鑑賞対話の場をひらく前、初回を観たときの感想メモ。
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映画『あのこは貴族』ようやく観られた。
英題:Aristocrat
中題:東京貴族女子
ノートパソコン(13inch)で観ていたのだけれど、むちゃくちゃ集中して、入り込んだ。画面の小ささも、周りの環境もまったく吹っ飛んでしまうほど没入した。これは『ドライブ・マイ・カー』以来の感覚。(あっちは映画館だけど)
まさに『ディスタンクシオン』だ。人は自分の好きや得意は自分で見出したと思いがちだけど、実は生育環境や社会階層などによって選択が規定されているという限界を持ち、その限界を一旦知って受け入れることで初めて自由になれるという社会学の論考。(合ってるのかわからないけど、私なりの解釈)
『ディスタンクシオン』は原書はまだ読めていなくて、100分de名著で解説を聞いた。
自分が今いるところがある一つの「界」であり、隣にはまったく異なる界があるが、出会わなければ存在すらしないことになってしまう。
分断とは無知が引き起こすのか。
『あのこは貴族』は、女性同士の関係性のように見えて、誰もが逃れられない社会階層やゾーニングの話である。地方と東京のありきたりな対立構造に見えつつ、似た構造はどこにでもある。どこにいても違和感に気づいたときに、舵を切っていけるかで、人生の見え方が変わっていく。自分にはどうにもならない力に動かされていることに気づきつつ、他の界があることを知りながら、自分を真ん中に歩んでいこうとする主人公たちの心の動き。
個人的に覚えのある痛みもたくさん。上とか下とかバカらしいと思いながらも。現実には存在している階層を具体的に見せつけてくる。自分はこのへん…?など手繰ろうとしはじめてハッとする。あまり誰も面と向かって描こうとしてこなかったものがここにあって、ああ、この社会、ついにこれを見ないとならなくなったのだなと思う。同時にホッとする。「みんないっしょ」なわけないのは分かっていたのだから。
自転車二人乗りや、逸子と華子の子どもの三輪車ではしゃぐ様子は、北野武の『キッズリターン』のラストシーンも思い出す。そうそう、ここ対比になっているのよね。
あちこちに対比がある。住む世界が違っても人はそう変わらないことを教えてくれているのかな。
富山出身の友達がいるので、美紀の役はリアルだった。
自分が慶應大学出身だという人には、「わかるー!」ということたくさんありそうだな。
描かれているものはもちろん、描かれていないものについて話したくなるような作品。
いやーすごかった。
性別、世代、出身問わず、誰でもおもしろく見られる映画だと思う。
そういう良品、最近多いなぁ。うれしい。
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