2021年の8月終わり(または9月はじめごろ)にネット配信で映画『トニー滝谷』を観た記録。
2005年、市川準監督。これを撮った3年後に亡くなっている。
ドライブ・マイ・カー』を観た友達が、「妻を亡くした喪失感といえば、同じ村上春樹を原作とした映画『トニー滝谷』を思い出す。大好きな映画」と言っていたので、観てみたくなった。
ちょうど新型コロナウィルス予防ワクチンの接種のあとで、寝込んで何もできないときだったので、短い映画を見るにはちょうどよかった。
観てみた感想。
深い喪失と孤独。それでもつながりを求める人間の弱々しく震える手の愛おしさ。
冒頭の砂で船をつくるトニー少年、そのそばを通り過ぎる省三郎......遠くで鳴る汽笛......この世界に流れ続けるピアノの音(ダンスにも似合いそうな)。
表情を見えるか見えないかのギリギリの角度から捉えるのも徹底している。完璧な角度。完璧なタイミングで吹いてくる風。ローアングルで水平移動するカメラワーク。
最小限の登場人物、西島秀俊のナレーション、坂本龍一の音楽、音とナレーションと声が一体となって、どれが欠けても成立しない。
贅沢な76分だった。
透明感や温度や湿度の低さ、現実味のなさ、死の匂い......などにはハマスホイの絵画を感じた。「美しい服」と言ってるけど、美しく見えない。亡霊っぽい。クローゼットは「ホーンテッドマンション」。
そこに「つながり」を感じるのは矛盾しているようだけれど、映画はやはり人間が演じるから、そこに感情が流れる。流れていないと観ていられない。その感情を「つながり」と解釈したくなったのかもしれない。
原作の『トニー滝谷』はかなりドライだから、そのまま映像にするとたぶんつらい。観客としてどう映画とコミュニケーションすればよいのかわからない。そこを映画的な手法で膨らませて、観やすくしてある。さらに細い希望も感じられるように。
原作には原作の良さがあり、映画には映画の良さがある。どちらもそう思える仕上がりになっていることが素晴らしいと思う。
宮沢りえさんが可愛い。とくに「B子」のチャーミングさと言ったら!
これが映画として保存されていることがありがたい。
A子はまさに「服を着るために生まれてきた人」になっている。違和感なくどちらも等分に演じ分けられている。
最も惹かれた部分に最も苦しめられるというのが、人間の性というか業というか。
つらい話ではある。
けれども、こういう圧倒的に美しく純化された喪失を観ることが、生身でもがきながら生きている人間の力になることもある。
2020年に出た村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』も読んで、勝手に重ねているからか、トニー滝谷の父・省三郎に対する思いがドライなものには見えない。彼らにしかわからない関係や、間に流れる何かを想像してしまう。
▼パンフレットより
映画を観るって、想像力を働かせたり、いろいろな感情を持ち帰ったりする豊かなものなんだと思うんです。全部説明してくれるようなテレビ的な映画って貧しい。自分が、そう言うものの尖兵みたいなところにいるから余計に、そう感じるんです。
時代や監督がTVCM畑の人という感じは、撮り方やモチーフの並べ方などの技術、醸し出す雰囲気があるけれど、監督自身は、映画であることをとても大切にされていたことがうかがえる。
▼関連記事。
▼『トニー滝谷』のメイキング映画があるらしい。Amazon Primeでも観られる(2022.1現在)原っぱにステージ組んで撮影されたというあたりが写っているそう。
映画を観て、メルカリでパンフレットを取り寄せ、原作本を譲り受けて読んで、さらに手元にあった『英語で読む村上春樹』のテキストシリーズの残りを買い揃えて、一気に読んだ。ちょっと『トニー滝谷』熱に浮かされたというか、今振り返るとなんだか変な時期だった。
村上春樹ライブラリーで発見した翻訳書。様々な国で、様々な解釈の『トニー滝谷』胸いっぱい。左上から時計回りにカタルーニャ語、ドイツ語、フランス語、英語。
そんなことを思った『トニー滝谷』鑑賞のあとの『ドライブ・マイ・カー』は、想像以上に、大変よかった。