ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

或るかるたーの年末年始日記

競技かるたを本格的にはじめたのが2016年6月ごろ。

競技かるたをする人のことを業界では「かるたー」と呼んでいるので、「かるたー歴2年半」ということになる。

 

年末年始はかるたー的に過ごして満足だった。

 

 

 

三重のかるたーさんと練習会。

ひょんなことからtwitterで盛り上がったのがはじまり。6本も取れて満足。ご自宅に泊めてもらって三重のかるた事情などをうかがう。

翌日伊勢神宮に行った。友人知人に情報をたっぷりもらい、冬至のコラージュの会の最中にも「伊勢の記事ありますよ!」と切り抜きをいただいたりしていたのだけれども、年末の参道はさすがに人が多くて、あまり名物も食せなかった。なんとか入れた五十鈴川カフェのコーヒーとチーズケーキは美味しかった。

猿田彦神社内の佐瑠女神社で芸能のお守りをいただく。(かるたは武道で芸能といっていいのかわからんが。。)。

そして伊勢神宮で圧倒されまくる。パワースポットというものがよくわかっていなかったけれども、そういうことか、と身体でわかった。これまでに訪れ、詣った人間のあしあと。行ってよかった。メッカとか、サンティアゴ・デ・コンポステーラに行ってもこんな感じがするんだろうか。

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宇治の平等院

小学3、4年生以来なので、ずいぶんイメージは変わっていた。記憶の中よりずっと小さかった(自分が小さかったんだな)。建てられた当時の再現とか、ここ数十年でテクノロジーと共に研究も深まったんだなぁと時の流れを感じた。長いこと生きているとこういういいことがある。

世界遺産になっていたけれども、周辺は宇治茶のおかげか、昔ながらの店も多くて、いかにも観光地的な派手派手しい店があってもあまり気にならない。ほどよいバランスが保たれていて、人も多すぎなくてよかった。

鳳凰堂の不自然なシンメトリーに西方極楽浄土感があった。楽器を奏でる雲中供養菩薩像を展示したコーナーがすばらしくて、死んだらああやってたくさんの菩薩が、現世では聞いたこともないような、えも言われぬ美しい音楽を奏でながら、阿弥陀如来を筆頭に金色の雲に乗ってお迎えに来てくれるのかと思うと、たいへん楽しみになった。(極楽浄土に行く前提...) 

宇治川のほとりでは、去年「あさきゆめみし」宇治十帖編の読書会をしたことなどが思い出された。堰で水量調整している今でもこれだけ流れが急なので、かの時代の宇治川はさぞかし。

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兵庫のかるた会に出稽古。

かるた会に所属していても、日程が合わないなどで大会に向けての練習が足りないことがある。自分で積極的に出稽古に行ったり、有志の練習会に参加させてもらったり、自分でも練習会を催して機会をつくっていかないと、大人が強くなり、強さを上げていくのは難しい。

出稽古はアウェイで取るということなのでやはり緊張するが、それもわたしにとってはよい挑戦であり鍛錬。スタイルの違う方たちと取れて、ご指導までいただけて、とてもよい練習日になった。ありがたい。

人間、実現したいことがあれば、与えられるのを待つのではなく、いつもの快適な領域から出て、自然と飛び込んでしまっている。それはいつも成してみてからあらためて不思議な気持ちになるし、我ながらすごいなとも思う。そして動きだせば、人が助けてくれる、力を分けてくれるということも、絵空事ではなく実際に起きる。

 

西宮が最寄り駅だったのだが、会場までに見かける看板で、「人形劇のまち」と盛んにいうてるのはなんで?と思ったら、後に文楽になる傀儡子(くぐつ)の源流がここにあったとわかって、興奮した。

卒論が大雑把に言うとこのへん(傀儡子、山窩瞽女とか)のことを扱っていて、大阪にも住んでいたから、何かと近かったのに、ぜんぜん知らなかった。もっと知りたくなる。

ちょうど行きにドナルド・キーンの「古典を楽しむ -私の日本文学」を読んでいて、文楽のことも出てきたのでタイムリーであった。

関心と関心、いろんな線がこのタイミングで!という点で交わるのは、楽しい。歳を重ねるのがますます楽しい。

小さい頃から人形劇が好きで、文楽も好きだし、チェコ人形アニメも好き。アウトサイダー、芸能集団、旅をしながら芸を売る/芸を売りながら旅をする、というようなものになぜか惹かれる。

 

西宮市観光協会のホームページより

[人形操り発祥の地 西宮]
室町時代西宮神社の近辺には傀儡子(くぐつし)と言われる人々が住んでいました。彼らはえびす様が鯛を釣るという素朴で信仰的な内容の人形まわしで国々を回り、えびす様の札を売り福を祈りました。傀儡子たちのこの芸能は「えびすかき」と呼ばれ、庶民文化が発展した時代に、えびす信仰とともに民衆に広く受け入れられました。芸に秀でたものは能を人形に舞わせて人気を博し、西宮の傀儡子が宮中に招かれたという記録が残っています。
江戸時代には、当時流行していた浄瑠璃と人形操りが結びつき、技芸がさらに磨かれて舞台芸術としての人形浄瑠璃が生まれ、後に文楽にも発展しました。
傀儡子たちが厚く信仰した人形操りの祖、百太夫をおまつりする神社が西宮神社の境内にあります。人形浄瑠璃文楽にいたるルーツを持つ西宮は、人形操り発祥の地と言われています。


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名人・クイーン戦を観た

競技かるたを本格的にはじめてから今年で三回目、近江神宮の勧学館で生で観覧する機会を得ている。ありがたいことだ。

2回戦をのぞいてすべての回の観覧席を友だちが当ててくれていたのだけれども、4回戦が終わったあとに、独特の緊張感の中で、トレースを必死にしながら、根を詰めて見ていたので、頭痛と吐き気が出てしまい、5回戦は解説会場に切り替えた。…というぐらいものすごいエネルギーが、会場には渦巻いている。

クイーンは防衛に成功。
名人は4度目の防衛ならず、新名人誕生。

4名とも、あそこに立つためにどれほどの努力をされてきたのだろうと、ただただ、そのことばかりを考えていた。

わたしも同じ道のだいぶ端っこのほうで、わたしなりの動機から同じ競技に取り組んでいるのだよなぁ。

 

一昨年のメモ。

生で見る試合は本当にもう「お願い、誰も息をしないで」の世界。すごく近いのに、そこだけ別世界のような時空が生まれてました。神事のような。美しかった、なんか。それでも自分がやっていることの延長上に(はるか遠くだけど)、この場が存在しているんだなぁってことも強く感じていました。わたしも競技者のはしくれとして、そこでなにが起こってるのか、なんとなくわかるから。その感じはとても幸せでした。全身が、脳みそまで筋肉痛だ。

 

今年は会場で「あら、こんにちは〜」と声かけ合う人が何人もいてうれしかった。同会の高校生に浦安の間で会ったのはびっくり!

 

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こうして振り返ってみると、なにやら時間の重なりを感じる場所や、時空を超えて長大で超越したものに寄ってみていた年末年始だった。

 

 

それにしても。

年末・年始の「あわい」はほんとうに不思議な体感があって、日本に(あるいは日本の中でも特定の地域?)生まれていなかったら、ここまでくっきりと意識することもなかったのだろうと思うととても興味深い。