ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』『夜と霧』鑑賞記録

早稲田松竹で『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』『夜と霧』を観た記録。

セルゲイ・ロズニツァ監督の群衆三部作に加え、アラン・レネ監督の『夜と霧』の特別上映がセットになっている。

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2020年11月にイメージフォーラムで公開されていて話題になっていたが、タイミングが合わず観ることができなかった。早稲田松竹で再上映してもらってほんとうによかった。

観た順は、1日目『国葬』『粛清裁判』、2日目『夜と霧』『アウステルリッツ』。


国葬』のチケット販売の列が途切れず、上映開始が2 ,3分押すほどの人気ぶり。モノクロの淡々としたドキュメンタリーなのに。「スターリン」というワードに反応している年配の方がいらっしゃるのだろうか。

いつも思うが、早稲田松竹の客層は読めない。ああ、やっぱこういう人が観るよね!という勘が当たらない。毎日現場にいてお客さんと話している劇場の人だとピンとくるんだろうか。

 

この3作品はドキュメンタリー映画の中でも、記録映像を再構成して作るアーカイヴァル映画と呼ばれている。素材はモノクロなので、制作も何十年も前のようについ錯覚してしまうが、制作年は2016〜2019とごく最近。『アウステルリッツ』もモノクロだが撮影自体も近年。

旧ソ連はどのような時代だったのか、何を経て今のロシアになってきたのかを知りたいと思って観た。

また「群衆」というテーマについては、仕事柄、あらためて考える必要があると思っていた。例えば一対一の関係ではバランスが取れていた関係が、3人以上の集団になるとパワーバランスに偏りが出て、不均衡から暴力につながることがある。集団化、群衆化したときの暴力性には気をつけねばと常々思っている。「群衆」をテーマにした作品で、「群衆」の姿をじっくりと観察することで、また考えが進むことを期待した。

早稲田松竹の特集ページにも書かれているが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に関わり、ロズニツァの映画人としての立場が批判されたというタイミングでもあった。

 

以下は鑑賞メモ。※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

国葬(2019年)

・淡々としていて眠くなるかなと覚悟したが、まったくそんなことはなかった。ただ記録されたものが流れているわけではなく、「群衆」というテーマに沿って、意図的に編集されている。とにかく量。量が伝えてくるものの凄まじさを感じる。

スターリンが1953年当時のソ連でどのような存在だったのか。人々が"同志スターリン"の死を悲しむ姿、打ちひしがれる姿が、これでもか、これでもかと映し出される。

・大量の花、一様にデザインされた花輪。3月上旬、あの寒い地域にあってあれだけの花を栽培できるものだろうか。温室栽培なのか、南のほうから運んでくるのだろうか。花輪以外にも鉢植えをレーニン像の下へ子どもが運んでいる姿もある。このフィルムに写っている当時子どもだった人たちは、今どうしているのだろう。共産党のシンボルカラーの赤と花輪の葉の緑を見ていると、まるで楽しいクリスマスのよう。

ソ連各地に撮影隊が出向き撮られたフィルム。たとえばコーカサス中央アジアの顔立ちや民族衣装。いや、衣装というかそれを日常の衣服として着ている。死因と死に至るまでの詳細な報告が村のスピーカーから流れる。病状や進行をじっと黙って聴く人たち。その人たちを素通りしていく人もいる。人々の吐く白い息、泣く姿、鳥の声。アゼルバイジャンの油田、ウラジオストクキルギスリトアニアウクライナリヴィウ、ドンバスの炭鉱。

・街角で新聞を求め、その場で読みふける人たち。号外のようだが購入しなくてはいけないらしい。それぞれに悲しみを堪えているように見える。会話もない。新聞の見出し「ソビエトの人々は働き続けなければ」。大通りが信じられないぐらいの広さ。車が20台ぐらい並びそう。

ソ連と関係のある社会主義国の政府の要人、または共産党関係者らが専用機で次々と降りてくる。寒いからみんな帽子をかぶっている。チェコポーランドフィンランド、モンゴル、中国、ブルガリアルーマニアハンガリー、ドイツ(旧東)……。

・「天才的頭脳」「国民のために尽くしてきた偉大な英雄」等、語られている言葉も初めて聞くと衝撃。工場労働者が手を止めて集まる。「ヨシフは私たちソビエトの家族でもっとも愛しい人」女性のスピーチに泣きだす女性たち、悲痛、鎮痛な面持ち。様々な場よで追悼のスピーチが行われる。そして「堅く団結せよ」と呼びかける。

労働組合会館の柱の間に設置されたレーニンの遺体を見るために(祈るとか別れを惜しむというより見にきたという感じがする)おびただしい数の人々が列を成す。これは自発的な行動なのだろうか。

・本編最後に流れるテキストでは、2700万人以上の粛清、1500万人の餓死とある。あれだけの人びとがスターリンの影響下で亡くなっている中で、群衆の中にもまさか知らない、無関係だという人はいないのではないか。この中にも被害者の家族や友人、あるいは自分がそうなりかけたという人もいるのでは。そういう人は遺体を見に来たり、葬儀に参列したりはしないのだろうか。あるいは、被害者という意識ではなく、悪いのは逸脱行為を働いたほうという認識になっている可能性もあるのか。あるいは自分の身の安全のために表向きは他の人と同じように振る舞いながら、心中はさまざまなことを考えているのか。そうかどうかもわからないほどに、あとからあとから映る、顔顔顔……。

・なんとか一人ひとりが個別の人間として見ようとする、名前のある個別の人間だと任指揮しなければという義務感のようなものが立ち上がってくる。実際に顔立ちも背格好も違う、性別も年齢も、社会階層も、子どもを連れていたり、階段を登っていてよろけそうになったり、倒れそうなほど泣いている人もいる。頭巾、スカーフ、帽子、毛皮、首回りが分厚いコート。ただ無表情な人が多い。感情が読み取れない。呆然としているのかもしれないが、わからなくて怖い。ものすごく悲しそうな表情を浮かべる男性がいて、少しほっとする。

・どんどんどんどん人が入ってくる。たくさんの部屋を通り抜けて、執拗に映される人を見ていると、同じ行動をし、同じように振る舞うこと、それ自体が恐ろしいと感じる。個別化が難しいほどの数の人が集まると、「塊でとらえないとこちらの身が持たない」という気分になってくる。列や波や群と表現したりする。この感覚はよく知っている。だんだん何を見ているのかわからなくなる。もういいよ、もう勘弁してくださいという気分になってくる。夜になっても途切れない列、持ち込まれ続ける花輪。

・ほとんど誰も祈らない。見て通っていくだけ。見せ物のようになっているスターリンの遺体。上野公園のパンダの前の行列を思い出す。合唱隊が歌い、感傷的な音楽が流れる。政府高官たちも次々にやってくる。家族もいる。聖職者もいる。この中にもたくさんの思惑があるのだろう。覇権争いがあるのだろう。スケッチする人、水彩で描く人、彫像を作る人は政府の指示で行っているのだろう。

・出棺。レーニン廟の前の追悼集会。何万人もの人々が集う。国民がここまで参加する、させられることの異常さ。人の死を悼むというこの場の感情は本物だということはよくわかる。ただ、一人の人間をここまで神聖視、神格化することがただただ怖い。個人崇拝の権化、「御真影」のようなものが運ばれる。スターリン以外の人の数の多さを見続けているので怖い。こんな環境で自分の軸を持つのは困難だと感じる。情報もない、知りようがない、一定の価値観で染まっている。それ以外を知らないと求めようがない。棺の重さによろける姿。くしゃみをする他国の要人、砲音が鳴り慌てて脱帽する工員。やっている方も、やらされている方も生身の人間なのだと、フィルムが言う。

スターリンだけが悪だったのではなく、スターリンを英雄にするフィクションを支えた無数の群衆がいた。

・国家への信頼と国民の団結を呼びかける中に、「ソビエト国家の敵に対して警戒を強めなくてはならない」という言葉が入る。外側の敵に対する強い怖れ、憎しみ。これが今のロシアにもつながっているのだろうか。・ちなみに早稲田松竹は今年開館70周年。ということは、1952年。スターリンが亡くなる1年前だ。

 

 

『粛清裁判』(2018年)

 ・壮大な葬式の後の『粛清裁判』を観るという流れ。時代的には遡っている。あれだけ悲しまれて送り出されたスターリンが、実際にやっていたことは粛清。しかもでっちあげの裁判で銃殺刑を言い渡し、その後恩赦を出すという一連の茶番劇。技師団体同盟「産業党」が反革命組織、破壊分子と見做され、一人ひとりの罪状を明らかにし、裁く場という設え。

・ここまでした人間があのように悼まれる。しかも『国葬』でスターリンの遺体が置かれていた「柱の間」が、まさにこの裁判が行われている。くらくらする。ドキュメンタリーとは思えないよくできた設定、できすぎている!

・ロシアがこういう史実を持った国であると知ることは、今を読み解く上でも重要だと感じた。今だけ見ていても「なぜそんな必要があるのか?」というところで止まってしまう。知らずに平和を願うことはもちろん可能ではあるが。

・英題は"THE TRIAL"。「裁判」と「試み」の両方の意味を掛けているのかもしれない。こういうでっち上げ裁判が成立するのかどうかやってみているという意味合いに取れなくもない。

・ベルが鳴り、駆け込んでくる傍聴人。2階席もあり超満員。見ようとして腰を浮かせる人々。公開裁判。しかし裁判というよりお芝居を観に来ているような雰囲気。豪華なシャンデリアもその演出を手伝う。実際これは茶番劇なのだからその感覚は当たっている。人々は何を見に来ているのだろうか。何を見たがっているのだろうか。

・ライトを向けられ、眩しそうにする群衆の姿が映るシーンが何度か挿入される。これが意味するもの。ライトを向けているのは、今見ている私であるような錯覚。ライトを向けられて眩しそうにしているのもまた私であるような錯覚。

・合間に挿入されるデモの映像。「ボリシェビキに死を!破壊分子に死を!」「プロレタリア革命の敵」「打倒ポアンカレ、銃殺を要求する、国家に対する裏切り」等々シュプレヒコールを上げながら、でっちあげ裁判にのって死刑を求める人々。のせられていることに気付いていない。いや、気付いていたとしても、鬱憤を晴らすために、攻撃できる何かを求めている集団、それが群衆なのかもしれない。国家によって犬笛が吹かれる。仮想的を作って攻撃する。恐ろしい。同じデモの場面は、それを印象付けるように何度か挿入される。権利を求めているのではなく、不満の吐口にしている。粛清といえば、知識層が言論の自由を掲げた「世迷言」で人々を扇動するから行われたのだと思っていたが、それ以外の理由、特権階級にあった技術者たちをスケイプゴートにして大衆をコントロールしやすくする目的でも行われていたと知った。

・被告人たちの供述と「裁判官」とのやりとりの中で、西側諸国の脅威が何度も何度も語られる。その怖れの強さはただ事ではない。「干渉」という言葉も何度も出てくる。「干渉の主目的はソビエト政権打倒」「外国の武力侵攻」「資本主義の復活」それなりに歳を重ねた人たちが、ここまでのでっち上げ裁判を本気で作り出し、遂行している。他の国、外国、違う民族、違う人種、違う社会体制はすべて自分たちの安定を脅かす存在で、今がうまくいっていると思いたい力。ロシアは2022年、またこれに近い状況になっているのだろうか。

・紙を見ながら読み上げているが、だんだんと演技にも熱がこもってくる。台本も個別の立場や人格を踏まえてよく練られているように感じられる。作られたシナリオと思えないほど生き生きしている。陰謀論も強く思い込めば本当にそうであるかのように表現できるということを思い出す。「被告」の供述の中には、アドリブで話して、その芝居の成立を助けているように感じる振る舞いもある。

・誘導質問されて、新しく事実を作らされる。闊達なやり取りに見える。それを群衆は真実と思い込む。その他、淡々と記録している係の女性たちや、警備係などの姿も映る。かれらにはおそらく「加担している」という意識は薄いだろう。みんなが共犯で虚偽を作り上げる。片方は政治的な意図で、片方は自分の安全を確保するため。

・別の場所を写すときに切り替えしではなくカメラ自体が振られるのも特徴だ。少ないカメラ台数で撮影されていたのだろうか。他の撮影カメラも写り込んではいる。

・何で読んだか忘れたが、「日本はお上主義。お上がちゃんとやっていないと文句を言うけれど、お上がすげ変わると言うことをきく」というフレーズを思い出した。まさに群衆だ。

・「被告全員を銃殺刑」と聞き、大喜びする群衆。拍手と笑顔。この時を待っていた!と言いたげな。怖い。「みんなが頑張っているのに足を引っ張ったり秩序を乱す奴は憎い、脅威になる」という発想が行き着く先はここになってしまうのかもしれない。いじめの発端は一見正しそうな理屈、同感してしまいそうになる情熱。「資本主義の復活論者に銃殺刑を」と熱に浮かされたように叫ぶ群衆たちは、おそらく資本主義が何なのかよくわかっていないのではないだろうか。

・最後に示される衝撃の事実。「群衆」を形成していた一人ひとりはスターリンの死後、それを知ってどうしただろうか。自分がデモに参加したり、傍聴席で拍手したことなど忘れて、今度は軽々と批判の言説にのったのではないかと想像してしまう。そしてそれは別にこの人たちに限ったことではなく、自分の人生にも思い当たることばかりであることに気づいて苦しくなる。

 

 

『夜と霧』アラン・レネ監督(1955年)

・なぜアラン・レネの『夜と霧』のタイアップ上映があるのかは、単に『アウステルリッツ』の「群衆」強制収容所」のモチーフに沿っただけでなく、その手法の対比や時代のズレも意図していたのではないか。『夜と霧』もドキュメンタリー記録映画だが、当時のニュースフィルムや写真などの映像に、1955年近辺当時の荒廃した収容所跡地のカラー映像をモンタージュしている。つまりこれは、1955年当時と1955年から見た過去(『夜と霧』)、それらを見る2010年代の眼差し(『アウステルリッツ』)さらに2022年の今(2022年3月末から4月初旬)から全てを見渡すことによって、何が浮き彫りになるのかを問う。そういう意欲的な企画上映だった。

・とても32分とは思えない長い時間。人間の残虐さをひたすら突きつけられる。私自身はこれまでも様々な資料で見てきたものが多いが、それでも直視できない映像もあった。それでも観てよかったと思う。35mmフィルム上映だったのもよかった。公開当時の人々の観たものに近づけるように思えた。

・流麗な音楽。詩のようなナレーション。現代に慣れ親しんだドキュメンタリー映画のつくりではない。カラー映像で映される荒野、鉄条網、監視塔。1955年の頃には、アウシュヴィッツがあんなに廃虚になっていたとは知らなかった。今や「ダークツーリズム」の筆頭にあげられるような一大観光地と化しているアウシュヴィッツだが、誰も近づこうとしない、近づけない時期があったということ。それを知れただけでもこの映画を観た価値があった。

・1935年の映像。機械と化した人間。喜ぶ群衆。建設に業者が群がる。このことを忘れてはいけない。特需と喜んだ人間がいた。「労働力」を使った人間もいた。

・連行、検挙された人々の中には手違いでリストに載ってしまった人もいる。ふつうの市民だった人たちの絶望的な表情。締められていく貨車の扉。私はこの人たちがどうなるか知って観ている。そしてこの記録映像が誰の手で作られているのか、想像しながら観ている。それは30分のあいだずっと続く。直接的な暴力の跡よりも、このことが、『夜と霧』を観る中で今もっともしんどいことかもしれない。

・映像と写真にキャプションをつけるように映画は進んでいく。「ホロコースト」や「アウシュヴィッツ」という単語で目にしたり、耳で聞いたときには立ち上がってこないような種類の物事の細部が提示されていく。記録だけを使ってここまでできるのかという感想が湧くやいなや、「映像で表現できるのか、この恐怖を」というナレーションが釘を刺してくる。

・「これが人間か(Se questo e un uomo)」」というプリーモ・レーヴィの著作のタイトルを思い出す。およそ思いつくかぎりの人間の蛮行が次々に展開されていく。あまりにも苦しくなるのか、時折セットや劇映画のように見えてくる瞬間もあり、我ながら驚く。しかしこの感覚は非常に重要だった。このあと観る『アウステルリッツ』に生かされた感覚。

・連合軍が到着し、解放のときが来る。SSが出てくる。(女性のSSがいたのか!)場所からの解放はあるが、元囚人たちの真の解放は果たされているのだろうか?という問いがナレーションで投げかけられる。さらに、「我々の誰が次の戦争を防げるのだろうか」との声。今は虚しく響く。

自国の歴史を知る権利を剥奪されたか、あるいは操作されたことで、これはある国の特別な話と自分に言い聞かせている人もいるのだろうか。

 

 

アウステルリッツ(2016年)

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・タイトルの『アウステルリッツ』は地名ではなく、W・G・ゼーバルトが2001年に出版した小説『アウステルリッツ』の主人公の名前。このひねりについてはパンフレットを読んだがまだよく理解できていない。

・現代のザクセンハウゼン強制収容所を訪れる人々を定点カメラで場所を変えながらただただ映している映画。何も知らなければ公園に家族連れが遊びに来ているのかなと思いそうな冒頭。

・全編にわたり、意識的に音を取り込んで聞かせてくる。葉ずれの音、鳥の声、ごうごういう風の音、携帯電話の着信音、教会の鐘の音、遠くで行われている工事の音、飛行機のエンジン音、窓が開閉する音、子どもたちが走り回る音、虫の羽音。

・長細いバータイプのオーディオガイドを耳に当てて聴いている人たちの姿が映り、ようやくここが史跡のようなものであることがわかる。

・来場者の数がとにかく多い。「1945年……」の声がする。これもおそらく意図的に入れられた音。ゲートの "ARBEIT MACHT FREI" の前で自分たちを入れて撮影する人たち。つまり「記念撮影」。ここでようやく本当に何の場所なのかがわかる。とにかく人が多い。人人人、後から後からやってくる。パッと見だが白人が多いように見える。中南米や中東の人もいるのかもしれないがよくわからない。目が慣れてくるとアジア系の人も見つかる。アフリカ系の人はほとんど見ない。

・場所を変えて、来場者が所内を見て回る様子がひたすら映る。一つの場所に5分〜10分留まって、かれらの様子を観察する。見ているうちにだんだんと「自分自身が強制収容所になった」ような気がしてくる。この人たちは何をしに来たんだろうという眼差しで見始める。

スペイン語ガイドの声。英語ガイドの声。立ち聞きしている感覚。ときどきこのガイドの声が入ることで、映画の観客も、なるほど、ツアーではそういう話を聞くのか。ここでなければ聞けない新しく知ることに耳を側立てている。しかしツアー客の反応は薄い。メモを取る人は誰もいない。一人だけ頷いている女性を見た(全編通してその人しか確認できなかった)。無表情で、聞いているのかどうかもわからない。ショックを受けているようにも見えるし、面倒くさそうにも見える。だだっ広い場所をひたすら歩き続けるので疲れているのかもしれない。暑いのかもしれない。ガイドが「質問ある人は?なし?それも一つの答えね」と言う場面もある。

・いろんな見た目や特徴の人たちがいるが、例によって次第に群衆化してくる。「ダークツーリズムに大挙して押し寄せる人たち」に見えてくる。連れだって来ている人たちは何を話しているのだろう。たまにこちらと目が合う人もいて、どきっとする。

・タバコを吸ったり、ペットボトルを頭に載せておどけたり、レプリカの絞首台でつるされたポーズをとって写真に収まったり、カップルが微笑みながら軽いキスをしたり。「不謹慎」という言葉が浮かぶ。

・タイル地の台のところでポーズをとって撮影する人たちにはさすがにのけぞった。真ん中に排水口がついているところを見ると、おそらく解剖か何かに使われたのではないか。あとで調べたら病理研究室とのことだった。それでも現場にいればおおよそ検討がつくこれらの施設にあって、楽しく撮影できるのはなぜなのか、このあたりから深く考えはじめる。

・見学者というより観光客。20代でドイツのダッハウ強制収容所に見学に行ったことがあるので、そのときの記憶を重ねながら観ると、とてもそんなにはしゃいだ気持ちにはなれなかった。もしもあのとき誰かと見に行っていても、ほとんど言葉を交わせなかったと思う。自分が何に苛立っているのだろうか。そこにふさわしい振る舞いがあると言いたいのか。でも、自分は別の場でそうしなかったかというと自信がない。あのように振る舞っていたと思う。「不謹慎に」写真を撮ったり、「キャー」と嬌声をあげたことはなかったか。

・再び門に戻ってくる。最後の最後で、よりによって自撮り棒で記念撮影をする。距離を変えて3回。撮りましょうか?と声を掛け合うグループ。白い鳩と地球が描かれた揃いのTシャツを着て楽しげに笑い合う若者たち。

・カメラに写り込んでしまった人はこれを見たらどう思うだろうか。撮ることの暴力性、あばくという行為であることは百も承知で撮られている。残酷な作品ではある。

・ドイツにルーツのある人はこういう作品は撮れないだろうと思った。強制収容所を舞台にこんなに淡々とした、突き放した、事実を伝えていないような作品は撮りにくいだろう。もっと何か残虐的な面を描いたり、観る側にも向き合いと反省を促すようなことを描くのではないか。

・『アウステルリッツ』を観てとても複雑な気持ちになるのは、これは本当に歴史を知ることや、歴史を学び、今を省みる機会になりえるのか、疑問がわくからなのだと思う。開かれた施設に知る機会が置かれ続ける。そのことは重要だ。場所や物が語ることは大きい。ただ、何かが引っかかる。目の前にあっても真剣に受け取らないで済ませられることが。遺すこと、語り継ぐことの意味、そこから何を、なんのために学ぶのかが揺らいでいるように感じて、焦る、怖い。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

www.sachsenhausen-sbg.de


ダッハウ強制収容所

www.kz-gedenkstaette-dachau.de

 

cinefil.tokyo

 

早稲田松竹のロビーのチラシ棚にはロズニツァの2018年の作品『ドンバス』が置かれていた。

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5月にこの映画が公開される頃には世界はどうなっているのだろうか、私は何をしているのだろうかと思っていたが、現在2022年6月、状況はほとんど変わっていないように見える。

 

サニーフィルムチャネルで配信中の池田嘉郎さんの解説でさらに理解が深まる。予習、復習にぜひ。

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文学者、研究家、批評家によるレビューや論考も満載で、パンフレットというより本。早稲田松竹の上映時には売り切れていたので、イメージ・フォーラムへ買いに行った。

 

群衆といえば。『群衆心理』

www.nhk.or.jp

 

 

収録作の『沈黙』。何度も読書会を試みたが、まだ実施できていない。重いテーマ。

 

本「ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか」読書記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

本『他者の苦痛へのまなざし』読書記録

hitotobi.hatenadiary.jp

 

戦争記憶の継承について最近よく考えている。

 

 

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鑑賞対話の場づくり相談、ファシリテーション、ワークショップ企画等のお仕事を承っております。


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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年