2021年10月、映画『いまはむかし』をシネマ・チュプキ・タバタにて鑑賞した記録。
▼公式作品紹介ページ
※映画の内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
ドキュメンタリーの背景。
1942年3月1日、日本軍はジャワに上陸した。ヨーロッパ列強国からアジアを解放するという名目だった。「文化戦線」という宣伝班が設けられ、日本映画社という法人がつくられた。現地にスタジオを作り、3年半にわたって、130本の国策映画やプロパガンダ映像を作った。その一人が伊勢真一の父である伊勢長之助だった。
太平洋戦争期に何があったのかをあらためて追っているここ数年。
かつてこの国にあったこと、この国の人がしたこと。
広島、沖縄、台湾、香港、韓国、マレーシア、東京......これまで映画や本、舞台を通じて観てきた数多の物語がさらにつながり、知れば知るほど、それらは私の中で強い躍動を持っている。
今回はジャワ。現在のインドネシア。
芸術や文化が戦争に利用される。
映画、絵画、人形劇、紙芝居、
節約と貯金の歌を女性や子どもたちが歌う。
千早小学校という名前の「国民小学校」、隣組、今も君が代をすらすらと歌う人たち、日本語でスピーチする子どもの映像、タイトルバックはワーグナーの「ワルキューレの騎行」、皇居の方角へ最敬礼、「海行かば」、「教練」と「行進」、『防衛義勇軍』、「バカヤロー」......。
「私にとって日本語はビンタの言葉」
台湾のことをずっと考えていた。
台湾は日本がはじめて統治下に置いた地域だった。(「植民地支配」と言ってもいいのだろうか。)そこで得た、南国特有の気候への対応や衛生、医療などの知見、皇民化教育のインストールを今度はジャワで生かしたのだろう。マラリア撲滅の教育映画、文化映画はそういうところから生まれてきたのではないか。
言葉を奪う、文化を奪う。しかし一方でそれは人々の命を救う役にも立っていた。アニメーションや演出など、技術を駆使して、最先端の表現を取り入れて制作した様が見て取れる。
「労務者(ロームシャ)」として働かせる。インドネシアだけでなくアジア各地へ送られた。(『戦場のメリークリスマス』で俘虜を土木作業に借り出すシーンを思い出す)
自分の父親が作った国策映画をまさに観ていた人たちに会う。
「400万人近いインドネシアの人たちが戦争で命を落とした」
監督、どんな気持ちなのだろう。私にもずっと苦い思いが込み上げてくる。複雑だ。複雑さしかない。
しかし、やはり間違いないのは、
「アジアに対してすごいことをしちゃった、取り返しようもないことをした」
という認識の上に立つこと。まずはここから始めなくてはならない。タブーにしない。この映画は、歴史修正主義に抗うものとしても貴重な存在となる。
「知っているけれど、聞かせられない。話したくない」
語れなかった人たちがいること、その人たちもたしかに生きたこと。
あの頃何があったのか。
どのような流れで起きたのか。
人によってどのように違って見えていたのか。
それは「今」にどのように連なっているのか。
自分がどのような歴史の上に立っているのかを少しずつ知る。
感じる、考える時間。
膨大な時間の集積の一端。
葛藤も大きい。引き裂かれるような思いがわく。この感覚が非常に重要。
子どもの頃からずっと考えていることだし、『いまはむかし』の中で伊勢真一さんもつぶやいておられることだけれど、自分がその時代に生きていたとして、果たして他の選択が取り得たのだろうか……。そこだよな。
映画を観ていて感じたのは、ただただ映画を撮りたかった若者が、挑戦しようと夢を抱いて国を出た、末端はそんな素朴でピュアな思いだったのではないか。台湾統治時代も、若い建築家や技術者が新天地を求めて日本を出た。チャンスを生かそうとした。そういう思いを利用された。
今から見たら「加担」とも言えるけれど、自分が所属し生を預けている共同体がその方向に一色だとしたら、それは「加担」というより「翻弄」かもしれない。
得られる情報に制限やバイアスがかかっていたら、誰しも群衆にならざるを得ないのではないか......。
かといって、日本人たちも無傷ではなかった。
「カメラマンだけで56人が亡くなっている」
自分が「群衆」化することも非常に怖い。抵抗すること、権力の抑止も重要とわかっている。過去の時代の人たちの生き様や遺したもの、つながりをもつ人たちの記憶、新たに掘り起こされた諸研究を手がかりに考え続けていきたい。日々の行動と共に。
「より大きな絵の中ではその考えは正しくない」
「私たちがこのフィルムを保存しているのは、歴史的資料として未来の人々のため。次の世代が学べるように」
伊勢長之助さんは、1949年(昭和24年)冬に上映されたニュース映画「世紀の判決」を作った。戦争放棄の憲法第9条について言及した。あれは作り手の総括でもあったのではないか、と監督。制作にかかわった人たちの実際の思いはどのようなものだったのだろうか。
東京裁判では、植民地支配や性犯罪については扱われなかった。その二つはいまだに明確に振りかえられないまま、渡す手はきているのに、手を伸ばせないでいる。受け取らず背を向ける人たちも多い。
大きな体験ほど語るのに時間がかかる。
当人が語れないこともある。
亡くなって初めて残された人たちが語れることもある。
記録が残っている、物が語る。
今からでも、いつからでも探しに行って、記憶を継いでいくことはできる。
自分の「ルーツ」を知ろうとしたときに、いつでもそこがはじまり。
そこから、始められる。
それをこの映画が教えてくれている。
「オランダでフィルムが完璧な状態で残っていた。ぐずぐずせずに作れと言われた気がした」とアフタートークで監督もおっしゃっていた。しかるべきタイミングがあるのかもしれない。
「自分の父がかかわったことに対して明確な立場がとれないできている。しかし、わかったからつくれるというわけではない。むしろ知りたいから作った。今の自分はこういうふうにしか言えない、作れない」
「自分で個人的に見ているだけではなくて、人に観てもらうことで考え続けようとしている」
見つめることにも葛藤が生じる。考え続けていく監督の姿を忘れない。
その背中を一番見つめている二人の子どもたち。
実は私も、いてもたってもいられず、上の世代の人たちの聴きとりのプロジェクトを始めた。まずは自宅の隣の家の88歳のおばあちゃんの戦時中の体験を聴いた。現在冊子にすべくデザイナーと作業をしているところだ。次は自分の親に話を聴こうと思う。
親の人生を聴く、親を知ろうとすることから時代が見える。最も身近な存在が最も多くを教えてくれるのではないか。
個人に凝縮された時代を聴き取る気持ちで。
英題は
"Now Is the Past -My Father, Java & the Phantom Film"
11月にアムステルダムのドキュメンタリー映画祭に招待され、上映されたそうだ。
オランダ支配下のジャワに侵攻し、オランダにも大きな傷を与えた出来事の記録、そして子孫(たち)の葛藤。現地ではどのように受け止められたのだろうか。
伊勢監督のこの記事を読んでいただくのが一番良い!私のぐだぐだした感想よりも!
記録と記憶。
記憶と記録。
「日本的なるもの」のフィクション性について- ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 能勢陽子 (豊田市美術館 研究紀要 No.12 2019)※PDF
https://www.museum.toyota.aichi.jp/wp-content/uploads/2020/06/12_02_bulletin.pdf
▼関連記事
_________________________________🖋
鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。
2020年12月著書(共著)を出版しました。
『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社)