根津の竹久夢二美術館で「夢二がいざなう大正ロマン ―100年前の文化と女性を中心に―」を観た記録。
夢二美術館の展示でしたが、この下は夢二作品にはほとんど触れていません。あしからず。
夢二の活躍した大正時代。大正浪漫と呼ばれた文化生活。モダンガール、宝塚、カルピス、森永ミルクチョコレート。
さまざまな表現が生まれ、刺激を与え合い、発展していった。その中で、社会が、少女や女性をどんなふうに見ていたかもわかる展示。のびやかで、いきいきとした面もありつつ、女性が生きるには強い制限もある時代だった。
まずは時代背景。
今から100年前が大正時代にあたる。1922年(大正11年)
明治時代についてはあれやこれやで学んできたけれど、大正時代はまだまだぼんやりしている。短いし。1912年〜1926年の15年間。
明治が45年、昭和が64年、平成が31年なので、圧倒的短さ。
少女雑誌の隆盛。『少女界』『少女の國』『少女画報』『少女世界』『少女倶楽部』『新少女』『少女の友』……!タイトル決めのブレインストーミングか!というぐらいのバリエーション。
雑誌文化も活況に満ちてた頃だったが、少女という存在が新たな市場ターゲットになっていたというのもこの時代らしい。「現実を生きる大人の女性」になる前の束の間の自由を謳歌するのが少女で、そこに目をつけた大人たちがいるということか。
ちなみに「現実を生きる大人の女性」たちが読んでいたのは、『婦人公論』『婦人画報』『主婦の友』『婦人世界』など。先の2つが今もあるのが興味深い。『主婦の友』も2008年まで刊行されていた。当時の内容は良妻賢母を後押しするための、生活実用、流行風俗、婦人問題、名家の紹介、文芸等、とのこと。
唐澤富太郎の『女子学生の歴史』によると、
女学生とは12歳〜17歳。尋常小学校に6年通ったあと、4年制の女学校に通うのがだいたいこのぐらいの年齢。
女学校は1923年(大正12年)に5年制になり、全国で529校になった。
家事裁縫は必修。学問というよりは、良妻賢母の育成がメイン。
1922年の初婚は平均で23歳。親が決めた相手と結婚するのが一般的。
ゆえに、少女でいられる期間の貴重さが際立つ。
少女同士の友情物語も人気を博し、吉屋信子による女学校、寄宿舎ものの物語は、やや同性愛的傾向を帯びるほど、少女同士の親密な関係を描いていたとのこと。
それ以外の絵画や挿画、装丁などは、展示されていたのはほとんど男性の手によるものだった。少女向けなのにやはり仕事は男性にとられていたのだろうか。それとも光が当たっていないだけで、女性の仕事もあったのだろうか。
大正時代といえば、平塚らいてうが立ち上げた『青鞜』が明治44年(1911)〜大正5年(1916)の活動。彼女たちが体現していた「新らしい女」は、教養高い、ハイカラ風の女性で、夫人の新らしい地位を獲得する女性という意味でも使われたが、世間的には、「因習に逆らう奇異な行動をする女たち」というラベリングにもなっていた。奇異な行動といっても外食先での飲酒や遊郭見学などだが、当時としては相当にあり得ないことだったのだろう。
これに関連して思い出すのは、ヴァージニア・ウルフの『ある協会』や田房永子の『男しか行けない場所に女が行ってきました』。
タイムリーに辛酸なめ子さんによる記事があった。これぜひ読んでもらいたい。
『大正期の家族問題』も家族から時代背景を見たもの。この中に女性の社会的立場のことも多く出てくる。
別のテーマで。
オペラ好きとしては、関連する展示はよかった。
1917年(大正6年)の浅草オペラはオペラとは名ばかりで、日本流にダイジェストした軽演劇のようなものが多かったそう。音楽的な技術も高度とは言えなかったと。
帝国劇場に雇われたイタリア人のローシーが、オペラの本格的なレッスンをつけようとしたが、受けず。
1919年(大正8年)にロシア大歌劇団(Russian Grand Opera Company)が来日して本物のオペラを上演したそう。この経緯や日本側の受け止めについては、森本頼子氏による論文『大正期日本における白系ロシア人のオペラ活動』 (金城学院大学, 2020年)が概要を得るのによいので、記しておく。インターネット上でPDFファイルで確認できる。
大正時代のファッションは単純にとてもかわいい!!! 夢二の図案や装幀もいい!
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)