連吟 弓八幡
能 井筒
2年ぶり、2回目の鳩森の薪能。
朝まで降っていた雨も止み、涼しい風が吹いて、湿度もほどほど。蚊はいたかもしれないけれど、私の視界にはいなかったし全く刺されなかったので、とても快適に鑑賞できた。薪のパチパチとはぜる音、鳥の声もする中で。
車の往来の音なども入るけれど、集中してくると溶け込んだように車の音とは認識されなくなる不思議。
連吟 弓八幡
鳩森八幡小学校の子どもたちが謡う。一昨年の薪能ではなかったけれど、昨年は行われたようなので、感染症対策かと思われる。小学校では毎年恒例の行事になっているのだろう。浴衣を着た子どもたちが練習の成果を発揮している様子に目を細めて見てしまう。孫を見る目ってこんな感じだろうか。
長光は「ながみつ」と読む。先月国立能楽堂で観た《雁礫》《茶壺》に似た筋書きながら、オチがちょっとずつ違うのがおもしろい。
冒頭に「若いときに旅をしておかないと、年をとってかや思い出す楽しみがない」というような台詞があり、ハッとなった。そうかもね。物理的な移動を伴う旅行でもよいし、事情があって無理でも精神的な旅でもいいかもしれない。
あからさまな嘘ついていても一応話聞くし、「お前嘘やろ!」と判定されてもゴリゴリに詰めるのでもない。やったほうもテヘペロ。こんな平和な笑い、いいわぁ。
あらすじ
能 井筒
ただそこに現れた念をしみじみと慈しみ味わう時間。懐かしみ、愛おしむ心。
幼い頃のやり取りがやがて恋に変化していった日々、それに気づき、歌で心を通わしたあの日のこと。亡き人を偲び、彼の衣を纏って、舞うことで悼むひととき。太鼓はなく、舞も貴族らしく繊細で優美。紀有常の娘の、穏やかな微笑み。
記憶には、もっとも美しい瞬間だけが残るのかもしれない。
金春流シテ方 櫻間会(熊本・細川家のお抱え能楽師だったのですね!)
一昨日観た映画、侯孝賢の『好男好女』を思い出した。
愛した男を失う女の役を演じるのは、同じ境遇に立った俳優。彼女はリハーサルが進むにつれ、役に特別な思いを抱いていく。彼女自身の喪失体験の深さゆえに。
彼女がもし《井筒》を観たらシンパシーを感じて涙するんじゃないだろうか。違う文化や言語や表現形式に関係なく、彼女にはわかるんじゃないだろうか。
4月の上旬から今までにないしんどい時期を過ごしていたので、友達とも会って普通に話せるだろうかとやや不安に思っていたが、会ってみたら友達も同じような状況、状態にあったと知り、「これは星回りということにしよう」となった。
能が開いてくれる機会。ありがたい。
また来年も訪れたい。
前回、2020年の薪能。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)