ひととび〜人と美の表現活動研究室

他者の表現にふれることから、自分の中にある美の感覚にもふれてみる、自分の美を表現してみる。みんなで探究する場づくりを通して考えることなど。

【たびたび更新】今後の予定

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✴︎連載中

「場づくりの技術を身につけよう」

terakoyagaku.net

 

 

 

✴︎2018年10月〜12月

 また行きたい!と思える場をつくるゼミ 10/13(土), 11/4(日), 11/18(日)

bazukuri3.peatix.com

 

 

読書会のつくり方講座 10/21(日)

dokushokai3.peatix.com

 

 

爽やかな集中感 競技かるた体験会 @umiのいえ(横浜)11/21(水)

coubic.com

 

 

リブトビ逆噴射トークライブvol.2:ゴルゴ事件

liveandbeauty2.peatix.com

 

 

自分の今とこれからを見つけるコラージュの会《冬至編》12/22(土)

collage3.peatix.com

 

✴︎ひととびのサービスメニュー

 ★人が集まる場をひらきたい方に個別で伴走する「個人セッション」

 ★読書会、百人一首、映画や展覧会の語る会などの「つくり方講座」

 ★人が集まる場をひらきたい方同士と学びを深める「場づくりゼミ」

 ★場を主催する方、運営する方と共に場をつくる「プロジェクト」

hitotobi.strikingly.com

芸工展2018企画としての「読書会のつくり方講座」

わたしが一昨年から出展している芸工展

今年は「読書会のつくり方講座」で出展することにしました。

 

芸工展とは
https://www.geikoten.net/
「まちじゅうが展覧会場」をキーワードに谷中・根津・千駄木池之端・上野桜木・日暮里エリアで毎年ひらかれているまちの文化祭のような集い。参加者は、プロアマ問わず、表現を楽しむ市井の人たちが、日常の延長をおすそ分けする非日常との出会いの場。

 

 

読書会は、表現を味わう体験を通して、小さな表現を試みる場。

読書会のつくり方講座は、参加側から主催側に回り、日常の延長にある小さな場を営もうとする人たちの場。

なんだか芸工展にぴったりだなぁと思いました。

 

 

 

一昨年は、こんなことをしました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときは、「わたしが培ってきた芸を披露する」がコンセプトでした。

ソロでやってみて、いろんな人が来てくれて、サポートもしてくれて、こんなにも自分を表現することがはじめてで楽しかったことはないというくらい、幸せな時間でした。たくさんの種を蒔いて、その後次々と芽が出て、実がなったものもあります。

 

 

 

そして、去年はことほぎ研究室という名前で、ことほぎラジオを一緒にやっていたけいさんと出展しました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときも「研究成果を発表」という形で、ラジオをやっていて生まれてきたものをいろいろ並べて、試してもらう場としてひらいて。2人でひらくのは、1人のときとはまた違って広がりがあって、楽しかったなぁ。

思えばお店で働きたい感じというのは、このあたりからはじまっていたのかもしれないなぁ。

 

 

 

まちのいろんなところで、いろんなスタイルで、いろんな表現が生まれて循環する。

愛する芸工展に、今年も出展できることがうれしいです。

 

今年はいっぷう変わっていて、賛同人として協賛金をお支払いし、芸工展に出展していると宣言して、オレンジ色のてぬぐいを下げ、実施すればそれが芸工展に出展していることになるそうです。このゆるさ......^^

 

出展者はわたし・せいこであり、講座に参加される方にとっては、これが芸工展の出展企画であろうとなかろうと、正直なところあまり影響はありません。

どうぞ気になさらずおいでください。

ただ、こういう「場」としての芸工展のおもしろさ、それを生み育んできたまちのおもしろさを、ご紹介できたらなぁとは思っています。

 

 

 

 

講座はまだお席ございます。お申し込みお待ちしております♪

遠方や日程が合わない方にはオンライン講座も予定しております。お問い合わせください。

dokushokai3.peatix.com

 

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関係の中の精神的自立と境界線、または尊重と感情的な安全性

男性による男性のための支援について、2本記事を書いて、いろんなフィードバックをもらって、また書きたくなりました。

男性による男性のための支援と場について - ひととび〜人と美の表現活動研究室

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所 - ひととび〜人と美の表現活動研究室

 

 

しかし、考えをまとめて一本の記事にするのが今どうしてもできなかったので、自分のコメントをばらばらとまず貼ってみて、最後にまとめを書きました。

 

 

 

 

あえて社会的な男性、女性とくくっているのは、それがあるという前提の社会の中で生きるときのズレや違和感があるから。

もし社会的な男性が男性を支援したり、そのズレや違和感の認識を共有する場がもっと増えたら、

いつしかどちらからも、「ほんとうに男性とか女性とか曖昧な区分けでしかないよね?多様だよね?」ってとこに至れるのではないか。

 

なるほどなー

"女性が「同姓の中で共感する」ことが強いことで、その輪から外れた人たちの「場」が少ない"

そうかー。あるのかもしれないですね。

 

うーん、うーん、、、

 

わたしは場をつくるということをテーマに生きているので、どうしてもこの発想になりますが、

もし、ある人が、生きていてズレや違和感をもっていて、それが耐え難く苦しい(阻害されていると感じる)のであれば、わたしはこうだ!と旗を立て、場をつくることで、あるいは場の一員になることで、人と出会って、自分と出会って、共感と応援を得て、顔を上げてspeak upしたら、希望をもって生きていける可能性が大きい。ぜひそうなったらいいのにって思うのです。これをSisterhoodっていうのかな。

 

言いたいのは結局そこで、それはどんな性であれ、なんですよね。ただわたしが見えている範囲では、「男性性」(ややこしいなぁ、性...)、左脳的っていうのかな...のほうが不得手で不慣れなように見えるし、思考・判断・裁定が激しい、ように思える。そういう傾向があると、恥や罪悪感や劣等感は押し込められ、怒りが蓄積され、どこかで爆発する。

 

感情的な安全性がもてる場を自分の手でつくれたらすごくいいですよ、とか、ジャッジなしに、思考判断や編集を交えずただ聴いてもらうのは良いものですよ(それは訓練で身につけられる)、ともわたしは言いたいかな。

 

「性を扱いながら、軽々とそれを超える」をわたしも見たいんだよなー

 

「支援」というものの解釈が人によって、あまりいいイメージがないのかもしれないと思った。

わたしはSupportとして使ってたんだけれども、アドバイスされるとか、内側に踏み込まれるとか、脅威だったり、大きなお世話だったりしているのかもしれない。

そもそもこのことを書き出した発端が、リスニングママ・プロジェクトで、その活動は「20分ただ聴く」で子どものいる女性をエンパワーしているんです。ジャッジなし、アドバイスなしで聴いてる。相談というのとも違う。心療内科的なカウンセリングでもない。

それはすごく支援的Supportiveなんだけど、この感じが伝わりにくいんだろうなぁ。難しいなぁ。

 

記事が読まれてうれしいけれども誰かを傷つけたり、もやもやさせたりもするんだろうなぁとも思う。

まぁでもわたしの書いたものが意図通りに伝わることっていうのはないと思っているので(わたしも本当に何を書いたのかは自分ではわかっていないし、、)、これによってなにか考えることがあったり、誰かと話すことがあったら、そういう踏み台としてあるのは、本望です。

 

 

「支援」というキーワードで語るならば、例えば、マドレボニータやリスニング・ママプロジェクトを通じて知り合ったり、ご近所さんだったり、自分がひらいた場に来てくれて知り合ったり、の女性の友人たちといるとき、おしゃべりするとき、一緒に何かをするときのこの気持ちよさといったら!という感じ。この出会いがわたしにとっては宝。

核をもった個としていて、精神的な自立があり、ユニークで、感受や感情がたくさんで、それでいて共有できるところもあり、お互いの境界を守りながらも愛にあふれていて。

泣きつくときもあるし、みっともないところもいっぱい見せて、助けてもらうときもあるけれど、すごく対等で相互的。

支援というといかついイメージがあるけれど、わたしの身近にあるのはこういうものです。

 

あとは生物的性の別があり、やはり「同性」同士でも話したほうがいいと思うのは、息子の性教育のことを考えはじめてからです。「男も、女も、カテゴライズできない性も、違いはないよね」と、ここは言えない。

 

うん、そうだろうなぁと思います。そうだろうなぁというのは、女性男性という二分された何かでつながりたくなかったり、つながりたくないテーマがあったりすることや、既存の場や関係の中に合うものがないことや、これまでそのことで嫌な経験をしてきたこと。わたしにもあるので。警戒などもあると思います。

 

頼んでないのにずかずか入って来るお節介とかアドバイスや人をカテゴリでくくるのが「支援」なのではなく。

直面している課題が自分一人で考えても、自分のこれまでの経験や全能力を投入してもどうにもならなくて、他者の力が必要なときに、個人としての核や精神的自立や境界線は確保され尊重されたまま、ジャッジされずただ聴いてもらえたり、自分が選ぶこと・自分の力で道をひらいていくことを応援してもらえる、感情的に安全な場や関係をわたしは「支援」と呼んでいます。当然ながら「弱者を助ける」というのでもない。

もしその直面している課題が、なぜわたしが理不尽な目に遭ったり違和感を覚えているのか--> Because I am a girl/woman や Because I am a boy/man というフレーズにつながるものであるならば、それは同じように【切実に苦しさを感じている者同士】でしか真にエンパワーできないのではないだろうか?という仮説です。

そして今わたしがどの立場から言っているかというと、

・Because I am a girl/womanと感じることが人生の中でほんとうにしょっちゅうあった。

・girl/woman同士の自立しつつ共感を伴う心地よい「支援」の中にわたしはいる。

・boy/manから助けを求められる。場というものに興味があり仕事にしている。

そのような立場から見て、boy/man同士の「支援」の数やバリエーションが少ないことが問題で、それはgirl/womanの側からいくらお膳立てしてもどうにもならない、切実に感じている人たちが立ち上がらないとどうにもならないのではないか、と思っている感じです。

 

 

 

友人たちと言葉を交わしてきて思ったのは、ほんとうに聴いてもらえてきてなくて、ジャッジや評価やアドバイスやマウントされてて、場で嫌な思いをしていて、「支援」という言葉にもういいイメージがない人もいるのだということ。

 

 

そもそものところで、精神的自立、境界線、尊重、感情的な安全性が人間関係の中で薄いまたはない、のではないかというのを、場をつくる仕事をしていても、日々生活していても、ひしひしと感じています。「ここでは何を言っても大丈夫と思える」という感想もよくいただきます。

 

自分も未熟だから、できない、わからないことも、もちろんあります。

 

 

 

わたしが長い時間をかけて辿り着いた関係や場は、もしかしたら特別なことなのかもしれない。わたし自身、時間もかかったし、、

 

でも、「あると信じたいけどほんとうにあるのかなぁ?」と思っている方がいるとしたら、「あるよ!」と大声で言いたいのです。

今はないところにも育める。

 

そのとてもよい関係性がどのようなものなのかを、バシッと書くというのがとても難しくて、この通り抽象的にしか表現できてなくて悔しいです。

 

精神的に自立し、他者との心地よい境界線を持つことと、共感でつながることは対立しないのです。

 

 

「聴く」とか「聴いてもらえる場」を増やしていきたいなぁ。

聴けるプロフェッショナル(カウンセラー、コンサルタント、サポーターとか)ももちろん増えてほしいし、そのお仕事でなくても聴ける人。もっともっと。

 

 

 

 

そして今回の記事で書きたかったのは、それはわたし個人にとってはとても快適な関係だけれども、感情的な安全性や、他者からの共感は必要としていなかったり、「なぜこのように理不尽なのか-"Because I am a girl/woman, boy/man"」と感じたことがない方もいると思う。その方にはわたしが書いてきたことは、的外れだと思います。

あくまでも「違和感や苦しさを感じていて、それがジェンダーギャップに起因するなら」という仮説を書いてみたものです。

 

 

誰かの生き方やあり方を批判するものではないです。

 

わたしもあなたも、お互いに「そうでないと生きていかれない」人生を生きていると思ってます。

 

 

そして「場をつくる」ということにおいては、わたしは力になれます。

 

 

うん、そんな感じだな!

 

 

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ハイパーセンシティブ


朝、息子を学校に送って行ったら、担任の先生に「ちょっとお時間いいですか」と呼び止められた。

 

今、理科の時間に骨や筋肉のことを扱っているのだが、前回の授業で模式図を見ながら説明していたところ、息子の様子が急におかしくなり、怖い怖いと泣いて教室にいられなくなったので、保健室に連れて行った。養護の先生と話をしてだいぶ落ち着いたようだったけれども、心当たりはありますか。授業で配慮すべき点があれば教えてください。

......とのことだった。はじめて聞く話だったのでびっくりしたが、先生が「怖いものや苦手なものは誰にだってあるし、他の人は平気でも自分はダメとかも当然あるので、それはいいんです」と、言ってくださったのが大変ありがたかった。

 

「心当たりはありませんが、もしまたそんなふうに本人が辛くなったときにどんな対応が可能ですか?」と聞き、いくつか提案をもらった。

 

家でも様子を見て聞いてみますと答えてその話は終わった。

 

 

 

それでふと自分のことを思い出した。

 

数人でごはんを食べられるカフェを探していて、入ってみたらわたしの苦手なミラーボールが回っていた。

慌てて連れの人たちに、「ほんとうにごめんなさい、ミラーボールがダメなんで…」と言ったら、「あ、そうなんだ。じゃあ別のとこにしよか」と言ってすぐ別の店にしてもらえた。

 

「えーなんで?大丈夫だよー」とか、「珍しいね」とかも一切言われなかったのがとにかくありがたかった。

 

 

わたしは規則的に回っているものや左右や上下に触れているものを見るのがとにかくダメ。

天井のファンがあるお店では、なるべく視界に入らない席に座るなどしています。

大地の芸術祭のある展示で、真っ暗闇で狭い部屋の中でぐるぐる回る電球を見つめるように言われ、これはかなりの拷問でした...。

 

乗るのももちろんダメ。遊園地のメリーゴーランドやコーヒーカップなど。

 

 

こういう苦手なもの、他にもあったなぁと思い出してみたら、いろいろ出てきた。

 

・蛍光灯の青い光

・海の波(音も)

・サイレン音

・お寺や教会の鐘のわぁぁあんという振動音

・インドの楽器のシタール

・電車の発車音楽が隣のホームのと混ざるとき

こどものおもちゃで電子音が鳴るのもの(音程が合っていないとかすぐ狂うもの)

・掃除機をかけてるときのキーンという高い音

・ストッキング

・ウールやアルパカのタートルネック

 

などなど、他にもありそうです。

 

 

小さい頃は時計の秒針のカチカチいう音がダメでした。

 

 

 

苦手を通り越してダメ。

ときにはその場にいられない、逃げ出す、というぐらい無理なときも。

逃げられないときは、手のひらにいっぱい汗をかいて、指先や足のつま先が冷たくなって、おなかが痛くなって、身をかたくして、感覚を麻痺させて、過ぎ去るのを待つ、という感じ。

 

暴力シーンの多い映画もダメで、途中で退席したこともあります。

 

 

感覚過敏というものかなと思います。もちろん中には「誰だってそうだよ!」というものもあるかもですが、意外と「まったく気にならない」という人もいたりして。

 

感覚過敏については、ぷるすあるはのチアキさんがとてもわかりやすく役に立つ記事を書いてくださっています。困っている方はぜひ読んでいただきたいな。

『感覚過敏のチアキの世界』─苦手と工夫を探検してみました(前編) - 子ども情報ステーションby ぷるすあるは

 

 

 

あるいはHSP(Hyper Sensitive Person)。

本を買ってチェックリストを試してみたら、ほとんどが該当。

わたしってなんでこんなめんどくさいのかなぁと昔から自分で自分が嫌だったけれど、そういう特性ならしょうがない。名前があったのかとわかるとちょっとホッとする。

 

 

そんなわたしなので、場所選びを任されやすい。

わたしが居心地がよくいられるところなら、だいたいみんなも安心していられるから。

 

 

 

で、最初の話に戻ると。

息子は、理科の授業のとき、何かがフラッシュバックしてしまう感じだったのか、わたしの感覚過敏の話とは違うのかもしれないけれど、「その場にいられなくなる感じ」というのはわかるので、なんとかサポートできるかなと思った。

 

という話。

 

 

 

朝顔、10月半ばだけどまだ咲いているものなのね。

 

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「同性」の共感と応援によってしか行けない場所

きのう書いた記事がたくさん読まれているようで、びっくりしました。思うにまかせた未熟な文章を読んでくださり、ありがとうございます。

 

書いたものをFacebookでシェアしたら、友人たちが「どう読んだか」をコメントしてくれました。おかげでまた進んだことがあるので、きょうも書きます。

 

 

男性、女性と二つの性を挙げることについてはかなり躊躇もしていたし、ディスカッションの中で出てきたこともあるので、きょうはやはりそのことから。

 

この世に二つの性しかない、とわたしは言いたいわけではもちろんないです。ただ、性やジェンダーについてはまだまだ勉強中なので、言葉の使い方が違っていたらご指摘ください。

 

男性、女性という言葉を使うときには、性(sex)とジェンダー(gender)の二つの観点がありますが、この記事では、自認している性別(sex)と社会的な性別(gender)について扱っています。

 

そして、社会を生きる中で、生物的であれ、社会的であれ、性嗜好的であれ、「性別」によって背負っているもの、抱えているものが違っているとわたしは感じています。

 

自分の性を生きる中での、ズレ、ギャップ、違和感、コンフリクト、悩み、困り事が起きたときに、「異性」の理解や支援も非常に大きい力になるのだけれども、「同性」同士の分かち合いや委ね合いや頼り合いの場(関係や機会)によって、エンパワーされ、人が希望を持って生きていくことに、ずっと関心があるのだと思います。

 

特に社会的な「男性」「女性」のギャップに関しては、「男性」が「男性」を「共感をもって支援する」という残されたフロンティアの耕作に着手しないと、どうにも埋まらないんじゃないかと思っています。

女性から女性

女性から男性

男性から女性

はあるけれど、「男性から男性」がまだ耕されていないように思うのです。

 

 

 

きのう参加したのは、リスニングママ・プロジェクトという団体の会でした。

リスニング・ママ プロジェクト(リスママ)は、妊婦さんや、乳児〜未就学児・小学生を子育て中の母親を対象とした子育て支援プロジェクトです。

 

子どもと過ごす毎日の中で、煮詰まったり、くじけそうになったり、逃げ出したくなったり、自分の力を信じられなくなった時、ふと誰かに自分の話を聞いてもらいたくなったことはありませんか?

 

リスママでは「聴く」の専門的なトレーニングを受けたママが、プレママから小学生の子どもを持つママの話を20分間寄り添って聴きます。

 

聴き手からジャッジされず、アドバイスされず、話が漏れることもなく、安心して気持ちを話せる20分。どんな話でも大丈夫。一度体験してみませんか?

 

寄り添って20分、「ただ聴く」を提供している。その聴き手も出産し、子育てをしている女性。

女性が女性を支援する。

そのことによって女性だけではなく、彼女がかかわる子どもたちも育まれる。

家族が育まれる。彼女の生きる世界への影響がある。

そこに喜びがあり、よき循環があります。

 

 

 

きのう男性から男性への「支援は皆無」というようなことを書いてしまったのだけれど、

・医療、福祉

・カウンセリング、セラピー

・コミュニティづくりを支援する団体

・ホームレス支援

・DV加害者向けプログラム

ピアサポートグループ

・コミュニケーションを学んだり、対話を目的とした場

などは友人たちが挙げてくれたり、わたしも思いついたりしました。

 

ただ、それらの場は女性への支援とはちょっと違っていて、もしかすると、

  • 「困り事が話せる場」と掲げず、趣味やアクティビティで仲を深めることからはじめて、次第に悩みを話しあう関係になる
  • それが「男性」特有の困り事だと明示しない(人間ならあること、会社員ならよくあることだ、的な)

という特徴があるのかもしれない。

 

そういう間口の広いアプローチもある。

行きやすいのはいい。

 

違いといえば、女性による女性のための支援は、困り事を明らかにし、「女性」特有の困り事やしんどさであることを認めるところからはじめているところも多いと感じます。

 

でも数やアプローチのバリエーションやアクセスのしやすさでいえば、男性向けの比ではない。

 

 

わたしは男性の友人の悩みも聴くことがありますが、「男性の友人にこんなこと話したことはない、話せない」ともしばしば聞きます。信頼していて、話はするけれども、気持ちを話したり、本当に困っていることは開示できないと。

 

それは、女性が友だち同士でお茶をしながら、気持ちや悩みをじゃんじゃん話したり、お母さんの支援をしたい!働く女性の役に立ちたい!と明るく話すのとは対照的な世界に見えます。

 

何がストッパーになっているのか、ハードルになっているのかはわからないのですが、女性には話せるが男性には話せないというその枷は、どこから来ているのでしょうか。

 

本当に困窮するところまでいかなくても頼り合える場(関係)がもっと気軽に生まれてほしいし、動きがもっと起こってもいいのにな、と思う。

 

それは場の設えなのか、個人のあり方の問題なのか、両方なのか、、

 

 

女性が女性に対して関心を持つように。

男性が男性に対して関心を持ち、共感や寄り添いを持って支援する。

男性の人生がよりよきものになるように貢献する。

そして「困っていることをどうにかしたい」という場(機会や営み)を男性の手でつくる。

さまざまなテーマでつくる。

 

 

それでしか、「男性」のしんどさや苦しみや自己嫌悪をどうにかすることはできないのではないか、というところに、今わたしは考えがたどり着いたところです。

 

 

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所があると思うんです。

それは「別の性」がお膳立てしてくれて行けるところともまた違う。 

 

 

わたしが女性たちと見てきた景色の美しさや、「同性」だからマジあったかい心のつながりを、男性が当たり前のように持てたらなぁと思うのは、大きなお世話かな。

 

 

 

「男性は共感は要らなくて、論理的な解決方法を最短で知りたい生き物だからしょうがない。そういう脳だから」という言説も見聞きするのだけれど、それはわたしはちょっと疑わしい。

 

 

共感も共有も支援もとても必要としていると感じます。

人はみんな必要としている。

 

 

ただ、もしかしたら、生物学的な脳のつくりや、育ってきた社会環境や、受けてきた教育や、「男性」社会からの圧力による難しさもあるのかもしれなくて、「男性」が自己共感や他者共感でつながる関係をつくっていくには、「女性」よりも意識的な訓練が必要なのかもしれない、ということは考えられます。(もちろん「女性」が全員、自己共感や他者共感にとても優れているということではない)

でも「性別」と共感力がほんとうに関係してるのかは謎。

 

 

なんにせよ、どの場もどの動きも、現象の分析や解説だけして放置したり、自己嫌悪を煽るのではなく、勇気づけるものであってほしいと願う。

 

 

 

実は子どもたちのほうがずっと進んでいるのかもしれない。

男の子だから、女の子だからということに全然とらわれていなくて、共感的で繊細で優しい。そんな子どもたちを受け入れる準備を大人がむしろできていなくて、悪いことには潰しにかかっている。それもどうにかしたい。

 

 

 

今読んでいる本、「虐待・親にもケアを」のあとがきに書いてある文章が、なんとなくこのことと関係があるように思うので、引用します。

 

出会っていくという回復のプロセスの中で、人は自分に正直にならざるを得ません。自分に正直になるとは着込んでいるたくさんの不要な服や鎧を脱ぐことです。そのプロセスには恐れと苦痛が伴いますが、人と人とが優劣で競い合うパワーゲームの中で生きている虚しさに気づかせてくれます。他者との比較、他者への優越感によってしか自分の価値を自覚できない競争社会にあって、では自分ではどう生きたいのかという多くの人が避けている課題に向き合わせてくれます。持ちすぎているものを手放し、着込みすぎている服を脱いで、地に根を張って立つ木のように素足で土を踏みしめれば、自分の存在の輝きが姿を表すという真実に気づかせてくれます。

 

 

 

性別のことについては、まだもやもやしてうまく書けていないと思うし、がさっとしたくくりにどうしてもなってしまう。 もっと丁寧で的確な言葉があると思います。

 

 

しばらくこのテーマで探求の旅を続けます。

 

 



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男性による男性のための支援と場について

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きょうは、この5,6年ほどかかわってきた団体の、NPO法人化をお祝いする会に招待されて行ってきた。そこでは女性たちが当たり前のように「女性のサポートをしたい」との言葉を口にし、海を超えて集いがひらかれ、とてもあたたかな共感と応援と祝福に満ちていた。

 

そこには希望しかなかった。

 

その幸福と同時に、痛烈に無念さと怒りを覚えたのは、一体男性が男性に対して、このようなあたたかな共感や応援や祝福をもって支援するという場や行動が、今の社会にどれだけあるだろうかということだった。

 

社会的起業や場づくりという視点からこの7年、いろいろなものを見てきたつもりだ。でも「当たり前のように」「男性が男性をサポートしたい」と公言した活動や人をわたしは思い当たらない。

 

 

あるのは、励ましたり、焚きつけたり、煽ったり、能力を試したり、恥をかかせたり、教育的指導を施したり、心の弱さにつけこんで日常から引き離すもの。

 

あるいは女性の場に男性が「混ぜてもらう」ようなもの。

 

自然な分かち合いやつながりの中で、男性が男性に対して支援する、したい、というふうにならない、なりにくいのはなぜなんだろうか。

 

 

 

感情を出す=弱い=強い者が支配してよいという合図...という図式でもあるんだろうか。

 

 

自分の息子や周りにいる男の子たち、そして大人になった男の人たちを見ていてつくづく思うのは、「男の子はバカで元気でたくましくて乱暴だから、粗雑に扱ってもOK」とか「自分の気持ちの話を聴いてほしいなんて男らしくない」というようなことがまかり通るような時代ではまったくない。

 

繊細さも強さも、男性にも女性にもある。

 

人として扱う。


つまり人権Human Rightsが、ジェンダー平等Gender Equalityの根底にある。

 

 

このことに強い怒りを感じるのは、わたしの大切な男性の友人知人たちが、人生のどこかの時点で(またはそこから今に至るまで)、人として扱われてこない、男性らしさを強要される苦しさから怒りや不安や怖れを抱き、望まない暴力を自分にも人にも振るい、傷つき傷つける様を見なくてはならない辛さに因る。

 

男性が、男性自身を嫌悪する場面もたくさん見てきた。

それもほんとうに辛く悲しいことだ。

 

 

 

それからもう一つはやはり、女性がその暴力の被害者になり、男性の傷つきのケアをする立場に回らされるという実態がとても多い。多すぎる。もうたくさんだというぐらいに多い。そしてもちろんわたしもその一人だ。

 

このことをどう解決したらいいか、日々奮闘している。個人でできることは小さい。これは、今にはじまったことではないからだ。社会や地域の問題を取り込んだ世代の問題と家系の問題があるから。どうしたらいいかわからない。

 

きょうみたいに女性同士が支援しあっている場にいると、自分は女でよかったと安堵する。ヘルプを出せる、共感を示しあえる、手を差し伸べあえる。これまでたくさんの女性たちと手を取ってやってこれた。

 

安堵してしまう。

 

それは男性でなくてよかったという気持ちがわいているということだ。つまり、同じように男性が困窮したときに、脱落者の烙印も押されず、多くの男性から共感が示され、真に心をひらけ、助け合える男性同士の多様なつながりは、男性にあるんだろうか。公然と大変だ、辛い、悲しい、苦しい、サポートが必要だと言える安心安全な場は?

 

そして、わたしの息子はどうなるんだろうか。

今は繊細で優しい息子も、よき人、よき場に出会えないとき、人生のどこかの段階で、マチスモの刃に倒れてしまうのだろうか。

 

いろいろ思い出して泣けてきたのは、「そのような場や関係があれば、彼は亡くならずに済んだのではないか」、「生い立ちの中で男性らしさを強要されず、繊細さを押し殺す必要もなく、暴力も振るわれずに、人として大切にされて生きてこれていたら、彼(ら)とわたしはもっと幸せな関係があったのではないか」という思いが抑えられないからだ。

悔しい。

 

こういう構造を変えるために、ひとつ作りたいプロダクトがある。

少し前から考えていたものだ。

場ではなくて、物。商品。

それを一緒につくってくれるデザイナーを探す。

 

 

その話も次回のリブトビ逆噴射トークライブでしようと思う。

 

 

集う人と一緒にいる時間をどのように過ごすか

今週土曜日は「また行きたい!と思える場をつくるゼミ」

 

講師のわたしも「ゼミという場」をつくりながら、前々からつくりたかった場の設計をしようと思います。

場が生まれる瞬間に、ぜひ立ち会っていただけたらうれしい。

まだぼんやりしているのですが、場で聴いてもらえると絶対に進むことがわかっているので、今はわくわくした気持ちだけ持って行くことだけ決めています。

皆さんにもそんな感じで来てもらえるとうれしいです。

 

 

 

イベント、ワークショップ、講座、会、プロジェクト、コミュニティ、サークル、チーム、プラットフォーム…「人と集まってすること」なら形態問わずです。

 

わたしで言えば…

読書会、読書会のつくり方講座、百人一首講座、場づくりゼミ、季節のコラージュの会、ポッドキャストちはやふるの映画を観る会、競技かるた練習会、ごはん会、歌会、リブトビ逆噴射トークライブ、本作りプロジェクト、お店、PTA、スタイリングの会、美術鑑賞の会、学びのシェア会、一箱古本市芸工展、読み聞かせ、文楽・能鑑賞ツアー、ファシリテーション勉強会......などがそれにあたります(わたしのはまぁだいぶ偏ってるけど...)。

 

 

 

他にも人によっては…

 

町会・自治会、当事者・家族の会、ピアサポートグループ、教室、習い事、趣味、ファンクラブ、コミュニティカフェ、クラフトの会、ギャラリー運営、医療チーム、スポーツチーム、こども食堂、朗読会、親子カフェ、お話し会、哲学カフェ、ブックトークカフェ……などなど、つくりたい場っていろいろあると思います。

 

 

 

「こんな場があればいいのに」
「場がこんなふうになればいいのに」
という思いは、自分の中にあるだけでは、なかなか状況の変化に結びつきにくいもの。ラッキーな偶然を待つのもよいですが、思いきって自分から動かしてみると人生がすごく楽しくなります。

 

その第一歩が「その話をちゃんと、わかってくれる人と、する」ということ。


なぜあなたはそれをしたいのか。
「わたしが」それを通じて「人と」何を分かち合いたいのか。

その「人」とは誰なのか。
交流やつながりを大切にした場をどう営んでいくのか。

 

関係をつくるのは設え方がとても大きい。

 

どんなテーマで集い、どんな場所で行い、どのような価値を大切にして、どんなつながりの濃度を期待し、どのようなやり方で一人ひとりの体験をよいものにし、関係の安心・安全・健やかさを場がどう表すか・守るか。そして、何をどの順番で、誰がどのような役割を担い、どんなタイミングで、どのように進めるか。どう時間を使うか。

 

集う人と一緒にいる時間をどのように過ごすか、を考えます。

 

 

 

わたしは、場づくりの中でも特に、

人間関係づくりの作法や設え方を扱い、活動しています

その中で、コミュニケーション、リスニング、インタビュー、ファシリテーション、ワークショップデザイン、コミュニティデザイン、ロジスティクスの技術を講座では必要に応じてお伝えしています。

 

そしてわたしがこのゼミが好きなのは、このようなことに真剣に取り組んでいる人の姿が美しいから。自分なりの動機に基づいて、人と大切な何かを分かち合う場をつくろうとすることがアートだからです。

 

 

 

 

ディスカッションを中心にしたゼミで、作法を知り、企画・設計し、ツッコミを入れ、背中を押し合い、現実の状況を変えていきましょう。

 

そろそろ動こうと思っていた方、ご参加お待ちしてます!

ご質問ありましたら、こちらまでお気軽にどうぞ。

 

 

今後の場づくりゼミ:10/13(土)、11/4(日)、11/18(日)

https://bazukuri3.peatix.com/

 

読書会に特化した、「読書会のつくり方講座」も10/21(日)に開講します。

https://dokushokai3.peatix.com/

 

 

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先日のトークライブでちほさんが撮ってくれた写真がとっても好きで、いろんなところで使ってしまう。