別の資料から引用する。

軍中楽園」「特約茶室」という名の慰安所

一方、日本軍の慰安所に酷似した兵士用の遊郭が作られ、戦後40年間も運営されてきたことがわかってきました。国民党軍は中国人民解放軍の攻撃に備えるため、中国大陸から数十万の青年を軍隊に投入し、1949年からは金門島に5万を超える兵を派遣。法律によって結婚を禁じられていた兵士たちは、島民とのトラブルや性暴力事件を引き起こします。そこで中華民国国防部は1952年、兵士の性欲を解消するために「軍中楽園」を金門島や馬祖群島、台湾本島の軍施設周辺に作り、「特約茶室」と呼びました。台湾本島では1974年に廃止されましたが、金門島では1992年までありました。

軍中楽園」では管理・運営のほとんどを日本軍の慰安所に学んでいます。少なくとも5万人以上はいたと言われる女性の徴集は民間に委託して人身売買、就業詐欺、強迫なども行われ、本島で逮捕された私娼も"島流し"として送りこまれました。今ではかつての「特約茶室」が展示館として公開されていますが、全貌が明らかになるのはこれからです。

※以下は写真のキャプチャ

金門島軍中楽園は、今では特約茶室展示館になっている。金門島では政治工作要員が250人の女性を管理していた。女性たちは15歳〜30歳で、通常は1日に30〜40人の兵士の相手をした。50人を超えると爆竹を鳴らして祝福を受けたという。/『中国文化とエロス』李敖 著/土屋英明 訳(東方書店, 1993年)

p.29『台湾・「慰安婦」の証言 日本人にされた阿媽(アマー)たち』(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)編集・発行)

 

映画に描かれていたこと、そのままだ。こういう背景があった。

 

 

映画の主人公、ルオ・バオタイ(羅保台)は、純朴でコミカルな仕草をする青年として描かれている。過酷な訓練と先輩からの熾烈ないじめのある精鋭部隊からは、泳げないという理由で「幸運にも」外してもらえ、831部隊が管轄する「特約茶室」へと異動になる。

本来なら、女性たちに対する短時間の行為のために、男性たちが列を成しているという図自体がおぞましいはずだが、ここでバオタイが、何もわかっていないように振る舞うことで、映画の観客は"安心して"観続けることができる、できてしまう。

女性がどのような酷い目に遭っても、バオタイが関与せず、ただぼんやりとして、むしろ勤勉にチャーミングに業務をこなすことで、「これはこの世界では当たり前のこと、仕方のないこと」と思えてしまう。百歩譲って、「それこそが異常な感覚だ」という裏のメッセージがあるとしたら、成功しているが。

もちろん男性も酷い目に遭う。理不尽に連れ去られ、故郷に帰ることはなく、軍隊で苛め抜かれ、脱走して海へ逃亡せざるを得ない。緊張状態にある対岸との間で、砲弾の飛び交う中を日々生きなければならない。しかし彼らの辛さは、特約茶室の女性が受け止めてくれる構図になっている。そのために設置したのだから当然といえば当然ではあるが。

女性は受容し、慰安する。ケア役割として存在させられることに、作り手の批判は一片も感じられない。当時がどうであったにせよ、批判の姿勢がないことはやはり問題ではないのか。女性の"事情"も人によっては明かされるが、バオタイは、そこには「無知なままで」「何ら感知も関与もせず」に存在することができる。

女性が男性によって、身体の所有権が奪われ、身体的な安全が常に揺らぎ、その命すら大きく左右させられる一方で、男性は女性に対して何の責任も負わされないで済んでいる。免除されている。身体的な痛みや精神の苦しみも描かれはするが、美化されたり、笑いや美的なもので矮小化されているため、実感として何も伝わってこない。避妊具を使わない兵士がいることで、妊娠させられた女性がおり、ラスト近くで出産するシーンがある。出産は歓迎され、831のメンバーによって赤ん坊は可愛がられる。ここも異常な状況なのに、笑顔と明るさに包まれていて、感覚がおかしくなる。

むしろ女性を嫌悪の対象とすることすら、許容している節がある。ニーニー(妮妮)の過去を知ったバオタイは、彼女に嫌悪感を抱き、避けるようになる。"小悪魔的な" 阿嬌(アジャオ)の役を物語に置き、彼女を利用しながらも嫌悪し、暴力の果てに殺害するという蛮行にさらす。殺害した老張(ラオジャン)は逮捕され、何らかの刑を科せられただろうが(おそらくは死刑?)、観客の脳裏に残るのは、彼の故郷や母への強い思慕と、それを"小悪魔的に"嘲笑し、"裏切った"アジャオへの怒りではないだろうか。アジャオの死を女たちが悲しむ姿は一瞬映るが、それ以上ではない。このような描き方には、恐怖すら覚える。

この物語は、監督のニウ・チェンザーが、かつて金門島で兵役についていた読者が寄せた新聞投稿を目にしたことをきっかけに生まれたそうだ。

百歩譲って、どんな過酷な状況にあっても、人々が生き抜くために心の交流を持ったとして、それを語っているのは「誰」なのか? 語り手の属性や立場に大きな偏りがあるのではないか?そこは抜け落ちてはいないか?

 

 

バオタイが831を去るシーンも、「『軍中楽園』は、いろいろ辛いことはあったけれど、最後に去るときには、文字通り軍中の楽園だった!青春の一ページだった!」という雰囲気になっているのだ。

 

エンドロールの「あり得たかもしれない世界線」も寒気がした。「感動」は当然なく、蛇足とも違う。なぜなら、その「夢」は、男性たちが語っていたもののみだったから。男性たちの側が女性を巻き込み、勝手に思い描いた夢だからだ。女性たちがどんな「夢」を持っていたのかには、一切触れられていない。一人ひとりにあったはずの物語が、すっぽりと抜け落ちている。これは「監督が男性だから仕方のないこと」なのだろうか?ほんとうに?

 

映画は最後に、

父と祖父と、全ての時代に翻弄された人々へ

と捧げられている。

ここまで「百歩譲って」を心中で幾度となく繰り返しながら見ていたが、ここに来てやはり「完全に無視されている」と感じて、重苦しい気持ちで映画を終えた。

 

2014年は、2017年の#MeToo以前だ。百歩譲って(そればかりだが)まだ認識が不足していたとして、しかし今は変わっているだろうか。

中華民国国防部が参考にしたという、太平洋戦争中の慰安所のことも、日本軍が女性たちにしたことも省みられていない、話題にすることが忌避されがちな日本で、この映画は公開されている。果たしてこれを「エンターテインメントに昇華されている」と文字通り受け取っていいものだろうか。いや、考えていかなくてはいけないと思う。なぜなら、まったく過去のことではないからだ。

 

いくつかこの映画のレビューを探してみたが、わたしの読みたい内容のものはなかった。それどころか、驚くような反応のほうが多かった。

こちらのレビューは、わたしにはなかった視点を興味深く読んだ。

medium.com

 

 

繰り返すが、愛や青春の物語の「舞台」にするには、早すぎた。

現段階ではそうとしか思えない。

 

※追記

一旦書いてみて、わからなくなってきた。

物事はある側からしか描けないのだろうか。

女性たちが可哀想な人ではなく、彼女たちなりにそれぞれに誇り高く生きていると描かれていると称賛すべきなのだろうか。