ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

2022.4.28 ウクライナ・メモ

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻。

日に日に状況が変わっていき、具体的に生活に影響を及ぼすようになってきて、さまざまな思いや考えがどんどん湧いたり、入り乱れたり、自分を揺るがしてくるようになった。

1ヶ月が経った3月の終わりに、それらを自分の外に出さないとどうにもしんどいと感じるようになり、思いつくままに付箋に書き出してみたことがあった。

さらにその付箋をノートに見開きで貼り付けてみた。そこでようやく、自分にとって今回のことがなんなのかが、ようやく見えてきた。

それをしたからといって、もやもやがなくなったり、悲しみや怒りが軽減されることはないけれども、新しいニュースが入ってきたときの自分の構えのようなものができた。

この付箋を貼り付けたノートは、自分のためだけにそっとしまっておくつもりだった。

しかし今月は映画『ピアノ -ウクライナの尊厳をかけた闘い-』で鑑賞対話の会を開催することになったので、それに向けたファシリテーターとしての心構えも兼ねて、記事として一つ置いておくことにした。(2022.4.28)

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・どんな理由であれ人命を奪うことは許されない。

・歴史、芸術文化、国際交流、、長年こつこつと積み重ねてきたものが一瞬で壊滅した。語学を学んで、文化芸術を愛し、歴史を学ぶことは平和の祈りにつながると思っていたが、あっけなかった。終わりではないが、一旦絶望した。

・たまたまポーランド語を学ぶことになり、スラヴ文化圏を知る機会になっている。今回のこととは関係ない経緯からだったが、何がどう発展するか本当にわからないものだ。

・民間レベルでは何も対立していないところにも、戦争を起こすことで歪みが生じる。元からある構造を利用して憎悪を煽る力が働く。

・功名心、支配欲を止めるものはないのか。

・報道も画像も解説も、たくさん見せられても何もできないのでつらさだけが募る。技術が発達した今より、知らないでいた時代のほうがこういうときはよかったのではないかと思えてならない。このところ、国民が何も知らされていなかったし、知る手段もなかった「戦前」のことをよく思い出す。

・国家の戦争に、まったく関係ない遠い個人が「参加」させられていることの異常さ。何かを投稿することが即、参加につながる。

・映像を読めない、読みきれない。個人レベルではもう無理。でも簡単に触れることができてしまう。

・「映像の世紀」のその後は結局なんの世紀になっているのか。

・いいもん、わるもんの話だけじゃない。そんなシンプルな話じゃない。

・言葉の一部だけ切り取られると意図と違って拡散されることの怖さ。

・衝撃的な動画が流れやすい。

・数字が大きい方がインパクトを持ちやすい怖さ。

・日本の立場の揺らぎ。中立的、調整的立場を取れない情けなさ。

近現代史を学ぶ機会が圧倒的にない。歴史的知識がない。今目の前にあるものに関心を寄せるだけでなく、歴史的経緯と地政学的動機、構造的問題として捉える習慣が必要。とはいえ、資源、エネルギー、金融、国際法……膨大すぎて複雑すぎる。全部を毎日ウォッチするのは不可能。

・学んでなくても何も語れないわけではないが、語れることとしては、結局"NO WAR"しかなくなる。

・余力のあるときに少しずつ学ぶと、それはそれで理解が進む。

ソ連以前のロシア、ソ連、冷戦集結後のロシアの歴史を知るほど、それだけの蓄積に対してどう抗えるのか、わからなくなる。ついていけなさ。

・日本が関与してきたことは。北方領土など、安倍ープーチンでやっていたことは。

・日本の国防の話に転嫁されてくる怖さ。

・ロシアの専制のやばさ。SNS封じ。

・逆にあの手この手で国外の情報にアクセスしている人もいるらしい?

・オリンピックは全然平和の祭典になってない。北京冬季五輪の空疎さ。むしろ国対国を煽る仕掛け担っている。パワーゲームの道具。2021年の東京オリンピック以来、批判以外のことで見たり話題にすることを一切やめた。

・「ウクライナ側につく」という宣言にも躊躇がある。国家単位で言いたくない。

・新しい情報ひとつでイメージが転換し、簡単に意見を変える自分、他人。村上春樹の『沈黙』の風見鶏の例えを思い出す。

・「民主主義という言葉が固いので、言い換えた方ががいいのでは」という意見を聞いたときに、「それは絶対違うと思う」ともっと強く言いたかった。なんの場だったか忘れたが。わかりやすくとか、なじみやすくとか、優しそうというのは危険なときがある。

・「わかりやすく」は危険。「断言」「反復」「感染」→100分de名著『群衆心理』

・「何を信じたらいいのか?」という思いが湧いて、次の瞬間、確固として信じられる何かを求める自分、信じようとすることの危うさにどきりとする。

・ロイターでキーフ市内の定点カメラがネットで公開されていた。街は静かで、人が歩いているのが見えた。そういうものにこんな「遠く」からもアクセスできてしまう。

・キーフ、チョルノービリなど、実はロシア語だったのだと今回のことで知った。

・チョルノービリ原発がキーフからそう遠くないところにあったことは、10代の頃に読んだ清水玲子さんの漫画『月の子』で知っていた。あの頃に原発事故を取り入れた画期的な漫画だったと思う。

・日本の社会はどうなるのか。

・世界の中で、日本という国がどう見られているのか。

・こういう状況下になれば、人々が何に困窮するのか、想像がつく。これまでいろんな災害、戦争、人災が世界で起こるのをうっすらとではあるが見てきた。また、学べば学ぶほど、知れば知るほど、これらの回復に長い道のりが必要で、その想像がつくのがつらい。

・日本でのウクライナ避難民受け入れをいち早く申し出たことが意外。ではこれまでの避難民、難民、事情があって国籍のあるところに帰れない人への処遇は?日本の入管改革のきっかけになるのか?

・子の通う中学校では先生は全く話題にしないという。社会の先生でさえも。なんのために学校があるのだろうと思う。

・ひとつの「戦争」から無数の物語が大量に発生していくことの恐ろしさ。

チェチェン、シリア、アフガニスタンミャンマー、香港、新疆ウイグル自治区にはなぜ反応が薄かった?

・何も触れない人に対する軽蔑の気持ちが湧いてしまう。安全を考えて発言するかしないか決めている人もいるだろうし、安全な関係の中では話題にしている人もいるかもしれないが、あまりにも当たり前に今まで通りの日常が続いているように見えると、こんな気持ちが出てくる。そういう自分も嫌だ。差がありすぎるのがつらい。

・幸いなことに、最近得た交友関係で話題にでき、真剣に話せるのでありがたい。助かっている。「作品を観て感想を語り合う場」が自分を助けてくれている。あとは、すごく仲がいい人よりも、そんなによくは知らないし頻繁に連絡は取らない知り合い程度の人の方が突っ込んだ話ができる。何につけてもそうかも。

・専門家やジャーナリストが戦況分析などをしているのを見ると、状況がわかってありがたいと思う一方で、男社会が作った構造の中で起きたことを「嬉々として」(私の解釈です)語っている構図がアホらしく思える時がある。『三ギニー』でヴァージニア・ウルフが似たようなことを言っていた?未読。

・悲惨な映像による心身への影響、トラウマを持ってしまった人も多くいるはず。自分で自分の身を守るしかない。日本のメディアはその点は比較的規制が掛かっているのか?と思っていたが、今回の侵攻にかかわらず、一般市民が撮った暴力シーンなどが地上波で普通に流れていることなど考えると、それも少しずつ変化していきそうで怖い。

・TVをほとんど見ていなかったが、GWで実家に帰ったときにTVの報道を見て、これを一生懸命ずっと見ていたらとてもしんどくなると思った。(かといって慣れていくのも怖い)

・「そもそも今起こっている戦争というのは、国家間の権力闘争であって、一市民が何かできるわけではない」という誰かの投稿を見て、そうだとも思うし、そうではないとも思う。

SNSは人を当事者にする機会を提供したかに見えて、文脈を寸断して、刹那的な消費者や傍観者にする力のほうを強めている。個々のユーザの使い方の問題を超えて、全体として。「いいね」じゃねーんだよ!と思ってしまうこの感じ、ストレスがたまる。

SNS大喜利状態になるので、最近距離を起きたい。しかし情報を得る手段になっている面があり、難しい。よい使い方を模索したい。

・心身の健康を保つための術をできるだけたくさん持つこと。

・どこにいるかで人生が全く変わってしまうという冷酷な事実。

・作品を通じて知るのは一つの手段だが、それも断片にすぎない。いろんな資料に当たれるとよいが膨大。

・自分の職能からできることは何か。学びのシェア、対話の場をつくり、話す、聞く、知る、交流するきっかけをつくる。それが救いになるかどうか、というぐらいしかない。

・意見の違いは見ている世界の違いというだけだか、ギョッとするものを見たときに疲れる。

・他の社会課題への関心を放り出すわけにもいかない。

・前のめりは危険。流されるのは怖い。

・「各国の思惑」の話が一番嫌い。近、現代史が嫌になるのはここ。