ひととび〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

舞台『鷗外の怪談』@穂の国とよはし芸術劇場PLAT

演劇『鷗外の怪談』を穂の国とよはし芸術劇場PLATで観た記録。

www.nitosha.net

youtu.be

 

初めて降り立った、豊橋。駅から直結、徒歩2分の劇場。

なぜ東京からはるばる豊橋まで観に来たかというと、東京公演を知ったときが遅く、予定が合わなかったから。この先どこかツアーするのかなと探したら豊橋がちょうど日程もよかったので、迷いなくチケットをとった。

というのは、以前、ダンスの公演を追っかけて名古屋公演に観に行ったときに(イスラエル・ガルバン)、移動すること自体がリフレッシュになったし、土地を変えて鑑賞することが特別な体験になるとわかったし、抱き合わせで入れた予定がさらにご縁を広げてくれたから。

そもそも鷗外が題材ということで、ここ2年鷗外記念館に通っている私としては、絶対観なあかんやつ。

 

オペラ研究者の森岡美穂さんのこの言葉に動かされたことも大きい。

 

ちょうど数日前に文京区の森鷗外記念館の展示観たときに生まれたモヤモヤが、この舞台で答えが示されていて個人的にピタリときた。

記念館というところは、偉業やある程度のコンセンサスの取れている事実を基本に、そのときどきの時代に応じたテーマを選んで編集して展示を見せていくのだろうけれど、突っ込んだ掘り方や仮説のようなものは見せにくいところだと思う。遺族への配慮などもある。

本人の葛藤や、苦悩や、性愛や、暴力性や、加害性や、人間関係の複雑さや、うまく表現できないが「問題点」のような領域については見ることができない。そのあたりは書物が得意なわけだけど、私は今のところそこまで手が出せていなかった。

今までのモヤモヤがこの演劇に結集していた。

大きくは、

①『舞姫』とモデルになってる元カノ・エリーゼ・ヴィーゲルトにおける「豊太郎≒鷗外はクズか」問題

② 両立と葛藤〈軍人と文学者、国家と作家、絶対服従と反抗、言論を取締る側と自由な言論を志す者、森鷗外森林太郎

 

の二つがあり、それを「大逆事件が起こるまでの森鷗外の心の揺れ」として表している。

大逆事件について、2011年当時、日本弁護士連合会会長だった宇都宮健児さんの談話があった。

www.nichibenren.or.jp

 

感想、気づいたポイントを徒然と。

・舞台は常に観潮楼の2階にある。いつも通っている森鷗外記念館は観潮楼跡にある。

・鷗外、志げ、永井荷風、平出修……明治の人たちが、生きている!動いているのが見られて、まずはうれしい!と興奮する。

・志げがチャーミング。鷗外との関係もよい。ああ、こういう感じだったのかもしれないなぁ、という、再現ドラマを見ているような気分。そこに母から子への執着。嫁と姑の関係が加わる。三角関係。

・コミカルとシリアスの不思議な融合。

・事実とフィクションの融合。特に新入り女中(わけあり)の登場が効いている。

・次第に、これはまさに現代社会の話だと、私の話でもあると、寒気がしながら見ていた。もっと「鷗外的な社会的立場」の人には自分事としか思えないんじゃないか。鷗外の話であり、鷗外だけの話ではなく。そういう意味での「鷗外の怪談」。

・司法とメディアの堕落。秘密裁判。被告人に完全に不利な判決。良心ある弁護士の怒り。このあともっとずっと加速していく。その序章。

・「言論弾圧や拷問に対して、欧米の新聞が騒いでいる」けれども無視する。今もそうだ。法律婚の強制的夫婦同姓、死刑制度、入管の暴行……国連機関からの勧告も無視する政府。傍観する「白樺派の連中」。「これがフランスなら、文学者たちは黙っていない」という荷風の言葉。

・国のために軍部のために働きながら、「先生は誰に向けて小説を書いているのか」「政権批判を小説でしている」というねじれ。小説『食堂』という短編で鷗外の分身と思われる人物が出てくる、という指摘が劇中で行われる。→青空文庫『食堂』

・鷗外の苦悩は、西洋の近代思想に憧れ、取り込もうとして、そうしきれなかった時代の苦悩でもあり、そのまま現代の日本人の苦悩でもあり、もしかしたらどこの地域や時代にもある、ある社会的立場に置かれた人が誰でももつ苦悩なのかもしれない。普遍性がある。

一人ひとりの立場と思惑の絡み合いもすごかった。時代背景や人間関係の事情など、情報量がすごく多いのに、あれをよく台詞として自然にまとめているなと驚く。

大逆事件に際して、史実とは異なる世界線を一度は目指す鷗外。見守りながら、正義を成してほしいと思う一方、森家の血筋や暮らしぶりを見ると、絶対に凋落するわけにはいかないだろうとも思う。

・ドクトル大石(大石誠之助)に対して同じ医者として立派だと感じている。自分は同じ医者であるにもかかわらず、そういう自分には成し得ないことをなしている人を死に追いやったという負い目。立身出世のために彼が捨てたエリーゼという亡霊に取り憑かれている。さまざまな罪悪感や後ろめたさに取り憑かれながら、名誉と地位だけは山のように積まれていく。「鷗外の怪談」の意味がここでも。

https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/ooishi.html

山縣有朋の屋敷(つまり今の椿山荘)で秘密の懇談会……この近隣にはご縁があるので、そうか、あそこで……とまた寒気がした。現代の現実とつながる。

・このところ、歴史を学んでいて、あるいは歴史という軸で辿ってみて、「その時代に自分がいたら果たして抗えていただろうか?」と何度も思う。その時代の価値判断の中に生存しようと思ったら、流され特に「情報」という感覚がないながら精神を守りながら矜持を保つぐらいしかできないのでは、と思わずにいられない。

蝶々夫人を思い出す。あれはプッチーニの創作なのだが、モヤつかされる枠組みとしては『舞姫』に似ている。ピンカートンと蝶々さん。違いは、鷗外のほうはモデルになった女性がいるということ。『鷗外の怪談』の中で「森林太郎」は、この没後100年経てもなお議論されるアポリアについて、本人として向き合う様子が描かれる。帰国後のピンカートンもこのくらい苦悩したんだろうか。

・永井愛さんのアフタートークつき。
「1911年の話をこれまで3つ書いている。この年は、時代の変わり目で、人間が人間性を試される宝庫だった」→(感想)永井さんの他の舞台も観たい!
「お客さんがその場で反応してると役者もどんどんよくなっていく。逆にお客さんが内に秘めて我慢して出さないでいると、役者はどんどん元気をなくすので、観客の皆さんは舞台を観るとき、いっぱい反応してほしい。今日はとても反応がよかったから役者たちも大喜びだった」→(感想)やはり生の舞台はコール&レスポンスだなぁ!

・記念館の展示では扱いにくいことがある。遺族や子孫のいることであったり、偉人として称えるという側面もあるんだろう。そういう正史には載らない事柄や個人の感情、家族の秘密や、もっと外側にある秘匿しておきたい事情を持つ権力のことなどを演劇の形で試せるのはおもしろい。

森林太郎という人間、森鷗外として100年以上前に未来に向けて放ったこのアポリアをあの手この手で解こうとするとき、見てしまうのは今の私たちの姿だったという、これぞ怪談。

 

(おまけ)

松尾貴史さんが回復されていて、ほんとうによかった。年末に体調を崩されて、2つ公演中止になったりもしていたので。該当地域の方々は本当に残念でしたね……。

・両隣の人がけっこう長いこと寝ていて、びびった。音楽ならまだしも、演劇で寝てしまうと、まったくわからなくなってしまうのでは。情報処理しきれなくて、強制シャットダウンしてしまったんだろうか。

Twitterで観た人の呟きなどを読み漁っていたが、どなたも言葉にする力がすごくて驚く。

 

ぞろぞろと感想を書いてしまったが、PLATの機関紙で、松尾貴史さんが、この舞台の見所を端的に表現してくださっている。

「やはり時代の必然として、ドラマとか衝突とか、共鳴が生まれ、ドラマができていくという感じがします。だから、生活様式から価値観から、思想的なことから、もう激変した時期に、翻弄された人々が、書物で取り締まられる。古本屋ですら、官憲というか、警察官が入ってきて、『禁止、禁止』と言って、物を押収したりとかね。そういう時代と、今は全然違うなと思いたいが、似たようなことが別の形で起きているという恐怖を感じる。なんらかの共通点なのか、不安感をご覧になった方が、想像力豊富にしていただいて、明治の話だけど、臨場感がある効果が出たらうれしいなと思いますね」(『PLAT NEWS vol.53』より)

 

二兎社Facebook投稿:【『鷗外の怪談』公演ブログ】2022年1月15日(土)・16日(日)

https://www.facebook.com/nitosha1981/posts/4720405401386688


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直接関係はないが、私にとっては重要なこととして記録する。

ちょうど同時期に、同じ愛知県内の豊田市では、ホー・ツーニェンの《百鬼夜行》と《旅館アポリア』が開催されていた。

『旅館アポリア』は、太平洋戦争中の日本の大東亜共栄圏の思想を支えたとされる京都学派や「特攻」「小津安二郎」などを題材にそれらの要素に強く関連した「旅館」一棟で展開する作品。《百鬼夜行》は「侵略」「スパイ」などの実態を妖怪という姿を使って描き、日本の文化的、精神的背景を移そうとする映像を主とした作品。どちらも、近代以降のアジアの正史からこぼれ落ちてきたものを亡霊のように呼び起こしてゆく作用があったという。

わたしは残念ながらこれらの作品を観ることができなかったが、「アポリア」「正史からこぼれ落ちたものを亡霊のように呼び起こす」という点において、『鷗外の怪談』との強いつながりを感じ、関連する記事や動画や書籍などを以下の記事に集めている。

今後、様々な作品を通して、つながってくる物語、組み上げられる体系がありそうだ。

hitotobi.hatenadiary.jp

 


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▼舞台観られなかった方、戯曲が出てるのでおすすめです。

『鷗外の怪談』永井愛/著(而立書房, 2021年)

 

これも読むとよさそう。永井さんも言及されていた。

 

 

森鷗外記念館の図録『私が私であること 森家の女性たち 喜美子、志げ、茉莉、杏奴』がおすすめ。この舞台を観たらぜったい気になるのが、しげと峰だからね〜

moriogai-kinenkan.jp


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▼インタビュー

spice.eplus.jp

 

▼ちなみにこの日の午前は浜松市楽器博物館を訪問した。午後が観劇。充実の一日だった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

▼過去展示の鑑賞記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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