ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

田中絹代監督特集『恋文』『月は上りぬ』『乳房よ、永遠なれ』@早稲田松竹 鑑賞記録

2022年2月、早稲田松竹田中絹代監督特集を観た記録。5本分なので記事を3つに分けた。

wasedashochiku.co.jp

 


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1月3日と4日。2022年の映画初め。

上映が2、3分押したぐらい混んでいた。すごいな。

国立映画アーカイブに来ていそうなお客さんもいるし、若い人も、単身の人も連れがいる人もいろいろ。皆さんどんな動機で来てるんだろう。

クラシック映画ファン? 
田中絹代ファン? 
早稲田松竹ファン? 
三が日ヒマだから?

一人ひとり聞いてまわりたくなる。


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  • 『恋文』(1953年、新東宝
  • 『月は上りぬ』(1955年、日活)
  • 『乳房よ永遠なれ』(1955年、日活)
  • 『女ばかりの夜』1961年、東京映画)
  • お吟さま』(1962年、文芸プロ)

 

田中絹代が生涯で監督した6本のうち5本が上映されて、全部観ることができた。

「日本における女性の映画監督のパイオニア

私は、田中絹代が映画を撮っていたなんて知らなかった。

というか、たぶん多くの人は知らなかったと思う。

2020年?フランス、リヨンのリュミエールフェスティバルで6本上映されて満席になり、パリ他、フランス各地で。再評価されたおかげでデジタル・リマスター版の制作が叶ったそう。2021年にカンヌのクラシック部門で上映された『月は上りぬ』も人気を博したと。

そのあたりの話は、こちらの東京国際映画祭でのトークイベントでも出ている。このトークとても良いので、ぜひ全部観ていただきたい。

youtu.be

www.cinemaclassics.jp

 

カンヌ映画祭クラシックセレクション

www.festival-cannes.com

 

5本観てみて、「女性監督らしい」かどうかはわからないけれど、主人公の女性に対するこれまで描かれなかった立場や、自分もああなり得たかもしれない立場と、そのときの心情への共感などはとてもよく映されていたと感じる。

残る一本、『流転の王妃』(1960年、大映)も観てみたい。

 

以下、一本ずつの感想。

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

 

恋文

田中初の監督作品。木下恵介の脚本。とにかく初めてだからということで、大物のバックアップを感じる。

主な登場人物は4人。

・復員兵の礼吉(森雅之
・礼吉の弟、洋(礼吉が居候しているのは洋のアパート)
兵学校時代からの友人、山路
・戦前に礼吉の幼なじみで淡い恋を交わしていた道子(久我美子

オープニングの手書き字がよい。癖のある、美文字というのではない、普通の書き文字。手紙に花が添えられている。

洋のアパートは半分外のような今から見ればボロいのだが、この時代の標準なのだろうか。家にせよ、道にせよ、店にせよ、どこも狭く小さく暗い。

東京の都心は道路に車もバイクも溢れ、区画整理の途中といった感じ。インドやベトナムなどの喧騒を思わせる。実際は渋谷でロケをしたらしい。このシーンには田中のこだわりがあって絶対ロケで、とのことだった。残しておいてくれてよかった。記録映画とは違い、こういう劇映画の形だからこそ残っている風情や事実がある。

友人の山路は、いわゆる知識人。英語もフランス語もでき、文学青年ふうの品の良さがある。「翻訳だけでは食えない」ので、神保町のすずらん横丁で洋妾(アメリカ兵の愛人)英語代筆の仕事をしている。復員して5年、仕事がない礼吉のために、仕事を手伝わないかと誘う。

この山路がとことんいい人で、人格者なのだ。女たちが頼んでくる手紙は様々だが、送金をしてこないという話が多い。何を書けばよいかと質問しながら、女たちの話を聴く山路。傾聴、カウンセリングのような時間。話を聴いてもらえることが女たちの心の支えになっている面がありそう。「熱烈に書いた手紙が、太平洋を飛んで行くかと思うと楽しい」とは山路の言葉だったか、女のだったか。

弟の洋(和泉元彌似)は、外国雑誌を仕入れて路地で売る仕事を思いつく。その前段には古本屋に外国雑誌を持ち込む女の姿もある。それもおそらくアメリカ兵相手の仕事をしている人が入手しているようだ。どこまで現実にあったのかわからないが、そういうこともあっただろうなという世界観の中で話は進む。

礼吉は戦前に好き合っていた道子を探している。代筆屋に道子が来たことで、礼吉は今の道子の来歴を知り、どうして自分を裏切って他の男と結婚したのか、どうして洋妾に身を落としたのか、などを問い詰める。まぁここからの礼吉がひどい。

道子は継母がきたことで家にいづらくなった+礼吉との結婚を父親に反対され、やむなく嫁がざるを得なかった。イエの事情に縛られている女のことがまったく想像にものぼらない礼吉。「どうして日本人じゃない男に身を任せたのか」「あなたは立派な女の人だと思っていたのにただの人だった」などと終始上から目線、説教モード。ムカつく。

道子も一応反論はするが「他の女はそんな暮らしはしていない」などと一蹴。社会的な立場の強弱が全然違うだろうが!と腹が立ってくる。

このやりとりをしたあとに礼吉は勝手に落ち込んで山路のところの仕事を3日も休む。ひどい。。ようやく出勤したと思ったら他の女にも説教。「どうして堅気になろうとしない?みじめだと思わない?いい歳して」などと言う。

山路は全然違う。そこも飲み込んでいて、懐深く、人の話を聴く。誰に対してもというところがいい。女たちも山路に対して安心している様子がある。関係がよいのがみていて心地よい。やっぱりジャッジする人は嫌なのだ。それに対して礼吉のダメぶり。森雅之が絶妙に演じている。

道子は結局アメリカ兵向けのレストランで給仕の仕事を得る。英語を使えることが強みになるという場面は、山路も礼吉も道子もみんながそうだ。ここにも時代が見える。

洋も優しそうに見えて「道子さんを許してあげろよ」などと言うのでムカつく。どうして人から許してもらわないといけないのか。さらに道子と歩いているときに進駐軍相手のパンパン(街娼)が道子を見つけて声をかけてくる。それに対して「君たちの仲間じゃない。この人は君たちとは違う。住んでいるところが違う。あんな女」などと差別の言葉を投げる。男によって「柄が悪い」と「清楚」の二項に扱われ、女同士が分断させられる図。

ところが道子も「世間から冷たくされているから身近な人を仲間と思い込みたがる」などと、道子の中の差別心を覗かせる。終いにはなぜそこまでするのか、「信じてもらうために」車道に飛び出し、轢かれる。

入院した病院に向かう礼吉と山路。山路の「汝らの中で罪のないものは石を投げよ。誰が誰に向かって石を投げられるのか。対戦の中でみんながもみくちゃになったのに」との台詞。それ、それだよ!!というか、これが木下の批判精神なんだろう、おそらく。

1953年、日本は前年にアメリカから主権を回復したところで、激動の時代だ。

ただ、そこまでを描く道のりで、現代の感覚からするとムカつく描写が多くて、一度目はどうしてもイライラしてしまう。弟の「恋人がいない男は貧相」「結婚した方がいい」など言ってくるのや、山路の家に行くと妻が料理をこしらせてもてなしたり、礼吉のあとを道子が三歩下がって歩いていたり……果ては、家父長制と良妻賢母と男尊女卑の下、生き延びるのに必死だった女たちが、なぜ男に許してもらわないといけないのか? 

田中絹代も監督デビューするために必要なステップだったとはいえ、どう感じていたのかが気になる。もしかしてこの違和感を『女ばかりの夜』で回収したのかもしれない。

 

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月は上りぬ

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監督作第二弾。前作の木下恵介脚本に続き、こちらは小津安二郎の脚本。父親役に笠智衆。まんま小津ワールド。田中絹代色はどこにあるのか、まだ見えない。

・東京から疎開して奈良に住み着いた一家。日本の古い家の美術を隅々まで味わえる映画。法隆寺の近くらしい。「二月堂で待ち合わせ」なんてのも素敵。平和。のんびりした古都の雰囲気がしてくる。

・和装と洋装の行き来。どちらも同じ割合でワードローブにある感じ。

・「〜かい」「〜だわ」こういう話し方が普通だった時代があるんだな。自分の話し方にもそういうものがにじみ出ているんだろうか。それとも昔ほど世代差というものはなくなっていくんだろうか。

・三女・節子は次女・綾子に「お似合いよ」と、雨宮をくっつけようと奔走したり「やきもき」するのが描かれる。最初は「お茶目」ぐらいだが、だんだんめんどうくさいキャラクターに感じられていく。

・姉妹で話しているところはいい。

・若い男たちはしょっちゅうタバコを吸っている。あんたら吸いすぎ。

・男たちには仕事を選べる自由がある。それだってありつくのが大変なようだけど、女の人にはもっと選択がない。家のきりもりをするのは娘、老いた父親の世話をするのも娘。妻がいたら妻がやっていたのだろう。

・安井が節子にプロポーズ?する言葉が、「俺と一緒に東京に行くんだ、飯も炊くんだ、洗濯するんだ。全部一人でするんだ。にこにこ笑ってやるんだ。俺がうんとかわいがってやるんだ」、、、わーー、女の人にとって実家から出る=自立=メシ炊きと夫の世話、なんて!!こんなに実家でのんびり暮らしていた人が東京への憧れだけで移住して、そしてメシ炊き!!ぜったい実家で姉たちと暮らしているほうが幸せだと思うけれど。奈良のこんないい環境で。

・千鶴も「いいとこがあったらお嫁にいくか。未亡人だからって気にするな」と父親に言われる。とにかく若い人には結婚の話。

時代を考えれば、小津映画を思い出せば、別になんてことはないのだが、田中絹代、こういう女性を撮りたかったわけではないと思う。

 

 

乳房よ、永遠なれ

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新聞記者・若月彰が書いた『乳房よ永遠なれ 薄幸の歌人 中城ふみ子』を田中澄江が脚本、田中絹代が監督して映画化した。

若月の原作は、31歳で夭逝した歌人中城ふみ子との最後の交流を記したもので、映画には大月章の名前で登場している。中城ふみ子も劇中では、下城ふみ子と微妙に名前を変えている。関係者への配慮もあると思うが、役名とセットで本名も出されてしまうので、意味があるのかは不明。

それ以外にも脚色はありそう。

原作に中城ふみ子も名を連ねているが、中身はどんな本なんだろうか。古書でしか存在しない模様。

「女が女を描く」ことにこだわった田中は、脚色に田中澄江、主演に月丘夢路を得て、妻や母の立場を超えてふみ子が女としての自我に目覚めていく姿を表現した。(鎌倉市川喜田映画記念館

日本映画史に残る女優、田中絹代による監督第3作。乳がんのため若くして世を去った戦後の代表的な女性歌人中城ふみ子の生涯を月丘夢路が演じる。乳がんで乳房を失った女性の苦悩や欲望が、女性による脚本と演出によって大胆に描かれる。(あいち国際女性映画祭2017

監督3作目にしてようやく田中絹代の描きたいものが全面に出てきた感がある!

前の2作に登場する女性たちは、どこかその時代のステレオタイプだったり、「なんでそうなる」「わからん」というツッコミが知らず知らずにうちに入るような描かれ方だった。しかし今作でのふみ子という人は、次にどう行動するのか、次に何を言うのか予測できず、この人は一体どういう人なんだろうかと、知りたくなる。共感もある。

メモを取る手が止まるほど、見入ってしまった。

どんどん引き込まれていくのは、この時代に生きた女性のリアルが、男性のフィルターを通らずに、女性の側から描かれているからだと思う。誰かからみたふみ子ではなく、ふみ子がどのように生きたかをふみ子の側に立つように、脚本の段階で田中絹代が求めたのではないだろうかと想像する。これはちゃんと調べてみないとわからないが。

彼女が置かれた立場、直面した現実の苦悩、自分の身体の変化を経て、生と性への渇望に大きく自分を転換させていく。これは現代の人にも強い共感がある。

冒頭は、平和な牧場の風景で始まるのだが、夫の登場で空気は一変する。とにかくこの酷い。機嫌で場を支配するタイプ。妻をアゴで使い(「おい、くつ下」……うっわー)、自分の人生がうまくいかないのを妻に当たり散らしている。

ふみ子は歌の世界ではのびのびと自分を表現している。「下城さんの歌は激しい」「あたし本当のことが歌いたいんです」。子どもが待っているから早くかえらなくてはいけない、自分の時間がない。ふみ子の才能に堀卓は敬意を払っている。

しかし帰宅すると、夫は不貞行為の真っ最中。「うそついてたのね」「うるさい」いやもうここで私もブチ切れる。(別れろ!こんなん別れろ!)従順な妻をやっていたふみ子も家出して子どもを連れて実家へ戻る。まずここで尊厳を守るふみ子に拍手。

なんとか離婚は成立するが、息子の昇は引き取れないことになる。このあたりがよくわからない。跡取りとかそういうことなんだろうか。

「出戻りだから」身の置きどころがなくて、弟の結婚式にも出られず(このあたりは実際に陰口を叩かれているのかもしれないが、ふみ子自身も自分を恥じているように感じられる)、堀家を訪ねる。幼友達のきぬ子が外出して、家にいた夫の堀卓が相手をする。このあたりでもうふみ子から卓に対する気持ちがわかってしまう。しかし堀は死去。

ふみ子も病に。胸に異変を感じて受診すると、もう乳房を取るしかないステージまで進行している。1955年当時、乳癌も癌もどの程度医療では対応できていたんだろうか。1980年代ぐらいでもまだ癌イコール死のイメージはあったから、その15年前はもっと?

実際に物語のほうも状況としては悪いほうへ進んでいく。乳房摘出したあとも肺に転移してしまい、また入院する。この病院の感じがまた陰気で怖い。その頃から新聞記者の大月と出会う。「生きている限りは自分を見捨てちゃいけない」歌をつくれ、という言葉に苛立つふみ子。

そしてこの後のシーンがこの映画の中で一番鮮烈に印象に残るところ。きぬ子の家を訪ね、どういう流れだったか忘れたが、風呂に入るふみ子。堀を亡くしたきぬ子に自分の胸を見せ、「あたし、堀さん好きだった。堀さんの入ってたお風呂に入りたかった」と言う。直視できない、様々なショックを受けるきぬ子。ふみ子はその後に倒れてしまう。友人だったきぬ子を傷つけるとわかっていて、一線を超えたふみ子。今まで自分の本当の気持ちは隠して生きてきたことを止めた瞬間。それが全く爽やかなやり方ではなく、見ようによっては妖しく、おどろおどろしく、痛々しく、いろんなふうに感じられて、その複雑さが生々しい。簡単にわかってたまるかというふみ子の激情が響いていて、引き付けられる。

「もっと真剣に生きてもらいたい」という大月。どんどん亡くなっていく周りの人たち。高まる死の恐怖。何かがふみ子に覚悟をさせる。具体的に大月との間に何か関係が結ばれることがあったのかどうか、画面を見ているだけではどちらとも言えそうだけれど、「人生の最後に愛を知った」というのは本当らしい。

髪を洗ってほしいと母親に頼み、寝たまま髪を洗ってもらいながら息を引き取る。妻をやめ、出戻りもやめ、一人の女性としての喜びも知り、そして最後は母親としても子どもたちをケアし、亡くなっていった。エンディングが、そこまでやるかというほど、音楽も演出もしんどくて、忘れられない。

一人の女性の病の発覚から亡くなっていくまでの日々をじっくりと描くような映画は、田中が監督した前作2本や、これまでに「女優」として出演していた作品を見ても、類がない。女性の家庭内での苦しみや、社会的立場の低さも世間に突きつけていて、意欲的だ。男性社会で生きる田中も、いろんな思いを抱えてきたのではないかと想像する。

誰も見ようとしなかった女性。偶像ではない生身の女性。
家父長制にNOという女性、怒る女性、自力で環境を変える女性、自立する女性、創作する女性、病む女性、醜態や欲望を晒す女性、個人として生きようとする女性、死にゆく女性……。

世界初の乳がんをテーマにした映画ではないかと、東京国際映画祭のイベント動画の中でも話されていた。田中の先進性は『女ばかりの夜』にも発揮されていて、この二本はほんとうにもっともっと再評価されるべきだろうと思う。

 

kamakura-kawakita.org

 

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※追記(2022.3.15)

hitocinema.mainichi.jp

 

 

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