ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

〈日記〉『夢十夜』

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先日子がわたしに、「夏目漱石の『夢十夜』が家にあるか」と聞いてきた。国語の期末テストで、『夢十夜』から問題が出るので読む必要があるのだという。わたしの蔵書に岩波文庫のワイド版があったので渡した。

前にも恩田陸の『夜のピクニック』から問題が出るので一冊読むように言われて、珍しく本を読んでいた。いったいどういう問題が出るのかと聞いてみたら、あらすじや登場人物を抑えていればだいたい書けるそうだ。その後テスト問題を見なかったので詳しくはわからない。まぁでもなんかおもしろいテストを作る先生だなと思う。ちょっとお話してみたい。

子はテスト直前3日前ぐらいでバババッとではあるが一応自力で読んで、そのあと休み時間や帰り道に友達と問題を出しあったりしていた様子だった。

前日は学校から帰ってきてから、まだ読んでいない友達4人とLINEをつないで、みんなでYoutubeの朗読動画を共有設定で聴いて、あれこれツッコミを入れたり質問したりしながら確認していた。

よくよく聞いてみると、あまりに語句を間違って解釈していたりしたので、ときどきわたしも首を突っ込んだ。たとえば、「パナマの帽子」はパナマ帽という帽子があるんだよとか、「帳場格子」というのは、帳場というのは言ってみればレジ。帳場格子は帳場の小さくて低いちゃぶ台みたいな机の周りに木の低い柵で囲ってある、よく時代劇のお店のシーンに出てくるやつだよとか。補足する感じで。あとは感想もちょいちょい一緒に話したりして楽しかった。

あんまり子どもの友達付き合いに顔出さないようにしているけど、こういう文学の話はやっぱりうれしくなってついつい混ざりたくなってしまう。

そのうち「塾があるから」と一人抜け、二人抜けしていって、最後の一人もみっちり確認し合ったに抜けて行って終わった。みんな忙しいんだよね。はぁ。

まぁでもこういう課題が苦手な子もいるだろうから、みんなで力を合わせて、使えるツールは使って乗り切っていくのもアリだよなあと感心した。その一方で、課題を出す時点で一冊本を読むことが苦手な子がいることに配慮されてるのか心配だなとも思うし、いやでもこうして学校外のリソースも使って知恵を出し合うのもいいなとか、ああでもやっぱこういうのって結局そういうことを一緒にやってくれる友達がいるかどうかもあるし、LINEが自由に使えるとか、機器を持ってるかとかにも左右されるし……、いやいや、でもそういう子はそういう子でなんとかしているかもしれないよ……とか、あれこれ考えて頭の中がぐちゃっとなった。

子と文学の話で言えば、先日も子から、「国語で魯迅の『故郷』を読んでいておもしろいから読んでみたら」と言われて読んでみたらおもしろかったということがあった。そういえば魯迅、読んだことがなかったな。「ここの意味がわからん」とか、「ここが印象的だ」という箇所をああじゃないか、こうじゃないかと話し合ったりするのはやっぱり楽しい。わたしはいつの間にか知識や経験が増えていて、時代背景を踏まえた上で読めているらしい、ということにも気づいて、自分で驚いた。この調子でタイトルしか聞いたことのなかった『阿Q正伝』や『狂人日記』も読んでみたくなる。

しかし教科書で解説している読み方はけっこう高度で、14、15歳ぐらいの人が自らこんな老生した視点は持たんやろということが書いてあったりして、またもやもやした。

国語に限らずだけど、常に等身大の自分自身から背伸びして考えさせられるとか、一般的な社会通念で言えば、このシーンではこういう解釈だということを呑まないといけないというのは、なんかけっこうしんどいことだよなと思う。かといってそれが悪というわけでもなくて、「ああ、そういう読み方があるのか」と刺激になることもあるだろうし、なんとも言えない。そういう感覚を先取りすることで、展開していくこともあるかも。また、わからないとしても、わからんなぁとしっかり思っておくと、後々になってふとしたきっかけで「回収」されることもあるので、無駄とも言えない。ああ、わからん。

文章の読み解き方に関しては、いろんな文章を使ってある程度法則をやっておいたほうが日常生活でもいろんな理解が進むし、人とやり取りする上でも大事なことだとも思う。授業に関していえば、授業をする人のやり方よってこの辺りの受け止め方は変わってくるだろう。これがペーパーテストになるとまたちょっと戦術的なこともあるから、今度は教養みたいな部分がおざなりにされそう。

学校教育ってどこを切っても矛盾の塊なのかもしれない。それはそういうものなんだろうけれど、その矛盾を抱えておく余裕がないように見える。揺らいだり、そのときそのときの最善を考えるとかができないとつらい。俎上に載せないといけない要素が多すぎるようにも感じる。だとすれば、ある程度要素を削って単純化して、枠組みがはっきりさせて「これが正しい」としている物差しがほしくなる気持ちもわかるなぁと思った。学習指導要領も、単なる「参考」なのに「これ通り」にしたくなる気持ちとか。

わたしは先生ではないのでわからないけれども。でも少なくとも先生が自分の教科を教えることに専念できるようになってほしいなぁとは思う。だから「頭髪検査」とかやってる場合ではやっぱり、ない。あら、なんかいつものところに話が着地した。