イタリア文化会館の上映会でドキュメンタリー映画『ヨナグニ〜旅立ちの島〜』を観た記録。2022年5月からの公開を控えた中での、試写会的な場。
ドキュメンタリー映画。
2人のイタリア人が監督で、イタリア文化会館が後援しているが、資本はフランスのよう。ハムゼヒアン氏がパリを拠点に活動していることと関係があるのだろうか。
映画そのものに監督の存在も含め、「イタリア的なもの」は一切映らず、感じられない。被写体である14歳〜15歳の人たちは、カメラや撮影者の存在などまるでないかのように自然に動いている。
映像と音とで静かに展開していく。こちらは解釈やジャッジはなく、ただただ受取っている。受け取り続ける時間。自分のいる環境との違いに引き込まれる。
違うのになぜ自分にこんなに共感があるのか。自分もかつてかれらと同じ年齢だったことがあるからか。故郷と呼べるものを明確に持っているからか。母語とは違う言語の中で生きているからか。
館長が映画の前の挨拶で「詩情に溢れた」と表現されていたが、まったくそのとおりだった。詩情。それに尽きる。とはいえユートピアではない。
トークの時間では絶滅の危機に瀕している言語、与那国語のことがメインに話されていた。私はそれはグローバリゼーションと資本主義経済による均質化や過疎化の問題が、この人口1700人の強い紐帯のあるコミュニティをも襲っているという話なのだろうと解釈した。
中学校を卒業した人たちは基本、高校進学のために一度は島を離れる。なぜなら島には高校がないから。そのことは幼い頃から言われて育つから、島を出ることは、人生の早い段階から、大人になるための通過儀礼として、かれらの前に常に横たわっている。今過ごす人たちとも必ず離れ離れになる。自立が早い。
そう宿命づけられているって、一体どんな心境だろうかと思う。
数年前に秋田の山あいの集落に行ったことがある。そこも高校進学のために子どもたちは一度集落を離れる。寮のある学校や下宿先を探す。
自分の子どもとそう変わらない歳の子なんだよな。
いろんな課題はありつつも、それでもかれらを見ていると希望が感じられる。島で生きた15年間。その間に多くのものを受け継いでいる。その蓄積が、その後の人生を力強く内から、根元から支えていくのではないか。そして外に出て、なんらかの幸をこの島にもたらす人になるのではないか。今の時代ならではのやり方で。かれらなりの感性で。先人たちが大切にしてきたことが大切にできるよう、自分のルーツとつながりながら生きる方法が、何かあるのではないか。
そこに、与那国ではない場所に生きる人たちへのヒントがあるような気がする。
受け継ぐとは。遺すとは。
映画ともトークとも関係ないが、言語の話で言えば、ロシア語忌避や排斥の動きがあるという。絶えそうな希少な言語を残したいと思う一方で、そんな言葉は絶えてしまえばいいと思うのは、ずいぶんと矛盾していないか?と言いたくなる。いや、誰に……?(軍事侵攻を肯定するわけではないが、その言葉を使って、その言葉をアイデンティティとして生きている人間がいるという点では同じなのだよな、と思ったので)
5月公開とのこと。
とてもよい作品なので多くの方に観ていただきたい。
与那国島出身の東盛あいか監督の『ばちらぬん』と二本立てで、「国境の島に生きる」という大テーマが添えられている。与那国島は日本の最西端。石垣島から127km、台湾まで111km。まさに国境の島。
東盛監督から、与那国語(ドゥナン)の紹介があったのも貴重だった。
映画からも、同時開催のインスタレーションの展示からも感じるが、やはり「沖縄」とひとくくりにはできない。
ヴィットーリオ・モルタロッティ氏とアヌシュ・ハムゼヒアン氏の他の作品も気になる。
▼スタッフ
▼作品一覧
昨年は沖縄の映画を4本観た。今回の雰囲気に一番近いのは、『カタブイ』か。いろいろな作品に触れることによって、その都度見え方が変わる。
この作品も気になる。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)