2021年公演の『フェイクスピア』を2022年2月に期間限定配信で観た記録。
▼トレイラー
公演当時も気になってはいたが、タイミングが合わなかったので、配信があったのは幸いだった。ちょうど舞台を観た友人が2人がいたので、後日オンラインで感想を話すことになり、それもよいモチベーションになり、視聴できた。
配信は、NODA・MAPでは初の試みとのこと。
この配信は、そのシーンの見どころとなる対象を複数台のカメラで追っていくライブビューイングタイプの〈本編映像〉と、主にmono役の高橋一生を固定で捉えていく〈高橋一生カメラ〉の二つのメニューを備えた企画でもあった。(もちろん両方観た)
NODA・MAPの舞台を観るのは2回目で、前回の感想はこんな感じ。
今回の『フェイクスピア』は、1985年(昭和60年)に起きた日航機墜落事故とそのときに回収されたボイスレコーダーをモチーフにしていることのみを頭に入れて観た。
ちなみに当時私は小学生低学年で、関西在住だったが、記憶がぼんやりしている。御巣鷹山、圧力隔壁、垂直尾翼などの言葉だけが脳裏に残っているのみ。むしろ東京に移住してから、身近な同年代の人が当時見たことを涙ながらに語ってくれた、その様子のほうがリアルに残っている。
※以下は内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。
前回同様、同音異義語の言葉の妙はおもしろいと思いつつ、矢継ぎ早に交わされる会話の応酬で混沌としてくる時間を過ごすことと、与えられた素材の中から解読を試みる作業が、見ているうちにだんだん面倒になってくる。
謎解き気分でできると楽しいが、観ているときは、私にはなんだか合わないと感じる。全貌を理解する必要はないが、何の話が進行しているのかはわからないので、居心地が悪い。
読み取ろうとしなくても、好きなように見たいものを重ねてみることもできると思うが、言葉が多いので、つい左脳で解析しようとしてしまう。言葉があったとしても、お能ぐらいオープンだったり、ダンスなどの身体と音楽のみのパフォーマンスならできそうだが、少し難しい。
好みではないが、この舞台はすごいと思うし、観てよかったと思う。
こうして書いている今も、日常の中で遭遇することに、「ああ、あれは『フェイクスピア』でも出てきたやつかも」と思い当たることが多々ある。
自分の中で大きなインパクトだったのは確実だ。観ているときにはなんなのかわからなかったことが、どんどん核心に近づいていくというような。
わからないから他の人の感想を知りたくて、話をしたり、レビューを読んだりもする。そういう行為そのものが、フェイクの邪悪さに抗おうとすることなのかもしれない。
会話の応酬の中に、サブリミナル的に意識に刷り込まれる言葉がある。言葉同士の組み合わせに違和感があったり、語っている人物と語る内容に辻褄の合わなさがあったり、逆に絶妙にわかる瞬間があるので、それを手がかりに今どういう筋書きが走っているのかを探るような感じが起こる。
これは、慣れない外国語での会話を一生懸命に聞き取ろうとする感じに似ている。
本の背表紙で短歌をつくる遊び?作品?が確かあったと思うが、あれにも似ている。言葉の組み合わせの妙がおもしろかったり、意味が通ったりするような体験。
どの言葉が重要でどの言葉が重要でないのか、一度見ただけではわからない。(《高橋一生カメラ》になってようやく理解できた)
「彼が体験した最後の30分間」の「再現」で、自分の無意識の中で時間の巻き戻しが起こり、語られてきた「重要な言葉」が拾い上げられていく。
雑音が取り払われて、一本の線が浮かび上がる。(それ以外の言葉が単なる雑音扱いをするのは、私がよく理解していないだけだと思う)ともかくラストはすっきりと一つの話だけが進行し、史実の再現が行われる。
目が覚める。ここの時間は、小さなモニター越しに観ていても、息を飲むほどのスピードで進行する。
生き残った人がいない限り、誰も見たこともなく、見たことがあったとしても、これは現実ではないのだが、演じることを通じて、何かに近づいている感覚はある。
それは生と死の境目なのだろうか。
このボイスレコーダーの音声は、ネットの海にはごろごろと漂っていて、少し調べれば聞くことができる。特典映像の野田さんへのインタビューでも語られていたことだが、そのようなエンターテインメントのホラーのような形ではなく、死者が残した言葉として、あらためて舞台の上で丁重に扱われていることに私は安堵する。
そう、死者を丁重に扱うことを、私も含め、今の社会はできていないのではないかと思う。かといって、死が近くなったという感じもしない。死とは相変わらず忌むべきもので、日常から切り離されたものとしてある。
死に遭遇するまでは考えないようになっている。恐ろしいからなのか、どうでもよくなったからなのか、それはよくわからない。情報だけが多すぎて、実感がわかなくなっているのかもしれない。
近くの死と遠くの死との違いもある。これだけ多くの死の報せに触れながら、実感がないというのは何なんだろうとよく思う。麻痺しているのだろうか。
このストーリーの中で重要な位置を占めている「死者との対話」。その中でも父と子との関係を見ていくと、つい先日観たオペラ《エウリディーチェ》を思い出す。https://www.shochiku.co.jp/met/program/3768/
この世界では、亡くなった人は冥界に下ると記憶をなくし、言葉をなくす。死んだエウリディーチェは、冥界で出会った大切な父とのやりとりの中から、次第にこれまでの人生を思い出し、自分が何に心を残しているのかを知る。最後は生者である夫に手紙を届けて、自らほんとうの「死」を迎えるという物語。ここでは父と娘が軸になっている。
戦争や事故や、何らかの理由で父を亡くした息子の思い。息子を残して亡くなる父の思い。『ライフ・イズ・ビューティフル』 も思い出す。映画『ドライブ・マイ・カー』も死者との対話の物語だった。そして中高年男性が「つらい」と涙する物語でもある。
表現を通して、声を聞くことから、内なる対話が起こるところも同じく。
聞きたかった言葉、聞けなかった言葉。
橋爪功演じる「楽(たの)」は、突然、「そうか、おれはパパに会いたいんだ」と自覚する。老いて、まもなく人生の終わりが近づこうとしている楽は、理由はわからないが、自然にやってくる死を待つ前に、希望をなくしている。そこには父親との突然の別れが関係している。
しかし、恐山やイタコの力を借りて、これまでまったく自覚的ではなかった父親との関係に目を向けていく。あるいは、楽はもう死を試みたのかもしれない。
父の最後の言葉、「頭を上げろ」が、同音異議で別な意味を持つ。子を励まし、「元の世界」に戻す。最後まで生きろと。発した状況や意図とは全く違う形で、言葉がどのようにも受け取られていく、時代によってその言葉のもつ意味も変わっていく。
524という数字が度々語られる。つまり、それだけの数のそれぞれの死に向かう物語があり(生存者も含め)、生前世界とのつながりが無数にあったということだ。
残された言葉から何かを継ごうとするのは、人類にインプットされた叡智なのだろうか。この先も生者が生きていけるように。
死者と対話しながら生きる
このように私は感じ、解釈したが、もちろん観た人の数だけ物語がある。
まずは今夜、友人たちと感想をシェアしてみる。交わす内容によっては、ここまで書いたこともまったく反転する可能性がある。それが楽しみ。
二つ折りチラシ、いただいた。
▼レビューいろいろ
NODA・MAP『フェイクスピア』が開幕~想像を超える展開と演劇ならではのエネルギー
https://spice.eplus.jp/articles/287642
NODA・MAP「フェイクスピア」開幕、高橋一生「劇場で共有する、本来の楽しみ方で味わって」
https://natalie.mu/stage/news/429582
野田秀樹はなぜ36年前の“生のコトバ”に希望を見出したのか──新作舞台『フェイクスピア』レビュー
https://qjweb.jp/column/53491/?mode=all
▼関連資料
雑誌『新潮』2021年7月号に戯曲がフルで掲載されている。
https://www.shinchosha.co.jp/shincho/backnumber/20210607/
『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』朝日新聞社会部/編(朝日新聞社, 1990年)
※本作の参考文献として掲載されている。
日航ジャンボ機墜落の日、何が起きたのか。航空史上最悪の事故を写真で振り返る【8.12から36年】 | ハフポスト NEWS
▼インスピレーション
「私は死んだのですか」運転手に聞いたタクシー客 被災地と幽霊の深い関係:朝日新聞GLOBE+
『先祖の話』柳田国男
『100分de災害を考える 2021年3月』若松英輔/著(NHK出版, 2021年)
メトオペラ《エウリディーチェ》2021-2022シーズン
概要
https://www.shochiku.co.jp/met/program/3768/
見どころ
https://www.shochiku.co.jp/met/news/4261/
感想
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