ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

お知らせ

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募集中のイベント

*7月25日(土)20:00〜

オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

chupki.jpn.org

  

 

 

 

鑑賞対話ファシリテーション(法人・団体向け)

・表現物の価値を広めたい、共有したい、遺したい業界団体や、
 教育や啓発を促したい、活動テーマをお持ちの法人や団体からのご依頼で、表現物の鑑賞対話の場を企画・設計・進行します。
・鑑賞会、上映会、読書会、勉強会などのイベントやワークショップにより、作品や題材を元に、鑑賞者同士が対話を通して学ぶ場をつくります。

https://seikofunanokawa.com/service-menu/kansho-taiwa-facilitation/

 

場づくりコンサルティング(個人向け)

・読書会、学ぶ会、上映会、シェア会、愛好会...などのイベントや講座。
・企画・設計・進行・宣伝のご相談のります。
・Zoom または 東京都内で対面
・30分¥5,500、60分 ¥11,000(税込)
・募集文の添削やフィードバック、ふりかえりの壁打ち相手にもどうぞ。

https://seikofunanokawa.com/service-menu/badukuri-consulting/

 

連載中
▼『場づくりを成功させるための5つの鍵』(寺子屋学)
https://terakoyagaku.net/group/bazukuri/

▼ noteでも書いたり話したりしています。

note.mu

  

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〈お知らせ〉7/25(土)夜、オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』ひらきます!

オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの片隅に

 

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〈ゆるっと話そう〉とは
映画を観た人同士が感想を交わし合う、アフタートークタイム。
映画を観て、 誰かとむしょうに感想を話したくなっちゃったこと、ありませんか?
印象に残ったシーンや登場人物、ストーリー展開から感じたことや考えたこと、思い出したこと。

他の人はどんな感想を持ったのかも、聞いてみたい。
初対面の人同士でも気楽に話せるよう、ファシリテーターが進行します。

 


第13回はこの世界の(さらにいくつもの片隅に をピックアップします。
https://ikutsumono-katasumini.jp/


この世界の片隅に』の公開から3年の月日を経て、250カット以上の作画を追加し完成した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。

原作にありながら前作では描かれなかったりんと主人公すずの関係を中心に、すずの新たな面を取り込んだことで、周囲の人物やシーンも生き生きと立ち上がっています。

いくつもの片隅の物語が動き出し、簡単に善悪のつけられない、複雑で混沌とした世界の有り様が描き出されています。

ひと言では語れない。けれども何かを言葉にせずにはいられない。

自分が見てきたいくつもの片隅のこと。

だれかのために、忘れないために、何かを継ぐために。

前作を観た方も、ぜひこの新しい物語に出会ってほしいです。

語りましょう。

ご参加お待ちしています!

オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

日 時:2020年7月25日(土)20 : 30〜21 : 45(開場 20 : 15)
参加費:1,000円(予約時決済/JCB以外のカードがご利用頂けます)
対 象:映画『この世界の(さらにいくつもの片隅に』を観た方。    
    オンライン会議システムZOOMで通話が可能な方。
    UDトークが必要な方は申し込み完了後、ご連絡ください。   
    Mail)cinema.chupki@gmail.com     
会 場:オンライン会議システムZOOM    
    当日のお部屋IDはお申し込みの方にご連絡します。
参加方法:予約制(定員9名)

 

★お申し込み★

https://coubic.com/chupki/626106


*「ゆるっと話そう」は、どこの劇場でご覧になった方も参加できますが、これから観る方はぜひ当館で。日本で唯一のユニバーサルシアターであるシネマ・チュプキ・タバタを応援いただけたらうれしいです。
*シネマ・チュプキ・タバタの音響設備の効果により、爆撃音や砲音が、轟音や振動になって伝わります。苦手な方は、音量調節ができる親子室での鑑賞も可能です。

<これまでの開催>
第12回  プリズン・サークル
第11回  インディペンデントリビング
第10回  37セカンズ
第9回   トークバック 沈黙を破る女たち
第8回   人生をしまう時間(とき)
第7回 ディリリとパリの時間旅行
第6回 おいしい家族
第5回 教誨師
第4回 バグダッド・カフェ ニューディレクターズカット版
第3回 人生フルーツ
第2回 勝手にふるえてろ
第1回 沈没家族

進行:舟之川聖子(鑑賞対話ファシリテーター
twitter: https://twitter.com/seikofunanok
blog: http://hitotobi.hatenadiary.jp
hp: https://seikofunanokawa.com/

 

 

 

▼わたしの映画の感想

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▼映画制作現場のドキュメンタリー映画の感想

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▼この写真絵本もとてもよかったです

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映画『風の谷のナウシカ』鑑賞記録

映画『風の谷のナウシカ』を観に行った。

 

感染症流行の第一波が来た4月上旬に、「今読まなあかん気がする!」と思いたって漫画版を購入し、その後語る会をひらいた。

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その後、6月末からスタジオジブリ映画4作品公開との報。ナウシカは候補から外していたが、観に行った人がいずれも「よかった、ぜったい観に行ったほうがいい」と興奮しているので、予習をして観に行くことにした。

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観終わって......観たこと、受け取ったものがあまりにたくさんあるので、とりあえず並べてみる。(長いです)

 

やはり映画館で観るべし

このところあらためて痛感しているが、映画は映画館で観る用に作られている。
映画館で観るのが一番いい。最大に受け取れるようにできている。

特に映画が公開された日本の1984年といえば、家庭にビデオ録画再生機が普及しはじめているけれど(それでも30%程度)、VHS方式とβ方式の"戦争"をやっていた頃で、セルビデオは高価で、レンタルビデオもあるけれど全国で2500店程度と、まだ一般的ではなかった。(データ参照

つまり、「映画館で動員できるかが勝負」だった。今もそれはある程度機能しているが、様々なメディア、チャンネル、物販などの多数の販路がある中でいえば、当時はとにかく興行で当てて回収できるかどうかが、映画の命運を左右していただろう、と想像する。

そういう時代背景に思いを馳せながら観た。(もちろんもっと大きな動き、、政治、経済、国際情勢なども頭に入れておくと、さらに受け取るものがあるだろう)

 

映画は映像と音。

当時、ほとんどの観客は漫画を読んでいない。今よりずっと知名度がない中で、あの世界を瞬時にリアルに体感させる、造形にはかなりエネルギーが注がれたことと思う。単に漫画の線をセル画に落として色を塗るようなことではない。(そうだ、この時代、セル画だった、、、)

虫の飛行、メーヴェの滑空、王蟲の疾走、ガンシップコルベットの空中戦など、動きを捉えるカメラ位置や切り替え、ズームイン・アウト、パンなど、まるで一緒に撮影チームに混じっているかのようなリアリティがある。

なんといっても、鳥のように飛ぶことへの憧れ、そのビジュアル化。

生まれたときからCGを見慣れている世代からしても、リアリティを感じているようだ。(「リアリティとは何か」という問いは、おもしろい)

 

映画館の大画面で観ると、細かいところまでよく見える。

映画では「描いていないものは存在しない」ことになる。そして描いていてもピント外にあるものは注目はされないが必ず視界には入っていて、観客の中で世界観を構成する。

風の谷の石塀はこんなふうに積まれていたのか、

こういう風車が、何基、こういう間隔で、

葡萄がなっていて、

海との距離はこのぐらいで、

腐海の木の高さはこのぐらいで、

光弾を使うとクイやカイにも影響があるのか(そりゃそうだ)、

胞子を一つでも入れると大変なことになるという切実度合い、

肉体的な傷つきの度合い、

ナウシカの予感や感覚の「ハッ」という反応の鋭敏さ(現代人にないもの)、

風の谷はほんとうにずっと風が吹いているのか(以前茅ヶ崎の旅館に泊まったときに、一晩中海風がすごくて全く眠れなかったことを思い出す)、

腐海の底から見上げた景色はこんなか(サグラダファミリアやコロニア・グエルを思い出す)、

ほぼ唯一の食事のシーンなのにチコの実がほんとに不味そう、

ガンシップは風を切り裂くけれど、メーヴェは風に乗るのだもの」というその感じ、、、

映像化されることで浮かび上がってくるものや、自分の経験をつかってこの世界との関係がつくられるようになることに興奮する、というのか。

映像化されたら想像力が貧困になるということはないんだな、と思ったり。

 

音もすごい。

風の音(吹いているときと、止んでいるとき)、虫笛、メーヴェのエンジン点火音、爆撃の音、腐海の反響、虫の羽音、気圧、、、

一つひとつの効果音、背景音、劇伴、とにかく計算が緻密で作り込まれている。

ここが久石譲と宮崎作品とのはじまりだったのだなぁ、、と感慨深い。

そうだ、この後に出た数多の漫画やアニメや映画や、、、どれほど多くの表現に影響を与えたかと思うと、これが歴史のはじまりだったのだ、という感慨深さがあるのだな。

 

 

戦争漫画、戦争映画

ナウシカのDVDを持っているし、地上波放映で何度も何度も観て分かっている物語だった。

それなのに、映画館で、しかも今のわたしとして、今の状況下で観ると、まるではじめてのように新鮮だった。

それは映像と音のこともあるし、一旦漫画を経由して戻ってきたから相違に気づくということでもあるけれど、一番感じたのは、一切の手抜きなしの戦争漫画であり、戦争映画だった、ということ。

同じ辺境国のペジテを裏切らせたり、巨神兵生物兵器として出演させたことで、より戦争映画になっている。

 

ゆえに、観ている間、ずーーーっと緊張がある。

これがけっこうしんどい。

大国と小国のパワーバランス。

大国に侵略され、暴力でねじ伏せられ、環境の変動に抗いようもなく翻弄される人間。殺戮のシーンには恐怖をおぼえた。

日本の歴史を突きつけられるようなシーンも多々。

 

それぞれの正義の主張、「はじまったら止められないんだ」という言葉や「空気」、対話が不可能な相手や状況、トリニティ実験-原爆-3.11の原発事故を彷彿とさせる巨神兵、荒廃したペジテの爆撃跡(シリアを思い起こさせる)、、

寒気がするシーンが多々あった。

仮に2巻以降もアニメ映画化されていても、わたしはとても観られなかっただろう。凄惨な死が延々と続いていくのを、漫画だけでも辛いのに、映像と音でも体感するって過酷すぎる、、

 

「歴史」や「年代記」には大きな出来事、事実、主要人物の記録があるが、その中に生きていた一人ひとりの個性や願いや感情や小さな行動は残らない。「人々」としてくくられていく。(わたしもまた同様に)

たまたま同時期に、『この世界の(いくつもの)片隅に』が上映されていることを、ただの偶然とは思えない。こちらは人・人・人の物語だ。

差し出されているこれらを、自分が知りたいことの「ヒント」として受け取ってみると、何か見えてくるのではないか。

 

 

 

漫画とは別の世界線

この映画が作られた時点では、漫画は全7巻のうち2巻までしか刊行されていない。

ほんとうは長大な物語の最初のほんの触りだけを、しかも無理に改変して尺に押し込めた、実は失敗作だったのではないか?ぐらいにわたしは長いこと思っていた。

土鬼(ドルク)も、森の人も、虚無も、巨神兵オーマも、シュワの墓所も、世界の秘密もないアニメ版。

ナウシカは世界の救世主、スーパーヒーローで、環境問題を訴える活動家・戦士で、彼女一人のぎりぎりの自己犠牲によって、贖罪された!よかった!♪ちゃんちゃん♪というふうにも見えてしまう。

少女一人が期待され頑張らされていることや、スーパーヒーローかつ母性を持った救世主として神聖視されたまま終わっていることの違和感が、ずっとあった。

 

でも今みると、この物語は一つの可能性、一つの世界線、アニメーション映画という形式を生かした表現として成立していて、とても美しい。

たとえアニメ版が漫画への入口とならなくても、ナウシカという存在を軸にして語られる「生きよ」というメッセージは変わっていないことには安堵した。

漫画を読んだ者には、「これは世界の秘密を知る旅のはじまりにすぎない」ことはわかっているので、世界線の一つとして観ることができる。

時間が経っていて、そのあとに起こったことをわかっているからこそ、こんなふうに逆説的に語れるわけだけど、まるではじめから見越して作られていたかのよう。自分が今、SFを体験しているようでもある。

 

ふと思ったのは、当時のふつうの人たちにとって、この映画はもしかしたら「自分の命と地球の命」というスケールの対比をはじめて体感した出来事なのかもしれないということ。

生物や地理や歴史で学んでいたことが、ここに現実味(フィクションなのだが)を帯びて立ち現れるというか。(少なくとも当時小学生だったわたしにはあった)

エコロジーブームはあったけれど、積極的な活動家とは異なる層にも、訴えかけたのではないか、歴史にも環境問題にも関心がなかった人々の意識が向いたということはあったかもしれない。もちろん映画はそこを意図してはいなかったと思うが。

 

当時どのように受け止められたのか、
今どのように受け止められているのか、
興味深い。知りたい。

なんといっても今、わたしたちは、「簡易的な」マスクをして、人と物理的距離を保ち、腐海や瘴気の世界を観ているのだ。

この現実の凄まじさに衝撃を受けている人は多いはずだ。

 

これを作ったがゆえに、宮崎さんは、漫画の続きを描けたのだろうなぁと思う。

「これじゃない!」という怒りのようなもの。相当込み入っていて、自分でもどう運ばれていくかわからないが、はじまってしまった物語を最後まで引き受けて描いたということが、ほんとうにすごいと思う。

物語としてもすごいが、そのエネルギーがすごい。

それが時を超えて、世代を超え、国境を超えて、さまざまな人たちに読み継がれ、今、コロナの時代にあらためて解釈されている。そしてその解釈は果てしなく自由だ。

うーん、これは、もはや古典。

 

 

混迷を深める世界のリーダー

混迷を深める世界を生きる我々が、今この作品に触れる意味は大きい。

一人ひとりの力が全く及ばない自然の動きによる災害。

人間の行動の結果がもたらす多種多様な被害。

手応えが感じにくい世の中、社会の動きの中で、それでも呑まれずに、五感を使い続け、地に足つけて生きよ......そうナウシカが言っているようだ。

 

不安が強くなると、人間は強いリーダーや旧時代の「父権」を求め、同調圧力に怯え、保守化する。

しかし今必要なのは独裁ではない。自分の代わりに決めてくれる人でもない。

今の時代のリーダーシップは、違いを繋ぐ結節点になること。その人の存在が見えにくかったものを照らすこと、言葉の力を尊ぶこと。

そしてそれをする人は一人の救世主ではない。

ナウシカにはなれずとも、同じ道は行ける」(漫画『風の谷のナウシカ』)

「私は敬われたくもないし、蔑まれたくもない。私はただ共に歩んでいきたい」(映画『タゴール・ソングス』)

「本当に強い人間は、周りをも強くする。後進には希望を、仲間には勇気を、相手には敬意を。時間も空間も超えて、永遠になるんだって」(映画『ちはやふる〜結び』)

「その役割というのは、多分過去誰も経験したことのない、どの国の歴史にもない、初めての型式(かたしき)のリーダーシップにならざるをえないと思うんですよ」(映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』)

 

いろいろな作品にヒントがある。

作品を通じて、人が他者と分かち合えることが、尊い

ナウシカに関しては、こちらのブログにとても丁寧な解説・解釈があります)

 


「虚無」に食われないこと。

そして今もっとも重要なのが、虚無との付き合いだ。

突き詰めていくほどに、知れば知るほどに、世界にあるもののつながりや因果関係が見えてくると、「虚無」に食われやすい。

絶望や孤独や諦念が極まると虚無化する。

その巨大な曼荼羅の前で精神を保つのは、どんな強い人であっても難しい。

 

また、人間は不浄のもの、呪われたもの、この厄災は人間に下された罰、と見ると、今自分が立っている場所が小さく小さくなって、この世界に居ることが難しくなる。

ゴミを出さないことに取り憑かれた人のドキュメンタリー映像を観たこと、

去年の夏、東京都の臨海エリアにある生ゴミ加工工場と最終処分場を見学したこと、

などが、わたしの記憶から立ち上がってきた。

 

ああ、そうか、白と黒、敵と味方、良いことと悪いことの二元論に持ち込むと、最終的には人間存在の否定につながるのか。

風の谷のナウシカ』は、そこにブレーキをかけてくれる物語だ。ナウシカ自身、虚無に取り込まれるような危ない目に遭っているが、いろいろな存在の力によって最終的には救助される。

あのくだりを追体験することは、非常に大きな救いになるはずだ。

これからの時期、世界に立ち上がってくるのは、おそらく「虚無」だ。

 

「わたしの中にも闇はある」
「生命は闇の中に瞬く光」
「光や聖性の裏には虚無がある」
「すべてが混濁した中に生きることこそ人間」

ナウシカの物語は、ほんとうに示唆に富んでいる。

そして、これを一人の人間が生み出したということがすごい。

 

生きることを手放してしまうところまで行くと、いけない。

引き返せなくなる。行ってはいけない。

だから、 そうではなくて、

「ただ、生きよ」。

喜びも欲望も手放さない。

虚無に呑まれるな、あきらめるな。

 

 

生きよ。

 

 


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NT Live『夏の夜の夢』鑑賞記録

イギリスNational Theatreで行われる演劇公演の録画を映画館で観られるNT Live。

今回は、シェイクスピアの『夏の夜の夢』を観てきた。

https://www.ntlive.jp/midsummer

 

 

spice.eplus.jp

 

予習してもあらすじがよくわからないし、カタカナの名前が頭に入ってこないので、ついていけるかやや心配だったけれど、全く問題なかった。観ていればわかる。

いやーもう、ただただ楽しかった!!

終始チャーミングで愛にあふれていて、笑って踊って楽しむ、まさに喜劇!

性や"人種"の別をぶっ飛ばした、自由で開放的な人物像!

天井から垂らされた布を使ったエアリアル(空中パフォーマンス)や、突然シンガーが登場して歌い出したり、劇中劇をヒップホップで披露したりと、すばらしいショウ!

ベッドが置かれた台が上下や左右に移動し、その間を自在に俳優が動き回るエキサイティングな装置!

アテネの時代と妖精の世界、
シェイクスピアの時代とロンドンのブリッジ・シアター、
それを観ている現実のわたしと映画館を出れば日常に戻るわたしが、行き来しながらパラレルに同時に進行している、不思議な体験だった。

 

なんでもアリの大盤振る舞いの宴に、この作品の魅力をまるごと体感できた気分。

 

わたしはこの作品は『"真"夏の夜の夢』というタイトルで認識していて、勝手に「8月のすごく暑い夜に起こる、妖精がひらひらと踊る幻想的なお話」のイメージを持っていた。

でも原題は、"A Midsummer Night's Dream"。

"Midsummer"は夏至。Midsummer Nightは夏至祭前夜。五穀豊穣や子孫繁栄を願って、お酒を飲んで乱痴気騒ぎをする日なんだそうで、つまりその中には男女の交歓や結婚なども設定されていたようだ。日本でいうところの歌垣にあたるのかな?

真夏の夜のフェアリーテイルから、大人の喜劇へと、イメージが書き換えられました。

 

 

これまでの上演の歴史からすると、今作はかなり意欲的で斬新な変更(立場、性別)や台詞の追加やアドリブもかなりあったようで、シェイクスピア研究家から見ると逸脱しすぎでは、という評もあったよう。

たとえば、妖精の女王ティターニアと王オーベロンは、原作ではオーベロンが画策してティターニアを騙す行動をとるが、今作では、その立場が逆転していた。おそらくここが一番大きな改変。

さらにジェンダー・ブラインド、カラー・ブラインドなキャスティングは、まさに現代的な役割を背負っていた。オペラやバレエ、映画などで観てきたけれども、やっぱり演劇でもこの動きか!とわくわくした。

そういえば、だいぶ20年近く前の映画だけれど、『恋に落ちたシェイクスピア』も、シェイクスピア劇に出たい女性が男装して舞台に立とうとするという脚本だったな。

シェイクスピア演劇には、入れ替えたり、交錯させたくなるスイッチのようなものが仕掛けられているのだろうか?それが今の時代ととてもマッチしてきている?(仮説)

 

わたしのような素人から観れば、この作品との初めての出会いがニコラス・ハイトナー版でよかったと思う。幕間のインタビューも観たが、演出の意図はとても明瞭だったし、辻褄があっているという以上に、物語全体の進行によい影響を与えていたと思う。

今回はスタジアム型の劇場で、観客参加型を目指していたのもあり、こういう実験的な演出になったのだろう。

アドリブやお遊びも、たぶん現地で観ていたら、めちゃくちゃ楽しいはず。映画館で座ってみていても身体がむずむずするぐらいだから。

 

 

それに、毎回チャレンジがあるほうがシェイクスピア劇らしいとさえ感じる。

古典だから。

こういう実験版があるからこそ、「いつもの」「元々の」「他の」舞台も観てみたくなるし、調べたくなる。

古典、盤石!!懐深い!!

 

表紙がどれも素敵。 

 

 

最近2回観た『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』で、ジョーとフレデリック・ベアは『十二夜』の芝居を観に行っていたり、ジョーの小説についてフレディが評するシーンでは、
シェイクスピアだって大衆向けに書いた」
「彼は大衆芸能と詩を融合した」
「わたしはシェイクスピアにはなれない」
「もちろん無理だ」

というようなやり取りをしていたので、タイムリーでもあった。

「わたしもまさに大衆芸能と詩の融合を観たよ!」とあの二人に言いたい。

 

 

わたしがこれまで鑑賞してきたシェイクスピア作品は、
マクベス
リア王
・リチャード二世(これが初のNTライブ)
ハムレット

そして今回『夏の夜の夢』をようやく観られたところ。

まだまだ観てない作品のほうが多い。

しかも演出や演者や表現形式(演劇、バレエ、映画等)や上演形式(生か映画館か配信か)によって全然受け取るものが違うはず。

シェイクスピア」というジャンル!これまた果てしない道!(楽しい)

 

 

『夏の夜の夢』を近々バレエやオペラでも観てみたいなぁと思って調べたら、

なんと10月に新国立劇場でオペラ版があり、しかも演出がデイヴィッド・マクヴィカーである!最近、鑑賞仲間と夢中になっているMETオペラ・ヘンデル『アグリッピーナ』の演出家ではないですか。これは観たい!

www.nntt.jac.go.jp

 

こうして鑑賞体験が少しずつ繋がっていくのが楽しい!

 

さらに友人が教えてくれた、東京芸術劇場では演劇の舞台がある。

www.midsummer-nights-dream.com

 

いやはや、シェイクスピアってすごいな。
東京ってほんますごいな(いつでも、どこでも、なんでも演ってる......)。

と思いつつ、

しかしこのところの新型コロナウィルス陽性者の急増で、現在チケット販売が中止になっている。

復活しかけたところでのこの状況。わたしも辛いが、舞台関係者はほんとうに辛いことだろう......。

 

祈ること、こうしてブログを書くこと、自分を健康に保つことしかできないけれども、それを続けていく。

よい舞台を、出会える上映の機会を、ありがとうございます。

 


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▼NT Live(日本の公式サイト)

https://www.ntlive.jp/

 

▼NT Live(イギリスの本家サイト)

http://ntlive.nationaltheatre.org.uk/

 

Youtubeチャンネル(無料ストリーミング配信もあり。英語字幕表示可)

www.youtube.com

 

▼2019年に配信したポッドキャスト。畏れ多くもシェイクスピアを語ってしまった。

note.com

書籍『アミティ「脱暴力」への挑戦』鑑賞記録

『アミティ・「脱暴力」への挑戦』

 

ライファーズ 終身刑を超えて』『トークバック 沈黙を破る女たち』『プリズン・サークル』などを撮った映画監督・坂上香さんの編著。

 

 

読む前は、坂上さんの映画作品のキーワードである(とわたしが思う)、「感情の表現」「回復を促すプログラム」を知る手がかりと、アメリカの「アミティ」という犯罪加害者回復支援を行う団体の取り組みを紹介する本だと期待した。

確かに3分の1はその通りで、坂上さんの単著『ライファーズ罪に向き合う』とはまた違う角度から、アミティと坂上さんとの出会い、アミティの歩み・組織・活動データ、プログラム内容(例えば映画『プリズン・サークル』でも出てきたソーシャルアトムやサイコドラマなど)などが書かれている。

映画を観た人にとっては、「あのTC」が影響を受けたアミティのプログラムについて、より理解を深めることができる。

 

しかし、わたしが本書で最も強く心をつかまれたのは、第2章の、2000年に起きた西鉄バスジャック事件の生存者の語りだった。この章を読むまで記憶から遠ざかっていたが、事件当時、大きな衝撃を受けた。その事件を彷彿とさせる青山真治監督の『EUREKA(ユリイカ)』を観たこともあって、何年も考え込んでいた。

その記憶が一気に押し寄せた。

あのとき何が起きていたのか、事件のあと被害者の人生はどうなったのか、家族との関係は、加害者との関係、加害者家族との関係が、克明に語られていく。読みながら心は大きく揺れたが、それを上回る語りの力に、確かな光も感じられた。

時間が止まっていたあの出来事に今の自分として出会う。

本で出会う。

出会い直すことの意味を差し出されたような体験だった。

 

本書は、感情の取り扱いと暴力との関係という点では、カウンセラーやセラピスト、コミュニティの運営者やスタッフなど、対人支援職の方の大きな学びになるだろう。

また、「加害者の回復を支援することがなぜ必要なのか?」という長年の問いを抱えている人にも、加害と被害の相関を示す一つの答えを示している。

もちろん、あくまでも出版された2002年当時(あるいは少し前)の状況であって、20年近く経った2020年の今はまた違う状況や語られ方があるだろうけれど、本書はこの時点での非常に重要な記録であり、社会への提言だ。

 

何箇所か引用する。

子どもに限らず大人も老人も、だれにも関心を払われることなく自らの感情を閉ざしたまま暮らすことを余儀なくされているのが現代であり、そこで溜めこまれた負の感情が、前後の脈絡もなく暴発するという現象は時代が生み出した病理だといえる。ゆえに、私たちはアックンのように施設で暮らす子どもたちだけでなく、社会のあらゆる層の人々に感情表出の機会を保障する方法を、いかに構築していくかということをも視野に入れる必要があるように思う。(p8)

 

人と人との関係の中で生じたダメージは、人間同士の関係の中でこそ修復が図られるのだと思う。(p9)

 

前後のつながりを把握し難い事件の顕在化の背景には、経済効率を至上とする社会的価値観の影響が多分にあるといえる。(p11)

 

噴出する感情が向かう先は一定ではなく、人によっては自己に対する攻撃となって発露されるし、また外部へ向けた攻撃となって現れる場合もあるし、内と外へ同時に向けられることも珍しくない。(p12)

 

アリス・ミラーは、「事情をわきまえた証人」や「助ける証人」の存在が、暴力の連鎖を断ち切るキーポイントになると言っている。地域社会や家族に、そうした存在を期待することが困難なのだとすれば、私たちは「証人」を生み出す必要があると思う。(p14) 

 

あのとき、強く印象に残っているのは「連帯責任です」という言葉です。ああ、彼はそういう言葉で傷ついていたんだなあと、すごく思いました。(p.54)

 

こういったポジティブなメッセージや姿勢は、破壊的な行動を逆転させるのに役立ちます。そのなかで、スタッフ、教師、そして大人たちは、参加者に変化を要求するだけでなく、自らも変化する必要があります。(p.211)

 

上記引用のどれかひとつでも気になるものがあったら、ぜひ読んでみてほしい。

大変残念なことに、現在は絶版のため、どのサイトでも大変な高値がついている。

図書館で借りれば読めるが、本来なら購入して手元におきたい本だ。

再版を希望する。

 

 

▼これを読んでいて思い出した書籍 

 

▼関連記事

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書籍『ヒロシマ 消えたかぞく』鑑賞記録

『ヒロシマ 消えた家族』(ポプラ社)

 

毎日小学生新聞の本の紹介欄で知った写真絵本。

女の子と背中のネコが同時に目を細めている表紙が印象的で、今すぐ読みたいと思った。

 

めくっていくと、アルバムのようなつくり。

レイアウトされたモノクロ写真にコメントが添えられている。

家族の父で、これらの写真を撮った鈴木六郎さんの筆跡もあれば、著者の指田和さんが、遺族の話を聞いて添えたものもある。

 

お父さんの眼鏡を借りて、

4人きょうだいと従姉妹が手をつないで、

海辺でおにぎり、窓いっぱいに落書き、満開の梅の花に手を広げる、

弟の誕生、草むらに寝転んで、ネコといぬと遊んで、、、

 

家族の一人ひとりがほんとうにかわいくて愛おしくてたまらないと、カメラを構える六郎さんの気配がする。

六郎さんの写真もある。妻のフジエさんが撮ったのだろうか。

 

一枚一枚からあふれ出る愛。幸福。

 

犠牲の数字の大きさや凄惨さ、終わらない苦悩の深さに目が眩んでしまう。

けれども、ここには、笑顔と愛にあふれる家族が、確かに生きていた記録がある。

知らないこの家族のことを一瞬で大好きになってしまう。

そのおかげでわたしは出来事を見つめることができる。

どんな重大なことも、具体的な人間の生を通してしか、ほんとうのところは理解できないのじゃないか。

実在にせよ、架空にせよ。

誰かが編んでくれて橋渡してくれた、誰かの表現を通じてようやく、わたしの貧しい想像力は最大化される。

 

新しく「発掘」し続け、解釈し続ける。

人々の、そのたゆまぬ努力を讃えたい。


英訳も全ページについているから、日本語話者でない方にもシェアできる。
隅々まで丁寧に愛を込めてつくられた本。

出版してくださってありがとうございます。

 

 

広島といえば、こんな本も思い出す。

映画監督でもある西川美和さんの『その日東京駅五時二十五分発』

なぜか忘れ難い一冊。これもまた、具体的な人間の生。

 

 

*7月25日(土)20:00〜

オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

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noteでも書いたり話しています。

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書籍『ナウシカ考 風の谷の黙示録』鑑賞記録

6月末から、映画館でスタジオジブリの4作品をリバイバル上映している。

www.ghibli.jp

 

5月に漫画版『風の谷のナウシカ』を語る会をひらいたこともあり、アニメ版ナウシカは気になるところではあった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

観に行った人たちが口々に、「観てよかった!DVDじゃわからん!絶対に映画館で観るべし!」と話していた。誰も彼もがすごい熱量。これはなんかある。

人間活動が温暖化など、地球に与える影響は年々、いや、時々刻々、待ったなしの状況。被害に備えて戦々恐々とし、被害を聞いて憂えるだけでなく、解明したい、これからの行動の指針を自分の言葉で語りたい、という気持ちがずっとある。

そもそも漫画版を買い直したのも4月の上旬だった。(10代の頃に買ったものが実家にあるはずだが、きょうだいの誰かが持って行ってしまったらしく、今はない)

あの時期、何かに突き動かされるように、ナウシカの物語を求めた。

 

 

観る前にどうしてもこちらの本を読んでおきたかった。どうせ観るなら、マンガ版とアニメ版の相違・差異や、今この時代にアニメ版を観る意味をしっかりとつかんで言葉にしたい。

『ナウシカ考 風の谷の黙示録』

 

 

漫画版『風の谷のナウシカ』を読んで、もっと深く考えたい人向き。

 

とはいえ、作り手の意図や仕掛け、謎解きをマニアックな目線であばいて得意顔になる考察本を想像すると、だいぶ肩透かしを食らう。

語り口調はおずおずと、想像と推論と問いかけを取り混ぜ、共に語らいながら読書を進めていく。評論というよりも、まるで読書会のような趣のある本だ。

漫画のコマもときどき引用されているが、多くは情景説明や、セリフの引用しながら物語を歩いている。この感覚も今までにない感じでおもしろい。読書会で、付箋を立てたところを感想を述べ合って行ったり来たりしながら、螺旋状に深まっていく感じに似ている。

赤坂さんがご自分を目一杯使って感じ、考え、調べ、言葉を紡ぎ、余白を残しながら語ってくれることで、読んでいるわたしにも気づいたり、思い出してつながることが多い。かといって感想ブログのようなものでは決してない。

作者の宮崎駿の前後の作品制作も追いながら、時代背景も提示しながら、古今東西の研究を引きながら、作品を観察して、重要なキーワードを提示しながら、作者の意図を超えたところにある大きなものを見ようとしている。

なんといっても「この物語は黙示録」という解釈だ。

この作品がわたしたちにとってなんなのか、何を伝えようとしているのか、何が読みとれるか、わたしたちの中に何が生まれるのか、どんな意味があるか、、、読者の中の詩的で思想的で哲学的な部分に、橋をかけ続けてくれる本だ。
 

これぞ鑑賞なのでは!?


そもそも表現とは、鑑賞者が半分は担って完成させるものなので、作品から鑑賞者が何を受け取るかは自由。作り手の意図や隠された暗号を知ることは、その鑑賞体験を豊かにする範囲において意味があるけれど、それに引きずり回される必要はないのだ。

 

読み終える頃には、自分の中でマンガ版『風の谷のナウシカ』がかつてないほど屹立している。この混迷の時代にあっても、絶望せず、虚無にさらわれることなく、一つひとつの命を精一杯生きよう、と思える。

 

▼読書メモ、もりもり。

f:id:hitotobi:20200714104217j:image

 

 

赤坂さん独特の揺らぎや戸惑いの文体(「〜ではなかったか。」)やあえて宙吊りにして、時には回収もしない進め方に、煮え切らなさをおぼえる人もいるかもしれないが、わたしはそこが魅力だと思っている。 これは、2017年に開催された『性食考』の出版記念イベントで、赤坂さんの「穏やかだけど常に戸惑い揺らぐような話ぶり」に出会っていたことが大きいと思う。

▼短いイベント鑑賞記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

この日も対談パートナーの鴻池朋子さんの鋭いツッコミがあってようやく出てくる話がどれもよかった。このとき聞いた中で覚えているのは、「『性』の話は恥ずかしくてなかなか書けなかった」という告白(?)。「研究者が恥ずかしいって!」とびっくりしたけれど、正直な部分をある程度歳を重ねた男性が、公の場で戸惑いながら出すっていいな〜と思ったのだった。 

このイベントに行っていなかったら、『ナウシカ考』はずいぶん戸惑いながら読んでいたことだろう。

 

作品は作品としての人格を持ち、いろんな人と出会いながら独自の道を歩いていくものだ。とはいえやはり、作者の人柄とは、切っても切り離せない。

それを含めた読書の楽しみ方だってある。(作者本人がそれを望む望まぬとにかかわらず)

 

 

▼こちらのインタビューは、『ナウシカ考』本編でふれていない部分について、これまた小説家の川上弘美さんがよい切り口を提示をしてくださっていて、興味深い。

www.asahi.com

 

上記のインタビューでも、5月の漫画を語る会でも思ったが、人間は性の別だけで必ずしも区切れるわけではないが、この物語に関して言えば、複数の性のアイデンティティから照らしてみることは、かなり有効かもしれない。全然違っておもしろいから。

それぞれの着眼点の提示が、他者へのギフトになることは間違いない。

 

 

漫画版もぜひ一生に一度は読んでほしい。(でも、一度ではわからないので、何回も読む羽目になる......)アマゾンでは今、一時的に価格が高騰している模様。

 

 

うーん、映画が楽しみになってきた!!

 

 

noteでもあれこれ書いたりしゃべったりしています。

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映画『<片隅>たちと生きる 監督・片渕須直の仕事』鑑賞記録

7/25にひらく「ゆるっと話そう」の準備の一環で、ドキュメンタリー映画『<片隅>たちと生きる 監督・片渕須直の仕事』を観てきました。7/14(火)までなのですべりこみ!

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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、想像以上に大切に緻密に積み重ねて作られた映画でした。

だからあのように人々が生きていたし、わたしもたくさんのものを受け取ったんですね。(先日観たときの感想>>https://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2020/07/11/170423

 

「映画は映像と音しか作れない、あとはお客さんが心の中で作る」ということを片渕監督がおっしゃってましたが、その「お客さんが作れるように」するための作り込みの。でも大切な部分は描ききらずに、余白を十分に残してあって。

ああ、すごいな。。映画ってすごい。

 

ドキュメンタリー映画にも登場する「水口マネージャー」さんが上映後のトークにいらしていて、映画が「片隅たち」に光を当てる様をリアルに見ました。この方の存在はちょっと説明が難しいけれど、片渕監督の言を借りれば、「物語の世界と現実の世界をつなぐ人」。https://twitter.com/mizuguchisanten

 

 

全国にある地元の映画館とそれを愛する人々もたくさん出てくる。

世代をつなぎ、違いをつなぎ、土地をつなぎ。

映画の世界ってこんなにも豊かなんだ、と胸にこみ上げるものがありました。

 

片隅の声は小さい。

けれども、この世界に無数にある片隅の物語は、必ずだれかの居場所になっている。そしてその物語を愛する人もたくさん。

 

このドキュメンタリーを観終えて、自分の中のヒロシマに向き合うときが来た、という思いがふと降りてきました。それを中心とした内容ではなかったのですが、真摯なものづくりに刺激されるものがありました。

 

ちょうど広島平和記念資料館では、10月末までの予定で『広島のすずさん』展を開催しているようです。

http://hpmmuseum.jp/  

 

★シネマ・チュプキ・タバタでの上映は7月31(金)まで

chupki.jpn.org

 

 

★2020年7月25日(土)20:00〜 Zoomにて

オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

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METオペラ『アグリッピーナ』鑑賞記録

METライブビューイングで、ヘンデルの『アグリッピーナ』を観てきた。

 

陰謀大好きな女帝から、ドラッグ大好きなドラ息子、ゴルフ大好きセクハラ王、現代演出だからこそさらに深く面白い!今シーズンのベストワンとの呼び声高い本作(公式twitterより)

 

www.shochiku.co.jp

 

 

昨年末に古楽器によるヘンデルの『リナルド』というオペラを紹介してもらったことが大きい。読み返すと当時の興奮を思い出す。やっぱり感想、書いとくといいわぁ。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

METライブビューイングのページに動画も載っているので、それを聴いて、いくつか直前にサイトを見て予習。

ROHではカウンターテナーが3人とか!客席も巻き込んでの演出とか!

www.j-news-uk.com

 

家系図助かる。このサイトでは3幕構成になっているね。

handel.at.webry.info

 

▼今回の公演のレビュー

www.gqjapan.jp

 

で、観てみて......。

 

いやもう最高!!!!!最強!!!!!

なんという!!!

 

あらすじも歌詞もあんなにえげつないのに、音楽も歌唱もどこまでもどこまでも美しく、天に昇っていくようで。

バロックのトランスに浸りながら、人間の欲望や邪悪さ、醜さや滑稽さがこれでもかと吐き出されていく。自分の中にも確かにあるそれらが、執拗なまでのリフレインを仕掛けるバロックのトランスに載って展開されていく様は、不思議な爽快感があって、観劇というよりほとんどお祓いだった。

 

とにかく元気が出る。

 

あれ、この感じってどこかで味わったことがあるな?と思ったら、シェイクスピア演劇だ!わたし、これから「ヘンデルってオペラ界のシェイクスピアを目指したんじゃないか?」説を唱えていこうと思います。(ピーター・グリーナウェイの世界観もある説)


緊張感のある舞台だけれど、基本は喜劇なので、心理的に追い詰められる感じはまったくない。めっちゃ楽しいときって、マジ顔でハラハラワクワクしている。あのときの感じ。でもゲラゲラ笑うときもあって。稀有な体験をした。。

 

ローマ帝国を、バロック音楽で、現代に置き換えるって、どんな時空の超え方よ?と思うけれど、これがピタッとはまって、完全に昇華されている。すばらしい演出。

演出、演技、歌唱、衣装、照明、撮影、、舞台全体のクリエイティビティとクオリティが高くて、すべてにおいて進化している。

キャストが最高。

「芸」が細かくて、1カットも見逃せない。

METスゴイ。

ヘンデルに300年後こんなふうになってるよ!!と教えに行きたい......。 

 

上映時間は3時間55分(途中10分休憩)だけど、全然長さを感じない。
(長尺を見慣れているというのもあるけれど)

 

友人と誘い合わせて観に行って、帰りに三越ラデュレで美味しいお茶飲んで、わいわい喋り倒して、「今夜は肉しかない!」と言いながら、良い気分で帰宅。

鑑賞仲間にチャットスレッドで感想を話し始めたらもう止まらず、「ぜったい観てほしい〜」と煽りまくった。

また大好きなオペラが増えた。うれしい。

 

 

製作陣一人ひとりの次回作を観るのが楽しみでならない。
ぜひコロナが落ち着いて、公演を再開できますように。

まずはインスタグラムのフォローから......。

Joyce DiDonato
https://www.instagram.com/joycedidonato/

Brenda Rae
https://www.instagram.com/brendaraesings/

Kate Lindsey
https://www.instagram.com/kate_mezzo/

 

毎シーズン観ていると、「知っている人」が少しずつ増えていくのも鑑賞の楽しいところ。もちろん鑑賞仲間とのつながりも。豊か。

 


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思わずこれつぶやいてしまったけれど、ほんとそうじゃない?

 みんな怒ったとき、やりきれないとき、ハッピーなとき、刺激がほしいとき、オペラ観るといいよ〜!!

 

 METライブビューイング、ほんとうに好き。たくさん世界を広げてもらいました。

 

www.instagram.com




アグリッピーナ』を演出したデイヴィッド・マクヴィカー曰く、「歴史は繰り返す」がテーマだと。

確かにこういう構図を家庭や職場や学校や地域や自治体や国や、、いろんな単位で見たことがある。

アグリッピーナの権力欲だって、ただ一人の異常な行動ではなく、自分が成し得なかったことや努力のしようもないことなど、社会(父性、父権)への恨みを晴らすために、自分の子の人生を使おうとすることは、大なり小なりある。

特に子どもが男ならなおさら、男社会に刺客として送り込みやすいから。数々の悲劇が生まれてきたことだろう。わたしも自分が親で、息子がいるので、他人事ではない。

もちろん性別の問題だけでもない。

 

あのオペラの中でまともそうな人はオットーネだけだけど、力はない。良い人ほどだまされやすい。
大事なのは、自分の中の邪悪さは漂白しないほうがいい、ということ。
邪悪を持っているからこそ、邪悪のことがわかる。

 

放っておくと、いろいろやらかしちゃう人間のために、予防と治療を同時にやっているのが、芸術なのかもしれない、なんてことも思った。

オペラや映画や文学、、

何かわからない危険な(アグリッピーナ的な)ものが発生したときに、社会学や心理学の眼差しだけでは到底理解しきれないことが出てくる。そういうときに、芸術の出番。歴史や地理や文化を濃縮した作品の形に提示するからこそ共有できたり、解釈可能なものになる。

 

 

当日の鑑賞と、仲間との感想のやり取りから、そんなことを受け取りました。

 

いやー、もう一回観たい!!!

年に一回は観たい!!!

人類に必要なオペラ!!!

 

 

 

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映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』鑑賞記録

今月末にチュプキさんと対話の会をひらくため、鑑賞した。


『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

ikutsumono-katasumini.jp

 

 

この映画の関係者の方とたまたまお話する機会があったときに、「前作にもやもやしている方にはぜひ観てもらいたい」とおっしゃっていて、「へえ〜」とは思ったけれど、それでもなかなか積極的に観に行こうと思えなかった。


それほどに、前作には大きな違和感があった。

違和感について4年前にブログに書いた。

hitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

 

今読むと稚拙な書きぶりが恥ずかしいが、自分なりの大事な視点も入っていて、今回の鑑賞に活かされているので、書いておいてほんとうによかったと思う。

 

 

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、『この世界の片隅に』の公開から3年の月日を経て、250カット以上の作画を追加し完成した作品。

「ディレクターズカット版」や、「すず&りん編」ではなく、(さらにいくつもの)を真ん中に入れ込んだタイトル。

追加された(さらにいくつもの)が意味するものは、実際に観てみるとよくわかる。

 

原作にありながら、前作では描かれなかったりんと主人公すずの関係を中心に、すずの新たな面を取り込んだことで、周りの人物が生き生きと立ち上がっている。どのシーンにも感情が映り、物語の世界の大切な一部となっている。

いくつもの片隅の物語が動き出し、簡単に善悪のつけられない、複雑で混沌とした世界の有り様が描き出されている。

 

完成度の高さに息を呑んだ。

そう、これが観たかった、これだよ、これ!と観ながらわたしは興奮していた。

原作世界への深いリスペクト。

声優、俳優の素晴らしい演技。

アニメーションにしかできない映像と音響の革新的な表現。

全方位に技術の進歩を感じる仕上がり。

感情の繊細な動き。緻密さと余白。

 

それでわかった。

前作で削られていたものの中には、わたしの、多くの女の人たちの、かつて子どもだった人たちの生にかかわる大切なことがあったのだ。

ゆえに削られたことがこれほどまでに苦しく、悔しかった。

そこは見ない、ないことにされたようで。

また、それが削ぎ落とされた世界を、多くの人から絶賛されていたことが辛かった。

 

「すずさんの知らない面を多く見て戸惑った」というレビューを見かけた。

そう、複雑な存在だ。誰しも。

誰にも言えない気持ちを持っている。心の奥底に秘密があるし、いろんな感情がうごめいている。精錬で優美で邪悪で陰険だ。繊細で雑で、清純で妖艶で、子どもで大人で、弱くて強い。矛盾に満ちた複雑な存在だ。

相手との関係によって見せる面がくるくると変わる。

人間は役割や設定を生きているわけではない。

 

暑い時期に観ているので、映画の中と重なってきて、考えることが多かった。

 

戦争を背景に、その時間を生きる人たちの姿を見、

人たちの姿を見ながら、戦争を見る。


「この人たち」が命をつないでくれたから今の自分がいる。その人間のたくましさや希望を見る。

それと共にわきあがるのは、市民が、被害も加害も、とにかく現実を何も知らされていなかった、知り得なかったことへの無力感。

まだ聴いていない無数の片隅の物語が、あとどれだけあるのだろうという徒労感。

2020年の今もなお知らないことや、ふりかえれていないこと、課されてきた宿題の膨大さ、甚大さ......。

 

そして、なにより恐ろしいのは、もしも次に戦争になったとしても、もはやこのような画ではない可能性が高いということ。

言い方が難しいが、、映画は、戦争の恐ろしさを伝える役割やふりかえりの機会を提供しながらも、わたしたちの中の戦争のイメージを固定化する危険性もどこかはらんでいる、とも思う。今後起こり得ることについて考えるときには、他にも様々な叡智を駆使する必要がある。(参考図書:戦争とは何だろうか

......など様々な思いが胸をよぎる。

 

いや、まずは日本全国津々浦々、共有できる状態になった、知るところになった、ということが大きいのか。広島や長崎や沖縄で育った子どもたちは、その土地固有の学びとして、「平和教育」でこのような物語は、おそらく繰り返し繰り返し扱われてきたことだろう。この映画によって、それ以外の土地で育った人たちにも届いた。

さらには、世界へ。

 

 

ひと言では語れない。白黒つけられない。やりきれない。

でもそれだけじゃない。何かを言葉にせずにはいられない。

 

これもまた、わたしたちの生きている世界。

わたしたちが見てきたいくつもの片隅の物語。

このことを、映画を通して共有できる有り難さ。

 

ぜんぶ最初から丁寧にすくって描いてもらえた気がした。

再び作ってくださってとてもありがたく、報われたような気持ちになった。

 

前作を観た方も、新しい作品を観るように、出会ってほしい。


必見。

 

 

チュプキさんの音響は、「防空壕サウンド」の異名を持つほど、爆撃音や砲音などがリアルな轟音と振動で伝わってきます。わたし自身、想像以上の恐怖を味わいました。感じ方は人それぞれですが、「自分はきっと苦手だろう」と自覚されている方は、音量調整が可能な「親子室」での鑑賞をお勧めします。お一人でもご利用できます。

 


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____Information____

7月25日(土)夜、Zoomにて

オンラインでゆるっと話そう『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を開催します。

chupki.jpn.org

 

 

▼チュプキさんのロビー、今こんなんなってます。
f:id:hitotobi:20200711161557j:image

 

 

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映画『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(原題:Little Women)鑑賞記録

映画日本題『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(原題:Little Women)を観てきた。(タイトル長い...正式表記難し...)

https://www.storyofmylife.jp/

f:id:hitotobi:20200710112831j:image 

 

 

鑑賞仲間の評判がすこぶるよかったので、とても期待して観に行った。

いやほんとうに、めちゃくちゃよかった!友人の「誰が観ても嫌な気分にならない」という感想の意味が、実によくわかった。

脚本、登場人物、俳優、編集、カメラ、照明、音楽、衣装、美術、、、

すべてがよい!びっくりするぐらいよい!

今これを観られてよかった!!

観終わった瞬間、もう一回観たい!と心から思った。

 

 "女性がアーティストとして生きること、そして経済力を持つこと。それをスクリーン上で探求することは、今の自分を含む全女性にとって、極めて身近にあるテーマだと感じています。"監督・脚本/グレタ・ガーウィグ公式ホームページより)

このことをとても受け取った。わたしは女性で、ジェンダーギャップ指数121位の国で生きているから。(2019年)

 

しかし男性がなおざりにされているとか、責任追及や非難をされているかというと、まったくそうではない。アーティストとして生きること、経済力を持つこと、社会で発言権を持つことが難しい、、そんな人生を生きる女性たちの葛藤に対して、男性たちは真摯で誠実である。かれらも自分の葛藤の人生を生きながら、そのことに向き合っている。その姿は美しい。

性別も、年齢も、"人種"も、経済格差や差別の問題も、この映画ではすべて「あるもの」として大切に扱われている。

 

映画の中で一人ひとりがその人の人生を生きている。

必死にやったことを間違っていたと認めたり、

決めたことだけど、挫折したり、

反発していたけれど、賛同したり、

これが良いと信じていたけれど、ふりかえれば違うふうに感じているとか……いろんな葛藤と決断が出てくる中で、「変わってもいいのだ。変化しながら生きてゆくことが美しいのだ」と伝えてくれる。

 

この映画は、世界がこんなふうになったらいいのにという理想ではなく、時代が変わっても、映画の世界でなくても、あり得ることだ。

自分の中にもあった「よい経験」をいくつも思い出して、つなげて、極めて現実的で日常の役に立つ物語に転換する力を持つ。

 

よい物語。

 

四姉妹の母・マーミー・マーチの「わたしも時間をかけてやったの。あなたはもっとうまくやってね」という言葉。これは、具体的な言葉にはしないけれども、伯母の態度や行動にもあるもの。それは、「前の世代から受け継いだものを、自分の世代でよりよくし、次の世代に手渡していく」というテーマ。

そのことにまさに今取り組んでいるわたしとしては、このあたりからもう涙が出て仕方なかった。

 

わたしたち、望むほうへ進んでるんじゃないかな。

そう信じられる希望の物語。

 

2回目を観る友だちと一緒に行って、終わってから感想を話していたら、3時間も喋り続けていた。映画の感想と、そこから展開した映画にも関係ある大事な話と。

次観るときは、この豊かな時間も持って行って観るから、もっと体験がふくらむはず。楽しみ。

 

それ以外の感想もたくさんあるけれど書けない、自分にとって大事すぎてまだ書きたくない。

と、いうぐらいによかった。

 

言葉に力があり、展開がとても練られた脚本だったので、英語のシナリオがほしいな、取り寄せできないかな、と思ってネットを検索していたら、なんとすぐに見つかった。これ読んでからもう一度観にいくと、オペラを観に行く前にアリアを予習するみたいに、きっと味わいが百倍になるはず。

 

variety.com

 

とにかくおすすめです。『若草物語』を読み返したほうがいい?と聞かれたけど、いや、むしろ自分の今抱いている『若草物語』のイメージのまま観に行ったほうが、受け取るものが大きいんじゃないかと思う。

 


f:id:hitotobi:20200710112854j:image

 

 

でもね、ここからが一番書きたかった話。

 

この映画の素晴らしい革新性と力強いメッセージにもかかわらず、日本の予告編が全然別物で残念なのですよ。

 

youtu.be

 

「結婚するかしないか」「なんのために結婚するか」「結婚か仕事かで迷う」人たちの話みたいに見えてしまう。押し出されているのは、弱さ、優しさ、ときめき。
四姉妹のそれぞれのキャッチコピーも、そんな一面的な人物像ではない。
こんな話ではない、この作品の奥深さが伝わってこない。

宣伝のための「これまで通り」の編集や言葉の使い方が非常に残念な予告編になっている。

 

オリジナルの予告編と見比べると一目瞭然だ。

 

youtu.be

 

日本の予告編からは、差別の現実、伝統的な価値観への抵抗、自立した個同士の対等な関係性、アーティストへの敬意、野心、主張、才能がすっかり抜かれている。

それが何を意味しているのかは、容易に知れる。

それって、作品と観客への冒涜とも言えるんではないでしょうか。

 

わかりやすくすることは、旧い価値観を踏襲することでも、ステレオタイプ化することでもない。この予告編を作るだけのクリエイティビティがあれば、あの映画に込められたメッセージや世界観をわかりやすく伝えることは造作もないはずなのに。

 

と考えていたら、2016年に見かけたこのツイッターまとめを思い出した。

togetter.com

 

ハッシュタグは「女性が主人公の映画」のほうがよかったと思う)

この一連のツイートを観て、違和感が言語化されたようでスカッとした。

実際観てみたらイメージが全然違う内容だったというのは騙しだし、「ターゲット層はこういうのを喜ぶだろうから」というのは、ローカライズではない。

ひと昔前の、海外の状況を知る手段がない、英語も得意でない、という扱いで「大衆」向けに広告を打てた時代はとうに過ぎている。

 

映画は、他国の文化風習を知ることを通して、自国や自己を省みる機会でもある。

映画はビジネスでもあるが、メディアでもあり、文化の担い手でもあることを、今回の鑑賞を通じて再認識した。

 

いろいろ書いたけれど、『Little Women』は、性別も世代も立場も関係なく、とにかく誰が観ても幸せと希望を感じられる映画です。

ほんと、みんなに観てもらいたいよ。(なんにでもすぐこう言っちゃうけどネ)

 

グレタ・ガーウィグ監督の前作も良いです。ジョーとローリーが出てるよ。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

*追記*

先日2回めを観に行きました。1回めには気づかなかった箇所に目が(耳が)いってもっと受け取るものがふくらむ。2回観るととてもよいです。

diskunion.net

 

 

 

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METオペラ『ポーギーとベス』鑑賞記録

METライブビューイングでオペラ『ポーギーとベス』を観てきた。 

ガーシュウィン《ポーギーとベス》 | 演目紹介 | METライブビューイング:オペラ | 松竹

 

安定の東劇、好き。


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もともと観るつもりでなかったのだけれど、いつもオペラの話をしている鑑賞仲間が続々観に行っていて、持ち帰ってくるその熱狂ぶりが気になって、わたしも観ることにした。

新型コロナウィルスによる感染症拡大の影響を備忘として記録しておくと、

メトロポリタンオペラは、3月12日以降の今シーズンの現地全公演を中止することを決め、第9作《トスカ》と第10作《マリア・ストゥアルダ》は、公演中止。

 

現地で公演&収録済みの第6作《ポーギーとベス》、第7作《アグリッピーナ》、第8作《さまよえるオランダ人》は日本でもライブビューイングで上映予定だったけれども、4月3日から公開していた《ポーギーとベス》と4月10日から公開の《アグリッピーナ》は政府の緊急事態宣言を受けて映画館自体が休館。

緊急事態宣言が明け、社会が平常に戻りつつある6月26日から、映画館が再開して《ポーギーとベス》が上映、、という流れ。

 

3月からの3ヶ月ちょっとの間、メトロポリタンオペラは過去の公演を日替わりで無料ストリーミングしてくれていて、それを観ながらなんとかしのいでいた。途中ではこんな記事も書いた>ありがとう、MET Opera!

やっぱり映画館で大きなスクリーンで、良い音で観たい〜!!と渇望していたので、《ポーギーとベス》は待望の再開だった。

スクリーンに映る客席では誰もマスクをしていないし、いつものように満席で、人々の笑いさざめきが聞こえ、オーケストラもオペラ歌手たちもそれぞれの表現を目一杯している。それを観ているわたしは、ひと席おきに設定された座席に座り、手は消毒をして、マスクをしている。そのギャップに切なくなったりもした。

でもそうまでしてもやはり観たかった!!わたしにはオペラが必要!

 

また、作品のテーマからいうと、アメリカで起きたBlack Lives Matterのウェーブが世界に大きな影響を与えているときでもあった。

METでの上演も30年ぶりとのこと。

さまざまな意味で、わたしにとって特別な作品、特別な鑑賞になった。

 


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いやー、 観てよかった!ほんとよかった!!

ただいまメト!オペラがあってありがとう!

うれしくて泣いた。

アツい感想が止まらない。

非常に現代的で普遍的な物語。

今後もそのときどきで解釈され演じられて、観た人の一部になっていくのだろう。

 

 

徒然と感想メモ(かなり詳しく書いたので未見の方はご注意を

1920年代のアメリカ南部の町、チャールストンが舞台。オペラ初演は1935年。世界で最初のミュージカル作品は1927年の『ショウボート』だそう。ブロードウェイのミュージカルが全盛になっていく直前の、移行期のような作品。オペラでもありミュージカルでもあるような、不思議な魅力の作品。

ガーシュインのバリエーション豊かな音楽と歌手の表現力(歌唱力と演技力)が全編に渡って素晴らしい。物語の展開も速くて、3時間半近くあるのに、全く飽きない。

・サイコロ博打、運を天に任せて刹那的に生きるしかない彼らの象徴のよう。

・薬物依存症という観点から、『生きのびるため犯罪(みち)』『その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち映画『トークバック 沈黙を破る女たち』などを思い出した。現代の現実社会の話をして観た。それぞれの作品に出てきた、薬物依存を抱えている女性が、男性との関係や人間関係全般に問題を抱えている、というエピソード。

・ポーギーの自立の物語だと感じた。障害を言い訳にして生きてきた自分を捨てて、外の世界に、「物乞い」など、なんの修飾語もつかないポーギーとして立つ。そのための行動のきっかけになったのがベス。ベスを自由にするためにとった行動が倫理的には間違っているけれども、ポーギーを自由にした。

・もしかしたら少し遅れてベスにも自立が訪れるかもしれないという予感。おそらく厳しい生い立ち。境界を侵犯され続けてきた自分、自分の真ん中を明け渡さないと生き抜けなかった自分を恥じることなく受け入れるときがくる。誰から必要とされなくても、自分として生きるタフさを少しずつ身につけていく。

・もしもNYで二人が出会うことができたら、ポーギーの生き様にベスは影響を受ける、育まれる。誰かの物(わたしの男、おれの女)としてではなく、個として相対し、条件のない愛に出会える。ニコイチの関係を脱して、向き合える日がきっと来る。そんな予感をさせる希望に満ちたエンディング。(ニコイチ=二個で一つ。すごく寂しいときやストレスがかかったときに、相手とぴったり重なりあう関係を望んでしまう。自分と相手との境界がなくなって、束縛したり依存する関係。異性、同性、親子、友人同士でも起きる)

・ニコイチ・2人の世界になりかけたけれど、島へのピクニックにベスを行かせるポーギーは、ベスほどには境界は曖昧になっていないし、「あなたは足が悪いからわたしがいてあげなきゃ」という申し出にNOを言える。ここはホッとするシーン。

・閉鎖的なコミュニティは同じ民族、同じ境遇の人たちが集まっているので安心安全な面もあるけれど、行動はすべて筒抜けだし、同質性が自立を妨げるようにもはたらいてしまう。キャットフィッシュ・ロウでは、男性はどれだけ悪さしても比較的ゆるめに包摂されているが、女性は信仰や貞節が無いと疎外されているように見えた(つまりベスの状態)。独身でパートナーもいない女性への風当たりがキツかったのだろうかと想像させる。かつての日本の村社会を彷彿とさせる。

・あのコミュニティでは悼むことが許されないのも、しんどそうだった。人権が認められないから、神の前に人間は皆平等とされる信仰にすがる。でもどんな悲しく辛いことも「神の思し召し」に帰されてしまう。悲しめない、怒れない、絶望がたまる。忘れましょう、というかのような明るい曲調が、パワフルでもあり、同時に残酷。

・(幕間インタビュー)公演期間中に、MET資料室の展示『MET黒人歌手の軌跡』が行われていたそうだ。アフリカ系アメリカ人のオペラ歌手はいたが、出演できなかった人たちも多くいたそう。「歴史を公平に議論するための展示」と担当者。

・黒人の病院がない?かあってもかかるのが難しい?「イエス先生」に祈って治すしかない。社会が人権を認めないときに、すがるものは信仰。祈ることしかできない。過酷。

・男たちの浅はかな行動に女や子供たちが犠牲になっている図。女たちの言葉に男たちは取り合わない。女同士で慰めあうしかない。

・ベスの精神的な弱さ。自分の大事なことなのに、自分で決められない。「あんたはどう思う?」と聞いてしまう。「誰かに必要とされていること」が大事になってしまっているように見える。奪われ続けてきた人なのかも。もしかしたら、親との間にきっと責任を引き受けられないのだよね、、ストレスがかかると全部を捨てて、慣れ親しんだ逃避の行動をとってしまう。ここではない遠くに連れて行ってくれる人やものに惹かれてしまう。しかし葛藤するベス。リアル。

・ポーギーもベスも、生い立ちがハードだったんだろうなぁと想像。親との間で愛着形成がうまくいかなかった者同士が出会ってしまったときの関係の作り方。自分を「必要としてくれる」かどうかで決めてしまう。必要としてくれる人を居場所にするのは、恋愛の一部分かもしれないけど、自立した同士の健全な関係ではなく、依存に陥りやすい。 だから言葉にしていちいち、「おれの女」、「わたしの男」と言い合って確認していたのかもしれない。「愛してる」と歌うけれど、視線はどこか自信なさげで、心からというよりは、どこか不安そう。無条件で受け入れてもらいたくてとる試し行動のようなものも、あれは本当は親にやってほしかったのではないか。そう考えると、お互いに求めてたのは父性や母性だったのかもしれない、、という勝手な想像。

・ クラウンのベスへの感情も恋愛というより、依存や執着。支配欲。「だれも話す相手がいなくて死にそう」という言葉が辛い。クラウンもどうしようもない孤独を抱えている。

・どの人物も物語の設定に振り回されているのではなく、一人の人間としてそこにいて、不幸な人、可哀想な人、酷い人では終わらない、不思議な魅力をたたえていた。困っていたり、困らせていたりするし、絶望も感じているけれど、でも人生終わったわけじゃない、まだこんなにも生きている!という力強さ。そこを見なきゃね、と思う。

・登場する人物や関係は、現代の社会にもある現実の問題を浮かび上がらせていた。

・National Theatre Liveで観た『リーマン・トリロジー』を思い出した。リーマン・ブラザーズはドイツからアメリカに移民してきて、小物屋から、綿花の卸売業をする。綿花園から安く大量に買付して都市に高く売ることで財を成した。あの綿花園の中に、キャット・フィッシュ・ロウ(なまず横丁)のようなコミュニティもあったのかも?なんて想像したりも。歴史の大きな流れからしたら、名を残さない人々の、取るに足らない日常の小競り合いかもしれないけど、たしかに生きている人がいた、という記録のようなものでもある。

・生きている人といえば思い出すのが、2017年にピナ・バウシュ ヴッパータール舞踏団の"NELKEN カーネーション"という公演に行ったとき、演出で、ダンサーが客席に降りてきて、客とハグするっていう時間があった。わたしは1階席前方・通路側の席だったのでラッキーにもハグしてもらえた。そのときのダンサーがアフリカ系アメリカ人の女性で、ハグしたときの感触がすっごかった。筋肉、生命力、肌の質感、祝福、一生忘れられない。このときの感覚を記憶から立ち上げながら『ポーギーとベス』を観ていたら、体温や息遣いを感じられた。リアルタイムでも、生の舞台でもないけれど、感じた。

・殺人が軽く扱われていることの違和感。白人からの暴力もあったし(史実では殺人も多数...)、もしかしたら殺人も日常的な風景だったのかも。乗り切るために、歌って踊って封じ込めていくのかもしれない。だからあのサマータイムの歌詞。現実の辛い状況を真逆の言葉の歌詞にして歌いあげるような。 

・カーテンコール、鳴り止まない拍手、嬌声。白人の役の歌手へのブーイング(こんなの初めて見た)、

 

ここからが二人の物語。
どういう結果になっても未来がある、という晴れ晴れとした気分になって劇場を出た。

一夜明けて翌日は晴れて気持ちのよい日だった。

前日の「ポーギーとベス」を観たからか、気や血が「身体を巡った」ような感じがあって爽快だった。オペラ効果すごい。

 

オペラありがとう!!

オペラ仲間ありがとう!!

 

 

 

舞台であるチャールストンはここ。南東部、サウスカロライナ州(by Google Map)

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チャールストンの歴史。

globe.asahi.com

 

 

こんな歴史も知っておくと、また受け取るものが変わりそう。(読みたい)

www.vogue.co.jp

 

 

音楽で余韻に浸る...。オケの動画はどんな楽器が鳴っているかわかって良いなぁ。

LVのインタビューで「南アメリカではよく上演されている」という南ア出身の歌手が話していたけれど、こちらもケープタウンの方々。指揮者もノリノリでいい。

youtu.be

 

 

 

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映画『ラブン』鑑賞記録

ヤスミン・アフマド監督の長編デビュー作 『ラブン』を観てきた。


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 ヤスミン・アフマド監督の映画は、昨年末にはじめて『タレンタイム〜優しい歌』を観て知って、大好きになってしまった。翌日に『細い目』も観てほんとうによい映画だったので、こんな感想も配信。ぶっちぎりで称賛しています。

note.com

 

わたしがヤスミン・アフマド映画が好きなのは、彼女の眼差しの誠実さと優しさ。

対立と分断に傷つきながらも、微かな希望を見出して生きているわたしたちへのエールだと受け取っている。

 

『ラブン』もまた素晴らしい映画だった。

都会と田舎。田舎への根拠なき憧れと現実。南と北の文化の違い。人のつながりの濃厚と希薄。血縁や家族関係であっても希薄だったり遠かったり様々だ。逆に「他人」であっても、民族が違っても濃い関係は生まれる。一概には言えない。

〇〇人だから、〇〇な世代だから、女だから・男だから、障害者だからなどの、一元的な物の見方やラベリングをばりばりを剥がして見せる。

「あなた、霞み目(ラブン・Rabun)なんじゃない?」と。

 

中心になって描かれるのは、老齢期に入った夫婦。

タレンタイムも細い目も、若い世代が物語を牽引していたので、長編デビュー作で老年期を主人公格に置くのはちょっと意外だった。

この夫婦がまたとても仲良しで、いつもキャッキャいって楽しそうだ。二人の間にしかないコミュニケーションがなんとも微笑ましい。老年期の性などもサラリと描かれる

かれらは田舎の別荘を買って、たまに滞在して少しずつ整えていくのを楽しみにしているが、親戚関係にある隣家の男から逆恨みにあって、騙されたり、嫌がらせを受けたりする。これがシャレにならないというか、見方によってはほとんどホラー映画じゃないかとさえ思うのだけれど、独特のユーモアで軽やかに運んでいくのが、ヤスミンらしい見せ方。その狂気ぶりを描きたいわけじゃない、というところが観客にも理解できる。

それでいて、そこに重く横たわる格差や分断や暴力、人の性(さが)なども見過ごさずに描いている。


あの夫婦だって決して善人というわけではなく、格差に無頓着で、無意識に「えげつない」こともしてしまう。それぞれの民族の伝統的な家族制度の世代間の歪みもありそうだし、もしかしたらDVの問題や、田舎の教育の問題、若者のコミュニケーションや発達障害からくる引きこもりのような問題もあるかも、、など、いろんな背景も想像される。

とにかく徹底して「ある」ということから目を逸らさないし、こうであるべきということも言われない。

 

ただ最後にたどり着くのは明るい場所。

人々は笑顔で、すべてが許されていて、温かく満ちる。

流れるのは、ドビュッシーの『月光』。

お互いがお互いを照らす存在ということか。

 

ヤスミンの宗教観か死生観かを見るようなシーン。

いや、そんなラベルもまた自分を「ラブン」にしてしまうか…。

 

ヤスミン・アフマドが映画として遺したのは長編6本と短編1本。

他の作品も観たい。また近いうちにリバイバル上映を期待したい。

 

 

おまけ。

予告編で『欲望の翼』がかかって思わず息が止まった。

我が青春のウォン・カーウァイ!思えばなんて贅沢な映画だったのか。

この映画がリリースされた頃から、香港はすっかり変わってしまった。

 

そしてユジク阿佐ヶ谷は8月終わりで休館とのこと。悲しい。

クローズまでに何か観に来られるといいな。

約50席を半分に減らして、「満席」の状態というのが、なんとも切ない。



ヤスミン・アフマド映画についてはこちらにまとまっている。

moviola.jp

 

愛と敬意でいっぱいの読解書。ほとんどファンブックと言ってもいい熱量。

 

そしてなんと、ヤスミン・アフマド監督の『細い目』と、先日観た『タゴール・ソングス』との思いがけないつながりがあったことを知る。驚喜♡ 

note.com

 

『ラブン』の中でも歌を歌うシーンが出てきて、タゴール・ソングを彷彿とさせた。

歌は慰め。感情を一瞬で分かち合うもの。

 

つながりあい、分かち合う、世界。

美しいね。

 


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〈レポート〉5/31 オンラインでゆるっと話そう『プリズン・サークル』 @シネマ・チュプキ・タバタ

5/31(日)午後、シネマ・チュプキ・タバタさんとコラボの感想シェアタイム『ゆるっと話そう』の第12回をひらきました。前回『インディペンデント・リビング』でゆるっと話そうに続き、オンラインでの開催となりました。

 

chupki.jpn.org

 

 

 

ご参加のみなさま

東京近辺の他、仙台、山梨、名古屋、神戸からご参加いただき、遠くの方とも一瞬でつながれるオンラインの良さを感じました。映画も、外出自粛前に映画館で観た方、オンラインで観た方、両方観た方などさまざま。朝見てからこれに参加した方、オンライン配信のおかげで観ることができたという方、中3のお子さんと一緒に鑑賞して事前に感想を話してきた、という方もいらっしゃいました。


定員は前回から2名少し増やして計9名としましたが、当日までにめでたく満席となりました。感謝!

参加者の中に聴覚障害の方がおられたので、UDトークの文字配信をサポートするスタッフさんにも入っていただきました。それに加え、たまたま参加者の中で手話通訳をお仕事にされている方がいらっしゃり、快く通訳を引き受けてくださいました。

UDトークで文字でやり取りできるだけでもうれしかったのに、手話通訳になるとより生身同士でコミュニケーションができる感じがあり、わくわくしました!

 

進め方

この日大切にしたのは、刑務所でのサークルに対して、シャバでのサークルを作りたいという思い。一人ひとりが安心安全な中で、なるべく発言しやすいように、そしていろんな人の話が聞けるように、場を進めました。

一人ずつのご発声:「呼ばれたい名前・今いる地域」と共に

 ↓

3人サークルでシェア:「映画どうだった?」

 ↓

全員でシェア:「どんな話出た?」

 ↓

全員でさらに対話:「今の話聞いてどう思った?他には?」


最初に3人のサークルで小さく感想を話すところからはじめたのは、人数の多い中で感想を話すってやっぱり緊張するから。Zoomのブレイクアウトルーム機能をつかって3部屋に分かれていただき、わたしの他、チュプキのスタッフさんが1人ずつファシリテーターとして入り、サークル内の進行をしていただきました。

 

 

全体でのシェア

小さなサークルでどんな話をしたかをシェアしていただきました。こんな話題が出ました(一部)。

・自分にも覚えのある感情を持った、自分と何も変わらない人が出ていたことの衝撃。たまたま出会った人や、たまたま生まれ落ちた環境が違うだけ。

・TCが社会にも当たり前のようにあれば、結果は違ったのかもしれない。

・刑務所でTCをやっているところが他にないということに驚いた。なぜ広がらないのか。

・自分の生い立ちを語る場がとても苦しそうだった。そのような中でも自分と向き合い、言葉を絞り出していく様子に心動かされた。

・その辛さが、目の前にいる支援員に、怒りの気持ちや反発として現れることはなかっただろうか、という疑問もわく。

・自分も誰かを傷つけたときに「自分は悪くない、相手が悪い」と言ってしまって認められないことがある。受刑者の方がそのように話しているシーンは、自分も苦しかった。自分はたまたま犯罪になっていないだけで、とても他人事とは思えなかった。

・TCではないが、当事者同士で話し合う場に参加したことがある。そこでは自分の苦労を語ったり、ロールプレイをした。気持ちをわかってくれる人の前で、自分に正直に話していいというのはとても癒しになった。そういう場が社会に必要だと思った。

・大と小のコントラストが印象的だった。3〜4人で作る小さなサークルと刑務所という施設の大きさの対比や、日本で収容されている受刑者のうち、TCを受けられるのは数%という小ささの対比。

再犯率が半分ということは、半分は再犯しないが、半分は再犯するということでもある。

・TCで心的成長を遂げたそのあとの社会に出たときのギャップが大きいようだった。伴走者もいたようだけれど、しんどいと言える、支える仕組みなど、もっと社会に受け入れる準備が必要。わたしたちが問われている。

・社会が変われば刑務所も変わるのでは。

 

 

 

ふりかえり

退出前に一人ずつ今の気持ちを場に置いていっていただきました。

「自分の言葉でしゃべれる場でよかった」「一本の映画からこうも異なる感想が出るとは」「わたしたちもこうやって多様性を認める訓練をしているのかも」など、1時間という短い時間ではありましたが、場を信頼して積極的に参加してくださり、たくさん受け取ってくださったことが感じられました。

 

社会にも真摯な対話を求める人はたくさんいます。

SNSやオンライン会議ツールなどの普及で、対話の場もよりつくりやすくなっています。対話のお作法も少しずつ広がっている。場を通じて多くの人が学んでいる。そのことを、何よりもまず社会にいるわたしたちが実感し、存在を信じられる小さな体験がたくさん必要です。


異なる背景からの異なる感想一つひとつに、温かな関心を向け合う時間、つながりの感じられる場。「この作品をきっかけにもっと現状を知りたい、考えたい」という宣言も聞かれ、作品のもつ力をひしひしと感じました。

わたしも、このような場をひらくことで、小さな相互作用をたくさん重ねる中で、変化を少しずつ起こしていけたらと願い、引き続き行動していきたいと思います。

 

ご参加の皆さま、劇場のチュプキさん、坂上監督、配給の東風さん、ありがとうございました。わたしたちに多くの示唆を与えてくれた(元)受刑者の皆さんや、TCの場をつくっておられる方々にも、心から感謝いたします。

 

作品を語りあう小さな場が、回復の連鎖の一助となりますように。

 

 

鑑賞後におすすめの資料


◉島根あさひ社会復帰促進センター
名称に「刑務所」が入っていないところにまず驚きます。
PFI方式と呼ばれる官民共同運営の施設ですが、どのような企業が参画していて、どのような組織になっているのかを「センター概要」に見ることができます。また、「社会復帰に向けた取り組み」の中で、TC(回復共同体)がどのように位置付けられているのかも非常に興味深いです。
3本柱のうちの1つが回復共同体で、その他の修復的司法、認知行動療法である点も、目を留めたいところです。
http://www.shimaneasahi-rpc.go.jp/index.html


坂上香監督ティーチイン動画(2020/5/22Youtube)
坂上監督が映画制作への思い、撮影の背景、撮影対象者のその後について、当日チャットに寄せられた質問に答えながら、詳しく話してくださっています。これは聞くと聞かないとでは、映画鑑賞の深まりが全く違うといっても過言ではありません。必見です。
https://youtu.be/E6i1xpoDOec


◉パンフレット『プリズン・サークル』
各章の要約、心理・教育・支援の第一人者の寄稿文、2019年早稲田大学でアミティ関係者を招いてひらかれたシンポジウムの再録、監督インタビュー等を収録した充実の内容です。
http://tongpoo-films.shop-pro.jp/?pid=150679505


坂上香/著『ライファーズ 罪に向きあう』
『プリズン・サークル』と双子のきょうだいのような映画、『ライファーズ』をめぐる旅の物語です。TCのアメリカにおける実践団体アミティと島根あさひ社会復帰促進センターとのつながり、坂上監督の人生における位置付けが、第1章で描かれています。
アメリカだから可能なのだろうか」「日本ではなぜもっと刑務所におけるTC(または類似のプログラム)が広まらないのだろうか」との問いをもった方に、さらに考えを深めるきっかけになる本です。
人生の多くの年月をかけて、この課題に取り組んでいる方がおられることに、深い感謝と尊敬の念を禁じえません。
https://amzn.to/2B7LhiH

 

 

『プリズン・サークル』『ライファーズ』を7月にチュプキで再上映!
特に『ライファーズ』を見逃していた方はぜひ!

chupki.jpn.org

 

〈仮設の映画館〉での配信は、7月10日まで!

www.temporary-cinema.jp

 

 

おまけ。このブログの関連記事です。

映画『プリズン・サークル』 鑑賞記録 

書籍『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』

映画『ライファーズ ー終身刑を超えて』鑑賞記録

映画『トークバック 沈黙を破る女たち』鑑賞記録

《レポート》2/11 トークバックでゆるっと話そう@シネマ・チュプキ・タバタ

映画『獄友』鑑賞記録 

《レポート》10/18 『教誨師』でゆるっと話そう@シネマ・チュプキ・タバタ

 

 

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映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』鑑賞記録

ポレポレ東中野で『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観てきた。

映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」公式サイト

 

きっかけは友人の投稿。

こんな政治家もいるんだな、と希望を抱かせてくれます。

2017年の衆院選の裏話や比例と小選挙区の違いなども分かってめちゃ面白いよ。

とのこと。

 

 


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正直なところ、観るまでは、「ちょっとズレたところもある、熱血すぎる若手議員の奮闘記」みたいな内容なのかと思っていた。

 

全然違った。


頭を動かし、心を震わせ、身体を使う、一人の人間の姿がそこにあった。

「こんな政治家がいたのか!」

「ずっとこういう政治家いないのかなぁ〜と思ってたんだよ!」

「青き衣の者?!(風の谷のナウシカ)」

「こういう世界があるのか!(家族と地域総出で候補者を支援)」

「こういう構造になっていたのか!(選挙と投票、政界)」

がいっぺんにきた。

 

「なぜ小川さんは総理大臣になれないのか」

と、問われているのはむしろ私のほうだった。

拍子抜けするぐらいの庶民感覚と、世界、地球の中の日本を観るというバランス感覚。一人ひとりと全体、過去と今と未来を見わたす眼差し。聡明さ、明晰さ、誠実さ。

「したたかさが足りない」というけれど、気弱なわけでは全くない。非常にタフな精神をお持ちだ。

追及すべきところでは、激しく、厳しく、全力で戦っていた。
自分が権力が欲しいからではなく、みんなのために。


特に、希望の党合流とその後に起こったこと、この選択を「間違えた」ときの小川さんのふるまいや言動にも、「こんな政治家がいたのか!」と思わせるところがあった。

この人のリーダーシップをこれからも注目したい。

 

 

映画を観ながら、政党の変遷など推移がわかっておもしろいのだけれど、一方で、まるでこれは室町時代安土桃山時代か......という感じがして、しょうもない権力闘争はほんとうにどうでもいい、小川さんに早く政策提言、立法してもらえないか、とずっと考えていた。

批判しなければ状況は動かないし、目に見えるように訴えなければならないのはわかっているけれど、このあとからあとから出てくる汚行の粗探しのようなことに、優秀な人々の時間もエネルギーもとられていくことに、言いようのない無念さを感じた。

きっと今までだって、こんなふうに潰されたり削られたり、ずっと起こってきたんだろう。

 

パンフレットにも書いてあるけれども、「政治家は言葉が大事」。それをひしひしと感じた。わたしはコロナ以前からずっと、言葉を蔑ろにする政権の言動に散々傷ついてきた。そういう自分を認め、受け入れることができた。真摯な言葉を紡ぐ政治家もいるのだ、ということが救いだ。(言葉の話は内田樹さんの記事にもあるのでぜひ一読されたい)

 

当日の鑑賞後はすぐに話したくて居てもたってもいられず、この映画のことを教えてくれた友人に連絡をとって会い、2時間半も話し続けた。

映画の感想はもちろん、今まで政治について考えてきたことをどんどん話した。

「おかしいと思ってよかったんだ!」「話せる相手がいる!」という安心安堵。

そうだ、わたしは本当はもっと政治について話したかったのだ。

 

そう考えると、知らず知らず自分も飼い馴らされてしまっていたことに気づく。
いったいこの躊躇は、いつから、どこから、はじまっていたのか。

複雑で、一筋縄ではわからないようになっている。考えなくていいように仕組まれ、誘導されている。きっと話題にしないことからはじまっているのだ。空気の恐ろしさ。

 

でもそれを「制度や仕組みがこうなっている」「権利と義務」などの暗記からはじめるのでなく、小川淳也という一人の政治家への「個人的な関心」をきっかけに学びがはじまるところがいい。

これぞまさに学びの本質ではないか!

 

それを可能にするのも、やはりこの作品が映画としてもとてもおもしろいから。

騙されたと思ってみんな観に行ってほしい。

わかりにくい政党の変遷事情などが流れでわかる。また、大都市に暮らす人には想像しづらい、それ以外の地域での選挙の実態なども、時系列で観察できる。小川さんの家族の話にも共感するところがあるし、複雑な思いもある。「あの人たちにそう言わせているものは何か」というのも、有権者として考えなくてはいけないことだろう。

 

わたしはまだまだこれから学ばなくてはならないし、伝えていかなくてはならない。
この映画で観客に問われている「なぜ小川君は総理大臣になれないのか」を共有したい。一緒に考えたい。そんな場もつくりたい。

 

やはりわたしには「作品と鑑賞と鑑賞の場」なのだ。
作品を通じて語りたい。

描かれ、物語られることによって、より本質的な批判(非難や誹謗中傷ではなく)が可能になる。設計のある良質の対話は、編集のバイアスを軽々と超える。

 

 

5月13日、公開ぎりぎりまで粘った、撮って出し。大島監督の情熱に感謝。

都議選期間中の公開に間に合わせてくれた劇場に感謝。

 

これ、地上波TVの特集ではなく、「ドキュメンタリー映画」という形式だからこそ受け取れたと思う。お金を払って劇場に足を運ぶ人に届ける・受け取る。

作り手と受け手のお互いの約束や信頼。これは映画にしかない力。

映画だから、監督の個人的関心を動機に作品が作れる。

「君は総理大臣になりたいのか?」
「もしかして君は政治家に向いていないんじゃないか?」
の2つの質問を軸に、一人の政治開拓民の歴史を追う。

TV放映であれば、組織の方針に沿ったもっと公共性や中立性や問題提起を見せなければならない。映画だからこそ振り切れたところがあるはず。

 

ほんとうにこの映画はいろんな人に観てほしいし、語りたい。

 

 

 

▼映画どうしよっかなと思ってる方はぜひこの動画観てほしい。

youtu.be

 

 

小川淳也さんのツイッター投稿。「重ね合わせ、接点を感じる」...まさにそんな時間でした。 

  

▼2019年2月の予算委員会質疑 

 

映画から発展して思い出したこと。

 

以前わたしは、友人(だと思っていた人)に、これから自分のやっていきたいことを熱く語ったときに、「誠実さや正直さなんて一文にもならないよ、仕事になるわけない」と言われ、とてもショックだったのと怒りとで、縁を切ったことがある(もちろん他にもそれに至る理由があった)。

思えばこの人の前にも後にも、様々な形で同様の言葉は投げつけられてきた。

「したたかでなければ」「向いている・いない」も、そう。

おそらくわたしだけが経験しているわけではない、こういう冷ややかな態度や、わかりにくい形での攻撃(「もっと楽しい話をしようよ」とか)は、社会に溢れていると感じる。冷笑する人にも、それぞれの傷つきや絶望の過去があるのかもしれない。わたしも「加害」の側に回ったこともある(ほんとうにごめんなさい)。

 

それでも、わたしは、今は、そういうものとは距離を置いて、真摯な言葉に耳を傾けていきたい。人と手をつないでいきたい。

嘘をつかなくても、したたかでなくても、「能力」がなくても生きられる。
人を大切にすることを真っ当な手続きを踏んで、実現できる社会にしたい。

 

 

また、もうひとつ思い出したこと。

2016年に、松井久子監督作品、映画『不思議なクニの憲法』を観た。

fushigina.jp


観たのは、改憲に反対する有志がひらいた上映会で、監督の松井さんや上野千鶴子さんもゲストでいらしていて、お話を聞くことができた。

安倍政権になって、「特定秘密保護法」「防衛装備移転三原則」「集団的自衛権の行使容認」「安全保障関連法案」など、次々と外堀を埋める法案が可決されていって、これはヤバい!とようやく上映会で気づかされた。

しかしその後、わたし自身の身辺が慌ただしくなって、それどころじゃない状態になり、政治を丁寧に追うこともままならない日々が続き、投票に行ったりさまざまな社会課題を学ぶことはしていたものの、政治そのものに言及することが少なくなってしまっていた。仕方がなかったとはいえ、悔いが残るところもある。

もちろんどんな営みも「政治とつながっている」のは確かにそうなのだけれど、今あらためてストレートに政治を語っていく、批判していく、声をあげていく必要があると感じている。逃げてはならない、危機的状況。

 

 

ふぅ。いつも以上にバラバラとした感想になってしまった。

 

 

まずは、7月5日の都知事選投票日。

 

東京はコロナの感染症拡大に再び戦々恐々としているけれど、

でも投票、行こう!

自分も人も大切にする市民の権利を行使しよう!

 

 

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