ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

狂言《富士松》・能《関寺小町》@横浜能楽堂 鑑賞記録

横浜能楽堂の月替り特別公演「三老女」の最後の一曲《関寺小町》を観た記録。

yokohama-nohgakudou.org

能・狂言の名曲・大曲を堪能していただく特別公演。老女を描いた能のなかでも最奥の秘曲とされる「姨捨」「檜垣」「関寺小町」の三曲を連続して上演します。「三老女」と呼ばれるこれら三曲は、各流で重く扱われており、相応の芸域に達した者にしか演じられないとされています。
第3回は、百歳に及ぶ老いた小野小町が若かりし頃の華やかな生活をしのび、稚児の舞に興を覚えて舞を舞う「関寺小町」を観世銕之丞が演じます。本作は、「三老女」のなかでも最高の秘曲とされています。
狂言は、富士詣で太郎冠者が手に入れた富士松を賭けて、主人と冠者とが巧みに連歌の掛け合いをする「富士松」を、人間国宝野村萬の出演でお送りします。(横浜能楽堂HPより)

なんと気合いの入った企画公演!「三老女」は曲としても重要だし、すべての回が「能、狂言共に当代を代表する演者による至芸」(チラシより)でもあり、貴重な公演だった。ほんとうはすべての回を観てみたかったのだけれど、チケットはあっという間に売り切れになっていて、発売日、発売時刻に合わせて予約した三回目しか取れなかった。お客さんのほうも前のめり。こういう公演も久しぶりに出くわすので、うれしい。

能楽鑑賞百一番』金子直樹(淡交社, 2001年)によると、老女物は能の中でも特に重要なものとして扱われるという。卒塔婆小町鸚鵡小町姨捨檜垣関寺小町の五曲は脳の最高の秘曲で、その中でも最高位にあるのが関寺小町。

今回の三老女のうち姨捨と檜垣は霊が前世に思いを残してさまよう夢幻能だが、関寺小町は今生きている人を描く現在能であるところが違うと。現在能の場合は写実的になりすぎると「俗におちいる」ため、難曲とされているなど。

少し前までは公演されることが稀だったらしい。そのせいか、いつも観能前の予習でお世話になっている解説本、『能楽手帖』権藤芳一著(駸々堂, 1979年)の130曲の中には紹介されていない。

 

英語の解説が詳細でよかった。英語で説明されたほうが理解できるところがある。

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狂言富士松》 シテ(太郎冠者)野村 萬

いつも思うけれど、主従関係と年齢の違いがおもしろい。家来のほうの太郎冠者のほうがメインキャラクターなので、偉い人が演じている。けれど主のほうが太郎冠者役のシテより若い。同じ曲でも、主が実年齢も上のときと、主のほうが太郎冠者より実年齢が低いときで見え方が違う気がする。今回の場合は、連歌の付け合い対決なので、実力に年齢は関係ない!とばかりに対等性が生まれているのがおもしろかった。

歌の内容が分かればもっとおもしろいんだろうなー!台本か字幕配信があればなー!と思ったけれど、分からなくてもやり取りのテンポの良さから、お互いの「ぬぬ、おぬしやるな!?」という反応が伝わってくる。

笑いで終わるタイプの狂言ではないので、初見では尻切れトンボ感もあった。次に見るときは内容がわかっているのでもっと楽しめると思う。また出会えますように。狂言こそ本当に一期一会。

内容についてはこの方のブログが詳しい。

富士松 / 高野物狂 | 塾長の鑑賞記録

 

能《関寺小町》 シテ(小野小町観世銕之丞

大変よかった。もう胸いっぱい。

小野小町が都で華やかな生活をしてもてはやされていた時代はもう過ぎ去って、自分が老いたことを痛感して悲しむ」とか、「昔は戻らないことを知り、自分の衰えを感じて哀しみ、また一人庵へ帰っていく」というようなことがストーリーには書いてあったけど、私は全然違うふうに観ていた。

小野小町を敬愛する若い人たちが、彼女の人生の最後の時間に集った。自らの人生を語らせ、囚われから救い出し、自由な心で舞わせる。

小町にとってこれは、下の世代の人たちに自分の生き様と、最後の姿を見せる場になる。内面ではいろんな感情が浮かんでは消え、浮かんでは消えするけれど、後悔や怨恨などはもうない。念の強い登場人物特有の不気味さが全然感じられなかった。

ただ生命がそこにあって、舞うだけ。

皆が証人として立ち会い、見届けて冥土へ送り出す。
命を引き継いで、橋掛かりを歩く小町。

この世に思い残すことのないように皆が精一杯取り計らっているような。ワキ方の僧が手を添えて庵から出したり、後見が装束の裾を直しにくるのにさえもウルッときた。お囃子も地謡もみーんなみんな、やさしくてあったかいお能だった。

だから帰り道でストーリー確認して、「あれ?そうなの?」と混乱した。
もちろん自分の好きに見ればよいので、間違っているということはないけれど。

 

座り込んでしまったり、杖がないと歩けなかったりするけれど、身体が舞の型を覚えているというあの感じは、老いて情けない姿には決して見えない。型を忘れたり、身体が動かなかったりするけれど、でもまた思い出したりもするし、人間ってすごいんだなと思う。

100年のうちには知っている人はみんな先に亡くなってしまったし、長生きしてしまったという気持ちが強そう。それでも庵には短冊を吊るして、いつでも歌が読めるようにしている。それが生きる希望、心の支えになっている。

 

七夕の夜の星祭りという設定がなお一層沁みる。 かつては絶世の美女と言われ、深草少将との伝説も生まれるぐらいの存在だった小町。ピーク時は七夕のロマンチックな逸話もたくさん持っていそうな人が、今や「七夕か〜……(苦)」という気持ちになっている。

でも、そういう世間のつけたイメージも迷惑だったのかもしれない。勝手に持ち上げられ、勝手に落ちぶれたと言われたのかもしれない。そういう苦しみってあるのかも。そこから連れ出してくれる稚児と僧。 人間愛さえ感じる。老いや世代交代を感じ始めたお年頃にビシバシくる。 

西洋演劇みたいにあからさまにヨボヨボしたりせずに深みを出す。型も大事だし、演者自身の深みやよい感じの枯れた存在感が求められそう。ときに微笑むような表情を見せるのが印象的。寂しげな微笑み。感情の揺れがわずかな動きに現れていたり。演者さんがすごいのだろう。

子方さんもとてもよかった。あの閑寂を破ったときの、見所がハッとなる感じはよかった。黒々とした髪や肌の張り、いるだけで生命力を放っている子方と、消え入りそうな小町の命との対比も素晴らしかった。舞ってみせて、小町の内に再び生命の火をともした。いくつになっても、誰かがこうして迎えに来てくれたら、ありがたいよね。ああ、よかったねという気持ちになった。

観能仲間に聞いたところでは、

「子方が出る能は、歳回りといい、子方の力量といい、ほんとうに巡り合わせ。子方にちょうどいい子がいても、シテにちょうどいい人がいないとかもあるだろう」とのことだった。

今回の《関寺小町》はそれを観られただけでも貴重だし、よい演者で、そうか、私はほんとうにとてもラッキーだったのだなぁ。 

満席&折りたたみ椅子席も出ていて、お客さんにとってもとても大事な公演だったのだなとあらためて。もしかしたら、老いていく親、亡くなった親、老いていく自分自身などを重ねている人もいたのではないかな。

 

後見の谷本健吾さんのツイート。こんなに活躍されている能楽師さんをして「自分には一生縁が無いと思っていた曲」と言わしめる。関寺小町、やっぱりすごいのだな。

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『近江の能 中世を旅する』井上由理子著(サンライズ出版, 2019年)

こちらの本に、七夕は歌道など技芸上達を願う日なのだそう。
前々から考えていた、「近江にゆかりの能を優先的に観る」をやっていこうと思う。宣言。この本は2019年ごろ、ちょうどそういうことを考えていたときに購入してあった。ついに出番が来ましたよ。
さっそく来月、《三井寺》のチケットをとった。こちらも子方が出る曲。事前講座もあるそうで、楽しみです。

 

今たまたま瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーが公開中。寂聴さんはあまりお野菜食べずに、お肉がお好きだったそうで。関寺小町の枯れっぷりと勝手に比較してしまった。

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年