ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

「夜と霧」の読書会の記録

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ことほぎラジオの3話目でもちらっと出てきましたが、去年のちょうど今日、この読書会をしました。そのときのわたしの感想をこちらにもアーカイブしておきます。

 

これを開催する少し前に、2年やっていた読書会をクローズしたため、喪失感いっぱいのふらふらな中でひらいた記憶があります。同じ年の9月の「ポンピドゥセンター展を観た感想をあーだこーだと話す会」まで、かるた以外は一般公募ができず、半年ほど友人だけのクローズドな場をこつこつとつくっていました。その第一回目がこれ。

 

結局、息子はインフルエンザで、このあとから試合開始のゴングが鳴ったようにハードな日々が年末まで続きました。どうやって超えられたのか、自分のどこにそんな力があったのか、サッパリわかりませんが、夜と霧の底流である「あれをまだ成していないから生きるのだ、生きねば」のようなものがあったのかもしれない。

 

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友人5人に声をかけて「夜と霧」の読書会をしました。

 

壮絶な体験をくぐりぬけ、今もなお生き続ける人の、魂の切実さから書かれたものからは、何かを感じずにいられない。わたしはフランクルの言葉に突き動かされて歩みを進められた経験があるし、それ以外の部分でも、わたしの遍歴を語る上で外せない一冊です。

 

当日は、ホロコーストの話よりも、暴力や痛み、喪失を語る場になりました。感想を話しあってわたしが思ったのは、このような体験でさえも、参加された方が語った体験も、ただひとりの人の体験を描いているものであり、世界の見え方でしかない、万人に当てはまる正しさではない。自分には自分の真実があり、他者と軽重を比較できない自分の苦しみがあり、自分なりの死生観があるのだ、というような当たり前のことでした。もちろんそれは、ホロコーストの事実やそこで生まれた計り知れない傷みを否定するものではありません。

 

そして読み合うことは、同じ時間を、それぞれにただ生きていることを、体の重みの乗った言葉を通じて感じること。弱さの部分でつながろうとするのではなく、誰もがそれぞれに痛みや喜びや美しさを感じながら生きていることをただ知る...そういう時間だったような気がします。

 

すごい深くて遠いところまで行って疲れたので、帰ってお風呂も入らず、あっという前に寝てしまいました。

 

きのうの朝から息子が発熱して焦ったけど、こんなときのためにフローレンスの卒業生パックにしておいてよかった。きょうも熱が下がらず、もしかしてインフルエンザかもしれない。またきょうもこれから受診して、ああ、どうなるかな...。仕事、学校...。こんなとき一馬力はほんと辛いなぁ。息子も「一緒にいてほしい」と言うし。母と同じくらいの存在である人がいればなぁと思ったりするけど、まぁしょうがない。

 

毎日いろんなことが起きます。でも、何も起こらなくなったら、生きている感じがしなくなるだろうなと思う。わたしの性質として。

 

これからもときどき、「この本は!」と思うものに出会ったら、「あなたと読みたいの!」と誘う場をつくりたいなと思います。

 

ご感想をいただきました。

 

『同じ本を読んで、受け取り方が人によってこんなにも違うのだということが本当に本当に面白くて、ものすごーーくいい経験になりました!考えてみると、親しい人と週末に外食するというありふれた出来事ひとつ取っても、それぞれの人生の中でまったく別の景色に見えているんでしょうね。私が決して見ることができない、近くて遠いその景色に、憧れのような気持ちを抱きました。

それから、人生はアドベンチャーゲームのようなもので、苦しいこともただ味わえばいいんだな、と、よりシンプルに思えるようになった気がします。

重ーい雰囲気ではありましたが、私はとっても楽しかったです』

 

ご参加くださった皆さま、ありがとうございました!