映画『距ててて』を観た記録。
今年2月、主演、脚本な豊島晴香さんにインタビューをしていただいたご縁で観てきた。
先に見た友達から「あんまりなにも考えずにただぼーっと味わえばいい」と言われていたので、気楽に観た。でも癖でメモは取りながら。
短編・連作・劇映画。
ポスタービジュアルやトレイラーから、『春原さんのうた』みたいな感じかなと想像していたけれど、全然違った。
日常と非日常、現実と非現実との間のエアポケットのような、非日常が日常に重なるような食い込むような。ちょっと間違うとショボくなったり、シラけたりしそうなところ、ギリッギリの可笑しさと不可思議さを攻めていて、よかった。
距離の近い人間同士に起こりがちな境界線の揺らぎや、遠慮と本音の漏れ具合、距離感、関係性を派手ではないのにハッとさせるやり方で描いている。登場人物から自分の周りの実在の人を思い出すこともしばしばだった。
思い出した関係として一番大きかったのは「フーちゃん」。
私が大学生のときの友だちでフーちゃんという人がいて、話し方も着ているものも振る舞いも雰囲気も、映画に出てくるフーちゃんのような、本当にああいう感じの人だった。正確に言うと、わたしは別の名前で呼んでいて、その人は家族からフーちゃんと呼ばれていると言っていた。そこもかなり合致している。お互いの下宿先に入り浸って漫画の話したな〜。もう20年くらい会っていないけれど、映画の中では元気そうでよかった。ナンノコッチャ。
アコとサンの、境界踏みそうで踏まない、踏んだ、踏み越えたみたいな関係性も身に覚えがある。友達やきょうだいとああいう感じになる。近すぎるから言いすぎちゃう感じ、でもそれが人生のブレークスルーになることもあったり。
一緒に住んでるアコより、私たち観客のほうがサンの別の顔を知っているというのもおもしろい。作品を観るってそういうことなんだけども、あらためて考えてみるとおもしろい。作品を通して日常を俯瞰して見ることで、いろいろとインスピレーションが湧いた。
自分で広げた妄想話や、思い出したエピソードを誰かに聴いてもらいたくなる作品。そして、たぷん他の人は全然違うところに注目したり、思い出したりしているはず。
最近ギリギリ歯噛みするようなドキュメンタリーを観ることが多かったので、なんだかホッとした。楽しかった。
レイトショーがぴったりの作品だったけれど、お誘いがなければたぶん行かなかったな。最近夜はお休みモードで、夜に出かけることがほぼなくなった。かなりドキドキしながらの行き帰りだった。
それで思い出したのは、90年代のミニシアターブームのときにこういう小さな映画(表現が適切でないが、便宜的に)を良く観ていたこと。あの頃の映画は、当時の若かった私が観ても、気分だけの危うさや、何が言いたいねんと言う突っ込みどころが多かった気がする。
『距ててて』は、作り手の若さや完成後に観ている場所や時間帯などは似ているけれど、映画の作法や技術の前提が「当時の人」とは全然違う感じがする。一定の成熟した状態で作っているという感じ。どちらに対してもなんだか偉そうだけれど、すいません、でも一観客としての正直な実感かな。
世代が違うし、時代も違う。それは、吸収した文化やテクノロジーの常識が全然違うということなんだなとあらためて感じる。
映画『距ててて』のパンフレットは作られていない。
その代わりに監督、脚本などのメンバーで作るZINEの第1号の特集が「距たり」となっている。
撮影日記や、映画にまつわること、派生したことなどがテキスト、漫画、写真などで表されている。
作ること、表現することの好きな人たちなのかなと想像する。
映画をより理解してもらおうというのでもなく、映画の世界観をより拡張しようというのでもなく。
気張った感じがなくて、いいですね、こういうの。
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