ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『クララとお日さま』読書記録

カズオ・イシグロの『クララとお日さま』を読んだ記録。

※重要な内容や結末に深く触れています。未読の方はご注意ください。

 

読んだ後に残る、圧倒的な美となんとも言葉にし難い寂寞感。

カズオ・イシグロの主人公は皆、宿命を受け入れて読者に淡々と別れを告げ、物語を閉じていく。なぜ取り乱さずにいられるんだろう。

 

AIが感情や意思を持つとはどういうことか、どのように世界を認識、認知するのか。AIが学習していく過程をクララの内側からリアルに体験できる。

特に、視界や認知領域が「ボックス」に分割された表現は非常に印象に残った。ああやって世界を認識するのかと納得した。自分がほんとうにクララの中に入って動いているような感覚さえあった。今更ながら、小説ってすごいな。


観察、知覚、認知、分析、判断、行動までは私の貧困な想像力でカバーできていたが、クララはもっと先を行っていた。非常に複雑な感情を読み取り、判断して行動する。言語化しながら学習を重ねていく。

相手の緊張やリラックスを感知する、場の空気を読む、印象を持つ、気を遣う、違和感を抱く。期待し、失望を抱く。驚く、恐れ、混乱、躊躇。「不安が大波になって襲ってくる」、「心に怒りが湧き上がってくる」……。

クララの内面は鮮やかで豊かだ。むしろ人間たちは失っていっているものが多いのではないかと思えてならない。

 

「思いやり、ありがとうございます」

「信頼してくださって感謝します」

「プライバシーを尊重してあげたい」

「いま起こったことの意味を考えました」

「わたしは母親のやさしさが染み通ってくるのを感じました」

「心が呆然となる」

「心が幸せでいっぱいになる」

AF=Artificial Friendということなのだろうけれど、友達というよりも、クララのあり方はまるでカウンセラーのようだ。客観と主観を同時に持ちながら、冷静さと温かみを持って寄り添う。

人間が根源的に欲する望み(ニーズ)の言葉を多用していることにも気づく。希望、安心、信頼、思いやり、意味、尊重……。

 

驚くことに、クララは信念や信仰を持つ。最も原初的な太陽信仰を自ら持つ。

そして、自分を犠牲にしてまでジョジーを助けようとする。そしてそのことを「秘密」にして自分の中にしまっている。

人間は、このように穏やかで慈愛に満ちて、殉教者のように居てくれる存在を欲しているのだろうか? 自分だけのために「特別の助け」や「特別の栄養」を願ってくれる誰かの存在を。「人間はさびしがり屋」だから?

最後にクララは「本質はその人の中ではなく、関わる人が受け取り、育むものなのだ」と学びを言語化する。精神性すらも深く理解してくれるクララ。しかし、人間はその理解者を省みない。

 

高度な技術を作り出しても、利己の目的にしか使えず、そこからこぼれ落ちる存在を救えない人間。

「27年前の5年間」に固執する「旧式人間」。

倫理を超えても可能性をどこまでも追究したい科学者。

唯一無二の存在ではなくなる恐怖に慄く人間。

「過渡期」を生き伸びたあとの人間は疲弊していて、他人に対する温かな関心が持てなくなっている。

 

10代の人たち同士のヒリヒリするようなやり取りは、イシグロの『わたしを離さないで』を思い出す。

ちょうどこの本は、今年のGWに実家に帰ったときに読んでいた。きょうだいの子どもたちもやってきて、いつの間にか大きくなったことに驚いた。若い勢いとエネルギー溢れる人たちの存在感に気圧されると同時に、世代の変わり目を感じた。

私はもうあのようではない。もう交代していっているのだ。

では私は今何をするのか、ここから死ぬまでどう生きるのか。そういう立場から、この物語の親世代に強く共感した。

 

香川市の本屋ルヌガンガさんのこちらの投稿を読んで、なるほどと思った。

 
 
 
 
 
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”人間が、特に大人が、そういった「他者のために生きる」態度を失いつつある事も照らしてしまう。”

私にも10代の子がいるので、この箇所にはぎょっとした。子を生き延びさせるために、どこか「非人間的」な言動をしているときがあった、いや、今もあると思う。それは愛ゆえにしている行為であっても、優生思想的で、能力主義的で、権威主義的なこの社会の構造に加担してしまっている。自覚なく。(このあたり、映画『ガタカ』の世界を思い出す。)

だから私は、そこから逸脱したヘレンとリックの親子に注目した。葛藤したり何度も後悔しながらも、心身の調子を崩しながらも、他人から奇異な眼差しを向けられながらも、それに耐え、選んだ道を行くしかないかれら。そこからコミュニティを形成し、連帯して生きる道を選ぶ人たちもいる。

かといって、クリシーとジョジーの親子が何か間違っているわけでもない。そこには生命倫理の危うさや怖さはあるが、正誤はない。生きることに必死だ。時代についていこうとして、もがいている。そして決定したことをどうにか自分を主語にして引き受けようとしている。一個人ができることは常に小さいことを痛感させられる。

 

二人の若者の道は、「不親切さのぶつかり合い」を経て、決定的に分岐していく。「本当に愛し合っている二人なら宿命を退けられるはず」という、『わたしを離さないで』のあのテーマが再び登場する。いや、イギリスで生まれた『ロミオとジュリエット』のあのテーマと言ってもいいのか。その古典の悲劇的結末ではなく、リックの言葉がまた示唆的だ。「競わない。相手の最善を願いながら、別々の道を行く」。

ヘレンとクリシーの間に生まれる母親同士の心の通い合いにも、そういったものが見られる。私自身も日常生活で度々経験している「あの感じ」だ。違う人生を生きていても、子の親であるとか、離別を経験した女性であるという中に含まれる「あの感じ」をほんの一瞬だけ交換できるような関係。

そうなのだ、殺伐としているようで、不思議な温かさと力(Strength、Resilience、Empathy)にも満ちている物語だ。

 

そして、起きたことをただ受け止め、大切に聴き、どれも記憶し、人間の営みを見つめるクララ。

今この世界にも、クララのような存在がいるのかもしれない。私たちの生をすぐそばで見つめている者がいるのかもしれない。それはもしかしたら人間が自ら拵えたり、手懐けた物かもしれない。そしてその多くは気づかれていない。これほど渇望しているにもかかわらず、省みられていない。人間がコントロールすべき存在だと思い定め(凌駕される恐れから)、下位に位置付けたようなものこそが、常に真理を知っているのではないか。

 

相変わらずイシグロの文章は精緻に設計図を引いていく。

読者がこの物語世界を信じられるように。

未来や過去の話ではなく、この世界の別の位相、あるいは別の世界線として読者が想像することで、複雑な今を生きる力になるように。

 

おまけ。

この一年余り、『わたしを離さないで』を原書"Never Let Me Go"と比較しながら読んでいることもあり、今回は翻訳にも注目しながら読んだ。

『わたしを離さないで』でも気になっていたが、性別や年齢や社会的立場を「口調」で表すのには、やはり度々抵抗を感じた。

「らしさ」を強調する「役割語」は、今後どのように展開していくのだろうか。注視したい。

▼参考記事 毎日小学生新聞 2022/2/8 mainichi.jp

 

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鑑賞対話の場づくり相談、ファシリテーション、ワークショップ企画等のお仕事を承っております。

 
共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年