ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『教育と愛国』鑑賞記録

映画『教育と愛国』を観た記録。

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私は当事者(義務教育対象年齢の子の保護者)でもあり、日々の実感があるだけに、観たら胃が痛くなりそうで、最初は観るかどうか迷った。いろいろ考えてみて、自分なりに調べ、学んだ土台もあることと、ここでまた新たな要素、物の見方がほしいと思ったので、最終的に観ることにした。

3週目の平日。映画の日だったこともあって、席は4/5ほど埋まっていて盛況だった。

私が観ていた回は、思わず隣の人としゃべっちゃっている人がいた。最近あまり映画館に縁のない人が、わざわざこの映画のために来ているのかもしれず、それはそれですごいことかもと思ったのと(勝手な解釈)、ヤジではなく驚きのつぶやきだったので、苛立たなかった。むしろ分かる。そこ、ざわつきますよね。

 

観てみて、やはり胃が痛んだ。

「誰のための教育、何のための教育」と問いかけても、返ってくる答えはわかっている。インタビュー中の監督のように、「ハァー……」となるようなことが繰り返されてきたから。個人的に抗っても通じない強大な壁を感じているから、厳しい現実を突きつけられているように感じた。

教科書検定制度、道徳の教科化、教育勅語従軍慰安婦問題、つくる会、元徴用工、領土問題(北方領土尖閣諸島竹島)、辺野古基地問題森友学園問題、加計学園問題、学術会議任命拒否問題、表現の不自由展、歴史修正主義憲法改正……もっとあったと思う。

 

教育や教科書に直接関心が持てなくても、これらの用語を聞いたことがあったら、つながりをもって提示される映画なので、理解の助けになると思う。これで全ての説明がなされるわけではないが、いったんつかめるようになるというか、取っ手が付けられたというか。

 

国民のための国家ではなく、国家のための国民という前提で回るロジック。ここが根本的に違っている。そもそも国家と個人とを同一視すること自体に驚くのではあるが。

ただこういった傾きは、自分の中にもある。「〜を代表して」などという発言をするときに顔を覗かせることは否めない。個人が国を代表する、「〇〇旗を背負う」オリンピックも最たるものではないか。個人と国の関係も再考する必要はないか。

 

生きていれば誰しも誇れることばかりではない。それは国も同じではないのか。歴史に向き合うことは振り返ることであり、自虐ではない。

外国人記者クラブでの斉加さんのトークの中で、「どの国にも暗い歴史がある」というくだりにハッとした。ほんとうにそうだ。どの国にも暗い歴史があり、その影を引きずって今がある。どの国も格闘している。

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そして今や国の単位を超えて協力して考えていかなくてはならないことがたくさんある。現代の社会課題は一つの国だけで引き受けられるものではなくなっている。国と国とが政治、経済、文化、民間交流と様々な網目で関係を持っている。何より一つの地球の上にあって、影響を与えたり、受けたりすることは免れない。

受ける被害だけでなく、起こす加害もある。加害の中には性暴力もあれば、人種差別もある。それが戦争というものの姿だ。その事実を受け止め、二度と再び起こさないようにするにはどうすればよいのかを考えることは、繰り返しになるが、自虐ではないと私は思う。

 

本編で最も驚愕したのが、ある分野での権威と名誉と実績を重ねてきた人たちの、「歴史から学ぶ必要はない」「中身は読んでいない」「授業は見ていないが」とあっけらかんと語る姿だった。啞然とする。編集された映像とはいえ、よほどの善意を持って解釈したとしても、あの言葉や態度は隠せないものがある。しかも実証主義の権威と言われてきた人が、「(あなたの言う)"ちゃんとした日本人"とは?」に対してあの答えというのには、のけぞった。学府を構成する人間が反知性主義に傾くということがあるのか……あるんだろうな。

 

その道の先駆者と呼ばれ、学問の一分野を確立した人が、ある時期からセットされた時限装置が作動したかのように、突然偏りある言動を始めたという別の例を思い出した。つまりこれはある個人の特有なことではなく、避けがたい人間の性質なのだろうか。何がかれらをそうさせるのだろうか。

仮説だが、「また同じことが起こってもいいと思っている、次はもっと"うまく"やれると思っている、多少の犠牲は仕方がないと思っている」ということなのだろうか。

わからない……。私が知らないことがまだたくさんある気がする。

 

映画は、耳目を集めるために、ややセンセーショナルに描かれている部分もあると思う。問題提起は重要だが、不安になりすぎることなく、批判的に見る姿勢も持っていたい。

その流れで、この映画を観た人におすすめしたいのは、教科書の実物を自分で見てみることだ。

教科書を使っている子が身近にいない人も、各自治体の教育委員会では市民の閲覧が可能。もしかしたら都市部に限られるかもしれないが、教科書を小売している専門店もある。

また、東京都江東区には教科書図書館があり、戦後から今までの検定教科書、教師用指導書など、研究者や学生など調査・研究のための利用が可能。外国の教科書も所蔵している。https://textbook-rc.or.jp/library_jp/

 

映画で取り上げられていた箇所はもちろん、その他のページも見るとよいし、歴史の教科書だけではなく、道徳や国語の教科書も見られる。今は学校でこんなことを教わっているのか(全部扱わないまでも、あるいは先生により使い方は様々であるにせよ)と、アップデートされると思う。意外と自分の人生経験の範囲内で考えていることに気づくかもしれない。

実際に見てみたら、映画の印象の通りかもしれないし、少し変わるかもしれない。今回は教科書が映画のど真ん中に取り上げられているので、「ほんとうかな?」「実際はどうなんだろう?」と自分の目で確認することには大きな意味があると思う。


ちなみに私は教科書販売店に行って、学び舎の『ともに学ぶ 人間の歴史〈中学社会 歴史的分野〉を購入してみた。個人でできることは小さいが、学びと教育と学校と教科書と歴史のことは引き続き学んでいこうと思う。時代や社会の影響を受けて生きざるを得ないちっぽけな人間だが、そのときそのときでなるべく自分の頭で考えたことで決断していきたいから。

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パンフレットはシナリオ採録や用語解説がついているのでありがたい。考え事をしているうちに飛んでしまった会話があったので、あとでおさらいができる。

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▼関連資料

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こちらは見逃し期間なので会員限定、有料になってます。

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『何が記者を殺すのか』著者に聞く!

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近現代史研究者の辻田真佐憲氏による伊藤隆氏へのインタビュー。ここでもやはり噛み合っていないように読める。

bunshun.jp

 

科研費裁判についての雨宮処凛氏の記事。

maga9.jp

 

『主戦場』とセットで観ると尚良いと思う。「慰安婦」問題と教科書、政治の関係についてまた別の角度、別の表現で確認できる。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

映画の軸からはズレるかもしれないが、学校教育のことでいえば、私が保護者としてずっと感じてきたのは、学校の思想に加担させられているという感覚だ。
子どもを「指導」や「評価」の対象と眼差すことを誘導される。本編冒頭の道徳の授業で見られた、「いい」か「わるい」かの2極で評価させられる。
そのため学校から発信されるものには、「〜させてください」という言い方、書き方が多い。まるで保護者が指導されているような気分になる。家庭という私的領域にまで学校が侵食していると捉えて抗えればよいが、真面目な保護者ほどちゃんとしなければとがんばるし、だいたい人を思い通りにさせることはできないので、そのしんどさのしわ寄せは最終的には子に向いていくのはではないかと、いつも私は懸念している。

また、抗うことで被る不利益を考えて、何も言わない、しないことのほうが多い。
当事者であっても、気づいていても、変えることの困難さをいつも思う。
そして、当事者(子ども、保護者、教員、教育関係者)以外は介入しづらい隔離された領域にもなっているので、社会問題化しづらい。
ブラック校則や今回のような映画をきっかけに、知る、考える、政治に注目する人が増えてほしい。
 
以下は、東京都台東区在住の市民が、情報公開制度を使って台東区教育委員会から入手した区内中学校の校則、生活のきまりなどの文書を公開しているブログ記事だ。

note.com

これを初めてみたとき、本当につらい気持ちになった。なぜここまで禁止事項が多いのだろうか。なぜここまで画一的なのだろうか。こういう環境の中で過ごすことが、本当に人の自立につながるだろうか。
学びは誰のものか。教育はなんのためか。
今一度、この問いに向き合ったほうがいい。
 
*追記* 2022.6.21
こういうの、関係ありそう。2011年の記事。
 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年