映画『COLD WAR』を観た記録。
※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
公開当時はちょっとしんどそうな映画だなという印象で避けていた。けれど、友達からイチオシとのことでわりと度々勧められていて、DVDを持っているというので借りてみた。
いやはや、これは!観てよかった!
もっともっと話題になってもよかったんじゃないのかな〜と思うような素晴らしい作品だった。
まず、冒頭のシーンが、『耳に残るはきみの歌声』を彷彿とさせる。音楽や歌が映画の背骨になっているところが似ている。夢の中のような世界観も。
文楽の心中物を思い出した。
現代の私達から考えれば全然死ぬ必要のない二人が、当時の時代背景の中では選べない設定の中で、かれらにしか分からない理由の中で、音楽と共にあれよあれよと運ばれて、道行きを演じていく。むせび泣く三味線とあの「やむを得ない」感。(「最後に心中する」ってことではないです!)
全編モノクロ。ヨーロピアンビスタ。
現代の技術で撮影したモノクロってこんなにも美しいのか。
モノクロが一番冴え渡るように計算して撮られていることを感じる。
不思議と色鮮やかに感じられる。心で感じる色。
たぶん音楽と舞踏も影響している。そう、音楽がいい。
音楽も舞踏も、時代も国も言語もくるくると変わっていく。
東側と西側、社会主義と民主主義、あちらとこちらの行き来も。
1949年ポーランド、1952年東ベルリン、1955年ユーゴスラビア、1957年パリ、1959年ポーランド......1989年まで社会主義体制が続く、その最初の時期のほんの10年の出来事。
時代や国の体制が違えば、かれらはここまで惹かれあっただろうか。体制なんのそのと蹴散らし、どんな手を尽くしても何度も出会っていくかれらだが、しかしこの社会背景があったから、対立が起こったり、超えなければならない壁が出現していたわけで。人の行動と社会の動向は、どんなふうに関係していくのだろうか。そう考えると、この作品は時代や運命の流れに抗う人間たちの生き様ともとれるだろうか。
映画の中で、彼女らしさを強く感じて好きなくだりが、『2つの心』のフランス語訳をヴィクトルの元恋人に書かれ、ヴィクトルのコネでレコードデビューするも、気に入らず、ポーランドに帰ってしまうところ。ヴィクトルに御膳立てされることも、元恋人の書いた詩も気に入らなかったと見える。これは想像だが、ポーランドの民俗音楽をいかにもフランス流の洒落た恋愛ソングに書き換えられてしまったことが、ズーラにとってすべてをキャンセルするほどの屈辱だったのではないだろうか。
外国人との結婚という手段を使って国を出たはずなのに、あっさりと国に戻ってしまう。どこにいても彼女は強い。東にいようが西にいようが、彼女は自由だ。だからなぜあのラストに至ったのか、少し意外に思える。
音楽芸術が国策に利用されていくのが恐ろしい。民俗音楽が共産体制の歌に駆逐されていく。「純粋なスラブ人」という言葉に、結局ナチスによるホロコースト後も、純血主義や排外主義は終わらないことを感じる。
この季節に観るといいよ、と言われた意味もよくわかった。
雪が降っていたり、寒かったり。夏のシーンもあるのだけど、圧倒的に寒い。
次どうなるんだろう?どこに連れて行かれるんだろう?と二人に翻弄されていく。
自分では制御できない夢を見ているような。
ポーランド映画ってアンジェイ・ワイダとクシシュトフ・キェシロフスキしか知らなかったけど、今回新たにパヴェウ・パヴリコフスキが加わった。
機会があればパヴリコフスキ監督の前作『イーダ』も観たい。『COLD WAR』が両親をモデルにしたと聞いて驚いたが、『イーダ』は祖母がモデルになっているそう。なんという一族......。でも、考えてみれば、他の人間がどんなルーツを持っているかなんてほんとうには知らないんだから、どんな現実だってあってもおかしくない。
とにかく大好きなキェシロクフスキの『デカローグ』。
『COLD WAR』を観ていると思い出す『耳に残るはきみの歌声』。戦争に翻弄され、引き裂かれる人たち。分厚い壁によって隔てられる愛。
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ファッションとアイデンティティ。自由、開放。
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ポーランド広報文化センター
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