ひととび〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『水曜日の凱歌』読書記録

乃南アサ著『水曜日の凱歌』を読んだ記録

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www.shinchosha.co.jp

 

14歳の少女の感受性を通して見る、戦中〜戦後の日々。復興の陰で封殺された性暴力と搾取の構図、家族と社会の変化を、史実を引きながら描く物語。

生まれ育った東京の本所を焼け出され、点々としながら新橋で終戦を迎え、母が仕事を得た大森海岸へ。そこでは日本政府が占領アメリカ兵のための慰安所(RAA)を作り、女性を募り、売春をさせていた。母の変貌に気づき始めたころ、鈴子との関係も変化していく。さまざまな立場の人との出会いを通して知る、女にとって男とは、男にとって女とは、権力にとって女とは。自分にとって生きるとは。そしてあの戦争とは……。

・・・

 

個人的にRAA(特殊慰安施設協会)や戦後の買売春について調べていて、行き当たった。私が調べた範囲のことと合致していて、綿密なリサーチの積み重ねで書かれている小説だと感じる。昨年私が個人的に聞き取りをした方の話とも符号するところがある。

背景を知らなくても読めるが、以下のサイトで概要だけでも抑えてから読むと体験が違ったものになると思う。

(4)戦後日本の売春 ◆RAA(特殊慰安施設協会)―占領期の買売春(1945-46年)

ch-gender.jp

 

読後、印象に残るのは、鈴子の感受性の強さ。

東京の焼け野原を有様をよく伝えてくれる。写真や文字、ドキュメンタリーなどでしか触れたことのなかったその時代の空気や足下の感触を、一人称で内側から語ってくれる。ああ、そんなふうだったのだ、と思う。まるで今鈴子とそこに立っているかのようだ。

鈴子は、人間が発している「見たことのない冷たい目の光」や「嫌な感じ」に敏感だ。騙されてきた、騙していると思うから、見抜こうとする。生き延びるために身に付けた術なのかもしれない。

14歳の鈴子は、自分が性的な眼差しを向けられることに気づきはじめる。性的に粗雑に扱われる存在であるということを知る。大人たちは知らなくていいと言ってきたり、知っておいたほうが言ってきたりする。守るようで守らない。わかっているようでわかっていない。「負けたんだから」と飲み込まされそうになっている。

私の中の14歳が、「あんまりだ」と叫び続けている。

鈴子はやがて自分が持つ特権や、自分の内なる差別心とも向き合っていく。「ああはなりたくない」と思っていることについて罪悪感を持っている。母のように「自分が勝つためには人のことなどかまっていられない」と冷淡にはなれない。母が女性として自立を求めてきた思いも理解できるが、根源的な嫌悪感もある。親子関係の複雑さが見事に描かれている。

鈴子や母の周りにはいろんな女性が登場する。一人ひとりいろんな出自や経緯や立場があり、背負ってきた人生は様々だ。史実通り、RAAは性病の蔓延を理由に閉鎖され、行き場を失った女性たちは街娼として生き延びようとし、社会から激しい差別に遭っていく。そのことを、近くにいたけれど免れた女性の立場や、少しでも何かが違っていたらそうなり得たという立場から、自分たちが「見捨ててきた女たち」への懺悔の気持ちと共に描いている。

 

「そういう時代だったから」で片づけられないのは、このことがほとんど語られないまま、国家による重大な性犯罪だと取り扱われないまま、現代に至ることが、様々な社会課題の根っこになっているからだ。

端的に言えば、社会的に立場の弱い者を作り出すこと、とりわけ、女性や子どもを暴力の捌け口にすること。そしてしたことを認めないこと。加担した人が口をつぐむこと。

戦中の慰安所と戦後の慰安所、どちらも官製。こうして差別、偏見、蔑視、嫌悪は、「ちから」によって作り出された、ということが物語まるまる通して示される。「ちから」は恐怖や惨めさや恥や尊厳の蹂躪を餌に膨らんでいく。

誰でもこの差別構造に乗っかって、人を犠牲にしてのし上がっていく可能性がある。(いや、既にしている)どこまで生き抜くためと許容され、どこからが人道的、倫理的な誤りと言えるのか。極限の状況の中で、他の手段はあり得るのか。

登場人物たちに自分を重ねながら、答えの出ない問いに向き合う時間でもあった。

 

レビュー

www.bookbang.jp

www.scenario.co.jp

 

もの物語を通してやはり思ったのは、戦争がほとんど"男性"によって行われることと、戦争時の女性へのあからさまな性暴力と、男性またはさまざまな性への隠された性暴力が起こることの正当化がある、ということ。人間の権利と尊厳を剥奪することを正当化する装置であるということ。

そこからまず問うべきではと私は思う。

なぜ「慰安婦」問題がタブーとするのか、なぜ日本で義務教育における包括的性教育の導入を進めないのか、なぜ緊急避妊薬が安価で薬局販売の認可を出さないのか、なぜ女性の身体の負担を軽減する安全な中絶手段を導入しないのか、なぜ選択的夫婦別姓は立法化されないのか、なぜ同性婚は立法化しないのか、なぜ女性の天皇は誕生しないのか(なぜ日本には天皇制があるのか)……いろんなことがつながっていく。

戦争に関して何か発言するときに「私たち」という人称は適切か、と疑問を呈したヴァージニア・ウルフを思い出しながら、余韻に浸っている。

 

尚、私が個人的にRAAを調べていた経緯は以下のとおり。

昨年、仕事で1950〜1960年代の映画を観る機会を得た。それまで観ていた小津や黒澤などの今やアート系にカテゴライズされる作品とは違い、大衆向けに作られたエンタメとしてのつくりの中に、多くの発見があった。その流れでしばらく同時代の映画を何本か見ていて、この時代に特徴的なものが登場することに気づいた。「娼婦」の女性たちだ。

特に「パンパン」と呼ばれる「街娼」。彼女たちへ向けられる激しい嫌悪と蔑視が描かれている。戦後の混乱の中で、身よりもなく、仕事もなく、致し方なく従事していた女性たちというぐらいの知識で、時代の前後感はわからないが、「赤線」と呼ばれる地域があったことも断片的に知っていた。逆に言えば詳しいことはまったく知らなかった。

中でも、田中絹代監督の『女ばかりの夜』(1961年)は告発に近い内容で、大変驚いた。当時の女性が置かれていた立場と、権力側にいる男性たちがこの事態を作り出し、構造と文化的背景とを使って、女性から女性への差別と偏見を助長した。これを観て、当時の時代背景や史実をもっと知りたくなった。RAAのこともこのタイミングで知った。機会があればぜひご覧いただきたい。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

社会のストレスやしわ寄せがいくのはいつでも弱い立場の人々だ。

特に女性や子ども、障害や傷病のある人、外国人、受刑者、住まいのない人……。そういう人たちの生命については軽視されてきた。生贄に出し、罪をなすりつけ、忘れる。

女性は男性より下で、子どもは大人より下で、貧しい人は金のある人より下で……という階層構造、権力構造を維持したい人間の欲望が、この構図を是正しない。人権は大切という体面は取り繕いながら。もちろんそれは私自身にも向けられる問いだ。

自分が子どもだった頃の大人たちがどういう人たちだったのか。
今、自分より上の世代の人たちがどういう人なのか。
一つひとつ知ることによって、謎が解き明かされていくように感じている。

社会のこの矛盾はどこから来ているのか、
なぜ大人はやっていないのに子どもがやらされるのか、
なぜ「どうして?」と聞いても説明されないのか(説明できないことをやらせるのか)
なぜ説明しないのに、失敗すると私のせいになっていたのか。

どうやら根っこは近いところにあるようだ。

学ぶしかない。
複雑であるからこそ。

一つひとつ。特に歴史を学ぶこと。特に聞いてこなかった声を聞くこと。
そして考える。動く。
少しでもマシな社会にするためには。
少しでもマシな社会にすることに尽くせたと思って人生を終えるには、どうすればよいのかと。

 

関連資料

www.tokai-tv.com

www.tokyo-np.co.jp

www.nhk.or.jp

 

1950年代〜1960年代の映画

hitotobi.hatenadiary.jphitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

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性差の歴史

hitotobi.hatenadiary.jp

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個人史聞き取り

seikofunanokawa.com

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年