ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

香港

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ことほぎラジオの第5話でもした話ですが、テキストでも残しておきます。ラジオってこれのこと→第5話 香港発>非日常経由>ポエム行き その1: ことほぎラジオ

 

・・・・・・・

 

息子と二人、友人を訪ねて行った香港。

息子は初めての、わたしは6年ぶりの海外。濃い4日間でした。

 

やっぱりこうしてときどき圧倒的に違う場所へ身体を運び、五感の全部をひらいてセンサーの感度を磨き続けることは大事だなーと思う。

 

それには日本の外に出るのは一番手っ取り早い。行ったことのない国やまちで、自分の見るもの聴くものによって、先入観をどんどん覆されていったり、ずっと苦しんでいた部分が取っ払われて自分の稼働域が広がったり、その土地に、自分にしかわからない特別の思いをもてる旅は幸せだ。

 

未知の環境の中に、楽しみや刺激と共に必ず存在する、不自由、不便、不衛生、不快等、不のつくもの・ことを身体で体験し、対峙する中で起こる葛藤、負の感情を味わいきることでしか、多様性をほんとうに理解することなどできない、というのが持論。

 

日本にいて、いかに自分が普段スポイルされているかを思う。気をつけているつもりでも、過剰適応している。本当はできるはずなのにやらなくて済むことによって無くしている力、眠らせている感覚が確かにある。

あるいは、自分が日頃、他者に対する要求や期待が大きすぎたり、他者からの要求や期待に限度やわきまえを超えて対応している可能性について検討したいと思った。

 

わたしのために他者や社会が存在しているわけではない。

わたしもまた、他者や社会のために存在しているわけではない。

 

みんながそれぞれに自分のやりたいことをやり、限定的な範囲の責任を取り、gainするためにアピールしても成り立つ社会があるのかもしれないと思った。

 

わたしはもっともっと繊細でもありたいし、したたかでタフでもありたい。

 

現地で暮らす友だちの生活実感を聞かせてもらいながら、いつも行く好きな場所を案内してもらえたのはよかった。そのエピソードごと味わった。聴かせてもらったたくさんのエピソードが胸に残っている。

 

去年の夏に親子合宿で知り合った友人たちとも再会し、みんなでまちや砂場や浜辺でたくさんの時間を過ごせたのはほんとうに楽しかった。

旅先で待っていてくれる人のいる幸福よ!!

 

香港に行くと元気になるってほんとうだった。

 


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ことほぎラジオ(Podcast) 第5話その1、配信しました

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4/11満月、ことほぎラジオ第5話、配信しました。

聴いてくださっている方、ありがとうございます。

おたよりをいただかなくても、アクセス解析というものがあるので、たくさんの方が聴いてくださっているのだなぁということがわかり、またそれもただの数字の束ではなく、その中にいろんな場所にいて、いろんなタイミングで聴いている、一人ひとりがいるんだなぁと思いながら、収録に臨んでいます。

 

今回のお届けは、5話のその1です。

その1ということは...つまり、その2もあるという...。

その2は半月、その3は新月にお届けします。

つまり、A面・B面みたいな構成を今回はやめてみてます。

 

何回かやってみて、「どうも型があるのかも?」と思って、じゃあ、と見えてきた型にのっとってやろうと思ったら、あっさりうまくいかなかった。

そもそも「番組をつくる」といっても完全に素人なわけで、構成された枠の中で予定調和的なものとアドリブ的なもののつなぎ目を見せないように芸として高めたプロの真似をしても、そりゃうまくいくわけない。そこを目指すのも違う。わたしたちのしたいことってなんだろうね、ということなどをたくさんやり取りして、リテイクして、編集会議をして、残ったのが今月の収録です。

収録も編集も、今までで一番のびのび楽しかった感じがあります。

 

香港と詩の話をしていますが、香港のあそこ行ってここ行って...ということは一切話していなくて、香港で何を考えたか、というようなことです。

詩の話は、相方のけいさんの、けいさんという人間の根幹みたいなところだなと思っていたので、とても聞きたかった話。その1よりもその2のほうがより深くその話をしてますので、どうぞ次週の配信もお楽しみになさってください。

 

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はじめから終わりが決まっていて、毎月1〜2回の「リリース」のために、チームのメンバーとアイディアと技術を出し合い、微調整を重ねながら、受け手からのレスポンスを見ながら、次を検討していくプロジェクト。わたしにはそのようなボランタリーな活動経験が今まで2回ほどあります。今回のラジオはそれらと似ているところもあるけど、まったく違うのは、自分の中からわいてくる純粋な表現をしているという点。

社会的な要請も特にない。課題解決のためにラジオをやっているわけではない。

課金もしていないので、これをやったからといってどこからも1円も入ってきません。

でもとにかくこの表現活動は楽しくて、「この一年何をしてた?」と聞かれたら、「ラジオ」としか言いようのない濃い時間を過ごしているなと、まだ4月ですけれど、思います。

 

わたしが考える/思う/感じる「楽しさ」ってこういうことなのですね。
やってることは一見楽しいことなんだけど、ノリで適当にやっているわけではない。そこには自分の全部をつかって(経験、知見、感性、言語とか)、真剣に目の前の相手と深いところでやり取りするものがある。

それは一連の踊りのようなもので、目の前にいる相手だけではなくて、その人を通した先にあるだれか・なにかだったり、たまたま居合わせた人にも受け取られる可能性があるもの。

 

" Take your pleasure seriously! " とチャールズ・イームズが言ってましたが、そういう感じです。


とりわけ、この場をつくるにあたって、有形無形にかかわらず「つくってきた」人と、妥協なく、しかしフラットな関係を保ちつつ、信頼を深めながらつくれるというのは、ほんとうに幸せなことだなぁと思います。

さらに一生懸命にやってできあがったものが、深刻で悲壮で息の詰まるようなものじゃなくて、名前のとおり「ことほぎ」のほうへ向かっているのはうれしいし、さらにリスナーさんがそれ以上のものを受け取ってくださっているのは、ほんとうにありがたいことだと思います。

 

全12回だから残りはあと7回。さてさて、どんなことが起こるんだろう。

ますます楽しみです。

 

 

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オペラ「椿姫」のライブビューイングを観てあーだこーだと感想を話す会、ひらきました(守人編)

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最近、人とじっくり話をする機会が多いので、それで満足してしまっているのか、単に今は話すほうが表現の手段として自分にフィットしているからなのか。しばらくまとまって書くことから遠ざかっていました。今これを書くのにも相当苦労をしています。

 

それでも記録を残したいので、すごくだらだらと長文になりますが、がんばって書きます。でも今回は主催してどうだったかという話なので、作品の内容についてはふれていません。この調子だと作品編まで書けないような気がします...(弱)。

 

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4/9(日)『オペラ「椿姫」を観てあーだこーだと感想を話す会』をひらき、久しぶりに守人をしました。

守人は、場を設計・準備し、呼びかけ、集まったみなさんをきれいな景色の見える場所に連れて行き、帰ってくるまでの一連のツアーを守る役割の人です。場をひらいてはいるけれど、ファシリテーターというのとも何か違うなと思い、ラジオで相方さんが呼んでくれた名前でちょっと名乗ってみています。

 

今回は、METライブビューイングを利用して、NYのメトロポリタン・オペラの公演映像を映画館で観ました。

METライブビューイングの特長は、

・生で観るのに比べて値段が安い(1作品3,600円)
・映画を観るような気軽さ
・複数のカメラで撮影されていて、引きも寄りもあるので、METの劇場の雰囲気から歌手の表情やよく見える、観どころがわかる
・映画館の大スクリーンと音響でPCやTVのモニターと比べ物にならない迫力
・日本語字幕付きで何を歌っているかもわかる
・幕間にバックステージや歌手のインタビュー付き(これはけっこう"無粋"なほうにも振れられるので微妙)

といったところ。

 

こうしてわたしのような初心者が気軽に普段着で映画館に観に来ることができて、ライブビューイングならではの体験を通じて「オペラっていいものだな」と思えて、またときどき観に来たい、なんなら生もぜひ観てみたいと思えるようになったら、オペラ界にとっても新たなファンの獲得になるし、観客にとっても人生の愉しみが増えて、お互いハッピーである。これは画期的で合理的なシステムだなぁと思います。

最近はオペラだけではなく、歌舞伎やバレエなどもライブビューイングや映画上映に力を入れているようだし、いろいろと時代に合わせて変わっているのだなぁと思います。もちろん生に比べれば迫力は全然違うので別物だとは思うけれど、なにが本物かをうるさく言うよりも、わたしは伝統のある芸術が、したたかに生き残ろうとすることを応援したい。(能は正直あまり向いていないと思うけど...)

 

わたしはオペラの知識は全くありません。一度だけ、2011年9月にボローニャ歌劇場の来日公演「カルメン」を誘われて観に行ったことがあります。このときは、舞台がスペインではなくキューバで、第2次世界大戦後のカストロ政権下という設定になっていました。あらすじは変わらないけれど、登場人物の設定や舞台装置やファッションが現代そのもので、その斬新すぎる演出に初心者としてはかなり引いてしまいました。でもどうもこの芸術は気になる、他の舞台芸術にはない何かを感じる、できればもっとオペラっぽいもので再挑戦したいと思い続けてきたのでした。

とはいえ、ほとんど未経験なので、何を基準に選べばいいのか。どの演目、どの演者、どの劇場、どの席で観ると一番いいのか、どこに注目すればいいのかなどが全然わからない状態でした。たぶん入門本を読めば書いてあるだろうし、頼めば誰か一緒に行ってくれたかもしれないけれど、なにかそういうものではない、自分の望む出会い方をしたかったのです。つまり、オペラと親しくつながっている人を中心にした、人々との交流の中から出会いたい、という気持ちがありました。

 

そんなことも忘れていたのですが、ちょうど1年前にわたしの読書会に来てくださって知り合ったえとうゆかこさんが、ふとしたきっかけから一緒に場をひらいてくれることになりました。ゆかこさんはクラシック音楽やオペラが好きでよく劇場に足を運ばれているとのことで、今回ナビゲーションをお願いしました。歌手としてジャズやラテンを中心に歌う方でもあります。

 

今回はごく親しい友人のみを誘うクローズドな会でしたが、そういうときもわたしは場を設計をし、告知文を書くことにしています。式を執り行うときに、あらためて招待状を送るように、大切なものを交換する場では、親しい人だからこそお互いに真剣さと心地よい緊張感をもってあらためて出会いたいと思うからです。

 

ゆかこさんと打ち合わせで特に力を入れてすり合わせたのは、

①どんな人にきてほしいか
②今回の閾値の設定

でした。

 

「オペラ未経験者や初心者を歓迎します。未知の世界の扉を開いてみたい、古典芸術を味わいたい、またはみんなで話せるならチャレンジしたい、と思ってくれる方」としました。

そして、普段から芸術に触れたときに、理解できるかどうかではなく、自分が何を感じるかを大切にする人。対象と自分との関係や、自分にとっての意味などを心に持ってしまう人。一人で浸ってあえて言語化しないという鑑賞の仕方もありだけれども、ここは話すことを通じて体験を深めていきたい場なので、「その言葉にしづらい感じをなんとか言葉にしてみたい」、「他の人の感じ方を聞いてみたい」という方が向いている。

という話をしました。

 

事前の予習をお願いしました。ここでの閾値は、参加条件という意味ではなく、心が動くという反応を引き起こすためにかける最小限の力(負荷)という意味で使っています。初見でも何かを感じとることはできる。でもせっかく初めてオペラを観るならこれを抑えておいてほしい。その有無で得られる体験が変わるかもしれないので、大切なこととして組み込みました。

具体的には、あらすじなどの作品の紹介や、演出のポイントなどをゆかこさんのブログ経由で伝えてもらい、歌や音楽の聞きどころについて事前に5分ほどの動画を数本観てもらいました。

aktennotiz.jugem.jp

 

演劇と思ってみればそれは目で見るものだけど、演出によって見た目は全然違うし、なによりオペラは音楽の芸術だから、聞き覚えのあるフレーズが出てくると、その世界への入り込みがとてもスムーズになるのだ、とのゆかこさんの説明は、観終わってとても実感しました。

実際に予習があったおかげで、動画の演出や歌い方や演技との比較もできたし、ついでに自動再生された他のオペラを観たり聞いたりして、期待が高まるという効果もありました。

 

今回の「椿姫」は2時間45分という尺もとてもよかったと思います。最初から最後まで集中が途切れず観られた。他の作品は4時間近くだったし、素人的には知らない演目が多かった。有名な「ロメオとジュリエット」でも比較的短いとはいえ、3時間30分。でも今回こうして一度体験したので、今後はきっと大丈夫でしょう。

 

終了後に近くのイタリアンレストランに場所を移して、1時間半あーだこーだと感想を話す予定が、2時間ちょっと話し込んでしまいました。そのぐらい楽しくて、椿姫とオペラからほとんど離れなかったのに、話が尽きなかったのはよかったです。感性鋭く、言葉にすることに意欲的な友人たちと、豊かで深い経験をされてきたゆかこさんのおかげです。

 

わたしにとっては、月1開催のかるたを除くと、守人をするのは1ヶ月以上ぶりで、新鮮な経験でした。また来月あたりからぼちぼち活動を再開していきたいと思いますが、今回は内輪の会でも公募の場でも活かせることがたくさんあったと思います。とりわけ、誰と組むか、何を抑えるかということについての自分の直感は、かなりいい感じに尖って来たように思います。

 

古典を楽しむ場については、まだまだ自分にやりたい欲がありそうです。

今回のオペラの場をつくっていて思い出したのは、本を読んだり美術作品を見ているときに、古典の演目を知らないと理解できない表現や説明に出会うことが多くて、でもそのまま放置してきた後悔でした。今回の「椿姫」のようにその芸術独自の世界に入り込んで、自分に取り込んでいくことができれば、ぐっと見える世界が広がるように思いました。

同じようなことが数年前に能やシェイクスピア作品で起こって、古典の古典たるゆえんを自分なりに理解したという経験があるので、このように進んでゆけばいいのだな、という確信があります。

それは「教養としてそれぐらい知っておかないと恥ずかしい」というようなことではなく、純粋に自分の興味関心から来るものです。大人になったらいつか自然に知るようになるのかなと思ってきたけど、どうやら自分で掴みにいかない限り知ることはできないということと、自分の望む出会い方は自分で機会をつくりださなければ滅多には訪れないということも理解しました。

 

またその出会いを自分一人で行うのではなく、誰かと旅する場をつくるという手段をとるのがわたしはより楽しいと思っています。わたしに知識がないことでも守人はできるし、ナビゲーターが別にいれば、場をひらくことができる。

 

今後の探求が楽しみです。

(やっぱりだらだらまとまりませんでした...。書くのって話すのより大変だ...!)

 

 

www.shochiku.co.jp

 

 

 

 

 

 

ピナ・バウシュ「カーネーション」を観てきたメモ

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2017/3/19 彩の国さいたま芸術劇場ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の「カーネーション」を観てきたメモ、走り書き。

 

 

わずか90分の長い夢。

 

ダンスと演劇の融合。ダンサー自身のエピソードを基に、コラージュ的に構成するクリエイション。わたしたちも一輪ずつのカーネーションとして、舞台のこちら側をつくる重要な存在。

 

自分の中にあらゆる感情が起こった。絶えず方向を変える感情の渦に呑まれ続けた。3年前のKontakthofの時のようなダンサーへの自己の投影の余地は感じられず、ダンサーからの問いを聞くのみ。

 

あなたはここで何を見たいの?
愛の何を探しているの?

 

次に何が起こるか予測もつかないのに、最後に見る光景、数千本のカーネーションの結末はわかっている。その間の出来事にひたすらに目を凝らせ、と。

 

花を愛で、花を踏み、花を損う。ひとつの儀式、祭りのような。生の踊りとはこのようである、ということなのか。

 

ダンサーの一人から祝福を受けた。わたしの中の何かを呼び覚まそうとするかのような力強い抱擁…。

 

劇場を出てすぐに、「わからなかった。みんな拍手なんかしてわかっていると思えない。有名だから観に来ただけだ」ともらす男性二人連れがいた。怒り、苛立ち、戸惑い…ぜんぶあの中にあったよ。もしかしてほしいのはそれだったのかな。わからないと全身で憤りたかったのでは。決して安くはないチケット。何らかの期待があったんだろうな。そこを見に行けるといいね、と共感を送った。

 

わかろうとすると、わからない。なんで自分はこんなものを見ているのだろうとなったとき、感じ取るだけでいい。怖くないよ。でも怖いときはひらかなくてもいい。自分次第。

 

定番の演目であっても、その国、地域、時代に合わせて上演時にローカライズされているんだろう。そのときに演じるダンサーによっても微調整されているとも思う。今、そこでしか見られない、生の舞台はやはりダイナミック。

 

古株のメンバーの顔を見つけてホッとする。でも時間は流れているから、ピナを直接知らない人のほうが増えていって、これからどんどん変化していくんだろう。一観客としては、ピナとヴッパタール舞踊団のDNAが受け継がれていくこと、また舞台を観られる日が来ることを切に願う。

 

Trailer>>

youtu.be

 



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ことほぎラジオ(Podcast)第4話、配信しました

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3/12、Podcast「ことほぎラジオ」の第4話を配信しました。

 

月に一度、満月の日に配信しています。
徐々に膨らむ月を見上げながら、「そろそろ配信かなー」と思い出してくださる方もいて、うれしい。

 

今回はわたしの友人をゲストにお招きして3人で話しています。去年の11月から2人で3回収録して編集して配信してという道のりを経て、「なんとなくこんな感じ?」というのをつかんだ次のチャレンジ。「おお、こんなことが起きたか...」という仕上がりになっています。毎回いろんなことが起こるし、配信すると発見がある。わたしの中で、相方のけいさんの中で、聴いてくれた方一人ひとりの中で。

 

我々が製作し展示した作品に、人は何を見てくださるのだろう。

 

全世界にインターネットを通じて配信され、どこでだれがいつ聴くかわからないラジオ(Podcast)というしつらえだからこそ、リアルの聴き手とネットの向こうのリスナーという人々で共につくる場だからこそ、生まれてくるこの語り合い。

  

ぜひ聴いてみてください。

 

 

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夢を見た

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夢を見た。

 

実家から車で1時間ぐらいのところにどこか知らないが古い町があり、古い寺があった。友人と参拝だけして去る予定だったが、その敷地内にある公民館の座敷で、たまたま今日だけ手ぬぐいに絵を描く催しをやっているということで、参加してみた。

 

手ぬぐいには既に下地の色が染めてあって、それは地元に自生している植物からできた染料を使っているとのことだった。藍と臙脂(えんじ)の2枚を選んでその上に絵を描いていった。何で描いたのか、絵の具のようなものなのか、筆なのかペンなのか、定かではない。萌黄のような色だったのは覚えている。普段めったに黄は選ばないので、珍しいなと自分でも思った。

 

布に色をのせると定着しすぎるでも反発するのでもなくて、ああ、この感じはいい、と思ってどんどん描いていった。発色の美しさにうっとりしながら。

 

完成に近づくと、やり方を教えてくれていたおじさんが急に「ここで会ったのも何かの縁だから、さっきしゃべっていた男の人と出来上がった手ぬぐいを交換すれば」などと言い出した。確かにはじまる前に、その場にいた人たちと少し挨拶程度に話したけれど、別に縁を持ちたいとか、そんなつもりではなかったし、わたしはこの絵を自分のために描いていたのになんであげなきゃいけないんだ、と心の中で思いながら、「いや、いいです」と言ったのに、おじさんはしつこくご縁ご縁と言ってくるので辟易した。こういう中年にならないように気をつけよう…と思ったところで目が覚めた。

 

おじさんにはイライラしたが、色をつけるのがとにかく楽しく、この夢中(まさに)になっていた時間が現実世界でも長かったのか、すっかり寝坊をしてしまった。でもあの描く幸福に比べたらそんなことはどうでもよくて、雨の朝だけどとても満たされて一日がはじまった。

 

 

 

 

 

 

短編法廷ドラマを観て感想を話す会、ひらきました

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武蔵小杉のブックトークカフェの常連メンバーと、「短編法廷ドラマを観て感想を話す会」をひらきました。こうしてひとつの場から、共につくる関係が派生していくのは、わたしにとって、とてもうれしいことです。

 

この場をひらくにあたって、いくつかエピソードがあります。

・ブックトークカフェで、テーマが「悪い本」のときにこのドラマを小説化した本を紹介してくださった方がいて、これはみんなで話すとよいのでは?と興味をもちました。

・わたしが4年前に3回ひらいた、「刑事裁判を傍聴をして弁護士さんと感想を話す会」の流れを汲んでいます。

・犯罪はどうして起こるか、刑罰・量刑は妥当か、正義と悪とは線引きできるか、誰が何をどこまで判定するか・できるか、他人事の正義感と刷り込まれた道徳心・倫理観に気づけるか、などの問いを相方さんと事前に想定しました。

・自分も含む参加者は、裁かれる本人ではないけれど、ある種の当事者である。自分もみんなも他人事ではない、当事者としての言葉を発する場になれば、というわたしの思いがありました。

 

進め方はごくシンプルに、

1. 裁判員として1話15分の裁判を「傍聴」する。

2. 争点を確認し、証拠や証言について考察し、あらゆる可能性について討議する。

3. 最後に一人ひとりの意見(有罪/無罪等)とその理由を表明する。

として、2話分を行って、2時間きっかりで終わりました。

 

感想としては、とにかく、非常によかった!

 

法律の専門家ではない参加者4人それぞれの経験や背景から、深く広がりのある対話が展開し、人の数だけ世界の見え方があること、立場が変われば見える景色がまるで変わることの確認や、裁判や裁判員制度の課題の浮上、テーマを設定して話しきる大切さを実感するなど、とても充実した時間となりました。

 

一人で観ただけでは、なかなかここまで思考を前に進めることは難しい。「他の人はどう思っているんだろう?」が聞けて、そこから影響を受けてまた言葉にできたことがつながる。徐々に自分の意見が絞られていくのは、場の力だと思います。

 

例えば、正当防衛が認められる状況、保護責任者遺棄致死罪が適応される人や状況など、判断の根拠として設定した線引きがあって、時には目に見えない個人の感情までも評価される、ということ。知っていたようで知らなかった世界が、わたしたちの周りには、ある。良し悪しを語る前にまず、「そのように運用されていたんだ!運行していたんだ!」という衝撃がありました。

 

リアルだったのは、自分の中の有罪・無罪の意見の揺れ。最初は「完全に有罪よね?」と思っても、新しい証拠や他の「裁判員」から発言が出るたびに、「無罪の可能性もある?」など、自分の意見がぐらぐらと揺れ続けました。実際の裁判員裁判もきっとこのようだろうと思います。より説得力のある方へ、思い込みや偏見も含め、傾いていくのは、人は情報によって意見を変える性質があるからではないか。

 

わたしたちは果たして、人を裁き刑を課す、決断を下す場に立ち会えるほど、十分に成熟した市民なんだろうか?

 

わたしたちのことなのに知らないでいることはまだまだたくさんあると思う。まずそれらを明らかにする。そしてそれが意味することは何かを考えたい。わからないからこそ、これからも場をつくり、いろんな人と対話を重ねていきたいと思いました。

 

わたしはこのような社会派的なテーマでも場をひらきますが、それは「社会を変えるactivist」としてやってるわけではないようです。人間について、あるいは人間がつくったものについてもっと知りたいという気持ちから。この中にはよくわからなくて怖いものもある。でも、放っておいて怖いものが増えるだけなら、いっそその顔を見に行ってみよう、みんなでしゃべりながら行って帰ってこれば、案外怖くないかもよ、という感じです。わたしはビビりだし、根拠なく楽観的にもなれないので、こういう手段をとっているのではないか、と思います。

 

終了後のランチタイムでは、武蔵小杉のおばちゃんたちが朝早くからせっせと作るボリュームたっぷりの「横浜サンド」をいただきました。時間がたってもパンがべしょべしょしてなくて、レタスがパリッとしていて、細かく刻んだゆで卵の楽しい食感がある。丁寧な手仕事も込みで美味しかったです。

 

この場をひらけてよかった。ありがとうございました。

 

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短歌

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短歌が楽しい。

 

友人が主催する歌会(短歌を詠みあう会)に通いはじめて一年。去年のちょうど今ごろに第一回がはじまった。最初は、彼女のペースで「そろそろやるよー」という感じだったのが、途中から月1の定期開催になった。

 

初めて詠むなら絶対に彼女がつくる場で!と思ってたから、すごくうれしかった。こういうのは、「あなたのその得意なことで場をひらいてほしいわー」といくらこちらが熱い視線を送っていても、相手の情熱や時期が合わなければ実現しないので、有り難いのだ。


短歌にまつわるトピックが毎回用意されていて、レクチャーしてもらえる。短歌の短歌たる所以みたいなものを頭に入れたあとは、主題を与えられ、あるいは自由主題で実際に作ってみる。

 

当初こそ難しいとか恥ずかしいとか思っていたのが、最近は自分の実感と深く深くつながっていって、それを表現するための一番近い言葉を海女のように何度も潜って取りに行く作業が、かけがえのない時間と思える。5.7.5.7.7に当てはめる試行錯誤も楽しい。枠があるからこそ、自由になれる。


そうしてわたしの中から産み出したばかりの歌を人に鑑賞してもらい、それぞれの解釈を聞く。この体験がおもしろい。感じること、見えてくる画などを自由に話すだけなのに、「あんたどっかで見てたんか!」と言いたくなるぐらいの深い洞察が場に生まれる。説明的なところは省かれてるし、シチュエーションやモチーフも実際とは違うものをあてていることも多い。でも自分がその歌に込めた大事な思いがちゃんと伝わっている。


そう考えると、和歌を詠みあっていた古の人はすごい。こんなプライベートな奥底の気持ちを誰も笑わず、むしろ美しいものと愛でるのは。生の気持ちにみんなが共感して大事にしていたのは。今とは文化も生活スタイルもモラルも社会のシステムも世界の広さも違っているあの時代の、歌を大切にした人たちの気持ちが、実際に作ってみて、なんとなくわかったような気がする。


どうにもならない気持ちや人間本来の性質への共感の気持ちが人々にあるという点で、なにか救いを感じる。

 

 

「夜と霧」の読書会の記録

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ことほぎラジオの3話目でもちらっと出てきましたが、去年のちょうど今日、この読書会をしました。そのときのわたしの感想をこちらにもアーカイブしておきます。

 

これを開催する少し前に、2年やっていた読書会をクローズしたため、喪失感いっぱいのふらふらな中でひらいた記憶があります。同じ年の9月の「ポンピドゥセンター展を観た感想をあーだこーだと話す会」まで、かるた以外は一般公募ができず、半年ほど友人だけのクローズドな場をこつこつとつくっていました。その第一回目がこれ。

 

結局、息子はインフルエンザで、このあとから試合開始のゴングが鳴ったようにハードな日々が年末まで続きました。どうやって超えられたのか、自分のどこにそんな力があったのか、サッパリわかりませんが、夜と霧の底流である「あれをまだ成していないから生きるのだ、生きねば」のようなものがあったのかもしれない。

 

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友人5人に声をかけて「夜と霧」の読書会をしました。

 

壮絶な体験をくぐりぬけ、今もなお生き続ける人の、魂の切実さから書かれたものからは、何かを感じずにいられない。わたしはフランクルの言葉に突き動かされて歩みを進められた経験があるし、それ以外の部分でも、わたしの遍歴を語る上で外せない一冊です。

 

当日は、ホロコーストの話よりも、暴力や痛み、喪失を語る場になりました。感想を話しあってわたしが思ったのは、このような体験でさえも、参加された方が語った体験も、ただひとりの人の体験を描いているものであり、世界の見え方でしかない、万人に当てはまる正しさではない。自分には自分の真実があり、他者と軽重を比較できない自分の苦しみがあり、自分なりの死生観があるのだ、というような当たり前のことでした。もちろんそれは、ホロコーストの事実やそこで生まれた計り知れない傷みを否定するものではありません。

 

そして読み合うことは、同じ時間を、それぞれにただ生きていることを、体の重みの乗った言葉を通じて感じること。弱さの部分でつながろうとするのではなく、誰もがそれぞれに痛みや喜びや美しさを感じながら生きていることをただ知る...そういう時間だったような気がします。

 

すごい深くて遠いところまで行って疲れたので、帰ってお風呂も入らず、あっという前に寝てしまいました。

 

きのうの朝から息子が発熱して焦ったけど、こんなときのためにフローレンスの卒業生パックにしておいてよかった。きょうも熱が下がらず、もしかしてインフルエンザかもしれない。またきょうもこれから受診して、ああ、どうなるかな...。仕事、学校...。こんなとき一馬力はほんと辛いなぁ。息子も「一緒にいてほしい」と言うし。母と同じくらいの存在である人がいればなぁと思ったりするけど、まぁしょうがない。

 

毎日いろんなことが起きます。でも、何も起こらなくなったら、生きている感じがしなくなるだろうなと思う。わたしの性質として。

 

これからもときどき、「この本は!」と思うものに出会ったら、「あなたと読みたいの!」と誘う場をつくりたいなと思います。

 

ご感想をいただきました。

 

『同じ本を読んで、受け取り方が人によってこんなにも違うのだということが本当に本当に面白くて、ものすごーーくいい経験になりました!考えてみると、親しい人と週末に外食するというありふれた出来事ひとつ取っても、それぞれの人生の中でまったく別の景色に見えているんでしょうね。私が決して見ることができない、近くて遠いその景色に、憧れのような気持ちを抱きました。

それから、人生はアドベンチャーゲームのようなもので、苦しいこともただ味わえばいいんだな、と、よりシンプルに思えるようになった気がします。

重ーい雰囲気ではありましたが、私はとっても楽しかったです』

 

ご参加くださった皆さま、ありがとうございました!

 

テープ起こし

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3年ほど前から、ときどきテープ起こしの仕事もしている。テーマや人(インタビュアー、インタビュイー)に興味があるものに限定される。作業なんでもやりますという感じではないので、どこかに登録をしているわけではなく、友人、知人のつてで依頼がある。分野は、医療、福祉、芸術など。

 

人の話を、内容もそうだけれど、人が話しているのを聴くのが好きなので、インタビューの現場にたまたま同席させてもらえているようなテープ起こしはとても楽しい。

 

醍醐味であり腕の見せ所でもあるのは、その「話」をどうテキストに起こしていくのかの工夫。その場の空気感、人柄、発言のニュアンスを文字のみでどう伝えていくのか。変換や表記の仕方、選び方に起こす人のクリエイティビティが発揮される。

 

句読点のどちらを使うか、どこで句読点を入れるか、「ケバ」と呼ばれるしかし大切な部分をどこまで拾うか、漢字・片仮名・平仮名・アルファベットのどれに変換するか、同音の漢字はどれを充てるか、括弧付きにするか否か、「ねぇ」か「ねー」か、読みやすさと話者のパーソナリティとの間をとる表記は、など、音声から読み取れるものはたくさんある。

 

固有名詞や専門用語を調べにいくと、知らなかった世界が広がっていて、これまたおもしろい。

 

いずれ原稿になる、その基になるテープ起こしという作業。インタビュー現場で生で話を聴いていなかった人々にもその熱が届く、よい原稿になるように、できるだけの貢献ができたらと思うし、例え自己満足だとしても、わたしなりのuncountableな価値を込めたい。

 

求められれば、インタビューのフィードバックもする。あるいは単に感想を送るときもあって、そのときはずいぶんと喜ばれた。現場をこちら側に立って共有し共感してもらえるというのは、人にもよると思うけれど、インタビュアーにとってはうれしいことだろうと思う。基本的に聴いて感じ取って書く表現をするというのは、孤独な作業だから。

 

聴いていると自然とその場のビジュアルが立ち上がってくる。声や話し方から、その人たちの表情や、顔の造作、ヘアスタイル、お化粧やファッション、部屋の内装、天気、光の当たり具合、周囲の環境。それに加えて劇中劇のように、話している人の語りの中に見ている映像も、こちらにはありありと見えてくる。

 

写真を見たわけでもないし、それが合っているかどうかもわからないけど、音から見えたものを感じていると、聴くと見るはけっこう近いところにあったり、イコールになったりする、とわかる。

 

 

 

いつか緑の…

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買っちまった。

 

10代、20代に吉野朔実さんの漫画に出会えたことは、ほんとうの幸運だった。ありがとうございます。

 

子どもの頃から死というものを身近に感じていたけれど、この世でのお別れは一つひとつ、やはりとても辛くて悲しくて寂しい。とりわけ一度でも深いところで手を握った命とのお別れは。

 

それでもこの世界には、喪失と、それと同時期に起こる祝福の不思議な仕組みがあって、単に物事の裏表というわけではないそれに、なんとか救われながら、もう少しだけ生き続けることができるようだ。

 

わたしもまたどこかで喪われる日まで。

映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《後編》をひらきました

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映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会の後編が終了しました。
(前編のようすはこちら

前編からきてくださった方も半数おられました。貴重な時間を共にしてくださって、場を信頼してお話しくださったこと、本当にありがとうございました。


前回に続き、愛があり、芸術という拠り所があり、ストレートな感情の表明がある点に、イタリアという国の人間味を感じていました。(もちろんフィクションの部分もあるし、絵に描いたようなところばかりではないけれども、日本に比べてどうか、という点で)


ひとつの精神病院内での取り組みを物語った前編から、後編は地域にどう還す/還るか、どのように法制化していくのかの道のりに入り、精神疾患、トラウマ、家族(親子、きょうだい、夫婦、カップル)、アルコール依存、依存、性暴力、暴力、虐待、妊娠・出産、別居・離婚、支援者の支援など、書ききれないほどのテーマが含まれていました。短い尺の中にたくさんのエピソードが詰め込まれていたため、アップダウンが激しく、鑑賞だけでぐったりされた方もおられたかと思います。


それでも一度感想を場に出して、置いて帰れると少しはホッとしていただけるのではないかと思い、どう進行するか迷いつつも、精神科医のつかぴーさんによるキーノートスピーチにあった問い「この人たちをどうしたら地域に還すことができるか」をよすがとしながら、場の流れについてゆくことにしました。今回は現場を知る方、制度面の知識をお持ちの方が何人かいらっしゃったことで、映画の背景が補足されて、理解が深まったという印象がありました。感情が大きく揺さぶられた分、史実、事実に基づく話で着地できたのはありがたかったです。


1時間ちょっとの短い時間の中で、皆さんはどのような体験をされたのでしょうか。


最近、物事の両面性について考える機会が多いのですが、きのうも皆さんの話を聴きながら、何度もそれを思う瞬間がありました。例えば、精神病院への入院は隔離された閉鎖的な場とも言えるし、制御不能になった時間の激流から退避できる安全な場とも言える、とか。

どちらから見るか、どのような態度でかかわるか、によって変わってくるのかもしれません。


意図はあるけれども支配はしたくない、想定はするけれども見立てはしたくない、ということをファシリの席からは強く思っていました。まだまだ修行は続きます。

 

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ことほぎラジオ(Podcast)第3話、配信しました

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昨年末からはじめたPodcast「ことほぎラジオ」の第3話を配信しました。

今回は、わたしが「場をつくること」をテーマに話をしています。聴いてくれた人からさっそく、「羽田空港の背景音がとってもよかった」という感想をいただいています。みんな空港が好きなんだなぁ。

 

この「非常に個人的である」わたしの話は、いったいどのようにリスナーさんに受け取られていくのか、まったくわかりません。しかし、ラジオとしてお届けするこの作品の中に、誰かにとっての「きわめて個人的であるがゆえに投影できる」部分もあるといいな、と今の時点では思います。前回のけいさんの「能」の話がそうであったように。

 

「わたしは何を話していたのか」。時間が経てば経つほど発見があって、ああ、そうだったのか...と呆然とすること度々。

 

ミュージシャンが一枚のアルバムをリリースするときの、ファンの反応にふれる前の時点ですでに「何かが判った」と話しているインタビューや、自分で自分のアルバムをよく聴くことがあるとか、曲をセルフカバーするなど、その理由がずっとよくわからずにきたのだけど、このラジオを3回やってきてうっすらと理解できる気がします。わたしはミュージシャンでも芸人でもなんでもないのだけど。

少なくとも自分の声や話を恥ずかしがらずに何度も何度も聴けたり、公に流したりできるのは、これを作品として客観的にとらえているからで、つまりこれもひとつのわたしの「仕事」なんだろうと思います。

 

今回は全体で2時間10分収録したものを、最終的に65分まで編集しています。それでも含まれなかった時間の中で話されたことや起こったことも、最終版にはすべて含まれていて、それは本当に不思議なのです。これがリリースされる直前のわたしは、「編集する」ということについて非常に恐れを抱いていたのだけれど、ある人の耳や目や手をを通して現れるものもまた本物で、結局は「誰によって」というところが重要なのかと。

 

1回目、2回目、3回目と、人と人とが少しずつ知り合っていく、その普遍さも描かれている。残り9回の中で、それがどのような絵、どのような景色になってゆくのだろう。途上の景色、ふりかえって見える景色、それを相方のけいさんとリスナーさんと一緒に辿る旅が、これからもとても楽しみです。

 

よかったら聴いてみてください。

 

 

*ブログから

doremium.seesaa.net

 

 

iTunesから

ことほぎラジオ

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  • ことほぎ研究室
  • アート
  • ¥0

 

 

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映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会《前半》をひらきました

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2/4(土)まち健(谷根千まちばの健康プロジェクト)さんとの共催『映画「むかしMattoの町があった」を観て感想を話す会』の前半が無事に終了しました。19人で過ごした貴重な時間でした。

 

まずこの映画がとてもよいのです。いかにもなところが一切なくて、愛にあふれていた。正直、辛いシーンもあるのですが、不必要に人をいじめていなくて(ストーリー上はいじめられていますが)、ちゃんと一つひとつのエピソードに意味があって、個別に丁寧に展開・決着されていく。そこにはまるでバザーリアその人のもののような、あたたかい眼差しがありました。

 

鑑賞後の感想を話す時間は、様々な属性や立場の人たちと共に、「わたしたちは何を見たのか」という問いを少しずつ進めていきました。「精神の病と人間の尊厳」という繊細なテーマで、参加されている方がその病の本人、家族、友人、支援者などである可能性もあるので、とにかく丁寧にひらいていくことを心がけ、人数が多いことを活かす場にできるよう、ぎりぎりまで進行を見直していました。皆さんにとってよい体験になっているとよいのですが。

 

途中、Matto pericoloso(危険な狂人)という単語がわたしの耳にガーンと飛び込んできました。果たしてそうなのだろうか。クライシスと呼ばれる急性期の状況も描かれていて、それを見ると確かに驚いてしまう。でも何も原因やきっかけがなくてそうなっているわけではないのでは?

 

それは本当に病気なのか、病気と病気でないとはどう違うのか、だれが病気と判定するのか、本人だけを見ることで解決できるのか、家族も「病」を抱えているのではないか、家族へのケアがないのではないか、家と病院以外の選択肢はないのか、隔離とはなんのために、改革が対話を通じて行われてきたというところに驚きと感動がある、イタリア的な明るさに救われる、屋外の世界の美しさ、男女のすれ違い、日本の現状・挑戦...etc、話題は多岐にわたりました。

 

重いテーマなので一人で観ると沈み込むだけで終わりそうですが、こうしてみんなで聴いたり話したりできるとホッとして希望がもてるし、自分の考えもどんどん進んでいくように思います。

 

今週末2/11は、後半です。前半が「わぁ......まじで?」というところで終わっているのでとても楽しみです。ご参加予定の皆さん、運営チームの皆さん、どうぞ宜しくお願いします。

 

この映画は、上映会方式で普及していますが、映画館でもときどき観ることができます。今は田端の「Cinema Chupki」という映画館で上映しています。ご興味あればぜひ!
2月2日〜28日『むかしMattoの町があった』 | CINEMA Chupki TABATA

焚き火

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去年の1月31日の話、再録。

 

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息子を連れて、東京の山のほうの河原で焚き火をしてきた。

 

ほとんど初めて会う人たちと、焼けそうな食べ物を片っ端から焼いたり、ホットワインを飲んだり、ただ火を眺めたり、ぽつりぽつりと話したり。

 

子どもたちを河原に放つと、いつまでも石を放っているのでおもしろい。

 

小さい頃は、焚き火なんかどこでだってできたのに、2時間かけてはるばる行かないと焚き火ひとつできない環境にいる今の自分が不思議でならない。大人になったらなんてことなく火を取り扱い、子どもたちを周りに集わせてるものだと、幼い自分は思っていたから。焚き火がこんなに非日常なものになっていることを、まだうまく受け入れられていない。

 

出がけに近くで火事があり、噴煙が上がっていた。火を遊びに行くのがなんとも不謹慎な気がして、道中も気にかけながら。70代の方が顔にやけどをされたとか。ご無事でよかったけど、やけども辛いし、大事な家が焼けるのもどんなにか辛いことだろう。

 

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この家は一年経った今も路地の奥のほうで焼けただれたまま、解体されていない。直前まで暮らしを営んでいた痕跡のまま、焼け焦げた家財道具が風雨にさらされていて、なんとも言えない気持ちになる。