『当事者は嘘をつく』小松原織香/著を読んだ記録。
タイトルでギョッとなる。が、もちろん「当事者」に対して喧嘩を売っているわけではない。
カバーを見ればすぐわかる。
これこそ私が待っていた一冊である
──信田さよ子『私の話を信じてほしい』
哲学研究者が自身の被害体験をまるごと描く
2022年1月に刊行され、話題になった本。
性暴力の経験を綴った本なら、私はちょっと辛くて読めないのではないかと思い、スルーしていた。手に取るきっかけになったのは、ライターの太田明日香さんによる書評(『週刊金曜日』2022.3.25 1370号掲載)を読んだこと。いろいろな期待が持てるような文章だった。
現在販売中の『週刊金曜日』3/25号書評欄「きんようぶんか」に小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』の書評を書きました。
— 夜学舎(太田明日香)@『B面の歌を聞け』2号に向けて準備中 (@yagakusha) 2022年3月29日
"「あなたの話はここにある」"
そんなふうに思える本でした。https://t.co/QhFmWejKwx pic.twitter.com/ksDBagTCwA
もしかしたら私の身に起きたこともこの語りに含まれているのかもしれないし、もしかしたら「救われる」ように感じられるかもしれないと思った。
ほかには「あえてこのタイトルにすることの意味を知りたい」ということもあった。というのは、ドキュメンタリー映画『主戦場』を観て、その中で元「慰安婦」の女性が「証言が揺れているから彼女は嘘をついているのだ」と非難される場面が出てきたことが強く心に引っかかっていたからだ。何か関係があるのではないかと直感した。
また、太田さんがツイートに添えられていた言葉にも、「被害当事者の心中を知ってほしい」というだけではないものを受け取る可能性を感じた。
『当事者は嘘をつく』を読んでから被害を受けたと認めることができ、自分の態度は被害者として正当なものだったと認められるようになった。また、たとえ被害を受けても、一生被害者として生きたり、社会運動に関わらないといけないわけではなく、その人の幸せを追い求めていいとわかった。
— 夜学舎(太田明日香)@『B面の歌を聞け』2号に向けて準備中 (@yagakusha) 2022年3月31日
私は『被害者は嘘をつく』を読んだおかげで自分を許せるようになり、そのおかげで憎しみから解放され、加害者に対して全く無関心になることができた。自分を責め続けて辛いという人に是非読んでもらいたい。
— 夜学舎(太田明日香)@『B面の歌を聞け』2号に向けて準備中 (@yagakusha) 2022年4月1日
そう、私も「自分を許したいし、憎しみから解放されたいし、加害者に対して全く無関心になりたい」と思った。
実際に読んでみて、発見したことは多かった。うまくまとめられないので、箇条書きで挙げていく。
※引用も多くて詳細になるので、読了後にご覧ください。本を読んでつらい感想を持った方は読まないでください。
・まずは実名でカミングアウトされて、さらに本という形にまとめられたことに敬意を払いたい。本というどこまでも流通するもの、何十年も残る可能性があるものを作ろう、自分の言葉を世に出そうと思われた決意に。
・のたうち周りながら、次々にやってくる苦しみや課題をあの手この手で生き抜いていく小松原さん。めまぐるしい日々を過ごしてきたのだろうか。毎回転機をとらえて、「こっちかもしれない」、「いや、もうこれじゃない、次はこれだ」と感知し、行動していく姿。ご自身の言葉で格闘が語られていくのは、読み手にとって喜びがある。
・たぶん周りではご本人が苦しんでいたことに全然気づくこともなく、着々とキャリアを重ねて、眩しく見えていた人もいたのだろうと想像する。そのぐらい人のことはわからないものだと思う。
・カッコ悪い、情けない姿も、怒り狂う内面も、すべて同等に扱って書いていってくれるので、読みながら私も自分の尊厳に触れる感じがする。
・わくわくする展開もある。海外の研究者や学生とのディスカッションの中で、気後れしながらも自分の意見を述べ、場に気づきを与えて貢献し、次第に居場所を作っていく様子はやった!と私もうれしくなる。
・本の趣旨からは外れた感想だが、人文系の大学院生のキャリアの築き方や、院生としての過ごし方、学術研究とそうでないものの違いなどについて、私は知ることができた。実はあまりよくわかっていなかったところ。
・ウーマン・リブや水俣病などにおける社会運動にも触れられているのが興味深い。内部での人間トラブル、支援者、研究者のそれぞれの立場。また、『主戦場』でも私が感じていた、当事者の周りに集まってくる人の様々な思惑に利用されて、勝手に対立軸を持ち込まれて、当事者が困惑する様子などは共通している。
・「一度、カミングアウトしてしまうと元には戻れません。差別や偏見、バッシングに晒される危険はもちろん、過度に持ち上げられたり、社会運動のシンボルに祭り上げられたりすることもあります。カミングアウトすることで、当人が背負う荷物は軽くありません」(p.201-202)「よきことをなす人」による暴力はある、ということとつながる。
・「私が、関心があるのは当事者の声だけだった。『私(たち)がどうやって生きてきたのか」を知ってほしかった。社会現象となった社会運動は、それに対する第三者たちの喧騒ばかりに焦点が当てられ、かまびすしいおしゃべりが続く。私は苛立っていた」(p.177)ここ、映画『牛久』の出演者の声を思い出した。製作者の認識と食い違っているようだが、この記事を読むと、「私たちがどうやって生きてきたのかを知ってほしかったのに」ということが何を言っているのか知る手がかりになると、私は感じた。(→参考記事)
・溝を溝として認識し、葛藤しながらもそこに必死で橋を架け続けようともしている。そのエネルギーはどこからくるのだろう。
・「同意していたが、あれは性暴力だった」そう言っていいのだ!という驚き。どうして私はそれには当たらないと思っていたんだろう。「同意の罠」。自分が暴力だと感じたら暴力なのだ。「私の経験は『性暴力』と呼ばれるものであり、外から見える被害の大小にかかわらず、深く心に傷を残すものだと学んでいった」(p.56)こう思えたことが最大の救いだった。
・読みながらふいに、自分(私)が人から失望されることへの怖れってあるなと思った。自分の中にある怖れを隠すための虚勢。責任転嫁。引き受けている表現者の顔を何人か思い浮かべた。
・「性暴力は密室や人目につかない場所で実行されることが多く」、そうだ、これが「当事者は嘘をついている」と言われる所以。ただ、人目につかない場所で行われるだけではなく、公共の場であっても人目につかないやり方で行われることもある。あまりにも振る舞いが自然すぎて気づかれないこともある。精神的暴力を伴っていると、たとえ屋外でも、人前でも、関係性としては密室になっていることがある。
・「性暴力は単独で存在している社会問題ではなく、あらゆる差別や暴力、経済的な問題が折り重なって構成されていくことに、私は直面していくことになった」(p.53)
・「性暴力被害の当事者として語るのは『社会を変える』ために訴えたいからであり、自己のトラブルの対処方法を知りたいのではなかった。その点において、『当事者研究』はそれぞれの当事者が直面する問題を個人化、内面化しており、自己や個人的な知り合いといった小さな人間関係に矮小化していると、私には思われた」(p.92)これこれ!これ!ここ数年わたしが考えていることだ。『妊娠と出産のスピリチュアリティ』を読んだときにもこれだ!と思ったこと。まだ言葉になりきらないが、再確認した。(→読書記録)
・「センター(※ノルウェー、オスロにある国立メディエーションセンター)の職員によれば、修復的司法が法制度に導入されたの一九七〇年代であり、学校や刑務所、病院などの制度改革が進められる機運のなかで実現したらしい。いまの時代に改めて修復的司法を導入するのは大変だろうという見通しを語ってくれた」(p.105)
ノルウェーの刑務所はとても刑務所には見えないような施設であり運用ルールなのだが(→参考記事)やはり刑務所だけが突出して行なっていることというよりは、社会の土台に通底しているものがあるのだな、と納得した。
・「私にとって、大学院修士課程は支援者と闘うための言葉を身につける場所だった」(p.111)「闘うための言葉を身につける」という箇所を声に出して反芻した。
・「目の前に積み上げられた『資料』と、自分の内側から湧いてくる『問い』をどのように結びつければいいのかわからなかったのである」ここも!!私が今まさに立ち止まっている壁だ!この本で示されているヒントとしては、「挑戦」「自分のテーマを持って新しい場に飛び込んでみる」や「とにかく書く、書き続ける」などだろうか。この「突然できるようになった」(p.138)までの箇所はときどき読み返して勇気をもらいたい。
・当事者と支援者、研究者との関係の見直しも提起されている。人によってはここが一番響いているかもしれない。
・「自分の声がいつもと違い、弱々しく自身のないものだが、はっきりと学生や、自分よりキャリアの若い研究者に向けて発せられているのを自覚した。それは自助グループの仲間たちや、サバイバーに向けて発する声と同じだった。闘うためでもなく、励ますためでもなく、繋がるために発する声」この心境、フェーズ、覚えがある。つながるために発する声だったのか。
・「ワイドショーも、週刊誌の中吊り広告も、性暴力は『お色気のネタ』だった」(p.193)短いが、本当にしんどい一行だった。2017年になるまでの私の人生は、ほぼこの性暴力を食らい続ける日々だったからだ。社会から物として扱われた眼差しを内面化し、私のとった数々の行動に影響を与えた。2017年でいきなりゼロになったわけではないが、「それは暴力」だと自分が認識し、それを避けたり、声をあげたり、異を唱える人と連帯できるようになった。ゼロになったわけではない。
・太田さんのツイートにもあったが、「声をあげなくていい」は大切なことだと、あらためて実感した。「言葉をもとう」とセットで「声をあげなくていい」は言っていかなくては。
・「カミングアウトとは、自己をひとつのカテゴリーに当てはめる行為でもあります」(p.202)そう、人間の内面は複雑だから、あるひとつの軸で語るとこうなったけれども、別の軸で語れば違う人生の物語になる。歴史とはそういうものだ。たとえひとつの物語で編まれたものを読んだとしても、別の面があるであろうと想像力を働かせることが大切。他者の複雑さを複雑なままに受け取る。そのためには自分も自分の物語を語ってみることが有効だ。ひとつの軸で語ってみると、削ぎ落とされるもののほうが多く、残した一握りのものを組み合わせて語っただけになることに気づく。修復的司法を理解するには、このことを実感する必要がありそうだ。
編集の柴山さん。(いえ、知り合いではありませんが、よくお名前を拝見します)
小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』の見本ができました。
— 柴山 浩紀 (@hiromar12) 2022年1月21日
「私が、少しもうまくいかず、泣きながら研究を続けてきた経験は、次に研究者になりたい人たちの役に立つかもしれない」
推薦=信田さよ子さん
デザイン=鈴木成一デザイン室
引き続き、取材依頼などお待ちしています。 pic.twitter.com/Jwytz3ymqO
漫画家ペス山ポピーさんによる書評。ワカル!
直接関係はないが、こういう話題が出ていた時期だという記録としても。
人間個人を賛美したり、一旦自分が持ったイメージ(多くは誰かの良き推薦によって)が固定して一面的になることの危うさを思った。「よきことをなす人」が力を持つこと。そういえばある番組で「左派リベラルだからという理由だけで信用するのは危険」という話を聞いた。いろいろと理解が進む。
一旦しんどくはなるが、十分に休んでエネルギーを取り戻して、しんどさの壁を抜けるとまた社会がどういう構造になっているのか理解が進む。学び続ける。
闘いや赦しについて考えようとして、こんな本も読んでいたな。記録として。
修復的司法については、これから読む『プリズン・サークル』もヒントをくれそう。
小松原さんの最近の記事。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)