ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

バルド・トドゥル〜死のワークに参加しました

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「バルド・トドゥル」という、チベット死者の書をベースにした、死を体験するワークに参加してきました。吉福 伸逸(よしふく しんいち)というスピリチュアル、ホーリズムトランスパーソナル心理学の分野を探究されていた方が生前に行っていたワークで、昨晩はその弟子の新海 正彦さんが提供してくださいました。

 

死を体験するワークでスピリチュアル系の人がやっててって書くと、怪しい呪術的な感じに聞こえるけど、実際の場は、そんな変な単語や雰囲気はふるまいは全くなくて、瞑想するときのような穏やかな中で、言葉に従って、進行していくだけ。

 

死自体はデリケートでもタブーでもないけど、死の周辺にある感情や関係は予期できないものがあらわれたりするので、人間の外側の動きも内側の動きにも敏感で、エネルギーの大きい人、普段から鍛錬を重ねている人が場をホールドし、場で起こることをみながら丁寧にガイドしていくことが重要。たぶん素人が遊び半分にやると傷つきが残ってしまうと思う。

 

ワークのほうは、わたしは亡くなる役で、周りで大切な人に看取られた。これから体験する方もいるかもしれないから、詳細は割愛。「予定調和になるのを避けたい」という場の意思があって、わたしも同感です。

 

わたしは死ぬことが本当に怖かった。でもワークをしてみたら、最後の最後は、「ああ、この体はもう亡くなっていこうとしているのだ。だから、"仕方がない"」という気持ちになった。ただ終わりのときへ向かっていく、大切な人とも遠くなっていく、一旦このパートは終わる、でもまた別の局面があらわれる。なんかただそれだけの。ドラマチックなことではないというか。

 

体験や、他の人の話を聞いたりする中で、これまでの自分の死にまつわるありとあらゆる体験も呼び起こされたりしたので、重い感じになったけど、一晩経ったらすっきりとしている。寝るというのも一種の死みたいなものなのかも。ひと続きのものである、という感じ。

 

ずっと抱えていた20年前に祖母を看取れなかったことの後悔も、すっと霧散しているのにも気づいた。

 

人間みんな死ぬのだから、死ぬ練習をしてみるのもいいのかもとか、死に方はいろいろだけど、最後の最後に起こることは、もしかすると同じなんだろうかとか、いろんな話が出ました。

 

息子を預かってくださってた方にお話したら興味もってくださって、気づいたら30分以上、その日の体験、職場での死(介護職の方なので)、近親者の死、子どもの頃の自分にとっての死など、お互いの死生観を共有する時間がもてて、それはとてもよかった。打ち上げに行けなかったけど、豊かな時間を過ごしました。

あさきゆめみしを語る会、ひらきました

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「CIPHER」に続く懐かしの漫画、「あさきゆめみし」を語り尽くそうという会。

4つ年上の姉がいて、本や漫画や音楽の多くは姉からの影響を強く受けてました。

あさきゆめみしもそのひとつ。自然と読むようになりました。


最初にあさきゆめみしとの出会い方、好きな登場人物とその理由を言ってもらってから、トークをスタートしました。

朝顔の君、六条の御息所、朧月夜、花散里...。

それぞれ全然違う人が気になっていて、気になった理由もそれぞれで、
あの頃の気になる人と今気になる人も違ったりして、いきなりこれはおもしろくなりそうな予感でした。

ちなみにわたしの好きなキャラは朝顔の君。
男女の争いに巻き込まれたくないとの意思を強くもち、
それを凛として表現する様に惹かれました。

 

男の生き方、女の生き方、イエ、血縁、セックス、結婚、平安貴族の暮らし、和歌、身分、察する、恋の駆け引きは自作自演、漫画芸術、四季折々、嫉妬、雅、暇人、ファッション、正直さと仮面、運命、仕返し、愛されキャラ…などなど、いつものように、あえて方向付けはせず、いろんな話題が出ては消え、消えては浮いて繋がりする様を楽しみました。


憧れと羨ましさ、アホらしさと怒り、共感と同情がいっぺんに来たような怒濤の2時間でした。


紫式部がなぜそのような人物、エピソードにしたのかを想像していくのもおもしろかった。これほんと研究しがいのある題材。


今回はごくごく内輪でやったのだけど、公募してやるとどうなるかな?
あさきゆめみしは、ひとこま当たりの情報量が多いし、源氏物語としても千年も残ってきた壮大な物語だけに、まだまだ語り尽くせないのです。

次回やるときは、もちょっと勉強して最初の解説タイムを加えてやりたいな。

あとはテーマを「女の欲望」にしてみるとか。。

 

わたしがこういう「昔好きだったなんとか」の場をひらいているのは、ただ懐かしいな〜って言い合いたいだけではなくて、そこに今の自分をつなげていきたいという思いがあります。

子どもの頃の記憶・印象と、今だから感じること・考えることが交錯する時間。昔、夢中になったものにもう一度会いに行く。

「懐かしい」のその先を見に「入って行く」。
めいめいで、みんなで。
そうすると、自分が何によって形づくられていたかが見える、
今の自分との繋がりが一本の川の筋と感じられる、
あるいは今の自分の中に脈々と息づく何かにふれる、

というようなことが起こる気がします。

しかも同じものを前にする、同じ体験をするからこそ立ち現れてくる。

 

わたしが場をひらくときの柱のひとつです。

 

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ひらきました!・「ポンピドゥーセンター傑作展を見た感想をアーダコーダと話す会」

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「ポンピドゥーセンター傑作展を見た感想をアーダコーダと話す会」開催しました。

お知らせはこんなふうでした>>

peatix.com

 

語れる人がいないという悩み(?)もあるだろうし、友人と展覧会に行っても、そのあとお茶しても感想をずっとは話していなくて、いつの間にか話題が移ってしまうこともよくあります。「これについて話すんだ!」という目的をもった場として設定するからこそ、2時間でもこのテーマで話せるのですねぇ。

あらゆる展覧会にデフォルトで「感想を話す場」が設置されていくといいな。今は話すだけが多いけど、展覧会によって一番効果的な進め方があると思うから、それ考えるの楽しそう...(妄想)。

作品を前にして話すのもいいし、鑑賞した直後に話すのもいいし、こうして少し時間が経ったあとに別の場所で話すのいいものです。本物がなくても、図録、ポストカード、フライヤー、ノートPCなどからビジュアルを確認できれば、見たときのあの感じを再起動できます。逆を言えば、ここに来る方というのは、少し時間が経っても、「何を見たか」「何に惹かれたか」「何が残ったのか」を言語化できるという点で、鑑賞に慣れている方なんだろうな。

4人で話していて、やっぱり今回の展覧会は本当によかったよね!という言葉が繰り返し出てきて、うれしくなりました。それぞれに「よかった」や「おもしろかった」の中身を聞いていくとちょっと、あるいは全然違うところも面白い。「美術館に行って絵の何を見ているのか?」とよく聞かれますが、参加者さんから出た「人によって観たい理由が違う」という言葉に集約されるよう。ある人は、「作品の中に新しい文法を見に」だったり、また別の人は「その人や時代の意識の転写を感じに」だったり。

感想を話す場にちょうどいい展覧会でした。点数、規模、年代、絵画・写真・彫刻・映像など様々なアプローチ等の点から、そう思います。宗教画など解釈が限定的なものは知識がないと読み解けないけれど、近代、現代のアートはオープンだから鑑賞者が関わりやすい。まさにマルセル・デュシャンの言葉通りです。

「要するに、芸術家はたった1人で創造するわけではない。鑑賞者は作品における深い本質を解読し、解釈することで芸術作品と接触する。それにより創造の過程に鑑賞者自身が関わるのである」

また「これは!」というものがあれば企画したいと思います。企画の持ち込みも歓迎です。

 

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『ガタカ』は変わらず美しかった

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シーモアさんと、大人のための人生入門(原題:seymour: an introduction)」を観る前にと思って観た。

 

いまひとたびの…「ガタカ」!


 

どなたかのレビュー。

cinemore.jp

 

 

1997年かぁ。

まったく時代を感じない、古びない映画というのは、この世界に数多く存在するけれども、間違いなくそのうちの一本。

 

やー、やっぱ20年経ってもこの世界は美しいなー。映画を撮るってチームワークなんだって意味をその2年後にもっとよく知っていくわけなんだが、今観ても様々な技能、才能のコラボという感じもたまらない。美意識、美学の共有。

テーマもあの頃よりももっと現実味を帯びている。まさにこれ今読んでいる「いのちをつくってもいいですか?」だ。ガタカでは遺伝子操作した結果、生まれ落ちてすぐにすべてのリスクが瞬時に測定され、人間の価値も同時に決まる。遺伝子レベルの差別、想像もつかないこともフィクションの中では可能だ。(逆に、科学者というものは、かつて憧れた映画や小説へのロマンから研究を推し進めているようにさえ見える。実際のところどうなのだろう?)

いくら完全に統制し、全員が屈服したように見えても、危険分子は異質とされた者の中から必ず現れる。ガタカでのジェロームは、秩序を乱す反逆者だが、現時点のわたしたちから見れば人間の希望でもあるようにみえる。人間の精神の力こそがこの作品のテーマか。

「僕に何ができて、何ができないか、決めつけるな!」

俳優も美しい。日本的には、イーサン・ホークは「いまを生きる」「リアリティ・バイツ」「恋人までの距離(ディスタンス)←この邦題…」ときての、ユマ・サーマンは「パルプ・フィクション」「バットマン&ロビン」ときての「ガタカ」。ジュード・ロウはこれが映画出世作だからビジュアルにもまだ登場しない。懐かしいな!!!

 

自分が学生のとき、40とか50の人って昔の映画の話ばっかするなーと思ってたけど、自分がその年齢になってみると、全然「昔」じゃないんだね。

わたしは20年前まだ生まれてなかったけど、あの人たちは学生だったんだ。

だから、まるできのうのことのようにありありと思い出せるし、映画を観てわたしの中に生まれた世界観は、わたしの組織の一部となって生き続けるようだ。

 

 

▼映画のロケ地となった、カリフォルニア州マリン郡庁舎


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*追記*

のちに、『いのちを"つくって"もいいですか』の読書会をひらきました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

シーモアさんを観てこれを書きました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

「ビッグ・アイズ」


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モラハラ対決映画の金字塔、「ビッグ・アイズ」。

 

なぜ逆らえないの?
なぜ友だちにも本当のことを話せないの?
なぜあんな人と夫婦でいるの?逃げればいいのに?

 

そういう当たり前のことができなくなるのは、本人が弱いからではない。DVあるいはモラハラという暴力によるものだ。優しさや自信のなさにつけ込み、脅迫し、嘲笑し、愛する人や社会から孤立させ、尊厳を奪い踏みにじることで支配する。

 

もちろん本人の資質である優しさや自信のなさは、それ自体になんの落ち度もない。

 

主人公を精神的にじわじわと、巧妙に追い詰めゆくシーンには鳥肌が立つ。加害側てある夫の強い劣等感、強い支配欲から暴力という手段をとっていく様子が非常にわかりやすく描かれている。

 

にもかかわらず、

 

「セールス上手な夫がいなければ彼女の作品が世に出ることは無かったので、その点は夫を褒めるべき。ただの夫婦喧嘩の映画です」

 

とか、

 

「実話らしいけど、こんな男の人本当にいるんですか?」

 

とか、果ては

 

「男を手玉にとって才能を開花させ、贅沢をさせてもらっておいて、文句を言う女がむかつく」

 

というレビューすらあり、憤死しそう……。

 

いろいろ言いたいけど…、

 

広いこの世で、本当に、たったひとりのその男からしか彼女は恵みを感じることはできなかったか?

彼女には彼と共にいるしか選択はなかったのか?

暴力を受け傷つきながらも、名声を得ることはありがたいことか?

 

わたしはNOだと思う。

 

結果オーライという言葉もこの物語については使いたくない。

 

恋人間、夫婦間のDV・モラハラという犯罪は、現代社会で、現在進行形で、隣家で起こっているのに見過ごされている。この社会に、暴力を助長する土台が厳然としてあることも浮き彫りになる。

 

観る人の内面が知れる、踏み絵になる恐ろしい映画だと思う。

 

場づくりにおける安全・安心とは?

 

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わたしが人生において関わっていかなければならないと腹を決めたテーマが「暴力」である。具体的なエピソードについては、また別に書ける日が来るかもしれないし、来ないかもしれないが、とりあえずここでは、このブログのテーマである「場づくり」と暴力がどういう関係があるのかを書こうと思う。

 

「場とは第一に安全であり、さらに健やかでなくてはならない」という考えがわたしにはある。

 

ここの抑えが本当に効いているかどうかは、自分が参加者の立場になってみればわかる。ざわざわする感じがある、時間が経っても緊張がほぐれない、終わったあと嫌な気持ちが残る、そこにいる誰とも連絡先を交換する気になれなかったなど、なぜ?と問うても理由が明確でない場合、その場は安全も安心も健やかさよりも、別の何かが優先されていた可能性がある。(自分の体調などもあると思うけど)

 

話を戻して、安全で健やかな場をどうつくるかを散々考えてきて、非常に基本的なところに戻ってきた。結局は、場をひらくわたし自身が、安全な環境にいて、安心を感じていて、健やかであることがもっとも重要なのだった。場を催す前に、わたし自身が継続的に棚卸しをし、過去の傷を治し、心の筋肉を鍛え、自分のテーマにしっかりと向き合っていくこと。それと並行して、人の心、内面、心理的なことや、安全安心を脅かす暴力が発生する仕組みについても、学んでいる。

 

暴力性は誰の中にあり、わたしの中にも当然ある。まずそれを認めた上で、それがどんなときに、どんなふうに、手段としての暴力に発展するかを、よくよく知っておく必要がある。

 

わたしのひらく場では、必ず気持ちの話が出る。感情や本音が出る。場でその表現を歓迎しているからだ。そのときにやはり場に安全と安心と健やかさがなければ、どれだけ怖いことだろう。その表現をしてくれた人に敬意を払うどころか、傷つけることになってしまう。

 

あるいは逆に、ある人の表現によって、他の参加者が傷つくということもあり得る。もちろん何によって人が傷つくのかは予測はできないものの、自分の最大限の想像力と経験を総動員して、どちらも守る必要がある。

 

だから場をひらく人、ファシリテーターは、気配や感情など見えないものに対する感覚の鋭さと繊細さが必要だと思う。(先日の記事:場づくりは感情労働にも関連する)
場ではもちろん、普段から敏感にならざるをえない。とはいえ、敏感でい続けるのはしんどいので、自分なりの調節の方法を見つけて実践しながらやっていくのだが。

 

「暴力」といっても、「アホ」「バカ」「死ね」などの罵倒か、殴る、叩く、蹴るなどの身体的行為だけではない。人が人の言動やふるまいに嫌な気持ちになったり恐怖を感じること、感じていても逆らえない、我慢させられる(我慢してしまう)のすべてが暴力だといっていい。だから一見悪い言葉のように聞こえないのに、いつまでも喉に刺さった小骨のように抜けないということもあれば、とても嫌な感じを受けるのに説明できない、ということが起こる。それは暴力を受けていて、傷ついている(でも頭では否定しているとか、なんらかの理由で認められない)可能性がある。

 

場の安全性の根本に、お互いの境界を守るということがある。「嫌いとイヤからはじまることもある」にも書いたが、嫌いとかイヤを言う、言える選択を手に取れるところに置いておけることは重要だ。場では、「全体」の空気になりやすいからこそ、この境界は非常に重要。

 

多様性を認めるというのは、どんな人も自分の境界を超えて受け入れることでもないし、「隣人」のすべての面を愛するということでもない。健やかな関係の中では、「いいね!」ということもできるし、「それはいやだ!」ということもできる。

 

こうした話は、わたしが過去に参加した場づくりのノウハウ伝授やファシリテーション講座のようなところでほとんど聞いたことがない。でも現場をもっている主宰者や運営者が現場で最も困っていることというのは、参加者のことではないか?つまり、自分や場に理不尽であったり、場の趣旨にはずれたふるまいをしてくる人にどうしたらいいか。

 

今のところのわたしの考えとしては、場で安全、安心、健やかさを守るために、それに対して「暴力」や「境界侵犯」という名前をつけ、ちゃんと怒る、毅然としている、暴力には屈しないという態度をとるということ。それが結果的にすべての参加者を、人として尊重することだと思っている。

 

わたし自身はまだまだ未熟であるし、途上で、ここに書いたのも仮説の部分が多いけれど、まずは「ここまで考えた」ということを、ここに置いていこうと思う。

 

 

 

 

森のイスキアの扉がひらく

satohatsume-inochiomusubu.hatenablog.com

 

昨秋より閉じられていた森のイスキアが、弘前市内で開催される写真展にあわせて一般公開されるそう。北国の秋、この頃にはもう寒いほどなのだろうか。

 

会期:

2016年9月30日(金)~10月1日(土)

10月3日(月)〜10月9日(日)※10月2日(日)を除く

 


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書籍やテレビ番組を通してふれた佐藤初女さんの生きざまや言葉は、短く簡潔でありながら、簡単にわかることのできないものが多く、ゆえに自然と内省をうながされた。森のイスキアのことは「何も考えてない。必要であれば続いていくだろうし」とおっしゃっていたけれど、場というものは、ほんとうにそうなんだろうなと今は思う。個人につく型や技は努力で遺していくことができるだろうけど。


今年の2月1日に初女さんが亡くなったときに、「人々を癒してきた」「癒しの場」という言葉が飛び交ってずいぶんと気持ちがわるかった。初女さんも「わたしは人を癒しているんじゃない」とやや怒りを含んでおっしゃっていた。


わたしは森のイスキアに行ったことも、初女さんにお会いしたこともないけど、癒す―癒される、という関係ではなく、おとずれる―もてなす、はなす―きく、いる―ある、の「あいだ」のようなことが起こっていたのではないかと想像する。これを中動態というのか。ない言葉は表現が難しい。


わたしは「癒された」「癒す」という言葉を気軽に使わない。
唯一「癒える」をごくたまに。
「癒された」は別の言葉のほうがふさわしいことが多く、
「癒す」は自らそんな意図をもったことがなく、
「癒える」はほんとうに滅多に起こらないから。

初女さんとばななさんに学び、自らも大切につかいたい言葉。

*集いのお知らせ* ブックトークカフェ10月(武蔵小杉の読書会)

*集いのお知らせ*

2016/10/21(金)19:00- テーマ:「積ん読本」

武蔵小杉で月に一度ひらいている読書会で、企画とファシリを務めています。

読書体験を他者と共有する楽しさを、地域で。

武蔵小杉周辺・沿線の方、お待ちしてます。

 

everevo.com

場づくりは感情労働

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最近気づいたのだけど、場をひらくときに、全員が「やるなら行く」とか「おまかせ」だとしんどい。だからなんとかあと一人、「一緒にやろう」と声かけてうんと言ってくれる人を見つける。なんでそうかはまだうまく説明できないけど、「しんどいな〜」とか、「ああ、気が楽」とかの感覚がすべての証明だと思っている。

 

そもそも、場づくりには感情労働という面がある。ハプニングがあってもなにもなくても。場の気を感じて動く、ふるまう、言葉を選ぶなど自分の様々な感覚を動かしている。それもプロフェッショナリティ。場をひらいている自分が「場づくりは感情労働である」と認められたら、報酬に反映させることに躊躇がなくなってきた。

 

「続けていくためにちゃんとお金をもらう」の意味も、今はわかる。

どのファシリテーター講座でも、場づくりに感情労働という面があるとは言ってなかったのが不思議なくらいだ。

 

報酬について、一般とか通常とか相場のことはよくわからない。ただ、わたしは自分がその機能を発揮することをプロとしてやるので、値付けは自分でしたほうがいい気がしてきた。

 

ついでに値付けについて。

 

「参加しそうな人」「払ってもらえそうなお金」だけを見すぎると非常によくないことが起こるのを、数々の場を踏んだり、友人たちと対話してきてわかった。

 

結局は、「自分がだれとなにをしたいのか」に尽きる。しかも「だれと」が先なのがポイント。自分が安心して、心地よく、健康的な関係を結べる人と、どんな場をつくりたいか。

 

「わたしがあなたと一緒につくります。そして、つくりきろうという意識をキープし続け行動する責任をわたしがもちます」という宣言が金額で、それに感謝するという形で参加や依頼した人がその額のお金を払う。

 

そういう循環がわたしにとっての仕事。

 

でもお金が発生するものだけが仕事というのも、狭義すぎるとも思っている。その話はまた時期が来て書けるといいな。

 

 

 

 

*集いのお知らせ* ブックトークカフェ9月(武蔵小杉の読書会)

*集いのお知らせ*

2016/9/24(土)10:30-

武蔵小杉で月に一度ひらいている読書会で、企画とファシリを務めています。

読書体験を他者と共有する楽しさを、地域で。

武蔵小杉周辺・沿線の方、お待ちしてます。

 

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いつが「ただ聴く」タイミングか

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「聴く」自体を学ぶ場はもちろんだけど、全然メインのテーマではない場でも、「やっぱり聴くことが大切だ」という展開になることが多い。(場は、わたしが主宰だったり参加者だったり、どちらもある)

 

そのときに参加者の中からよく出る質問として、
「今、この場では意識しているからいつもよりは聴けているけど、日常のふつうの会話の中でただ聴くって難しい。どのタイミングで"ただ聴く"をすればいいのか?」
というものがある。

 

わたしが一番「なるほど」と思った答えは、
「話しているうちに、その人が"その感じ"になったら」

 

もう少し説明すると、餅つきをするようにテンポよく話していたときに、ふと相手の視線が空に向かって何かを探すようになって、言葉もぽつりぽつりとゆっくりで、間が空いたり、言いよどんだりしてくる。

そのときにちょっとこちらの話したいことは置いておいて、相手の言葉が出てくるのを待つ。そのあとにはたぶん大切な話が出てくるだろう。

言葉をただ聴く。

アドバイスも要約もせずに。

ぜんぶが出きってしまうまで待つ。

 

そういう話し方になるときがある。

深いところから重苦しく上がってくるような言葉が。

 

そのとき相手はこちらを信頼し、安心しているはずだ。

だからこそ自分自身の実感により近い言葉を探しに行ったり、よりぴったりくる言葉でこちらに伝えようとしはじめる。

こちらも何か聴かせていただくというような、「拝」という心持ちになる。

 

ただ聴くができれば、二人の関係は目に見えないくらい少し変わっていくだろう。

 

逆に、もしここで「ただ聴く」が起こらないと、相手からこちらへの信頼は崩れるか、そこまでいかなくても、語ろうとした以前とは目減りするように思う。

 

いつが「ただ聴く」タイミングか。
それは相手がちゃーんと教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

嫌いとイヤからはじまることもある

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愛されたいがために素直で従順で誰でも受け入れる「よい子」になったのに、ゴミ箱扱いされてきた。もうそんなふうには生きたくない人は、いいとこ探しやよかった探し、好きなもの探しの前に、「イヤ」「嫌い」を恐れず素直に出していけるといい。

 

ここでの「イヤ」「嫌い」は攻撃のためではなく、自分の境界線を守るため。

あまりにも境界を侵犯されるのに慣れてると、自分と他者の境界線がわからなくなってたりするときは、嫌いをまず自覚する。嫌っていいと自分に許す。

その感情自体はダメではなくて、その感情をもっていることの辛さや葛藤を、他者に対する暴力として選択することがいけない。

 

嫌いをたっぷり味わったら、そうすれば好きや心地よさは自然と息を吹き返してくる。
わざわざプラス思考、ポジティブ思考にならなくても。

 

イヤとか嫌いとか言ってると、ワガママだとかネガティヴだとか、言われるかもだけど、健全な人間関係を構築するため(ときにはゼロから再構築)にもう必死なわけで。

 

好きが先に出てきたら、それを大切にしたらいいけれど、嫌いとイヤからはじまることもあるよねっていうことが言いたい。

 

あとは、「自分の気持ちよりまず人の気持ちを思え」とこどもに教えるのは、なんか違うと思う。

自分の気持ちがわからなくて、人の気持ちを思うことなど、できない。

 

なんだか腹がたつことがあったので、言葉が強めになってしまった...。

 

 

*集いのお知らせ* ポンピドゥーセンター傑作展を見た感想をあーだこーだと言い合う会

*集いのお知らせ*

2016/9/21(水)14:30- 

平日昼間ですが...
ポンピドゥーセンター傑作展を見た人同士で感想を話してみたい方、お待ちしております。(事前の展覧会の鑑賞が参加条件です)

 

peatix.com

より自分である

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長らく、自分ではないなにかになりたいと思って生きてきたのだけど、

 

じわじわと、

 

より自分でありたいと思うようになってきた。

 

なにが自分らしさかを説明するというよりも、瞬間、瞬間の選択において、どちらが、あるいはどれをとることで、より自分であれるか?を感じて動くようなこと。

 

自分ではないものになりたいと思うには、いろいろな原因があった。

 

そのようにしてこの世界で必死で生き延びようとしてきた自分に労いを。その膨大な時間、喪ってきた数多くのものに悼みを。

 

それがあったからこそ得られたものへの感謝も、その次に。

みをつくして

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この2枚。
 
下の句が「みをつくして」まで同じなので、
つい手が出て、お手つきになってしまっていました。
でも最近あまり手が出ないかも。
 
まず上の句が全然違います。
左は「なにわえの」、右は「わびぬれば」。
 
歌人が皇嘉門院別当(女性)、元良親王(男性)なのもあって、
歌の雰囲気、印象もわたしの中では全然違います。
 
色はそれぞれこんなイメージ。
 
そういうふうに考えてくると、この2枚は一卵性双生児の友人みたいです。
見た目はそっくりで最初は
「どっちが兄でどっちが弟だかわからん!」って感じなんですが、
仲良くなっていくうちに、
「あれ?全然似てないぞ?」ってなる感じです。
 
たとえが分かりにくいかもしれませんが…。

 

歌を一枚一枚、日本の伝統色と合わせていくのも楽しいです。

www.colordic.org