ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する鑑賞の場づくりを通して考えることなど。

お知らせ

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今後の予定

2021年5月22日(土)シブヤ大学【オンライン開催】みつけよう!いまのわたしが踏み出せる一歩 ~きみトリプロジェクトから学ぶ、対話と場~

www.shibuya-univ.net

 

 

2021年6月5日(土)お座敷の一箱古本市 Readin' Writin' Bookstore

http://readinwritin.net/

 

 

2021年6月21日(月)夏至のコラージュの会

collage2021midsummer.peatix.com

今後は、秋分:9月23日(木・祝) 冬至:12月22日(水)
いずれも二十四節気で当日にひらきます。ぜひご予定ください。
日程が近づきましたら当ブログで告知、Peatixで募集します。

 

2020年12月30日 初の著書(共著)発売
【きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ】
Amazon他、全国書店にて発売中(電子書籍もあります)


きみトリプロジェクト展開中です。

kimitori.mystrikingly.com

  

鑑賞対話ファシリテーション(法人・団体向け)

・表現物の価値を広めたい、共有したい、遺したい業界団体や、
 教育や啓発を促したい、活動テーマをお持ちの法人や団体からのご依頼で、表現物の鑑賞対話の場を企画・設計・進行します。
・鑑賞会、上映会、読書会、勉強会などのイベントやワークショップにより、作品や題材を元に、鑑賞者同士が対話を通して学ぶ場をつくります。

https://seikofunanokawa.com/service-menu/kansho-taiwa-facilitation/

 

場づくりコンサルティング(個人向け)

・読書会、学ぶ会、上映会、シェア会、愛好会...などのイベントや講座。
・企画・設計・進行・宣伝のご相談のります。
・Zoom または 東京都内で対面
・30分¥5,500、60分 ¥11,000(税込)
・募集文の添削やフィードバック、ふりかえりの壁打ち相手にもどうぞ。

https://seikofunanokawa.com/service-menu/badukuri-consulting/

 

連載中
▼『場づくりを成功させるための5つの鍵』(寺子屋学)
https://terakoyagaku.net/group/bazukuri/

▼ noteでも書いたり話したりしています。

note.mu

  

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映画『ブックセラーズ』鑑賞記録

映画『ブックセラーズ』公開後、3日目に観た。ヒューマントラストシネマ有楽町にて。

http://moviola.jp/booksellers/

youtu.be

 

ひたすら眼福であった。
よい、本はよい。美しい。
本や、本を扱う仕事の人の愛やリスペクト、願いに満ちているドキュメンタリー。

 

美しい本だけ、愛している本、自分にとって意味や価値のある本だけを所有したくなる。

 

とはいえ、あまりまったりとした、落ち着いた時間の流れる作品ではない。

むしろ、情報量がとても多く、矢継ぎ早で、細切れで、体系化しづらい。アメリカ、イギリスあたりのドキュメンタリーのよく見る作法だ。製作者も観客も、「一度に大量の異なる立場や背景や個性からの意見を聴くこと」に慣れている文化圏、一定の文化層の人がなのだろうな。おもしろかったけれど、おもしろいことがどんどん降ってくるので、わたしにとっては、大学の講義のような、修行のような時間だった。

 

骨董品か美術品か?

「コレクションとしての本」という、あまり目を向けたことのない世界でもあったが、わたしは切手のコレクションをしているので、なんとなく分かるような気がする。切手のバザールに行くと、ああいう人たち、いる。似た雰囲気。

世界は「コレクションする人」と、「コレクターが理解できない人」の二種類に分かれるってほんとそう!コレクターは「変質的で衝動的」なんだそうです。わかる。コレクションは生きがいなのだよ。人間はつくらずにはいられない、集めずにはいられない生き物なのだ。

「コレクションを発展させるとアーカイブになる」というくだり。「自分たちの文化や人生を理解しているとは言い難い。だからアーカイブして活用することが大切」というライブラリーやミュージアム論にも発展していて、興味深かった。

 

メモ魔でなんでも「取っておきたがり」のわたしとしては、メモの価値のくだりはうれしかった。制作プロセスがわかるものとしての価値。そういえば、レイ・イームズもすごいメモ魔だったんだっけ。メモ入りの本の価値や味わいについて触れているところもあったなぁ。最近その話、それぞれ別の場所でちょいちょい聴く。なんでだろう、おもしろいな。

 

「この業界に入ったきっかけ」について聞いてくれるのがよかった。これは仕事のトリセツだ。「親がやってたから自然に」「他にできることがなかった」から、もう一歩二歩深く聞いていくといろんな話が出てくる。仕事への情熱、その人自身の核、親子やきょうだいの関係、当時の街並み、時代の空気。センス(感性や勘)をどう磨くかのプロフェッショナリティ。

 

「この本すごいよ、本物のマンモスの毛がついてる」
「遺品整理はお宝の山。書棚のある空間に知的なエネルギーが残っている」
「人と本との関係は恋愛。他人にはわからない」
「紙は霊魂の蓄電器、文化の変遷と記録」
「紙で愛を共有する」
「550年流通してきた完璧な物体」
「本に正しい家をみつけてやるのよ」
「書店は着想の棲家」

この本への愛、愛、愛よ!!!

 

上の世代は、もうこの仕事は立ち行かない、職人や個人コレクターは減り、書店や出版業界は衰退している、電子書籍に取って代わられた、いやそもそも読書という活動をしなくなった、など悲観的だ。

しかし若い世代は、ヴィンテージやアンティークとしての希少本への再発見や、地域とのつながり、インターネットが「あるからこそできること」を見ている。「いつもミレニアル世代のせいにされるけど(笑)わたしは大丈夫、アイディアがいっぱいあるから」と軽やかでいい。

また、かつてはブックセラー業界の85%が男性"Boy Club"だった。長い間女性は歓迎されていなかった。どんなに有能でも裏方として(behind the scene)動かざるを得なかった。なぜなら経営者ではなかったから。でもその現状も先人の跡を継ぎ、若い世代がさらに流れを太くしている。

「どうしたら多様になるか、いつも格闘してる。反対する人をどう説得するか。今を変えることが未来をつくる」

うーん、勇気の出る言葉!

 

 

▼配給のムヴィオラさんのマガジン。今回も充実の記事が20本も!

note.com

 

▼公開記念オンライントークイベント・アーカイブ

youtu.be

 

 

 

 

世界のブックデザイン展がお好きな方なら、間違いなくこの映画も気に入るはず!

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

seikofunanokawa.com

 

初の著書(共著)発売中! 

映画『デカローグ』鑑賞記録

ここ数年、25年〜30年ぐらい前のフィルム映画が、デジタルリマスター作業を終えて、次々に劇場で上映されている。

中でもわたしにとって非常に喜ばしいのは、ポーランドクシシュトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』だ。キェシロフスキの生誕80年、没後25年を記念して、この度デジタルリマスター版にて復活上映となった。

www.ivc-tokyo.co.jp

 

トリコロール三部作(『青の愛』『白の愛』『赤の愛』)や『ふたりのベロニカ』で知られるポーランドの名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督が1988年に発表した全10篇の連作集。
もともとはテレビシリーズとして製作されたが、その質の高さが評判を呼び1989年ヴェネチア国際映画祭で上映。その後、世界中で公開され高い評価を受けた。日本では1996年に劇場で初公開され、当時最新作だった「トリコロール三部作」の人気と相まって圧倒的な支持を得た。

題名の「デカ」は数字の“十”、「ローグ」は“言葉”を意味し、旧約聖書の「十戒」を意味する。この「十戒の映画化」は1984年のキェシロフスキ監督作品『終わりなし』から共同で脚本を執筆しているクシシュトフ・ピェシェヴィッチの「誰か“十戒”を映画にしてくれないかな?」という何気ない一言に端を発している。(公式HP

 

 

youtu.be

 

わたしが前回観たのは、1997年か1998年。大学生だった。
大阪は十三の第七藝術劇場にて。
いつもの映画好きの友だちと、2本ずつ5日通った。

あの時以来、わたしの「心のベストテン」に常にいる映画。
好きな映画は?と聞かれたら、必ず出てくる映画。

あの黒い画面に黄色のタイトルクレジット、ピアノのフレーズ。
25年経っても忘れがたい。

 

今ちょうど再開途中の台湾ニューシネマの監督たちもコメントを寄せている。今は亡きエドワード・ヤンも。あの頃、台湾ニューシネマとその影響を受けた台湾映画もよく観ていたな。

1本1本が素晴らしく、10本通して見ると一つの作品としてさらに素晴らしい。
私もいつかあのような方法で映画を撮りたい。

 侯孝賢ホウ・シャオシェン)/映画監督

彼の作品はどれも好きだが、中でもデカローグは特別だ。

 エドワード・ヤン/映画監督

 
いつかもう一度観たいと願い続けてきた映画。

今回は渋谷のシアターイメージフォーラムへ。

さまざまな人生経験を重ねてきた今、『デカローグ』をどのように見るのだろうか、何が見えるのだろうか、何を思うのだろうか。

 

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前回は、1話から数字の順通りに観たが、今回は、6・7 →  1・2 → 8・9・10 → 3・4・5 とランダムに観て、劇場には計4回通った。

一話ずつふりかえる。あらすじはこちら

 

※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

 

第1話 ある運命に関する物語

わたしに登場人物と歳の近い息子がいる今となっては、とても平静ではいられない物語だった。

母親が不在のクシシュトフとパヴェウの親子は、チェスやコンピューターを楽しむ仲間でもある。クリスチャンの伯母とも交流があり、ときどき学校の帰りに遊びに行ったり、深い話をする仲。「死ってなんなの?死んだら何が残るの?」初めて訪れた哲学的な問いに、無神論者であるクシシュトフは戸惑いながらも自分なりの考えを話す。その直後に悲劇が訪れる。池に氷が張って、その上でスケートができるかどうかをコンピューター計算して出した結果を信じて、遊びに出かけた。しかし計算結果とは異なり、池の氷は割れ、パヴェウは落ちてしまった。現実を直視できないのか、なかなか現場に行かないクシシュトフの姿が痛々しい。彼は、これから大きな十字架を背負って生きなければならない。最後に建設途中の教会に入り、祭壇を壊し泣くクシシュトフ......。

悲しく苦しい物語だ。聡明な少年の眼差し、父子の温かな時間を思い出し、時間が戻ってほしいとこちらも願わずにいられない。子を亡くすことも、人生には起こりうるという、当たり前のことに気づかされる。

コンピュータの機材や画面に時代を感じる。謎の青年の登場が他の話よりも長めで、強く印象に残る。「子が川に落ちる話」と聞いて瞬間的に、レイモンド・カーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」や宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出す。
1話に出てくる父親がさっそくクシシュトフという名を背負っているのは、単なる偶然なのか、何か意味を込めたのか。

 

第2話 ある選択に関する物語

巨大団地で一人暮らしをしている老医師。ある日彼の患者の妻であるドロタが訪ねてきて、夫の容態や余命について訊く。実はドロタは恋人との子を妊娠していて、夫が助かるのであれば堕すし、助からないのであれば、子どもをつくる最後のチャンスだから産みたいと言う。医師の立場からは、重症だが絶対助からないとも言えないので、答えられないと言う。苛立つドロタだが、子どもを堕すと決める。医師は止める。その直後、夫に奇跡が起きる......。

妊娠、出産を経た今のわたしとして観ると、この物語は25年前とは違う感情が湧いてくる。身体に実感も痕跡もあるので、単なる設定としては見られない。産むリミットの話は、若い頃には知識が浅く、考えたこともなかった。また、死を身近に感じる年齢になってきたということと、感染症流行中の昨今ということもあり、病院のベッドで息荒く横たわっている瀕死の夫の姿は、他人事とは思えない。壁や水を映しているシーンや、夜の団地の犬の吠え声などは、じわじわとした閉塞感を掻き立てる。

デカローグの特徴として、「裁かない姿勢」がある。倫理や道義の是非は問題にされない。登場人物への批判はない。起こってしまったことに対して自分としてどう対処するか、決められるのは自分しかいない。誰もがそれをわかっているから、決断に至るプロセスは焦りと苛立ちに満ちている。その姿をひたすら映している。

ひっきりなしに吸うタバコや(妊婦は吸っちゃだめー!)、むしり取る観葉植物の葉、医師への八つ当たりの言動に次から次へと表れる。彼女はもはや自分のことしか考えられない。しかし観客は、医師と家政婦とのやり取りから、彼が戦争中の空爆で家族を亡くしたであろうことを知っている。これはキェシロフスキ自身の生い立ちがベースになっているそうだ。

10話中、おそらく最もリッチな暮らしをしていると思われる夫婦。内装やインテリアなどが洗練されているし、女性自身もシックな装いで、人目を引くようなセンスの良さが光る。それでも、人間が何に悩み苦しんでいるかは、外からはわからないものだ。

1Lもあろうかという牛乳瓶に直に口をつけて飲むシーンは、25年経ってもやはり不衛生に思え、気になる。(第6話でもそうだった)

 

第3話 あるクリスマス・イヴに関する物語

クリスマス・イヴ。いつもの団地とは違う、市中のあたりだろうか。人通りはほとんどなく、酔っ払いが大声で叫びながらクリスマスツリーを引きずっているだけ。暖かそうな部屋の中で家族が楽しげに祝いの席についている。また別の家でも、大家族か親戚中が集まっているのか、賑やかな様子。クリスマスや感謝祭など、家族で過ごすことが前提になっている行事は独り身には辛い。日本でも、大晦日から元旦にかけては孤独がつのりやすい時期だ。冬の寒さがさらにこたえる。

エヴァは孤独に耐えかねて、昔の恋人ヤヌーシュに会いに行く。いろんな嘘、小細工を重ねて、演技をする。3年前に「電話がかかってきて」不倫が発覚した時から、エヴァの人生は全く違うものになってしまった。エヴァは絶望しつつも、最後の賭けに出る。いや、それも嘘なのかもしれない。本当のところは誰にもわからない。

側から見れば「ヤバイ女」だ。恨みを抱えていて、自暴自棄になってヤヌーシュを巻き込もうとしている。よく知っているあの優しさにつけこもうとするかのように。しかしヤヌーシュは冷静に踏みとどまる。あの頃何があったのか、ヤヌーシュの側からの記憶を巻き戻して語る。

エヴァにもわかっている。それでも「もしも」を演じてみる。演劇をすることで、解き放たれる感情があるなら、それに賭けてもいい。その人にしかわからない過去の仕舞い方やケリの付け方があって、それは他人には理解できない手段であることが多い。生き延びるために必死である姿を誰も笑うことはできない。ここでもまた裁きはない。

白い雪の積もるロータリーに置かれた、赤い電飾の点るツリーとエヴァの赤い車。

ヘッドライトの挨拶。シロフォンの優しい音色。25年前に観たときはあまり響かなかったが、今ならわかる、痛々しくも優しい物語。

 

第4話 ある父と娘に関する物語

10話中、性について最も生々しく感じられた物語(第6話よりも、もしかしたら)。父ミハウと娘アンカは仲の良い親子。母はアンカを出産した数日後に亡くなっている。「死後開封」と書かれた封筒のことは以前から知っていたが、あるときミハウが「目につくところに置いておいた」ことで物語が一気に動き出す。アンカには恋人がいるが、ミハウを男として意識している自分に向き合い、ミハウにも求める。

人には秘密がある。知らなければよかった。けれど、気づいてしまったとき、単にモラルだけで語れるものでもない。「自分は関わりたくないのね」「少女でいてほしかった」。閉ざした心をこじ開け、人間と人間との間にあるものを顕にしようとする、アンカ。また性的に充実している年齢でもあることも伝わってきて、若いエネルギーがただ眩しい。

今ならもっと簡単にDNA鑑定ができるじゃないかと思ってしまう。いや、そういうことではないのか。鑑定ができたとしても、やはり人は悩むだろう。

燃えかすがあまりに劇的過ぎて、ああ、そうだこれは作り物の話でよかったとホッとする。

 

第5話 ある殺人に関する物語

第5話と第6話は、10話から成る『デカローグ』の中心に位置する物語で、TV放映に先行して長尺版がそれぞれ『殺人に関する短いフィルム』と『愛に関する短いフィルム』が劇場公開された。キェシロフスキは、削ぎ落とされた60分尺のほうを気に入っているという。

第5話は、最も辛い話だ。残り方が重い。撮影手法も他とはかなり異なっている。実際、撮影監督は9人が担当していて、それぞれに個性が出ているのではあるが、その中でも第5話では特殊フィルターを用いて、大胆な視野を画面に展開している。

町をうろつくヤツェク。ロープを手に巻き、準備をしている。あるタクシー運転手に目をつける。タクシーに乗り込み、郊外へと走らせ、運転手を殺害したヤツェク。死刑廃止派の弁護士ピョートルは尽力するが力及ばず、死刑の宣告が下る。施行執行前のやり取りで彼の過去が一瞬ひらかれる。死刑執行。ピョートルの喘ぐような「憎い...」という言葉の連呼で終わる。

理由なき個人による殺人と、国家のシステムによる殺人。殺すという具体的な暴力の描写。前者の殺人のシーンは、これでもかというほど時間をかけられている。「これが人間だ。見よ」というように。当時の映画史上最も長かったそう。

絞首刑のセットを組んだクルーたちは、その日は膝が震えて撮影にならなかったため、日をあらためて行ったそうだ。たとえ作り物であったとしても、どれだけおぞましい代物なのか知れる。演じた人、撮った人たちのメンタルは大丈夫だったろうか。

ポーランドは、人権と基本的自由の保護のための条約(欧州人権条約)を批准し、死刑制度が1998年に廃止されている。最後の死刑執行は1988年。『デカローグ』の制作年である。

第3話で出てきた、精神の病を抱える人を収容する施設で行われる暴力や、5話で描かれている死刑の場面は、まさに今現在の日本で起こっていることとリンクしており、思わず息をのむ。例えば入国管理局の収容施設、例えば拘置所での絞首刑。映画の中では、それに対して怒りを見せ、抵抗する市民が描かれていることが小さな救いではある。

デッドマン・ウォーキング』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『教誨師』などの映画が浮かんだ。2021年のパンフレットでは、四方田犬彦さんが永山則夫について書いておられた。

どの順で鑑賞するかを考えたとき、第5話をどこにもっていくるのか検討していたのだが(そうするほどに重いので)、結局他の予定との兼ね合いで最後の回になってしまった。重苦しさは残るものの、避けては通れない、市民として、人間として、今あらためて考えねばならないテーマだ、というメッセージだと、ありがたく受け取った。


第6話 ある愛に関する物語
10話中、一番苦い記憶のある話。デカローグといえば、まずこの6話を思い出すほどに強烈だ。やはり5話と6話の存在感はすごい。中心にあって、引力を持っている。

巨大団地の一室に暮らす郵便局員の青年トメクは、向かいの棟に暮らすマグダを夜な夜な望遠鏡で覗く。無言電話をかけたり、ガス漏れの嘘の通告をして恋人との情事を邪魔させたり、偽の為替で郵便局に呼び出したりする。のちに手紙も盗んでいたことがわかる。さらに早朝の牛乳配達の仕事まで請け負って、マグダになんとか接近しようとする。トメクが一緒に暮らす老女は「国連軍としてシリアに行ったときの同僚の母親」。トメク自身は孤児院育ちで両親のことは知らないという生い立ち。偽の為替で呼び出すのが複数回となり、キレたマグダに他の郵便局員が暴言を吐いたことで、トメクはマグダに話しかける。それをきっかけに「デート」をするが、マグダにとっては仕返しやからかいの対象だったのか、性的な誘いを仕掛けてトメクを辱める。ショックを受けたトメクは自宅に戻り、バスルームで手首を切り、病院に運ばれる。さすがにやりすぎたと我に返ったマグダはトメクの自宅を探すが、老女に冷酷な態度で返される。その日からマグダのほうがトメクの消息を気にかけるようになる。罪悪感からか。ある日、職場に復帰したトメクを見つけたマグダ。トメクに近寄ろうとして......。

中盤までは、ストーカー行為をするトメクの幼さがひたすら目立つのと、その行為の内容は不快で仕方がない。25年前と同様、吐き気をもよおす。トメクのストーカー行為に気づいている老女は心配そうではあるが、咎めはしない。

中盤以降、生身のマグダと関わることで、トメクの中に変化が生まれる。自分について語り、思っていることや行動の理由について語る。語る相手が出現した、それもずっと一方的に見ていた相手。他の人は知る由もないようなプライベートな姿も知っている相手。何かが統合されたのではないか。ただ、そこからマグダがした残酷な仕打ちは、トメクの想定を大きく超えていた。

マグダは「犯罪である」という告発を超えて、意図的にトメクの尊厳を損なう手段に出た。マグダのほうも幼いと言える。何か満たされないものがあるのかもしれない。友人の気配もない。そしてトメクと暮らす老女もまた孤独だ。トメクの友人である息子は家を出て行って戻ってこない。「わたしが彼の面倒をみます。もう年だから一人で寝たくないの」という言葉に、背筋がゾクリとする。育みの愛ではなく、支配。利用。囲い込み。所有。

最終的にマグダの感情は宙吊りにされて終わり、観客もまた同様に放り出される。

しかし物語を振り返ってみると、これは彼らの成長の物語であるように見える。

「愛」とは、肉欲なのか、崇拝なのか、執着心なのか。そうでない愛とは。今回もまた苦いものが残る。



第7話 ある告白に関する物語

こんな話、よく思いついたな......と、どの物語にも思うわけだが、中でもこの第7話のプロットには驚く。

巨大団地に両親と暮らすマイカは、高校生(16歳)のときに娘のアンカを出産する。相手は国語教師ヴォイテク。母親エヴァはその学校の校長という立場からスキャンダルを恐れ、自分の娘として育ててきた。マイカはアンカの姉として生きてきたが、6歳のアンカを連れて海外で二人暮らそうと覚悟を決め、パスポートを入手した上、アンカを連れ出す。アンカのパスポートは、保護者であるエヴァでなければ受け取ることができない。エヴァを相手に交渉を続けるマイカだが、駆けつけたエヴァをママと呼んで抱きつくアンカを見て、マイカはホームに入線してきた電車にそのまま飛び乗り、一人去る。

歪んだ親子関係、歪んでいるまま、それを平時と運行しようとする家族のおぞましさ。母親の醜悪さ、服従させられた父親の存在の薄さ(というかもはや害悪)。会いに行ったヴォイテクからの情ももはや1ミリもなく、むしろアンカを苦しめているのはお前だと責められる。八方塞がりの主人公。ラストは一体希望なのか絶望なのか。

イカのあの後の人生を思う。またアンカの将来は。アンカが寝ているときに叫んで揺すってもなかなか目が覚めないのは、板挟みのストレスによる夜驚症だろうか。だとしたら、アンカも開放されるのだろうか。いつかまた二人は母娘として出会い直せるのだろうか。なかなか感情移入をしない物語であるが、この第7話には他人事ではない感覚を覚えてしまった。(わたしの母娘関係がこのようだということではなく)

イカの罪悪感は、自分が生まれたことによって、母エヴァが子どもを産めない身体になったことだ。そのことでマイカは恨まれ続けてきた。アンカの登場はマイカが赦しと愛を得るための手段にもなったのかもしれない。根深い。あのお母さん自身の母娘、親子関係にもトラウマがあるのではないか。そうだとしたら、そこに男・父親が関与できる隙が果たしてあったのだろうかという気もしてくる。

斎藤環さんの『母と娘はなぜこじれるのか』NHK出版, 2014年)を思い出す。

アンカがマイカの子であることは、DNA鑑定ができればすぐにわかることなのだが、とまたここでもDNA鑑定について考える。でもできたとしても、苦しみがなくなるわけでもない。そういう人間の普遍を描いている。

 

第8話 ある過去に関する物語

わたしにとっては、10話中、もっともとらえるのが難しい物語だ。

巨大団地に一人で暮らすゾフィアは、大学で倫理学の教鞭をとっている。ある日ゾフィアの講義に、学術交流でアメリカからきた聴講生のエルヴュジエタが参加することになった。ゾフィアの講義の進め方は、あるケースを紹介して、その中にある倫理についてディスカッションするというもの。ある学生から定時された「夫ではない男の子どもを産むことについて」(第2話のエピソード)に対し、ゾフィアは「子どもが生きていることが大切」と説いた。そのとき、エルヴュジエタは、ナチスの占領下で、あるユダヤ人の少女がキリスト教ポーランド人の助けを受けられなかったエピソードを定時した。ユダヤ人の少女とはエルヴュジエタ本人であり、他のポーランド人の助けを借りて生き延びた。助けなかったポーランド人とはゾフィア。ゾフィアはエルヴュジエタと当時のことについて語り合い、あのときの家に連れていき、自宅に泊める。翌日は助けてくれたほうのポーランド人で今は仕立て屋を営む男性に会いに行くが、「戦争の話はしたくない」と拒絶される。意気消沈して出てきたエルヴュジエタに、ゾフィアがやわらかく微笑む......。

第5話の死刑制度への批判と並んで、現実のポーランドにある重要な対象に正面から迫った回。わたしが「捉えるのが難しい」と感じているのは、当時のポーランドの人たちが当時どのような行動をとったのか、そして今それをどのように検証しているのか、十分に知らないということがあるからだ。

その一端は、昨年、このオンラインのスタディツアーに参加して垣間見た。このテーマは引き続き探っていきたいところだ。また「ポーランドの話」という切り捨てをせずに、「日本の話」としての共通性を見出したいとも思っている。

一旦それらの宿題を置いておけるとしたら、封印していた過去との遭遇というテーマはとても普遍的だ。罪悪感に苛まれつづけていたゾフィアが、エルヴュジエタの生存を知って、人生の重石が取れただけでなく、二人のやり取りがゆるやかな友愛に包まれているところに、観客としては安堵がある。エルヴュジエタも復讐してやる、暴露してやるというつもりで乗り込んできたわけでもなく、ゾフィアも土下座して泣いて詫びるというのでもない。かといって開き直るわけでもない。冷静にお互いに自立して出会い直している。

とはいえもちろん赦すことが大事という映画でもない。人は過去と向き合っていくこともできる、ということなのか。

カトリックについて「欺瞞性」という言葉を使って議論させている。1988年はまだ映画の検閲が行われていた時代だが、これが放映されたとき、どのような反響があったのだろうか。

ゾフィアの健やかさや、ゾフィアがいるところで起こるちょっと不思議な出来事の挿入もおもしろい。たとえば、直しても直しても傾く壁にかけられた絵や、エルヴュジエタとの灰皿についてのある意味どうでもいいやり取り、授業中に入ってきた学生にアフリカ系の学生が「出ていけ」と叫ぶ場面、団地の周辺をジョギングしていたときに出会った曲芸師など。

「あの講義でのエピソードに出てくる医者と患者もこのアパートの住人。変なアパート。いろんな人が住んでいて、いろんなことが起きる」とエルヴュジエタに話すところは不思議だ。そのエピソードを持ち出してきたのは学生。学生も知っていたしゾフィアも知っていたとはどういうことなのか。どういう経緯で個人の事情を知ったのか。

この回では、第10話で「亡くなった父」となっている切手収集家が登場して、新しく入手した切手をゾフィアにわざわざ見せにくるシーンもある。息子たちも知りえない、団地の近所づきあいを知っているのはわたしたち観客だけというところも、秘密を共有しているようでおもしろい。

ある種の和解の形がある。新しい物語は常に生まれ続け、時は流れ続ける。もちろん直視しきれない過去も人は持っている。そのことへの尊重もゾフィアは語る。「やっぱりね。すごく苦労した人なの」。

 

第9話 ある孤独に関する物語

わたしの中では印象が薄かったが、今見ると、なんとも味わい深い物語だ。

性的不能で回復の見込みがないと知らされた外科医のロメク。妻ハンカと離婚するようにすすめられる。落ち込むロメクを妻は気にしていない、という。しかし妻の行動がおかしい。調べていくと若い学生と浮気をしていることが判明する。ロマンは二人の逢引の現場まで行って確かめる。ハンカはロメクへの愛を確認し、学生と別れることにした。いくらかの行き違いにより、猜疑心に苛まれていたロメクは早合点し、自殺行為に出る。運良く助かったロメクからハンナに電話がつながる。

勃起不全も、もしかして現代の医療があれば、あるいは現代のようなセックスの多様性のような価値観に触れていれば悩まずに済んだのだろうか?など、また、DNA鑑定などと似たようなことを考えてしまう。いずれにしても、その悩みの深刻さはわたしには理解できない。

夫婦が直接相手に伝えることもないまま、先走って行動してしまったり、疑心暗鬼にとらわれて、相手を遠く感じてしまい、絶望に追い込まれていくのは、側からは滑稽なように見えるけれども、当人たちにとっては、夫婦関係として重要な時期を過ごしている。ここまでならないと超えられない壁のようなものがある。この試練が訪れたことで、初めてお互いを知ったり、これまでの信頼関係や、その表明の仕方について、見直すことができる。かれらはこの難しい試練を自分たちなりのやり方で乗り越えたのだとも言える。ロメクとハンナがどのような関係をつくっていくのか、ほの明るい希望の光が見えるラストだ。

途中で出てくるロメクの患者で、声楽をやっているという若い女性が教えてくれるヴァン・デン・ブーデンマイヤーの歌が、この物語を悲しげに覆っている。ヴァン・デン・ブーデンマイヤーとは、キェシロフスキの考えた空想上のオランダ人作曲家。

病院でもタバコ吸いまくりの時代。とにかくタバコ、タバコ、タバコのシーンが多い。1980年代はタバコ全盛期。

 

第10話 ある希望に関する物語

デカローグ唯一のコメディ要素のある物語。

巨大団地に暮らす父の死をきっかけに、久しぶりに再会した会社員の兄イェジーとパンクロッカーの弟アルトゥル。切手収集家だった父の遺した膨大なコレクションが実はとんでもない価値のあるものだと知り、俄然欲をかきだす。ドーベルマンを飼ったり、防犯装置をつけたり、家に泊まり込んだりして、貴重な切手が盗まれることを恐れ始める。次第により価値の高いシリーズものの切手を手に入れたくなり、終いにはイェジーは腎臓移植まで行ってしまう。しかし手に入れたと思った切手も、残りのコレクションも、手術中に入った泥棒によって盗まれてしまう。実は切手のことで関わっていた男たちは全員がぐるだったことが判明する。顔を見合わせ、笑いあう二人......。

これ、見たときは、しばらく友達とCITY DEATH!(アルトゥルのバンド名)と言って笑い合っていたのを思い出す。しかも歌詞の内容が「十戒の掟を破れ!」というものになっていて、冒頭のライブのシーンと、エンドクレジットで流れる。十戒の型を使ってあれこれ物語ってきたけれど、結局十戒を守りましょうという説教めいたことは一切描いておらず、それどころか逸脱しまくる、普通の人間たちがジャンジャン出てくる。それを最後に「掟を破れ!」ときたところ、それもパンクな音楽にのせて、というところが最高。粋だなぁ。

コメディといっても、かなりブラックで、臓器売買のくだりを思い出すと背中がぞわぞわする。わたしも切手が好きで子どもの頃から集めているので、収集心は理解できるが、高価なものは一切持っていないので、そこまでするか、としか思えない。途中で出てくる切手マーケットの様子は、ときどき行く目白のイベントでも似たような雰囲気があるので、親近感がある。基本的に中年以上の男性が多いところである。

欲をかくとろくなことがないが、欲しいものがあると、自分の中で「これは〜だから買っていいんだ」などと理由づけして衝動買いすることがある。あの感じに似ていて、自分のダメな面にちくりときた。家族の確執、遺産、金......気をつけないとな。幸いこの兄弟はいがみ合うこともなく、途中は刑事に密告しあったりもしていたが、最後は笑いながら終わっていったのでよかった。まさに「ある希望に関する物語」だ。

この団地の住人ではない兄弟が、父の死をきっかけに出入りするようになるという、「デカローグ世界」に対する新しいかかわり方もあり、最終話にして一つひとつ、おもしろいつくりになっている。

また6話に出てきたトメクが兄弟に切手を売るシーンなどもあって、てきぱきと仕事をしている様子が見られるのもいい。元気になったんだね!と話しかけたくなるような、ちょっと知り合いにあった気分。登場人物があちこちに出てくるので、親近感がわく。

 

トークイベントのメモ

ゲスト:久山宏一さん(ポーランド広報文化センター)

・久山さんは、ポーランドに住んでいたときに、テレビでリアルタイムに『デカローグ』をご覧になっていたそう。

・映画制作の流派のようなものに属しておらず、彼自身が一つの一派のような存在。「キェシロフスキ的なるもの」という言葉もあるぐらいだとか。

共産主義時代の風景の記録でもある。(1952年–1989年)

 たとえば、ロングライフではない牛乳や牛乳配達。ウサギ(第2話で団地の管理人がウサギを拾い上げて、「あなたの?」と尋ねるシーン。かつては丸ごと売っていた。ベランダで吊るしておいて、復活祭のために料理する)。(国営の郵便局もそう)
・逆に、あえて記録されていない風景もある。
 商品のない店の棚、食糧の配給、ストライキ、集会など、政治的な要素を排除している。

・キェシロフスキの自伝で「デカローグは、自分にとって漠然として、混沌とした現実をとらえた」とある。「現実のほうが映画作家より賢明」

・現実に切り込む哲学を持っている。大きな概念を使って映画を作る。十戒トリコロール、神曲

 

牛乳が登場するシーンはなんとなく記憶に残る。
調べてみたらこういう記事が出てきた。最近の話だが、おもしろい。

ポーランドと日本の牛乳って違う?
https://newsfrompoland.info/life_gourmet/milk-poland/

 

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25年経っての印象をパラパラと綴る。

あらためてすごい映画だと思った。
自分の記憶にむらがあって印象が薄かった回も、見返すことでピースがはまった。1話60分、十戒に基づいた10話という型の美しさもしっかりと感じられる。10話の中で登場人物が行き来しているのもあり、探すのが楽しかった。謎の青年も。これは25年前と同じ。

たった60分弱とは思えない。今起こっていることに注視させながら、過去に何があったのか、この先どうなっていくのか、映っていない範囲までも想像させ、観客に物語を共有させる。

辛い、痛々しい、悲しいなどのネガティブな言葉をたくさん出したが、決して観ていて陰鬱な気分になってどうしようもない、もう観たくない、というわけでもない。

むしろいつまでも観ていたい居心地の良さがあるし、もっと他の住人の話も観たくなる。シビアでシリアスなのに観る人を苦しくさせない(第5話を除いて)、むしろ愛おしくさせるのは、ほんとうに不思議な力だ。


1997年のパンフレットにも書いてあったが、始まり方は、あらあらなんか大変そうだなぁ......と思っても、必ずどこかにちょっとしたツッコミどころやゆるみがあって、隅から隅まで緊張に満ちていなくて、唐突に変わったものが出てきたりするからなのだろうと思う。考えてみれば、現実も確かにそうで、シビアな状況にあっても、しじゅう身を固くしてだけ過ごしているわけではなく、歩いていたら、ゴミ袋を荒らしているカラスがいて、カァと鳴いて目が合ったとか、そういうふっと集中が外れる瞬間があったりするものだ。

観客はガラス越しにただ見ているだけ。物語はシビアでも感情移入しないようにできているから、入り込みすぎずにいられる。こういう「カメラの向け方」や「世界に向ける眼差し」に影響されたことは大きい。具体的に何と挙げられないが、若いときに影響を受けたものは内在化しやすいという意味で。

ポーランド社会の現実的で個別的な事情が極力出ないように演出されているので、地域や時間を超えた内面世界でつながりあうことができる。

 

ほぼ全編を通して登場する謎の青年を見つけるのも楽しいし、物語と物語の間で登場人物がすれ違ったり、さりげなく関係を持ったりするところが、見つけられるとうれしくなる。そして10話見終わったときには、この人たちを草葉の陰から見つめるような視線こそ、あの謎の青年の役回りだったのではと気づく。

あるいは、わたしたちも擬似的に神様のように、そっと人の営みを見守る体験ができるというのか。神様がそういう仕事をしているのかは知らないが、日本的な感覚でいえば、ご先祖様が霊魂になって見ていてくれるというような感覚だろうか。仏教の「慈悲」と「救済」とはこういう世界だろうか。

 

わたしはすでに主要な登場人物たちの年齢を超えてしまっているということに気づいて驚いている。親の立場や老境に差しかかった人たちの内面が推し量れるようになっている。25年前は「そういうものなのかな?」と想像するしかなかったような物語も、わたしにもこういう世界線があり得るかもと考えたりする。

 

たまに登場人物が「こちら」を向く時があって、どきりとする。覗き見を咎められているのか、あなたにも心当たりがあるでしょう? と問うているのか。

 

身体にまつわることでいえば、女性は、生理、セックス、妊娠、出産、中絶など、生殖関連が多いが、男性のほうは、性的不能、射精、自死、殺人、死刑、遺伝子、病、臓器移植など、ある意味バリエーション豊か。子ども、若者、中年、老年と世代もさまざまに登場するのもバランスがよい。ずっと団地だけに留まっているのでもなく、市街地にいたり(第3話、第5話)、電車に乗って田舎町に行ったり(第8話)している。置いた設定にこだわりすぎない緩やかさが、逆に全体に統一感をもたらしている。

 

タイトルバックのピアノからして不穏さがあり、終始ブルーグレーの画面が続く。当時のポーランドの社会を映しているとしたら、もっと詳しく知りたいと思う。タバコは吸いまくだし、固定電話しかないし、コンピューターも初期の型だけれど、未来的でもある。

 

あの頃のように劇場に通った幸せな日々に感謝したい。

『デカローグ』と共に過ごしたこの特別な時間をまた後年鮮やかに思い出すのだろう。

  

 

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当時のパンフレットはすごく充実していた。シナリオ再録他、読み解きの助けになるコラムもたくさん。シネカノンさん、作ってくださってありがとうございました。
  

現在の配給はIVCさん。こちらのパンフレットもまた、今の時代だからこその解説が盛り沢山。

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好きすぎてBlu-rayを購入した。

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デザインが美しい。ガラスを隔てた先にある景色や、雪片のように折り重なっていく10の物語のイメージをパッケージが表してくれている。

特典として、60年〜80年代製作の初期TV作品の収録や、解説ブックレットにはポーランド映画研究者の久山宏一さんの寄稿もある。

 

何の作品を観ても、「ああ、もし原語で理解できたら、全然味わいが違うのだろうなぁ!」と思うことばかりだが、2ヶ月前から仲間と「ドイツ語(英語)でなんか読んでみるかい」という、小説を朗読しながら語学の勉強をする会を週一でやっていることもあり、より強く思うようになった。

今は『デカローグ』の余韻があるので、ポーランド語を1時間だけでも学びたい気持ちがある。

そんな折、先出のポーランド映画研究の久山さんのポーランド語の講義が、東京外国語大学のオンライン講座で受けられると知った。なんと!

タイミングが合えば、次の夏講座を受講してみたい。ありがたい。良い時代になったものだ。

オープンアカデミーとは |東京外国語大学 オープンアカデミー

 

 

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映画『台湾新電影時代』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

6本目はシエ・チンリン監督『台湾新電影(ニューシネマ)時代』 2014年制作。
原題:光陰的故事 - 台湾新電影、英語題:Flowers of Taipei: Taiwan New Cinema

概要・あらすじ https://www.ks-cinema.com/movie/denei/

youtu.be

 

台湾ニューシネマとは。Wikipediaの解説がわかりやすい。

台湾ニューシネマ(たいわんニューシネマ)は、80年代から90年代にかけ台湾の若手映画監督を中心に展開された、従来の商業ベースでの映画作りとは一線を画した場所から、台湾社会をより深く掘り下げたテーマの映画作品を生み出そうとした一連の運動である。

このドキュメンタリーでは、台湾ニューシネマの起こりや経過や終焉を辿りながら、その意味や今日への影響をふりかえっている。

関係者の証言を積み重ねるのではなく、映画監督、舞踏家、批評家、美術家、映画祭ディレクター、キュレーター、映画プロデューサーなどの立場や国、外側から動きを観ていた人たちへのインタビューをメインに、「台湾ニューシネマとはなんだったのか」に多面的に迫っている点がユニーク。

映画のシーンを差し挟みながら、それぞれの立場から見た台湾ニューシネマとそれへの愛が語られているのを聞くのは、幸せな時間だった。

 

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印象に残ったフレーズを要約的にメモした。

・70年代の課題の解消と、抑圧された感情の発露が80年代的なテーマとなった。

・台湾と中国の両岸の開放に、演劇、文学、映画、美術は明らかに重要な役割を果たした。

・個人の記憶に価値がある、映画とは記憶の記録。

・ニューシネマの映画は眠気を誘う。観客を別の世界へ、いつもの日常とは違う精神世界へトリップさせる。

・独特の文化、30年過ぎても新鮮さをを失わない。映画に引き込む力がある。始原の映画だ。

・深い協力関係。共同監督など、新しい制作形態をとる。制作現場は驚くほど自由。

・自国の歴史を見つめる。

ヴェネツィア映画祭で台湾国旗が中国政府の要請で撤去された。

・西洋の観客には背景や切実さが理解できない。内省人外省人との対立、社会的、心理的不安。しかし美学や演出方法に強い影響を受けた。

・なぜか台湾映画に親近感がある。同世代で感覚が近い。ニューシネマとはいっても一様じゃない、作風もバラバラ。複雑でスローな撮り方、静かなところは一致。

・日本では考えられないほど自由な制作。前日のシーンを再テイク。きょうのお前らのほうがいきいきしてるから、と。なるほど。

・観るたびに影響を受けている。映画的な瞬間、映画的に見えるか。

・台湾という社会がおかれている独特の悲しみがある。

・父は台湾時代は楽しかったという。父の話と結びついて自分も親しみがある。ただ、日本と台湾との歴史的な関係を思うと、呑気にも言えない。

・50年の日本の植民地支配を思う。白色テロで日本語で教育を受けて日本語による知的活動をしてきた人が迫害の対象になったことが、スーパーシチズンで描かれる。このラストが最も印象深い。

・80年代が激動だったとは、香港では知らなかった。彼らの苦しみに気づかなかった。粘り強く、信念がある。香港人には理解できない。台湾の映画人は協力し合う。侯孝賢が、エドワード・ヤンの映画製作のために金を工面したという。友情を大切にする人たちだ。

・よい映画とは、その時代の現実を表現しているものだ。明確な視点で、心を開いて対象の人間と向き合う。映画は政治的変化、経済的変化を映す。

・かれらが扱うテーマを理解したい。

・テンポが遅く、忍耐が必要。理解も難しい。しかし心惹かれる。違う視点を与える独特の魅力。

・独特のヒューマニズムがある。個人的な思考でも現実を捉えるとき深い理解ができるなら、それは普遍的である。(中国では否定される)個人の価値の尊重がある。

・個人の記憶を大切にする。生身の人間。生活感がある。人間と人間との関係が見える。集団ではなく、個人の視点があり、特別な時間から真実を見出すのがユニーク。

・台湾誠司の民主化によって社会の要求の変化があった。今の時代はあんなふうには撮れない。しかし、かれらのスタイルを忘れてはいけない。

 

今回の特集で、ドキュメンタリーは3本上映されている。

『台湾新電影時代』、侯孝賢個人に寄った『HHH:侯孝賢』、そして台湾映画を中から検証した『あの頃、この時』。素晴らしい構成だ。この3本を観れば、台湾映画や台湾ニューシネマについて相当な量と質のことが学べる。ありがたい。

侯孝賢エドワード・ヤンについてのドキュメンタリーはないものかと探したら、なんと是枝裕和さんが1993年に撮っておられた。『映画が時代を写す時-侯孝賢とエドワード・ヤン』ものすごく興味がある。なんとかして観たいものだ。

 

わたしが大学生の頃、90年代半ばにミニシアターで台湾映画が次々と上映されていた。そのときに台湾ニューシネマという言葉も一緒に摂取していたと記憶している。

わたしが台湾ニューシネマの映画(あるいはその遺伝子を継ぐ映画)にこれほど惹かれているのか、自分でもよくわからなかったが、このドキュメンタリーを観て、世代や国を超えて人々が感じていることが自分の中にもあると気づいた。

 

あらためて考えてみると、あの頃わたしは、大阪や京都や神戸という都市とその郊外に生きていて、現代都市における人間関係に関心を寄せていた。強烈な抑圧から突然放り出される10代の終わりから20代の始めという不安定な時期でもあったので、孤独、理解し得なさ、つながれなさ、寄るべのなさ、凶暴さ、貧しさ、虚しさを映画の中で感じながら、現実の複雑さに直面していったのだと思う。

ノリやわかりやすさや笑顔で好印象が求められる現実、日常に対して、思いっきり偏屈で不機嫌で理解不能を表現してもよく、これが一つの美学や芸術として評価されているということ自体が救いだった。

 

台湾という、軸をずらした、似て非なる文化に触れることや、過剰な演出を配した静かな(calm)世界では、いつも心穏やかでいられた。

わたしにとっては、あれらの映画が「台湾ニューシネマ」でくくられていることが重要なのではないが、ムーブメントとして歴史になり、国や言葉を超えて共通言語になっていくのはうれしい。

 

また、「アート系映画」という言い方に長らく抵抗があったが、このドキュメンタリーを観て考え直した。やはり別のものなのだ。娯楽映画と芸術映画は明確に異なる。芸術映画はメインストリームにはなりえない、しかし映画や映画館という同じ名前を使うことで、同じカテゴリにあることによって、鑑賞者はシームレスに行き来することができる。

映画は文化だ。あってもなくてもいいものではない。個人であり、市民であり、民族であり、国民のアイデンティティの根拠になるものだ。

 

『憂鬱な楽園』で山道をバイクで走り下りるシーンにクレジットが重なって、エンド。

 

今もなお色褪せない、永遠の台湾ニューシネマ。

 

こちらのブログのまとめがありがたい。

mangotokyo.livedoor.blog

 

もっと知りたくなって、やはり購入してしまった。この機会にもっとのめり込んでいこう。ずぶずぶ。

 

うちの近所の台湾っぽいところ。

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映画『坊やの人形』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

7本目は、オムニバス映画『坊やの人形』 1983年制作。
原題:児子的大玩偶、英語題:Sandwich Man

概要・あらすじ https://moviewalker.jp/mv11463/

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なんとも重苦しい気持ちになる映画だ。

登場人物たちの不安、焦り、惨めさ、期待、悲哀などは、設定として消費されているのではなく、すべて現実社会の写鏡としてあり、リアリティを映画的に創作していると感じる。

三作品に共通しているのは、貧困と格差、分断と排除。それらを作り出している政治や国交や時代の変化への強い皮肉と怒りのパワーを感じる。

 

この先、感想をかなり詳しく書いてしまったので、鑑賞に影響すると思われる方はご注意ください。

 

一本目は

表題作でもある侯孝賢監督『坊やの人形』

台中の山間のまち、竹崎に暮らす貧しい3人家族。父親は、自分で仕事をつくろうと、ピエロの姿をしたサンドイッチマンになる。この姿がもう悲哀以外の何者でもない。

「職が見つかった!これで子どもがつくれる!」と転げ回らんばかりの喜びようだったのに、次の瞬間は奈落の底に落とされるような、辛い仕打ちが待っている。この感じは、イタリアの1940年代〜1950年代のネオ・リアリスモ映画の金字塔、ビットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』そっくりだ。

音楽で感情表現や情緒を煽っているところもあるので、なおさら悲哀が滲みる。モノクロだったらもっと落ち込んでいたかも。カラーでよかった。

わたしにとって衝撃だったのは、冒頭の妻が経口避妊薬を服用していることを知ったときのくだり。映画が撮られたのは、1983年で、映画の中の世界は1960年代の設定だが、この時代にすでにピルがあって、医師の処方で買えるようになっているということなのだろうか。ちなみに日本で低用量ピルが日本で認可されて販売を開始したのは1999年だ。また、「リングを入れたのか?」というセリフもある。夫婦間、家庭内でこういう会話はできるぐらい普及していたのだろうか。「飲んで子どもができなくなっちゃった人もいるんだぞ」というあたりは、まだ質がよくなかったのか、性教育が不足していたのか。(いや、そんなことを言えるような日本の性教育では全くないのだが)

そして、その後の回想シーンで、涙する妻に夫が「2,3日で流れ出ちまう。またできるよ。仕事があれば。ないのにどうやって暮らせるんだ。さあ、飲めよ」と説得する。堕胎の話をしていると思われる。冒頭からいきなり重い。

途中では、「もうサンドイッチマンなんか何の効果もない」と言われてむしゃくしゃする夫が、妻に「なんで茶が用意されてないだ、ここでは俺が主人だ!」などと喚いて物を投げたりする。

映画館の親方に雇われている夫は、職場の上下関係でも社会構造の中でも底辺にいる。停車場で読書に熱中する制服姿の学生たちをじっと見つめる姿に、オーバーラップする役所でのシーンの中で、夫が字が読めないことがわかる。読み書きができない、学校に行けないほどの貧困にあえいでいた生い立ちだったのだろうか。

なんだかいろいろ辛いのだが、少しずつ状況は上向いていく。劇的ではないが、ほの明るい。「家族が生きる支えになる」というある意味伝統的な家族像だが、描かれているのは今日的課題でもあり、遠い昔の話とも思えない。

 

続いて、

曾國峯(ゾン・ジュアンシャン)監督『シャオチの帽子』

日本製の圧力鍋を販売する会社に入った二人の男性。どこか冷めたところのある兵役明けたての若者と、身重の妻を抱え、新しい仕事に期待を寄せる30代の男。

どちらもやっとありついた仕事だ。

台中のまち、布袋に派遣されて、大量の鍋をかかえ、毎日宣伝活動に繰り出す。住民からの反応はいまいち。「早く調理してどうするんだ」という言葉に都会と田舎の時間の流れのギャップがある。ビジネスっぽい出立も周囲からは浮いている。若者は、彼らの拠点の前を通りかかる少女シャオチが気になり、話しかけるのが楽しみになっている。

物語が進むにつれて、少しずつ高まっていく「圧力」。最大になったときに起こるシャオチの帽子と圧力鍋にまつわる悲劇。

衝撃。まさかこういうこととは!なかなか心理的にくる。物質社会、消費社会、資本主義に絡めとられていく人々の姿が悲しいほどにまざまざと炙り出される。夏の太陽の明るさや、デモンストレーション用に仕込みをしていた豚足の画も脳裏に焼きつく。

また、「日本製の」というところに、自分自身の罪悪感と居所のなさを覚える。日本の支配下から解放されたと思いきや、コントロールできない「地雷」を送り込まれ、危険にさらされ、取り返しのつかない傷を負わされる人々。どういう意図での製作だったのか、また研究者の間ではこのモチーフをどう解釈しているのか、聞いてみたい。

 

最後は、

萬仁(ワン・レン)監督 『りんごの味』

台北の貧民街に住む男が、朝、仕事に向かう途中、駐留米軍の高級将校の車に跳ねられてからの一日を描いた物語。

男には子どもが5人おり、学校に行っていないで口減らしで養女に出されそうな長女と唖の次女が、家事を手伝ったり赤ん坊の三男の面倒をみている。長男と次男は学校に行けているが(家父長制の現れか?)が学級費が払えないため、いつも教室の隅に立たされている。

駐留米軍についている警官は、外省人なのか、北京語を話しており、その言葉は一家の母親には通じない。母親は本省人台湾語しかわからないのだろうか。長女が通訳をしている。台湾の社会にある分断が示される。また冒頭の、「轢いた相手は工員(labour)なのか?」という電話のやり取りからして、駐留アメリカ人たちの態度は、かなり差別的だ。

一家の大黒柱が瀕死であったら路頭に迷うのだ、仕事を求めて台北にやってきたのが間違いだったのではないか、と呆然とする母親を尻目に、生まれて初めて外車に乗った子どもたちは、事の重大さもわからず、はしゃぎまくる。幸いなことに父親は両足骨折で手術はしたものの、生きていた。豪邸のような海軍病院に目を丸くする一家。ほとんどSFの世界だ。

さらに、車に轢かれて全治数ヶ月で普通「ごめん」では済まないのだが、将校がお金を持ち出すと、母親はころっと明るくなる。最初からそれを狙っていたふしもある。唖の娘をアメリカに留学させようとも持ちかけられる。男の職場仲間もやってきて、みんなで喜び、笑い合う。

差し入れでもらったサンドイッチとソーダとりんごを食べ、最後にりんごを一人一個ずつかじる。りんご1個は2kgの米と同等の価値を持つ。ここは南国だからりんごの栽培はしていない。バナナならあるけれど。圧倒的に高価なのだ。

家族に勧め、自分もりんごをかじる男。笑いたいような、泣きたいような、表情をしている。しぶとく生きる庶民の姿とも言えるが、残酷なほどの違いと、差別の眼差しもセットで隠すこともなく描いている。

将校も病院で働いているスタッフも、英語でしか離さないし、わかろうともしない。自分たちが他所の国に来ているのに、「何を言っているのか全くわからない」などと言う。唯一、シスターがなぜか台湾語がペラペラだが、人畜無害で、いてもいなくてもいいような役回りが滑稽だ。

最後の家族写真は、少しあとのものだろう。長男、次男、三男が少し大きくなっている。次女は写っていない。アメリカに行ったのだろうか。

笑えるところもあるが、これまたなんとも言えない後味の悪さが残る作品だ。

 

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いやはや、である。よくこんな映画を三本も撮れたな!

台湾ニューシネマの運動はこの『坊やの人形』が本格的に開いたのだそう。

 

確かに新しさがある。

今観ても新鮮だ。古いとか、一時期だけの盛り上がりや流行りに感じるダサさが一切ない。娯楽とは一線を画した作品として作られ、世に提示されたということだろう。

原作である小説文学の世界を映画で表すことに、それぞれの監督が挑戦を込めて作ったのだろう。またオムニバスということで、他の二人に対する緊張感やライバル心などもあったかもしれない。

企画者の意図としては、「1人の監督ではお金を付けづらいが、3人まとめて才能を発掘するのはいいのではないか」と思いついたというインタビューが『HHH:侯孝賢』で語られていた。

 

やはり観ておいてよかったと思う。

台湾ニューシネマに惹かれる理由がまた一つ、わかったような気がする。

 

お気に入りのチャイナを着て、観に行ってみた。

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台湾ぽい。

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映画『恋恋風塵』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

最初に観たのがこちら。(ブログの投稿と鑑賞記録の順は前後)

侯孝賢『恋恋風塵』 1987年制作。
原題:戀戀風塵 英語題:Dust In The Wind

概要・あらすじ 

60年代、幼い頃から田舎町で兄弟のようにいつも一緒に育ってきた中学生の少年アワンと少女アフン。卒業して台北に働きに出た二人の淡い恋とその切ない別れを描く。(K's Cinemaウェブサイト

侯孝賢が独自の作家性を確立し、映画美学を一旦極めた第二期にあたる。『風櫃の少年』『冬冬の夏休み』『童年往事 時の流れ』を経てたどり着いたのが、この『恋恋風塵』。自分および脚本家など周りの重要な他者の生い立ちにヒントを得て、描かれている。

まずはこの映画から、侯孝賢に出会い直す旅をはじめる。

 

youtu.be

 

今回の上映で権利が切れるという、日本最終上映。これは観ねばと日付が変わると同時にチケットを取って、最終日の最終上映にきっちりと見届けた。

 

『恋恋風塵』を観たのは確か高校生のときだったと思う。『悲情城市』が話題になったあとで、BSで放送されていたか、レンタルビデオで借りて観た。具体的にはラストシーンしか覚えていなかったが、とても美しい映画として記憶の中にある。

「いつかまた大人になったときにわかるだろう」と思いながら、この頃は一見退屈そうに見える映画も、選り好みせずに観ていた気がする。とにかく時間があったし、好奇心もあった。「この人、映画の世界ではすごい人なんだ」と思ったら、とりあえず観た。

世界にはどんな映画があるのか、どんな物語があるのか。知らない国の知らない言葉、文化に触れるのも新鮮だった。どの国の映画もかなりフラットに観ていて、きょうはポーランド映画、明日はイラン映画、明後日はフランス映画という感じで、なんでも観た。

そしてそういう営みについては、一人の友人をのぞいては誰とも共有することはなかった。ほぼ二人でコツコツと感想を交わしながら、鑑賞経験を積んでいた。

そんな年齢を過ごしたわたしと、『恋恋風塵』に出てくる10代は全く違う。

山深い集落に暮らし、学校に電車で通い、高校には行かずに台北に出て働く。
つてを頼って、仕事をみつけ、家を借りて、自炊して。友だちや仲間と肩寄せあって、生きる。そんな日々も兵役までの数年のこと。

昔の台湾は徴兵制があった。中国共産党と軍事的に対立していた1951年に始まり、18歳以上の男性が海軍3年、陸軍2年の兵役についていた。この映画が撮られたのは、戒厳令の時代(1948〜87年)が明けるか明けないかの頃。

 

宣伝上は、「懐かしさと切なさのある、少年少女の恋愛映画」との触れ込みだったが、今観てみると、その宣伝自体にも時代を感じる。

自分が観ているのは、彼と彼女の内面ではなく、周りにある環境。自然、世相、時代、政治、経済、社会。歴史。その中にいるかれら。若者たち、大人たち、人間たちの営み。人生。周りにあるものを通してかれらを知っていく。

淡々としていながら、突き放すわけではない。温かな関心を持ちながら、ずっとそこにいられる。ショックなことも起こるが、観ているこちらが胸掻きむしられることもなく、穏やかさを持っていられる。しかしとても感覚に迫ってくる。

草葉の陰で見ているってこういう感じだろうか?この立ち位置、よしもとばななの『デッドエンドの思い出』に収録の短編「ともちゃんの幸せ」を思い出す。

 

訪れたことのあるようなないような、近いような遠いような、いつかのような今のような、心の世界へ連れて行かれる。

その美しさ、斬新さを、高校生当時も少しは感じていたのだろうか。こういう映像世界があると知ったことで、わたしはしんどい日々に光を感じただろうか。

 

少年が働く職場のボスが、戦時中の記憶を語るシーンには、胸がつまった。
日本の兵士として戦っていたのだ。

また中国から船が難破してたどり着いた、広東語を話す家族の貧しい様子と、十分な食事にありついている兵役中の若者たちの対比も、新たに記憶に残ったエピソードだ。

 

別れという一大事はあるものの、おもしろいドラマは起こらない。

かといってつまらないのではない。ずっとおもしろい。常に何かが起こり続けている。一秒も目を離せない。

川のせせらぎや木々のざわめきを見ていて飽きることのないように、いつまでも見ていることができる。

山水画のように、大きな自然に抱かれた中で、人が生まれ、出会い、別れ、働き、食べ、耕し、笑い、泣き、喜び、苦しみ、祈り、病に伏し、あるいは殺められ、死んでいく。

そう、恋愛というよりも、だ。

 

壮大で、等しく生けとし生きるものへの眼差しが注がれる映画。

またいつか、スクリーンで再会する日を楽しみにしている。

 

 

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昔観た映画に出会い直したシリーズ。こういう最近の経験があったから、今回熱を込めて再訪できている。温故知新。必ず発見がある。

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侯孝賢の映画をより観たくさせてくれた、最近の中国の監督の作品。時間を超えて受け継がれている美意識。映画体験。

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映画『冬冬の夏休み』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

5本目は侯孝賢『冬冬の夏休み』 1984年制作。
原題:冬冬的假期、英語題:A Summer at Grandpa's

概要・あらすじ http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000091

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「一番好きな侯孝賢作品は?」と聞かれて、この『冬冬の夏休み』を挙げる人は多いに違いない。わたしが観たのは10代の頃だったと思うが、当時は、途中でぐっすり寝てしまったようだ。ところどころ断片的にしか思い出せない。

しかし今観てわかる。人生たかだか20歳くらいのわたしが、これを観て、「まじおもしれー」となっていなかった理由が。今のわたしにこそ必要な映画だ。この映画を楽しめるほどに歳を重ねられてよかった。

 

冒頭の卒業式のシーンからいきなり流れる「あおげばとうとし」、台北駅のホームで同級生とやり取りする「日本のディズニーランド」、おじいちゃんの病院兼住まいである「日本家屋」......。様々な形で日本が登場することにまたしても驚く。

エキゾチックなものとよく知っているものが同時にやってくるのが、わたしが台湾映画に魅力を感じているところなのだろうか。もちろん、日本が植民地にしたという負の歴史を経ていることは見逃すわけにはいかないのだが。



夏の光をいっぱいに浴びた、緑豊かな里山の風景は、多幸感に満ちているが、描いている一つひとつは甘美な郷愁ではない。

生、病、死にゆく命、死線をさまよう命、死、障害、性。どこでも変わらぬ人の営みがあって、誰かが特別扱いされることもない。平面的で客観的。でも観客は親しみを持ち、人物たちと共に過ごしているスペースもちゃんと作られている。

少年期の終わりにいる兄と、幼児期にある妹。周りの大人たちの振る舞いや起こす出来事をただ黙って見つめている。『ミツバチのささやき』『エル・スール』や『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を彷彿とさせるあの眼差し、知っている。わたしにもあった。

「登場人物を批判しない」という言葉通り、侯の描く世界で致命的に悲惨なことが起こって観客が傷つくことがない。川の流れのように山の四季のように、ただ流れる。

わたしにもこういう感情、感覚があったことを思い出す。夏休みに田舎のおじいちゃん、おばあちゃんがいる家に行って、長いゆったりとした日々を過ごす中で、毎日何かと起きて、何かと心揺さぶられるのだけれど、それは自分の歴史にも残るようなことでもなく。

後年、「そういえばああいう人いたよね、ああいうことあったよね」とふとした会話の中で頭を覗かせるような類のこと。夢か現か。今となっては確かめようもないようなたくさんの記憶。

あの田舎の大きな家の2階のつやつやの床板や、川で遊んだときのゴツゴツした岩場が足裏を突き上げる感覚など、やたらと鮮明に思い出せる。地元の子と友だちになって遊ぶときのあの感じ。

とても感覚的な映画。記憶に働きかける映画。

 

詩を暗唱させるちょっと怖いおじいちゃん。
Vespaに乗っているおしゃれなおじさん。
壊れた傘を指していつもどこかを歩いている近所の人。(彼女の父が、「今度こそ避妊手術をさせれば」と心配する医者に対して、抗うシーンもなんだか印象に残る)

全員に対して、まるで自分の親戚のような親近感がある。


ラスト、友情出演のエドワード・ヤンが見せる笑顔の眩しいこと。
幸せな時代。幸せな映画。感覚と記憶の映画。

わたし自身の、ある面においては過酷で、ある面においてはとても幸福だった子ども時代。そんなふうに感じるのも、わたしの世代ぐらいまでだろうか。今の10代、20代ぐらいの人はこの映画をどんなふうに観ているんだろうか。

 

わたしも、侯孝賢映画で一番好きになったかもしれない。

 

 

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舞台になっている銅羅を訪ねた方のツイートより。変わらぬ街並み!

 

 

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映画『HHH:侯孝賢』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

4本目は、『HHH:侯孝賢』。英題:HHH:Portrait of Hou Hsiao Hsien

侯を撮ったオリヴィエ・アサイヤス監督のドキュメンタリー。1997年制作。


批評家時代から台湾ニューシネマを積極的に世界に紹介し、監督デビュー後もホウ・シャオシェンからの影響を公言して憚らない、フランスを代表する映画監督の一人オリヴィエ・アサイヤス『イルマ・ヴェップ』(96)『パーソナル・ショッパー』(16)『冬時間のパリ』(18)ほか)が、ホウ監督とともに台湾を旅しながら、彼の素顔に迫った貴重なドキュメント。当時『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の脚本執筆中だったチュウ・ティエンウェン、ウー・ニェンチェンほか、ホウ監督と共に台湾ニューシネマをけん引してきた映画人たちのインタビューを交えつつ、『童年往事 時の流れ』(85)『冬冬の夏休み』(84)『悲情城市』(89)『戯夢人生』(93)『憂鬱な楽園』(96)の映像と共にホウ監督とアサイヤス監督が作品にゆかりのある鳳山、九份、金瓜石、平渓、台北をめぐる。撮影監督はエリック・ゴーティエ。表題の「HHH」は、ホウ・シャオシェンの英語表記Hou Hsiao-Hsienからとっている。(K's Cinemaウェブサイト

小説家で「風櫃の少年」(84)以来すべての侯作品の脚本を手がけているチュー・ティエンウェン、「悲情城市」などの脚本家のウー・ニェンチェン、台湾ニューウェーヴの多くの重要な作品を支えた録音のドゥ・ドゥージー(本作の録音も担当)、台湾ニューウェーヴの盟友チェン・クォフー、「憂鬱な楽園」に主演したガオ・ジェとリン・チャンなど、ホウ監督作品の主要な人物へのインタビューなどが見られる。(MOVIE WALKER PRESS

 

 

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ドキュメンタリーにおける、撮る側と被写体との関係はいつも気になる。

この作品では、被写体である侯孝賢は、監督のオリヴィエ・アサイヤスを「映画人」として、「自分の親愛なる理解者」として信頼し、真摯に語りかけている。

その様子に観ているわたしは、リラックスと刺激と両方を感じる。



このドキュメンタリーでは1997年。24年前。侯孝賢は50歳。『憂鬱な楽園』(1996年)と『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(1998年)の間の時期。若々しく充実していて、「まだまだこれからだ!」というエネルギーに満ちあふれている。

2021年の今、台湾ニューシネマは遠くになりにけりだが、台湾史にも映画史にも残る記録として、このフィルムは貴重だ。時代の変化は早く、ここに映っている人も景色も、今は姿をすっかり変えてしまっているだろうから。

侯自身の言葉で語られる映画のワンシーン、撮影エピソード、あの土地や場所、人の話。挿入される映画。個人の語りから見えてくる時代、社会背景、政治、外交。

台湾は、わたしの想像以上に日本と近い国だったのだ。わたしは何も知らないということを知った。日本占領下の時代、国民党の戒厳令の時代、民主化の時代、そして現在。もっと知りたい。

台湾の人のたちのほうはむしろ日本のことを知っている。たとえば、侯がカラオケで歌うのがまさかのあの人のあの歌だ。

 

コンテストにも出たことがあるというほどの侯の美声に聞き入りながら、映画が終わる。

侯のルーツ、生い立ち、アイデンティティ、人柄、映画への思いや美学。中国と香港とのあいだにある台湾、歴史の中を生きる個人。

たっぷり知る、学ぶ92分。
これは台湾映画を知りたい人は観るとよい一本。

 

 

●自分の記録用に印象的な箇所を残しておきたい。※観ていない方は注意

・小さい頃にあそんだ県知事公邸や廟の思い出
→侯の映画でなぜあんなにも自分自身の中の記憶の中の光景や感情にふれるのか、理解できた。ありありと思い浮かべている自分自身の記憶を映画に投影しているのだ。

・雀の捕り方(冬冬の夏休みに登場。短い説明だが、この話を聞いたあとで作品をみると、なんとも言えない気分!)

外省人としてのルーツ。両親は台湾には数年のつもりだった。すぐに戻るつもりだったから家具が竹製だった。/朱天文(チュー・ティエンウェン)の実家(冬冬の夏休みに登場)は内省人で、土地に根ざしている。あの世代がいかに物を大切にしてきたか。他人の家庭を見て、育った環境の違いを知り、自分の家庭を理解した。

外省人内省人の対立、軋轢、分断、違和感、複雑さ。ここでは平和な違いとして言葉に出されたが、ドキュメンタリーの中では、白色テロ二・二八事件でその違いが悲劇を呼んだことも示される。現代は薄れているようだが、ある一定年齢までの世代にとっては、複雑な問題なのだろう。

・祖母は中国に帰りたがっていた。/先祖の墓がないから、故郷と思えない。
→映画の中に故郷喪失者を描く。たとえ台湾人にしか理解できない「事情」だとしても、目配りがあることが物語に厚みと広がりを持たせている)

・バクチにケンカをよくした。
→侯作品でよく登場するもの。彼自身の体験に根ざしている。「オス的なものが好き。トップを争うこと」と語っている。

エドワード・ヤンの家でパゾリー二の作品を見て、映画を撮る上での視点がクリアになった。ヤンは日本家屋に住んでいた/ヤンの家にみんなで2日おきに集まった。ホワイトボードがあって。懐かしい。わたしにとっては作品より重要な時間。最もクリエイティブな瞬間だった。/ヴェネツィア映画祭で侯が金獅子賞を獲ったときは、ほとんど号泣だった。あなたを誇りに思う。
→最後の二つは侯とヤンの共通の友人で、脚本家のチェン・クォフーの言葉。このシーンよかった。

戒厳令中、検閲を受けた。

→検閲。つまり思想と言論の統制。こういう厳しい時代に台湾映画が撮られていることを今回初めて知った。

・インタビューが展開されている場で起こったり、カメラが追っているさまざまな風景もこの作品の見所。侯が中国茶を入れてくれる所作、食堂での野菜の仕込み、観光客の行き交う様子、など。外国人から見た、台湾の文化風俗を新鮮に見る視点を日本人であるわたしもまた、共有できる。

・当初はアフレコが主流だったが、同録が可能になってきた。ナグラを使っていた。若い監督が新しいことをはじめるので、撮影スタッフも機材に投資したかった。侯はしてくれた。/スタッフを育てることが大事。

・『悲情城市』で映画が文化ということが、国際的に認められたことで理解された。

・わたしにとって映画とは、自己形成とかつての自分に気づくこと、他人を理解するためのもの。/過去を撮るときにロマンティックになるのではなく。どこに視点を置くか、どういうスタンスをとるか。過去と同じように現代とも距離をとれる。/劇場を持つのは夢。/セリフは枠組み。俳優が相手の言葉に反射的で自立的になってほしい。丸暗記すると表情が出ない。反射で動くと人の心に響く。だからリハーサルはしない。/2テイクやってダメなら中止。進まなければ表現手段を変える。/自分の作品の登場人物への批判はない。悲哀とは言えないが運命のようなものを感じる。社会に対する観念を画面に盛り込んでうるさくなる。初動の頃の直接的なパワーや新鮮さ、そういう感覚に戻りたい。

→映画や映画制作への思い、美学。作ることで迷ったときに読み返したい。

・台湾の社会はどこか原始的。オス同士の戦いにパワーを感じて興味がある。誰がボスかで争っているような。男なら男らしくしていたい。今後は女声が絶対強くなる。世界が変わる。でもわたしは闘争的でオス的な世界に憧れる。
→この正直さ!!相手がオリヴィエ・アサイヤスだから出てくるのだろうか。

・歌への気持ちは特別。一生懸命に歌で感情が出せたら気持ちいい。
→なぜ人が歌うのか、の秘密を見たような気がする。

 

以上!

 


今回の特集上映、我ながらいい順で観ている。

『恋恋風塵』→『日常対話』→『風が踊る』ときて、今回の『HHH: 侯孝賢』。そしてこの日は連続して『冬冬の夏休み』を観た。少しずつ理解を深めている。ありがたい特集。

 

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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今回の特集で台湾映画を観るたびに、あらためて『春江水暖』は侯孝賢や台湾ニューシネマのDNAを受け継いでいると感じる。

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読みたい本がまたできた。 

 

 

検索していて見つけた、NYのミュージアムの特集上映のトレイラー。かっこいい。

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映画『風が踊る』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。

 

3本目は侯孝賢のデビュー第2作『風が踊る』。1981年制作。
原題:風兒踢踏踩 英題:Cheerful Wind

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画家の回顧展を観ているようだ。

今は世界中の映画人から巨匠と呼ばれ、40年のキャリアを持つ侯も、台湾ニューシネマ以前の若かりし頃は、このような瑞々しく、伸びしろいっぱいの作品を作っていたのだなぁ。感慨深い。

時代を感じる。題字がイイのよ。

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ファッション、音楽、街並み、家のインテリア......80年代らしさがてんこ盛り。

作品を貫いている呑気さ。あらすじから想像していたのは「ほどほどにシリアスな部分もある恋愛映画」だったが、とにかく呆れるほど呑気で、ずっと可笑しい。時代が異なる、文化が異なると、映画を観ているときの、「え?!なぜそうなる……?(ぽかーん)」というあの感じ。

商業的な成功を目指し、台湾と香港の人気アイドル歌手や俳優を起用した「旧正月映画」のアイドル映画と聞けば納得。どこまでもラブコメで爽快。

娯楽だからこそ社会をより映す。伝統的な家族観や結婚観にとらわれず、自分の人生を考え、選択する主人公の女性の姿は、当時としては新鮮だったのではと想像。

男・恋愛より野心を選ぶ。

CM制作会社で撮影クルーの一員として写真のプロとして働く彼女。恋人と暮らす家の様子。台北版のトレンディ・ドラマかな。

前日観た『日常対話』では、一世代前の人たちの、「結婚するしか女の生きる道はなかった」「独身でいる女の幸せなんか誰も願わない」などという言葉があったから、余計にこの転換期の映画は、「目撃している」感が強い。

男性に「あなた〜やっといて」と指示指図する様子。さらに新鮮さを超えて、「えっそれはやっちゃった(笑)では済まないのでは……」というキャラクター造形のぶっ飛び方は、なかなか理解し難い、不思議なトーンのコミカルさ。

シーンによっては痛快でさえある。権威への軽やかな反抗とも見える。

何気ない会話の中に、「日本」や「日本人」が登場して、いちいちどきどきする。「仰げば尊し」の替え歌も出てくる。田舎町の様子も日本に似ている。

都市と田舎の対比。『恋恋風塵』でも出てきたが、やはりここでも。
『風が踊る』では、澎湖島(ほうことう)の鄙びた漁村でCM撮影をするシーンから始まるが、スティールカメラ担当のシンホエも、彼女の恋人でディレクターのロー材も、田舎らしさが絵になると食いついていく。そこに明確な格差を感じる。

それでも、シンホエはもともとが田舎の出身だからか、都会に暮らし、働きながらも、行き来してどちらにも順応する様子を見せる。親の言う伝統的な家族像には飽き飽きした表情を見せるが、決して田舎がダサくて嫌で出て行ったという感じでもない。

というか、あまり誰の内面も見えない、「ガーン!」という瞬間はあるが、誰も深く考えていなくて、「ま、しょうがないね!」という感じで次の瞬間はニコニコしている。


視覚障害者の扱いにはかなり疑問が残るが、これもまた時代を映しているということだろう。今観るとぎょっとするレベル。


北京語と台湾語も話されているらしい。もしかすると広東語も?北京語と台湾語は全然違うらしいが、どれも知らないわたしからすると同じに聞こえる。「今は台湾語を話す人もいなくなったし」というような言葉が『台湾、街かどの人形劇』では聞かれていた。

終始カラッとしていて、朗らかで、呑気な映画。

時代の勢いと作家の若いエネルギー、その後に通じる作風を感じる一本。

 

台湾映画、おもしろい。あと何本観られるかな。

 

今回特集されている映画の世界を知るのに、この2冊は欠かせない。
劇場窓口で販売しています。

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デジタル版制作、大変だったようです。でもやっぱりきれいな画面だと集中できてありがたい。

www.instagram.com

 

今はリゾートの澎湖島。

news.arukikata.co.jp

 

映画に映っている街並みや空気は、時代と共になくなっていくのだろう。貴重な記録でもある。

 

 

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映画『日常対話』(台湾巨匠傑作選)鑑賞記録

新宿のK's cinemaで上映中の「台湾巨匠傑作選2021 侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集」を追っている。予定が合うものはできるだけ観たい。

https://www.ks-cinema.com/movie/taiwan2021/

 

きょうは『日常対話』を観てきた。英題:Small Talk

https://tdff-neoneo.com/2018/lineup/lineup-173/

オフィシャルトレイラーよりも、監督のアカウントでアップされているこちらが内容を写していて、どんな映画か観たい人にとっては良いと思う。

vimeo.com

 

監督は、黄惠偵(Huang Hui-chen、ホアン・フイチェン)。2016年の作品で、この秋に日本で公開となる。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は、エグゼクティブプロデューサーとして関わっている。

 

ひとつ屋根の下、赤の他人のように暮らす母と私。母の作る料理以外に、私たちには何の接点もない。

ある日私は勇気を振り絞り母と話をすることにした。ビデオカメラはパンドラの箱をこじ開け、同性愛者である母の思いを記録する。

そして私も過去と向き合い、心に秘めた思いを母に伝える…。

ホウ監督がエグゼクティブプロデューサーを務め、彼の作品等に音楽を提供しているリン・チャンが音楽を担当した、家族の傷を癒すドキュメンタリー。

K's cinema ウェブサイトの作品解説より)

 

実は、つい2、3日前までこの作品を観るつもりは全くなかった。視界には入っていたが、今の自分には観る理由がないと対象外にしていた。

ところが、たまたまYoutubeを観ているときに候補にあがってきた番組で、聾の親とCODA(Children of Deaf Adults)の間の会話を映しているものを観ていて、ふいに『日常対話』の作品解説を思い出した。

「聞こえない親として、聞こえる子を育てるのはどうだったのか?」を尋ねる息子や、「ぼくがカミングアウトしたときどう思った?」と聾の母に尋ねる息子(彼は、元は女性の身体で生きていた人)の姿に、『日常対話』の監督が重なった。

かれらの間にある「目に見える」コミュニケーション手段と、親子として積み重ねられてきた歴史、社会の中でマイノリティと目される人たちの実感、この社会の有り様。

普通であれば他人が見ることのないようなやり取り。親子の間だからこそ、カメラの前だからこそ出てくるような話も多く、ぐんぐん引き込まれて何本も観てしまった。


そして今、このタイミングで『日常対話』を観たほうがいいと思い、チケットを購入した。予感は的中した。

 

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静かな語りとカメラワークによって、少しずつ開かれていく過去。

母と娘のあいだにあること、あったこと、母の半生、そして娘自身の半生。

娘からの質問の手は緩められることがない。カメラを向ける誰に対しても、「なぜ?どうして?」「それは何なの?どういうことなの?」「どう思うの?」と問いかけ、踏み込んでいく。

その一定の緊張が、観客を最後まで連れていく。この対話の帰結を見届けさせる。

それほどに必死なのだ。彼女はこの映画に賭けているのだ。この先を自分が生き、母も生き、娘も生きるために、これをやらねばならない、という強い意志を感じる。

それでいて、露悪的ではない。いや、写っていないところにあるのだろう、そういう大事なことは。

 

対話を重ねる途上では、歴史の中で差別され、虐げられてきた女性の姿が次々と浮かび上がってくる。さらに、そこからも黙殺されてきた、性的マイノリティの存在もある。(追記: 映画の中の「母」は、性的に惹かれる対象が女性ということに加え、性自認が男性寄りな印象をもった。社会的な抑圧から「女性」ということにしているだけで、性自認は男女二項ではないということを知れば、違う言葉が出てくるのではないか。)

 

親戚の言葉も厳しい。「それはあまりな物言いではないか」とも思うが、わたしはこの感じを知っている。わたしの母も祖母もこんなふうだった。戦争は終わったようで、ぜんぜん終わらなかった。女たちは泣き続けた。そのうちにたくさん嘘をつき、知らないふりをし、何も感じなくなっていった。自分が生き延びることに必死で、誰もがなりふり構えなかった時代。傷に侵され、人を傷つけ、自らも傷つける男たち。

ああ、なんという多くの犠牲!

世が世なら、と思う。

 

それでも、希望はある。


動き出す時間。
抱きしめる過去。
伝えることのできなかった愛の言葉。

物語の終盤、娘が仕掛けた行動が、呪いを解く。

過去は変えられない。
しかし意味付けは変えられる。自らが語り直せる。
新しい関係をはじめられる。

 

わたしは映画が終わってほしくなかった。
まだまだ観ていたかった。いつまでもあの人たちを見守っていたかった。

日常「会話」ではなく、日常「対話」の意味が、さざ波のように押し寄せる。

 

 

 

『日常対話』は2021年夏に公開予定とのこと。

物語は書籍化もされており、まもなく刊行予定だ。クラウドファンディングには参加できなかったが、ぜひ読みたい。

http://thousandsofbooks.jp/project/tmama/

 

2019年5月に同性婚の成立を果たした台湾。この作品は歴史の記録としても貴重だ。

www.amnesty.or.jp

 

ぜひ多くの方に出会っていただきたい作品。

 

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本『推し、燃ゆ』読書記録

『推し、燃ゆ』を読んだ。
宇佐見りん/著、河出書房新社/刊。2021年の芥川賞受賞作。

 

経緯。

今月初めの『きみトリ』の読書会で、共著者のライチさんが紹介していて気になった。芥川賞もとったし、「読んだ、すごい」と方々からつぶやきが上がっていたので、知ってはいたが、わたしはたぶんライチさんがおすすめしなかったら読んでいなかったかもな。

読書会レポートより。

推しを応援すること、表現することで自分と出会っていく主人公に自分を重ねる。人とかかわる上での通じ合えなさ、もどかしさに共感する読書体験をぜひ。(『きみトリ』でいえば、思春期、体調、人間関係(境界線)、恋、仕事などいろんなテーマに関わりそう)

あとは、「感覚の表現の仕方がすごい」と言っていたのも気になった。そういう小説、好き。

 

 

読んでみて。

ああーこういう感じだったのかーと唸った。

ひりひり痛いんだろうなぁと想像していたんだけど、そうなんだけど、「こういう感じ」というのは......正直やられたって感じ!

 

※もしかしたらここから、読書体験に影響するようなことを書いているかもしれないので、そういうの気にしないって方だけ読んでくださいね。

 

主人公のあかりちゃんによって描写される世界は、非常に独特の感覚を持っている。

特に視覚、嗅覚と皮膚感覚が際立っている。音は繊細に聴こえてくるというより、目から入ってくる感じ。味覚はずさんで、何でもいいというような投げやりな感じでアンバランス。この感覚の描写がリアルなので、わたしもひととき、あかりちゃんになれる。

読み進めていくと、もしかしてあかりちゃんは発達障害とか、何か名前のつくような困りごとを抱えているのかもしれないと感じられるようなことが、家の中や学校やバイト先で次々に起こる。

でも、彼女自身はもちろん、彼女にかかわる誰もそのことは思い当たらない様子で、そこにハッとした。わたしの界隈では学んでいる人が多いから、解明されてきたことも多いし、だいぶ世の中の理解が進んできたのかなぁなんて思っていたけれど、そうでない環境にいる人のほうがまだまだ多いという可能性はあるのかもしれない。

周りの人はあかりちゃんに苛立ったり、呆れたり、果ては見捨てたりしている。当人は努力しているけれど、なぜ周りがそんなふうに怒ったり、泣いたり、無視したりするのか、わからなくて途方に暮れている。周りもわからない。これは辛い。

 

ちょうど本を読む前に、お昼を食べに行っていたカフェで、入りたてのスタッフさんが、先輩から教わりながらテキパキと動いていたのを見ていて、「うわぁ、覚えることもたくさんだし、頼まれごとややることがどんどん重なるし、不測の事態も頻発するし、考えてみれば飲食のお仕事ってめちゃくちゃ高度な脳みその使い方だよなぁ」と思っていたので、あかりちゃんが居酒屋でバイトしているくだりを読んでいるときは、すごくリアルだった。

わたし自身、飲食業でアルバイトしたこともたくさんあった。うまくできないことのほうが多くて、怒られたり、呆れられたり、なじられたりして、楽しいこともあったけれど、自分だめだなぁと思うことのほうが多かったのを思い出した。やっぱりわたしは気が利かないんだとか。あのときのいたたまれなさが、ぽこぽこと湧いてきた。ひいー。

 
そうはいっても、あかりちゃんは推しにまつわることでは、驚異的な能力を発揮する。ブログでまめに発信しているし、コメントにはそれぞれの人の背景や関係を考慮してコメントを返す。文章表現力もある。日常生活では抜けてしまうようなスケジュール調整も計算も物品管理も、とにかく推しにまつわることであれば、ナチュラルにやれている。
 
でも、その推し活の中身に、日常で関わっている人は誰も覗けない。いや、見えているのだけれど、「評価」しない。理解さえしたくないと疎まれるし、外界からの刺激を遮断して安全地帯にいる振る舞いにもなるので、やればやるほど蔑まれる。そんな辛さをあかりちゃんは日常的に抱えている。辛い!ここには 「勉強」と「遊び」の断絶というテーマもあったりする。「それは遊びであり、怠けである」という。
 
あかりちゃんは、「人でない」推しを通じて、世界とのつながりや自分の存在を確認している。それが「人」になった瞬間、自分を支えていた構造が揺らぐ。この「自分と世界との間に半透明の膜がある」感じは、映画『勝手にふるえてろ』の主人公ヨシカに酷似している。膜は半透明なのでよく見えない。度のきつい眼鏡をかけているときのように、輪郭がぼやけたり、歪んだり、精細には見えなかったりする。本人も「生き下手」と自分を呼ぶ。
 
わたしはとにかくあかりちゃんの心身の健康が気になった。どうか特性を理解して、生活をしやすくするやり方を一緒に考えたり、実践してくれる人が現れますように。今かかわりのある人の中で違う出会い方をするとか、あるいは全然明後日の方から出会うとか、あかりちゃんがたまたまネット記事で出会うとか、なんでもいいから、なにか間に入って状況説明してくれる人、モノがありますように、とひたすら願っていた。
 
 『勝手にふるえてろ』では、半透明の膜を破って来てくれる人がいるのだが、果たしてあかりちゃんにはそういう存在(人でなくてもいいから)は現れるのか!?
 
ラストがね、またすごいですよ。ご存知の方は、「ホドロフスキーのサイコマジックみたい」と言えばへええ、と思っていただけるのでは。
 
 
おまけ。
この本を読んだ日の深夜、わたしは珍しく起きていました。どうしてかというと、0時ちょうどに映画のチケットを予約するため。
緊急事態宣言が出ているので、当日の0時からオンラインでの予約が開始というふうに変更になって、さらに劇場によっては席数を減らしていたりするので、ぼやぼやしていると売り切れてしまうのです。映画自体も、日本最終上映になっているとか、この先10年、20年かからないかもというような作品を今やっていて、しかも我が青春の映画なものだから、どうしても観たくて......。
 
これとこれ。
 
 
そう、これが推しですよ。アートへの愛ですよ。
推しのためには、人は普段はできないことでも乗り越えられる。推しは力をくれる。
自分の好きなものを大切にしていきましょう。
 
好きなことがわかんなくなったら、子どもの頃にやっていたことを思い出して、もう一度やってみるとかね。
これは子どものやることだから、と切り捨てたものの中に、自分だけの宝物があるかもしれない。
 
 
『推し、燃ゆ』おすすめです。一気に読んじゃいます。
10代にも読んでもらいたいなぁ。
 
 

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〈お知らせ〉【対話付き特別上映】映画『あこがれの空の下〜教科書のない小学校の一年〜』

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今月のシネマ・チュプキ・タバタさんとお送りする〈ゆるっと話そう〉は、特別版!
 
【対話付き特別上映】
映画『あこがれの空の下』
✖️
書籍『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』
〜「子どもが教育の主人公」はどうしたら実現できるか〜 
 
東京・世田谷の和光小学校の一年を追ったドキュメンタリー映画あこがれの空の下〜教科書のない小学校の一年』を観た人同士で、感想を語ります。
 
 
さらに、著書(共著)『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』をご紹介し、「"子どもが教育の主人公" はどうやったら実現できるか」について、皆さんと一緒に深めていきます。共著者の麻由美さんとライチさんも来てくれます。
きみトリをまだ読んでない方も、本をお持ちでない方もご参加いただけます。
 

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 まるでその場にいるような臨場感。
1クラスずつ、1学年ごとに訪問して、一緒にすごしているような感覚。
先生との対話から感じる「人を尊重し、受容し、主体性を育む場」とはこういうものなのか、学校という枠組みの中でもこんなふうに実現できるのか、という驚きと喜びが、観賞後の時間が経つほどに染み込んできます。
 
わたしたちが『きみトリ』で手渡したかった、「あなたの心と身体、意思と選択を大切にしてよい。一人のあなたと共に、わたしは社会をつくっていきたい」というメッセージにもつながることから、今回の企画となりました。
 
話したいことがたくさん生まれてくる映画です。大人も子どもも対等に言葉を交わし、学びあう場を、ゆるっと話そうで実現できたらと思います。

(告知ページより)

〈ゆるっと話そう〉のファシリテーターを務める私、舟之川聖子は、昨年末、『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』という本を仲間と出版しました。
https://amzn.to/3djagAp
 
10代の人たちに向けて、「この社会は与えられたものではなく、あなた自身の手でつくれる場だよ」というメッセージを届けたくて作りました。

思春期の心と身体、友達や恋人との人間関係、仕事やシチズンシップなど、人間と社会に関わる15のテーマを並べ、著者の体験に基づく社会の取り扱い方をシェアしています。若い人たちに未来をつくる希望を感じてもらうと共に、10代の周りにいる大人たちや、かつて10代だった大人たちとも、この本を通して対話したいと思い、「きみトリプロジェクト」という活動をしています。活動についてはこちらhttps://kimitori.mystrikingly.com

子どもも大人も、自分らしく幸せに生きられるように、異なる他者と共に平和に生きられるように、社会という場はどのようであればいいのか、どうすれば実現できるのか。映画『あこがれの空の下』の子どもたちと先生たちの授業や学校生活をヒントに、みなさんと感想を話しながら考えていきたいと思います。

「和光小学校はすごいな、それにひきかえわたしの関わる場では……」という羨望や失望の感情が湧いてくる方もいるかもしれません。実際わたしはそうでした。それも大事な感情です。

ただ、現実を嘆いた後に、 「こんなふうに子どもを育むことが、どうして可能なのだろう?」 「先生が幸せそうに働けている現場には何があるのだろう?」 「子どもが主人公の場で大切なことはなんだろう?」 「わたし・わたしたちにできることは何だろう?」と、光を探していきたいのです。

概念的な理念や具体的な言動を行ったり来たりしながら、映画のシーンやエピソードを思い出しながら、『きみトリ』も参考にしながら、参加者のみなさんと対話と学びを深めていきます。

子育て中の方、教育関係のお仕事の方はもちろん、小中高校生の方、
様々な動機や背景から教育に関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしています。

・日 時:2021年4月28日(水)12 : 20〜15 : 45(開場 12 : 00)
                 【映画上映】12 : 20〜14:01       
                                 —-休憩—-    
                【映画の感想・対話】14:15〜15:45
・会 場:オンライン会議システムZoom

 
続きは、お申し込みページでご確認ください↓
 
 
★〈ゆるっと話そう〉は、どんな場?
映画を観た人同士が感想を交わし合う、アフタートークタイム。
映画を観て、 誰かとむしょうに感想を話したくなっちゃったこと、ありませんか?
印象に残ったシーンや登場人物、ストーリー展開から感じたことや考えたこと、思い出したこと。
他の人はどんな感想を持ったのかも、聞いてみたい。
初対面の人同士でも気楽に話せるよう、ファシリテーターが進行します。

さらに詳しく↓ 
 
<これまでの開催> レポートはこちらから。

ウルフウォーカー/ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ/アリ地獄天国/彼の見つめる先に/なぜ君は総理大臣になれないのか/タゴール・ソングス/この世界の(さらにいくつもの)片隅に/プリズン・サークル/インディペンデントリビング/37セカンズ/トークバック 沈黙を破る女たち/人生をしまう時間(とき)/ディリリとパリの時間旅行/おいしい家族/教誨師バグダッド・カフェ ニューディレクターズカット版/人生フルーツ/勝手にふるえてろ/沈没家族   

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

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初の著書(共著)発売中! 

〈お知らせ〉2021 夏至のコラージュの会、オンラインでひらきます

年に4回、暦の節目につくるコラージュの会をひらいています。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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雑誌やチラシや写真を切って、台紙に貼り付けていく、
だれでも気軽に楽しめるコラージュです。


今回は夏至の日にひらきます
北半球では昼がもっとも長くなり、南半球ではもっとも短くなる日。
一年ももう半分。どんな時間だったでしょうか。そしてこれからの半分をどう過ごしましょうか。

コラージュで描いてみたら、大切な願いが見えてきますよ。


コラージュで形にしていきましょう
頭の中でもわもわしている好きなこと、したいこと、ほしいもの、行きたい場所。
あらゆる制限をとっぱらい、直感を頼りに写真や絵や文字を切り貼りしているうちに、今の自分の状態とこれから生きたい世界の様が、おぼろげながら形をとってきます。

無心で集中する心地よい時間です。

制作のあとは鑑賞会
他の参加者さんからの感想や質問があることで、理由もわからず貼っていたパーツにも、自分が大切な願いを込めていたことに気づきます。


前回・春分の会の様子
https://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2021/03/20/174907

会が終わる頃には、作品にあふれる自分らしさを愛おしく感じることでしょう。
「今のわたしに必要かもしれない!」という気がしたら、どうぞご自身の直感を信じておいでください。
わたしは心を込めて皆さんをガイドします。

ご参加お待ちしております。


▼日時
2021/6/21(月) 13:00-16:00(開場 12:50)
▼会場
オンライン会議システムZOOM(お申し込みの方にお知らせします)

続きはPeatixのサイトへ。

collage2021midsummer.peatix.com


お申し込みお待ちしております。

 

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雑誌やチラシや写真を切って、台紙に貼り付けていく、
だれでも気軽に楽しめるコラージュです。
オンラインでの"出張"ファシリテーション承ります。

お問い合わせはこちらへ。

 

2020年12月 著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

 

映画『君がいる、いた、そんな時。』鑑賞記録

4月に入ってから、綴るエネルギーを他に向けている。
でもとりあえずの鑑賞記録は置いておくぞ!ということで、ツイッターからぺたりと。

 

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きのうチュプキさんで最終日だった『君がいる、いた、そんな時。』を観た。正直「え?!」と思う展開のジャンプ感や設定や編集の謎はありつつ(すいません、、)ちょうど今片付け月間で、長らく手がつけられなかったものに片が付いたり、物と向き合うことから自分の人生について考えたりしていたので。

 

止まっていた時間が動き出した人の物語に、思わぬ符号を感じて、大変よかった。それぞれにタイミングというものがあり、どうにかしたいと自分でも思っているのだけれど、溜め込んでしまうときに、誰かとの踏み込んだ関わりの中で進展していくのは、とてもありがたい。  

 

自分のルーツや属性を受け入れられないこともある。周りが否定的であれば特に。でもそれも誰かの無意識の振る舞いや、踏み込んだ関わりの中で動き出すときがくる。人って嫌だな〜とも思うし、ありがたいよねえ〜とも思う。

 

自分の小学校時代にこういう子いたな、とチラつく顔が何人かあった。いつもすごくテンション高くてうるさい子、無愛想で無表情で感じ悪い子、いじめられているのにヘラヘラしてる子、いじめていた子、そしてそれを見ていて関わらなかったわたし、とか。

 

この映画を見てみようかなと思ったのは、学校図書館司書の先生も登場人物の一人だったから。学校の中にあって、しがらみから開放される図書館という待避所は大事。「指導」の顔せず、フラットに話ができる司書さんの存在。ここの図書館は明るくて、校舎からちょっと外れたところにあるのがいい。

 

ぜんぜん前情報入れずにパッと行ったから、エンドロールで「呉だったのか!」とびっくりした。なんとなく西の方、岡山、広島、山口あたり、内海っぽいな、長崎の可能性もあるかな(いやそれにしては山が低い?)など考えながら見ていたから、わりと近くてうれしかった。

 

去年、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の対話のために呉についてあれこれ調べていたので、また出会えて、また別の表情が見られてうれしい。

 

一分の隙もない完璧じゃない映画の、余白みたいなものもいいなぁ、と昨日から感じている。厳しい批判と評価に晒される分野もあるけれど、関わる人、受け取り手にとってよい体験になるなら、それはそれで良いではないか。緩みも持っておきたい。そしてそれは言い訳ではなく大切なプロセスである、とか。

 

 

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映画『RBG 最強の85才』鑑賞記録

映画『RBG 最強の85才』を観た。

 

弁護士としても多くの性差別訴訟を手がけ、60歳で史上2人目となるアメリ最高裁判事に就任し、2020年9月18日に死去するまで27年間、その職を全うした。リベラル派を代表する存在で、絶大なる支持を得ていたルース・ベイダー・ギンズバーグの人となりと人生に迫ったドキュメンタリー。映画は2018年制作。

www.finefilms.co.jp

youtu.be

 

 

観るまではしょっちゅう、RGB、RBG、どっちだっけ?

違う違う、RGBは色指定するときの表記だ、だからRBG......などと脳内でぶつぶつやっていたが、これからはもう間違えない。

RBG!ルース・ベイダー・ギンズバーグ!この名前がしっかりとわたしの中に刻まれた。

 

わたしがRBGについて知ったのは、この映画が公開になった頃か、直近のアメリカ大統領選挙の少し前ぐらい。恥ずかしながら、ほんとうに最近まで全然存在を知らなかった。

 

映画を観てびっくりした。こんな偉業を成し遂げた人だったとは。

1959年のハーバードロースクール入学時に、男子学生500人に対して女子学生は9人だったとか、大学図書館の入館を断られたとか、驚くけれど、また一方で、そうかアメリカにもそういう時代があったんだよな、それを変えてきた人たちがいるんだよな、とも学ぶ。

 

一つひとつ積み重ねる彼女の言動に、一人ひとりが勇気を得て、声を上げて、動いて、きっと今のアメリカがあるのだろうな。もちろん彼女以外にもたくさんのアクティビストがいて、あちこちでうねりをつくってきたわけだけれど、でも、最高裁判事という立場にあるということは、三権分立のひとつにおいて責任ある地位を担うということは、ほんとうに大きいだろう。

法律を軸にした場の守り手となることで変わることは多い。けれども誰でも行ける場所ではない。その努力や、資質や、恵まれた能力、環境、周りの人たちのサポートなど、いろんなことが彼女を押し上げていった。待たれていた人だったんだろう。

夫、娘や息子、孫娘も登場していて、一人ひとりがすごくよい。

夫は、「あの年代の男性としては珍しい」「彼はわたしの知性を愛した」。父の娘としてでも夫の妻としてでもなく、「私」として生きて働いて闘ってきた人。

最近この本を読んで唸ることばかりだったので、特にこの箇所は響いた。

 

 

映画では彼女の法廷での言葉が数多く引用されており、観る者の心にもダイレクトに心に響いてくる。元気が出る、勇気が出る作品だ。何も変わらないんじゃないかと絶望するとき、悔しくて眠れないとき、RBGの言葉を思い出したい。こういう人が歴史をつくってきたんだということを皆で記憶していきたい。

人種差別と戦った男の人だけでなく、人種差別と戦った女の人も、性差別と戦った女の人たちも、ちゃんと歴史に刻まれてほしいとも思う。

 

フランスのシモーヌ・ヴェイユも!

m.huffingtonpost.jp

 

もちろんアメリカだって、2020年のジェンダーギャップ指数は156カ国中30位で、まだまだ道半ばな分野も多い。

しかし日本に至っては120位。......言葉を無くす。

一つひとつ、一ステップごとにコツコツとやるしかなかった時代を経て、今は共有知となっていることも多い。もっと加速できるはず。

ここ日本でもきっと、同じステップを小幅にじりじりと歩まなくてもいいはず。一足飛びで発展したっていい。

先人たちの叡智のバトンを受け取って、さぁ何をする?どう動く?

 

youtu.be

 

オペラが好きだったRBG。彼女が亡くなったときは、たくさんのオペラ歌手はじめメトロポリタンオペラの関係者が、インスタグラムに写真を投稿していた。

わたしもここ数年メトオペラをライブビューイングでよく観る。RBGもあの客席のどこかで観ていたのだなと想像し、同じ芸術を愛する者同士のつながりを感じている。

 
 
 
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たまたまこれを観ていた日は、「女性の日」だった。

 

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