今の状況で文化的なものに直に触れようとしたとき、わたしにあるのは本だ。
本だけではないが、もっとも身近にあり、入ることを閉ざされていない館だ。
扉を開き続けてくれているまちの書店に感謝。
先日立ち寄ったときに村上春樹の新刊が出ていたので、迷わず購入した。
あの村上春樹が、父親について語る。
ついに......という気持ち。
作家の父の不在感と影の奇妙さは、小説からもエッセイからも感じてきた。
うっすらと覆っているのでどれと特定できないが、わたしが明瞭に判断できたのは、『ねじまき鳥クロニクル』で物語の底に敷かれているノモンハン事件のことと、安西水丸の猫の絵が表紙のエッセイ『ふわふわ』に書かれた「だんつう(緞通)」という猫についてくだりだ。
いつか彼が父親について語る日が来るかもしれない、という予感は長らく持ってきたが、今、感染症の影響で制限ある暮らしをしている、このタイミングで自分が読む、というところが、なにやら運命的に思われた。
作家の人生と作品を結び付けないほうがいいとよく聞くし、現代アートなどはそういう見方をすると解釈を誤るということがある。
もちろんわたしも、作り手の人生がそのまま投影されるとは思わない。
しかしまったく関係なしに創作の器となれるとも思えない。
凡人ができる想像の限界だ。
以前、友人と、「子が親の話を聞き取り、文字起こしして構成し、編集を入れて一冊の本として自費製本する」というプロジェクトを企画したことがあった。
まずは友人が自身の父親と母親にインタビューし、その音源をわたしが文字起こしして構成し、本人に読んでもらって加除修正を施し、完成稿とするところまでこぎつけたが、結局製本に至らず、頓挫したのか自分たちもよくわからない形で現在に至っている。
『猫を棄てる 父親について語るとき』は、村上春樹が父親の死後に、父親について調べたり、記憶を辿ったりして書き上げた本なので、本人に何かを聞いてはいないのだけれど、読んでいて自然とこのプロジェクトのときのことを思い出した。
親の人生を辿ることは、自分自身のルーツを辿ることでもある。
その親とどんな関係にあったとしても、我が生を省みる機会になる。
自分が今ここにいる理由。
親が伝えられ、自分に伝えてきた何か。
手渡されたが受け継がなかった何か。
友人親子の語りを聴いていて、何度も唸った。
なんという、個人的で恣意的で壮大な物語か。
語りの端々から受け取る当時の時代、世代、人類の宿業。
長い時間をかけて石化した澱。
属する社会や時代に、否応無しに呑み込まれながら、精一杯の命を燃やして、やがて消えていく。
あのときの感覚を思い返しながら読んだ。
以下本文より引用。
人には、おそらくは誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。
その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように深いな、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?
力なき小さき者の歴史。
その集合が、この小さく複雑な世界を今日も形づくっている。