映画『マロナの幻想的な物語り』の2回目を観た記録。地上波TVでの放映を録画しておいたもの。
1回目は、子と一緒に劇場に観に行った。今もときどき思い出したように感想を話すときがあるし、トレイラーにもあるように、マロナが出会う人間からそのときどきで異なる名前をつけられていくことが印象に残っていて、「きみを〇〇って呼ぶよ」と言い合う遊びが、今も我が家では粘り強く続いている。
※以下は映画の核心に触れているので、未見の方はご注意ください。また、あくまで私の個人的な解釈です。
実は、最後のシーン、どうしてマロナがソランジュを追いかけたのかがわからなかった。
マロナは人の言葉がわかるから、「1時間待っていて」といえば、そのとおりにもできたはず。でもそうしなかった理由が2回目でようやくわかった。
ソランジュに何か「嫌な臭い」を嗅ぎ取ったんだろうと思った。臭い、つまり気配。勘、予知のようなもの。悪いことが起こりそうな予感。
一人目のマノーレのときも、二人目のイシュトヴァンのときも、嫌な臭いを嗅ぎつけてマロナは自分から出て行った。かれらの元を去った。しかし今回はそうせずに、ソランジュを行かせてはいけないと強く思って介入したのではないか。
おじいちゃんが亡くなりかけるところで止めた。おじいちゃんは天国にのぼりかけてとても幸せそうだったけれど、マロナが止めたことで現世に戻って来てしまった。しかしそれによって長年の不和が少しだけ温かいほうが動いたように見えた。マロナは「犬の務めですから」と言った。
客観的に見ていると、止めたことと、止めなかったこと、どちらがよかったんだろうと考えてしまうが、マロナには自分がやるべきことに迷いがない。「だってわたしは犬だから」。
最後のシークエンスは、それまでに観客に聞こえていたマロナの心の声が一切しない。
ソランジュと初めて会ってからたぶん6, 7年ぐらいは経っていて、追い出されることもなく、出ていかざるを得なくなったこともなかった。猫とも仲良くなり、おじいちゃんからもお母さんから可愛がられているマロナは、家族の一員になった。
だからマロナはソランジュを必死で助けようとした。
家族の一員だから、そしてそれが犬の務めだから!
ソランジュの家の前の公園はいつも金色に光り輝いている。初めてソランジュに会ったときから変わらず、ずっと。あのときのソランジュは、マロナの声が初めて通じた人間だった。そのときのことをマロナはたぶん忘れたことがない。
子どもだったソランジュが大きくなるのを見届けていくことももしかしたら犬には幸せなことなのかもしれない。一番長くいることができた家族をマロナは特別に感じた。
だけれども、単なる感傷では終わらない。マロナが恩義を示したり、ソランジュが反省したり、愛を語ったりすることはなく、物語りは終わる。死は突然訪れる。
最初に観たときは最後はショックだった。もちろん冒頭にマロナが車に轢かれたことはよくわかっていて、巻き戻して見ていることはわかっているのだけれど、そこに至るまでの過程を見ていると、そういうことだったのか、と呆然とする。
でもこうして見返してみると、苦さや切なさの中からじわっと幸せや愛が滲み出てくる。
人間それぞれに孤独だったり、人生のつらさを抱えている。
仕事、家族、病、居場所。何をすればよいほうに転がるのかもわからない。
ひと昔、ふた昔前の映画なら、犬が幸運を運んできた使者だ!というハッピーな話にもできたかもしれないけれど、もうそういうのも手放しで楽しめない今の時代には、こういう物語りがよく合う。
そして、やっぱりマロナ役はのんさん以外に考えられない。外国のアニメーションは字幕で観たいほうだけど、これは例外。吹替え版がとてもよい。
またマロナに会えてよかった!
そして今回も子と感想を話し合えてよかった!
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)