ひととび〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『他者の苦痛へのまなざし』読書記録

『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ記録。

ある日このツイートが流れてきた。

まさに私のことだ。どう受け止めたらいいかわからなかったし、落ち着きたかった。

「ここのところの」と投稿者が言っているのは、2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻のことを指している。

今は5月22日で、もうすぐ3ヶ月になる。長期化してきたこともあって、前よりも目にする頻度は減った。というか意図的に減らした。

溢れるニュース、画像、映像に対してどういう態度で見るのか、なぜ見るのか、ということを決める必要があると感じていた。

特に、5月はウクライナのユーロ・マイダン革命のドキュメンタリー『ピアノ ーウクライナの尊厳を守る闘い』で鑑賞対話の会をひらく予定なので、私のスタンスをはっきりさせておく必要があった。参加者にというより、自分に対して。今眼の前で起きている戦争というテーマに当たっては慎重に場を作りたい。

 

『他者の苦痛へのまなざし』は、作家で批評家のスーザン・ソンタグの著書で、2001年にオックスフォード大学においてアムネスティが主催した講演「戦争と写真」に端を発して書かれた。(ソンタグは、2004年に死去)

 

本を「読んだ記録」と書いたけれども、ほとんど読めていない。いや、ひと通り読んだのだけれど、何を言っているのかがつかめなかった。読解できない箇所が多くて、部分的につまみ食いしたような読み方になってしまった。

これは翻訳の文章が難しい。しかも読み進めていくと、一方ではこう言っているが、すぐ後にまったく反対のことを記述していたりもするので、混乱するときがある。原文やこの本全体の構造からして分かりにくいのかもしれない。

いずれにしても私には、自分の読解力に自信を失うぐらい難しかった。日本版の刊行は2003年なのだが、古文のようにも思えた。

それでも手に残っているいくつかの感触を自分のためにメモしておく。

 

読書メモ ※引用以外は個人的な解釈や派生した感想です

・冒頭、ヴァージニア・ウルフの『三ギニー』の引用からはじまる。
「あなたと私のあいだでは、真の対話は不可能かもしれません」「なぜならあなたは男性、私は女性だから」

「われわれ」とは誰のことか。その「われわれ」と言える前提となっている、共通性について考え、そしてほんとうに「われわれ」と言い得るのかを点検する。

まずこの視点に立つ。立ち戻る。

・犠牲者の凄惨な画像、映像は、よりいっそうの戦意をかきたてるのも事実で、それを意図して示され、その闘争の正当さ(正義)を強固にする役割を果たすこともある。

・その際には、「誰によって誰が殺されるか」が重要になる。つけられたキャプションによって見方が変わるという危うさ。捏造も可能。悪意はなくても正義感から演出をつけることは起こり得る。

・残虐であればあるほど、戦争の抑止につながると信じられていた時代もあったが、実際はそうはならなかった。戦争は起こり続けている。

シモーヌ・ヴェイユは戦争についてのエッセイ『「イーリアス」あるいは暴力の詩篇』(1940年)のなかで、

「暴力はそれに屈するすべての人間を物にしてしまう」

と書いたが、ヴェイユはスペイン共和国を守るための戦いと、ヒトラーのドイツにたいする戦いに参加しようとした。戦争を止めるために戦いに赴くということは、起こる。

・人々に衝撃を与えることでコントロールしやすくなる可能性がある。

・今は以下のことが戦争が起こる前から日常的になっていて、戦争でさらに拡大した。

「現代の生活は、写真というメディアを通して、距離を置いた地点から他の人々の苦痛を眺める機会をふんだんに与え、そうした機会はさまざまな仕方で活用される」(p.12)

絶え間なく膨れ上がる情報が戦争の苦痛を伝えるとき、それにどう反応すべきかはすでに19世紀後半において問題となっていた。(p.17)

・書かれた記録と、映された写真とでは、「言語」も伝わる範囲も違う。そこに差が生まれる。

・どれほど慎重であろうとしても、たった一枚を見るだけでも、潜在的に刷り込まれてしまう。メディアが取り上げるものによって、操作されている。読むリテラシーを高める努力をしても、限界がある。そもそも時代の影響を受けないでいるのは不可能。しかしそれでも努力する意味はある。

内容により深くかかわるためには、或る種研ぎすまされた意識が必要である。そのような意識こそ、メディアが流布する映像に付随する予測のために弱められ、メディアが映像の内容を漉して取り去るために鈍化されるものなのである。(P.105)

まさにここが難しいのだ。より深く関わろうとして意識を研ぎ澄ませていると消耗する。しかしメディアの「流布」に対抗するためには、見極めの力をつけるためには、メディアがどのように挑発しているのかを見なければ意識は作動しない。しかし大変な労力だ。

・写真は現実の証人である。写真はある視点を必ず持っている。その矛盾を行き来する。

・そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。持っておきたい問い。

写真は主要な芸術のなかでただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者にたいして絶対的な優位に立つことのない芸術である。(p.27)

・他者の苦しみを見たいとう欲求が、人間には多かれ少なかれある。だからフィクションで観ようとする。悲劇的な不幸を扱う演劇や映画など。ただ、実際に起こった出来事であっても、写真や映像化するときに、それが見たい欲求を叶えるときがある。あまりにも道徳に反しているが、実は、感情をかきたてられるほどの衝撃の興奮と後ろめたさの両方があるのではないかという指摘。それを単純に「病的」とは断じられない。

・「何を見せることができ、何を見せるべきではないか」はcontroversial。

・「たとえ達成されなくても平和が規範である」という倫理は時代により異なる。また地域によっても同意されているわけではない。

・セバスチャン・サルカドに対するソンタグの批判はいつになく強い。これは作品を鑑賞する立場として慎重に受け止め、検討したい。少なくとも視点の一つとして手に入れられたことはありがたい。冒頭のウルフの言葉とこの箇所は読めてよかった。

「苦しみを描く写真は美しくあってはならないし、キャプションは教訓的であってはならない。このような見方によれば、美しい写真は深刻な被写体から注意をそらし、それを媒体そのものへと向けさせ、それによって記録としての写真のステイタスを損なう」(p.75)

「39カ国で撮影されたサルカドの移住写真は、移住という一つの見出しのもとに、原因も種類も異なるあまたの悲惨をひとまとめにしている。グローバルに捉えた苦しみを大きく立ちはだからせることは、もっと『関心』をもたなければならない、という気持ちを人々のなかにかきたてるかもしれない。それは同時に、苦しみや不幸はあまりに巨大で、あまりに根が深く、あまりに壮大なので、地域的な政治的介入によってそれを変えることは不可能だと、人々に感じさせる。このような大きな規模で捉えられた被写体にたいしては、同情は的を失い、抽象的なものとなる。だがすべての政治は、歴史がすべてそうであるように、具体的なものである。(確実に言えることだが、歴史について本気で考えない人間は、政治を真剣に受け止めることができない。)」(p.77)

オラファー・エリアソンの作品でも感じたことかもしれない。気候危機をテーマにしたときに深刻さよりも、美的な感覚が上回ることに対して、どう考えたらよいのか。

それとも、ソンタグが指摘するのも間に合わないほどに、見慣れてしまって、自分には何もできないと感じることに囲まれてしまっているかもしれない。

・写真は客観化する。人々は慣れる。いくら苛立ってショッキングなものを出しても、人はやがてそれに慣れていくことができる。また慣れることのできないほどショックな写真は人々の健康被害を引き起こす可能性もある。「効果」は時代によっても捉え方が変わっていく。随時検討していく必要がある。

・それでも犯罪を記録すること、それに誰もがアクセスできるようにして、忘れないようにする、思い出せるようにすることは大切だ。例えば博物館、祈念館。

・写真を見て理解の助けにはなることもあるが、「説明」が添えられる前提のこともある。

・これは過去に起こったできごとに関して言っているが、毎瞬新たに生成される画像や映像に対する態度のことを言っているようにも感じられる。「見せる意味」「見たい欲求」「見る意味」の話。

「たとえ陰惨な写真であろうとも、それが語るものにかんして、今すぐなされなければならないことがあるゆえに、そうした写真を見る義務があるのだと人々は思うことができた。他の問題が生じるのは、それまで長い期間にわたって知ることがなかった一連の写真が人々の目に触れ、それに反応することを人々が求められたときである。」(p.89)

「人はきわめて残忍な行為や犯罪を記録した写真を見る義務を感じることができる。そうしたものを見ることの意味について、またそれらが示すものを実際に吸収する能力について、考えてみる必要がある」(p.94)

「同情は不安定な感情で、行為に移し変えられないかぎり、萎えてしまう。問題は、喚起された感情や伝達された情報をどうするか、である。『われわれ』にできることはなにもないーーだがこの『われわれ』とは誰か?ーまた「彼ら」にできることも何もないーー「彼ら」とは誰か?ーーと感じるとき、人はうんざりして冷笑的になり、何も感じなくなる。(p.101)

「同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる」(P.101)

 

一枚の写真、垂れ流される映像に対する態度として、ソンタグによる主張を最終章と訳者あとがきから要約すると以下のようになるのだろうか。(あくまで私の解釈)

写真や映像は、考え、知り、調査するきっかけである。

この苦しみの責任は誰にあるのか。これは許されるのか、これは避けられなかったのか、疑問を呈する必要はないか。「観察、学習、傾注」。

たとえ距離を置いた地点から苦しみを眺める方法に対する非難があったとしても、他のよい方法はない。

だから一歩引いて考えることは何ら間違っていない。

ただし、それらは歪みを持っているので、踏まえたうえで、現実を認識し、感受性を研いで認識を更新していく必要がある。なぜなら安易な同情は問題を見えにくくし、苦しむ他者をさらに苦しめるからだ。

巨大な悪や不正が苦しみを引き起こすメカニズムの中に自分もいる。そのことを写真は気づかせる。限界はあるが重要なツールだ。

 

***

 

ソンタグのような先人が、第二次世界大戦の記憶と、1945年以降に続いてきた戦争や虐殺を同時代の人として生き、言葉を残しておいてくれたことに感謝する。

それでもやはり彼女が想像もできないほどに、今起こっていることは、一個人の理解の域を超えている。

多くの映像がこの瞬間も生成され、複製され、流布されている。真偽や立場を知ることもできない。一人ひとりが発信する機器をもっている。

大量の傍観者がいる。傍観者がさらに個々人の解釈を加えて流布することで、またさらに多くの傍観者を作りだす。もっとリアルタイムで、もっと具体的な他者の苦しみに疑似的に触れることも、指先一つでどこででもできてしまう。巨大な悪や不正を見破るのはますます難しい。

歴史は「私たち」をつなげるもやいではなくなっている。目の前の一枚の写真でさえ共に見ることは難しい。

関心を向ければ向けるほど、遠のいてはいないか?と思う。

ただ、未来のどこかの地点で、今起こっていることが、誰かにとって「忘れたい、消したい記憶」になりかけたとき、自分が目撃者だったと証言することはできる。そのために今見ている。果たしてそういう言い訳は成立するだろうか。

 

この困惑について、現代のソンタグ的な立場で語る人はいるのだろうか。

 

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見る、知るが手放しで良いこととは言えないのは、こういう問題もあるから。ツイート一連は持っておいたほうがいいお守り。

越智さんが紹介している記事

www.huffingtonpost.jp

www.mhlw.go.jp

encount.press

 

「残虐な写真や映像、表現が、リアリティを持たせ戦争の抑止につながる」に疑問を持って展示方法を変えたり、新しく建設されたりした、印象的な3つのミュージアム

 

広島平和記念資料館

hpmmuseum.jp

 

ひめゆり平和祈念資料館

www.himeyuri.or.jp

 

Jüdisches Museum Berlin 

www.jmberlin.de

 

2001年の講演時にはまだオープンしていなかったNational Museum of African American History and Culture、ワシントンD.C.スミソニアン博物館の19番目の施設として開館した。

このミュージアムでは、ソンタグの指摘した内容は果たしてカバーされているのだろうか。

実際、アメリカ合衆国のどこにも、奴隷制の歴史博物館はーーアフリカにおける奴隷売買そのものに始まり、反奴隷制協同地下組織アンダーグラウンド・レイルロードのような特定の部分に限るのではなく、奴隷制の全貌を伝えるような博物館はーー存在しない。思うにこれは社会の安定にとって、活性化し創造するには危険すぎる記憶なのである。(p.86)

nmaahc.si.edu

 

奴隷制もだが、アメリカは先住民の抑圧と虐殺(殲滅?)の歴史も抱えている。消し去りたい記憶は学校教育の場に影響する。これらの扱いをどうしているのだろうか。

 

日本の話。

www.mbs.jp

 

*追記* 2022.6.25 

写真は誰が撮ったか、なんのために見せているか。

それがコントロールできるものでもある。利用して何かを達成しようとすることがある。

また、今は簡単に捏造写真や合成写真が作れてしまう。

写真や映像が人間に与える影響は大きい。心理的距離を置くことも必要。

そのことと、深刻な困窮状況にある人を無視することはイコールではない。

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年