2022年1月27日「記憶の日(Giorno della Memoria)」に、イタリア文化会館で『1938年我々がイタリア人ではなくなった時(Quando scoprimmo di non essere più italiani)』を観た記録。
記憶の日2022
— イタリア文化会館 東京 - IIC Tokyo (@IICTokyo) 2022年1月11日
1月27日イタリア文化会館ホール。ドキュメンタリー「1938年 我々がイタリア人ではなくなった時」(仮)の上映会を開催します。上映前には牧野素子氏による解説があります。
詳細:https://t.co/7csGYms1xe pic.twitter.com/bUmaPumagk
記憶の日とは。
2000年7月20日、イタリア議会は1945年にソ連軍によってアウシュヴィッツ強制収容所が解放された1月27日を「記憶の日」(Giorno della Memoria)と名付け、公式な記念日としました。
これは、ショア―や人種法の犠牲者、移送や監禁、政治的理由により死にいたった人々と、虐殺計画に反対し、迫害された人々を守り、命を救ったすべての人々を記憶する日として定められました。
そしてこの時期、ナチスの収容所でユダヤ人など被収容者の身に起こったことを記憶し、二度とこのような惨事が繰り返されないために、さまざまな熟考の場や機会が提案されています。(ウェブサイトより)
イタリア文化会館でのこのテーマのイベントに参加するのはプリーモ・レーヴィの詩集刊行記念講演以来だ。(こちら)
映画はとにかく情報が多い、流行りの作りのドキュメンタリーだった。次から次へとトピック降ってきて情報整理が追いつかず、頭が疲れた。もうこれ以上は入らない、ついていけない!と限界を感じたところでようやく終わってホッとした。
それでも上映前の牧野素子さんによる解説があったのが大きなサポートになった。終映後にも質疑応答があったのがありがたかった。
内容的に気持ちが疲れたけど、また一つイタリアについて、ホロコーストについて、人間について知ることができて、観られてよかった。
鑑賞メモ
・エルサレムを追放されたユダヤ人、イタリアにも居住。392年にローマ帝国のテオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教とし、それ以外の宗教、宗派を禁止。
・イタリアにおけるユダヤ人迫害の記録:13世紀にヴェネツィアにゲットー(※Ghetto:ユダヤ人の強制居住区域)建設。
・1555年、反ユダヤ主義者のパウルス4世がローマにゲットーを建設。以後、教皇庁のあるところにはゲットーを建設。ローマは1875年まで継続。
・『シオン賢者の議定書』1900年代初め。陰謀論的な内容。反ユダヤ主義強まる。
・ファシスト党、当初は反ユダヤ主義ではなかった。(※ナチスドイツにおけるファシズムとまた違う文脈や経緯)イタリアへの祖国愛を持ったユダヤ人も入党していた。トリノで銀行業を営んだ名門Ovvazza家も。第1次世界大戦でイタリアのために戦った人も。
・1938年7月ムッソリーニ政権が「人種法 (Manifesto della razza)」を制定。1935年9月のナチス・ドイツのニュルンベルク法を参考に。エチオピア戦争でドイツの支援を受けたことから接近していた。当時のユダヤ人の全イタリアの人口に占める割合は少ないにも関わらず?(※ここ要確認)
・人種法前の1936年ごろから(※ここは不確か)学校から追放。ユダヤ人コミュニティが受け皿に。子どもたちのための学校を作った。当時の校舎を訪ねて思い出話を語る元生徒たちの映像。次第に悪化していく状況。
・人種法後、ユダヤ人を笑いものにする発信をするメディア。「多くのイタリア人は気にしていなかった。ユダヤ人に一度も会ったことがない人もいた(※そのぐらい人口比としては少なかった)」。「ユダヤ人は半獣、尻尾がある」を信じこむ人まで。(※絶句。。)イタリア人としての権利を完全に剥奪された。
・1943年7月アメリカ軍などがシリチア島に上陸し、9月イタリア政府は連合国に降伏。しかしイタリア北部はドイツが占領。国内も連合国派と新ドイツ派に分断された。
・1943年10月からユダヤ人の強制収容所への移送がはじまり、命が脅かされるようになった。イタリアの経由地(Botzano, Fossoli di Carpi)を経てアウシュヴィッツ強制収容所に送られるように。国外脱出できなかった人たちの中には、カトリックに改宗したユダヤ人に匿われ、助けられて生き延びた人も。日本の外交官が捨てた家に移って潜伏していた人も。
・おじが密告者だったという人。「金や野心のために密告していた」「教えてくれたら女性3,000リラ、男性5,000リラ」逃げるはずだったが売られた人も。
・生き延びた罪悪感。「どうして助かったの?卑劣な手を使ったの?と聞かれた。どんな手を使って逃げたとしても、それを責める気にはなれない」「70年経っても不安が消えない」
・「当時イタリアにいた2万人(※本編中の数字)のユダヤ人のうち、7,000〜8,000人がイタリア人の密告によって逮捕され、収容所に送られた」「楽に稼ぐための手段になっていた」「当時はまだアウシュヴィッツが何かわかっていなかった」
・「今の若者に何を伝える?ーーナチスを喩えたり真似をするときに、強く怒らないといけない。かれらは真実を知らない。伝えなければ」極右政党を支持する若者への懸念。「経済危機の責任はユダヤ人にある」とはっきりと答える若者。ムッソリーニの墓を訪ねるブーム。「誰もが自由に歴史を解釈している(それでいいんだ)」と笑顔の若者……。
・人種宣言に署名した科学者の孫。複雑な葛藤を抱えている。「反対を叫ぶべきだったがキャリアの妨げになることを恐れただけ」「親の罪を子や孫が背負うべきではない」「同じように署名した10人の名前が通りや広場につけられていたが外された」
情報が大量だったが、今あらためてメモを整理してみると、明確な「迫害者」だけではなく、当時の状況を歓迎し、利用しようとした人もいたし、積極的に賛同はしなかったが明確に反対もしなかった人たちもいて、人はどんな立場にもなり得ると感じた。
事前トークの中でも紹介されていて、ロビーでも販売されていた書籍『アウシュヴィッツ生還者からあなたへ: 14歳,私は生きる道を選んだ』 (岩波ブックレット NO. 1054)を後日読んだ。
ユダヤ系イタリア人として迫害を受け、1944年1月、13歳のときにアウシュヴィッツ強制収容所に送られた経験を持つリリアナ・セグレさん最後の講演。戦後、長い沈黙を経て、60歳のときに自らの経験を語り始め、30年に渡って活動をおこなかった。2020年10月9日、90歳を節目に行った。
1月27日にアウシュヴィッツが解放されても、戦争はまだ続いていた。解放直前にナチス・ドイツが犯罪行為を隠蔽するためにポーランドのアウシュヴィッツからドイツ国内の収容所に移すために「死の行進」を強制される。
リリアナさんは想像を絶する状況の中で生き抜き、5月7日のドイツ無条件降伏でようやく自由の身になった。
特に心に残るのは、若い人へのメッセージ、死の行進の最中に経験したこと、「自由な人間として生きはじめた瞬間のこと。
映画『1938年』の内容を補完する生の声がここにある。
イタリア語動画。探せば英語などもあるかも。
リリアナ・セグレさんのスピーチは、53:25から。
リリアナさんを擁護するデモ。2019年12月11日。
"L'ODIO NON HA FUTURO.(憎悪に未来はない)"
最後の証言が語られた「平和の砦」(Cittadella della Pace)トスカーナ州ロンディネ村にある施設。
紛争を起こした国の若者同士、あるいは国内で対立関係にある若者同士が寝食を共にしながら対話を重ね、未来の平和を築く場所として1997年に創設された。(書籍より)
1月27日 記憶の日(Giorno della Memoria)のもう一つのイベント、コンサートはイタリア文化会館のYoutubeで配信中。映画『COLD WAR』を彷彿とさせる。
ミラノ中央駅21番ホームとイタリア系ユダヤ人の迫害(2021/01/27, World Voice)
https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/vismoglie/2021/01/21.php
2021年の記憶の日(イタリア文化会館での催し)
本編でも触れられていて、質疑応答の時間にも出ていたテーマ、ヴァチカンの秘密文書公開。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)