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ヒトトビ〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

違和感のための実践紹介


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わたしは、かるたCafeという百人一首の会を主宰している。

Home - かるたCafe〜百人一首を楽しむ大人の部活(東京都豊島区)真剣勝負だけど気楽に参加できる! 自分に合ったレベルの人と対戦できる!

5月から、当日のかるたCafeのプログラムがすべて終わったあとに、
「かるたCafeの"つくり"を聞く話す」という時間をつくって、
希望者のみ参加してもらっている。

2回やってみてあらためて、
わたしはかるたCafe的なこと(スピリットとかプログラムとか)を
別の現場で再現してほしいとはあんまり思っていないんだな、とわかった。

人間が違うから、プロセスも場も絶対違うものになるという大前提もそうだけど、
基本的にその人がやりたいことをやればいいと思うから。
場ができていくときのなんとなくの抑えどころみたいな話はできるけど、
かるたCafeの作り方を指南して普及してもらうことには関心がない。

 

普及とか啓蒙とか、それで地域や社会を変えようとか、そういう動機ではないからだ。

 
じゃあなんのためにその「つくりを聞く話す」の場をひらいているかというと、
その人に「わたしとは違う」と思ってもらうためなんだと思う。

参考にするつもりで実践者から話を聞いていて、
その人自身の存在感とか語られている内容にあまりにも圧倒されるとき、
わたしとは性格が違う、環境が違う、のほうに気持ちがいく。
でもその2つはあんまり見なくていいと思う。
そこを見ていると、どんどんやれない気持ちになってくるだけだし、
その2つはがんばっても同じにしようがないので、ほとんど意味がない。
わたしとは動機が違う、目的が違う、手段が違う、ところを見ればいいんだと思う。
 
わたしはこの人とは違うようだ、それは一体なんだ?
 
もっと言うと、
 
「わたしにだけ見えているものとはなんだ?」
 
ということかと思う。
 
同じ事物でも、必ずその人にだけ見えているビームライトみたいな貫く道とか、
あるいは写真に映されたようなシーンがあるはず。
世界は一人ひとり、見え方が違うから、その人にとっての真実が真実。

実践者の存在や話が自分を照らす光になって、
手元にあるその「わたしにだけ見えているもの」をよく観察してみる。
そのときに、必要以上にポジティブな声かけを自分にしなくてもよくて
(わたしの願いは必ず叶います、と唱えるとか)、
ただ目をよく凝らしてみる、というだけでいいんじゃないか。
 
手元がよく見えなくても、自分が近づきたい何か、と似て非なるもの、
あるいは全く非なるものにたくさん出会って
いろんな方角から照らされていく中で、
少しずつぼんやりと見えてくるのではないかと思う。
 
でも聞いているだけだと、その輪郭はわかりにくいから、
口にすることも大事だと思う。
口にして、それをジャッジもせずアドバイスもせず聞いてもらうことで、
「わたしにだけ見えているもの」のはしっこがチラと見える。
 
 わたしは、わたしのしてきたことに「すごいね」と言ってもらうよりは、
その人にだけ見えているものの話をしているときに居合わせたい。
わたしも、わたしにだけ見えているものの話をしてみたいし、
それに対して人がどのように違和感を覚えているかも知りたい。
 
共感ポイントや、自分との共通項を探すことと同じくらいかそれ以上に、
違和感に注目してみるのは楽しいよと伝えたくて、
そのために道のりを話す場をひらいている、ということなんだと思う。

とはいえ、最初はわたしも全然わからなくて、「とりあえず型どおりにやってみる」ということからはじめたので、手段を提供する、されることには意味があると思う。
でもそれはわたしのしたいことじゃない。

そして場をつくること自体を、このブログのタイトルにもあるように、わたしはおそらく「研究」の一環としてやっているので、ほしいのは「実効性の高いソリューションを提供したことへの対価」じゃなくて、おひねりとか研究費とかそういう類いのものなんだと思う。