ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

はじめての一箱古本市

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11月某日、「ろじの一箱古本市」に出店しました。

 

古本市に出るのは初めてでしたが、一緒に出店した友人と、「要らない本を処分するんじゃなくて、好きだけど今はもう手元になくてもよくなった本を、次の人に手渡していく気持ち、小さな場をひらくつもりでやりたいね」と打ち合わせで決めたのはよかったです。

 

50冊ぐらい持っていって40冊ぐらい売れました。もっとかもしれない。ちゃんと数えなかった。はじめてだから値段の感覚がわからず、すごくフレンドリーな価格で売ってたのに、思ったより売上があってびっくりでした。途中でまだまだ時間が残ってるのに、あまりにもスカスカになったので、家に帰って補充するぐらい、たくさんの人が立ち寄ってくれました。

 

わたしは自分の本だけでは足りなかったので、友人に声をかけて、趣旨に合う本を提供してもらったりもしました。その作業もなかなか楽しかった。それにかこつけて久しぶりに会えたり、おうちにお邪魔したりもできて。

 

足を止めて手に取ってくださってる方と、一冊の本にまつわるエピソードを話したり聴いたり。本好きの人は、自分の興味や好奇心にまっすぐな人が多い気がする。お話していて楽しい。どの本もよい方にもらわれていってほんとうによかったです。


息子もレイアウトや呼び込みやお会計をやってくれて、みんなから「こども店長」と呼ばれてかわいがられていました。保育園や学童でごっこ的にはしてたけど、実際の商品を人とやり取りしながら売ったり、計算をしたり、お金をいただく喜びや達成感を感じたりというのは初めてだったので、よい経験になったようです。


たまたま立ち寄ってくださる方と小さな話をしたり、友だちが次々に来てくれたり、ご家族を紹介いただいたり、友だちに友だちを紹介したり、主催者さんや他の出店者さんとお話したり、戦利品があったり、谷中ビールを飲んだり…ほんとうに楽しいばっかり言ってる休日でした。お天気もよく暖かで、安心できる場所で、大好きな人たちとひらく場、満たされる…!

 

古本市業界(?)の方々はtwitterでつながるのが一般的らしく、アカウントの教え合いとかものっすごい久しぶりにやって懐かしかった。


これに味をしめた我々、「また一箱古本市出たいね」となって、次回はゴールデンウィーク不忍ブックストリートを目指す予定。

 

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座禅20分×4本

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9月の話。

 

近所にある知人のお寺で座禅をしてきた。

20分を4本、けっこうガッツリと。

「あれこれ試してきたけどこのやり方が一番よかった」と副住職がおっしゃるように、確かにこのぐらいの量や回数をやってはじめて、何かわかったりみえたりする感じがある。

来てすぐの1本は心も体もざわざわしていて息も速かったのだけど、ひたすら自分の呼吸に意識を合わせていくと、3本目ぐらいでゆったりとしてきて、4本目にはもう琵琶湖にたゆたう水草のように気持ちよかった。終わったあとは、清々して目の曇りが取れたようにものがよく見える。

警策をいただくのもこんなありがたいものだったとは。じんわりとはくるけれど、音の大きさのわりには痛くなく、勇気と集中がぐんと増す。与えるほうもいただくほうも、警策の前と後で低頭して合掌する。つまり、愛と感謝の行為なのだな。

 

以前、別のところで何回か座禅をしたときは20分1本だけで、それはただ落ち着かなく調わない時間として記憶されていたので、ほぼ初心者でも容赦なく4本やってくれるのはありがたかった。


とっつきにくいだろうからとハードルを下げてしまうと、参加者に本当に体験してほしいことが届けられない。思い切ってこちらで閾値を設定するほうが、結果的には参加者の満足度も高くなる。

 

終わってからは、皆さんでお菓子をいただきながら、その日の座禅がどうだったかと、副住職からの問いかけにわたしはこう思う、おおそうなのか、わたしはこうだetc...というフリーディスカッションの時間。

 

この日は「リーダーシップ」がテーマ。

自分で発した言葉を何度も反芻しながらの帰り道。

 

「わたしがいることで、周りの人に役割が生まれてゆくことが大切」

 

 

小平市・平櫛田中美術館への巡礼

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わたしの暮らすまちには彫刻家・平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)の旧邸がある。近隣で「田中邸」と呼ばれるその古民家の存在は、わたしがここに住まいを定めた理由の一つだ(それについて書くと長くなるので、また機をあらためたい)。とはいえはじめは田中のことは何も知らず、田中邸を管理したり、アートイベントを開催している地元NPOのメンバーから教わった。

田中は98歳でこの旧邸から小平市に移り住んだ。107歳で亡くなった後、小平の邸宅は美術館となり、孫の弘子さんが館長を務めている。

わたしにとっては聖地巡礼のような心持ちで、11月のある日、初めてこの美術館を訪れた。台風がくれば吹き飛びそうな旧邸に比べて、あまりに立派な建築に気後れしつつ、これが国立能楽堂の設計者の手によるものと聞いて納得もした。


美術館の棟では、ちょうど11/6まで「岡倉天心平櫛田中」という企画展を開催しており、田中にとっての師・岡倉天心の存在のかけがえのなさや、天心に対する愛を、作品群からひしひしと感じることができた。天心に「諸君は売れるものを作ろうとするが、それではだめです。売れないものをお作りなさい」と説かれ、田中は、「思い返すとわたくしは先生のこの言葉のために彫刻を作ってきたようなものだ」との言葉を残している。

天心から田中への書簡にある宛先の「下谷谷中天王寺」や「下谷区谷中茶屋町九」から、確かに彼の地に田中が生きていた気配が感じられ、胸が熱くなった。

田中作品の魅力はひと言では語り尽くせないが、肩から背中にかけての表情、彫像の存在が生み出す独特の緊張感、あふれる躍動感と生命力にわたしは特に惹かれている。大胆さと繊細さの強弱がうねりとなって空気を震わせ、観る者をその人物の物語の世界に包み込む。しかし圧迫はない、むしろ空間には余白が多く、想像力をたくましくさせて作品と対話することができる。

ここ最近、人でないものに生命を吹き込む際の、作り手の心と行いについてつらつらと考えてきたが、田中の作品を見ていると、作り手自身の「天から愛され与えられた才能」に対する無自覚の謙虚さ、敬虔さ、高い精神性と深い友愛の心があり、その現れとしての創作物があると感じる。(もちろんそのような「崇高なもの」だけが芸術なのではない)

国立劇場のロビーに置かれている「鏡獅子」は20年の歳月をかけて、田中87の歳に完成したのだという。そして100歳になってもなお2メートル近くあるクスノキの原木を購入し、鏡獅子に匹敵する大作を彫ろうとしていたことや、向こう30年の製作に使える量の木材の備蓄があったそうだ。小柄で地味な顔立ちの老人の、いったいどこにそのようなバイタリティがあったのか。まさに豪気としか言いようがない。

反面、孫の弘子さんにとっては、雨の日に学校に傘をさして迎えに来てくれる優しい祖父でもあった。田中一家にとって、小平もまた大切な土地であることや、二人の子を成人前に亡くす、作品が売れず食うにも困るなどの不遇の時代をくぐり抜けたこと、最後は緑あふれる庭に包まれた心穏やかな日々であったことなどに、しばし思いを馳せた。


田中の作品はこの小平市平櫛田中彫刻美術館のほか、教鞭をとっていた東京藝術大学の美術館、出身地である岡山県井原市田中美術館に所蔵されている。

また小平市の美術館収蔵作品の一部を音声ガイド付きでネット上で鑑賞できたり、漫画「平櫛田中彫刻記」などで田中の生涯を追うこともできる。

 

 

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▲旧平櫛田中邸。普段は閉鎖されており、月1度程度、イベントの際に開放される。

「こころのこえをきいてみる時間」をひらきました

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こちらで告知だけしておいて、どんな場だったかのご報告をしていませんでした。
いまさらですが綴っておきます。

 

11/12「こころのこえをきいてみる時間」@こころのこえをきかせ展 にて、

男鹿半島の夏を切り取った、True North, Akitaシリーズの最新作の上映と、写真の展示会で、映像を観て感想を聴き合う場をファシリテートさせていただきました。

 

映像を観たあとに心に浮かんだ風景や思いを言葉にしたり、他者の物語を聴く時間をもちます。語る人は、ただ自分の中から出てくるままに、些細な話やまとまらない話を声にしてみましょう。聴く人は、さえぎることなく、聞こえてくる音に静かに耳を澄まします。日常に戻る前の余韻のときを、皆さんで味わえたらと思います。

 

どんな言葉も、どんなその人も聴く、という気持ちでいたら、実はわたしが一番感情的で、涙があふれてしまいました。観るのは4回目なのに、こうも毎回涙が出るという…。それもひとつの表現ということで、まぁよしとしたいと思います(というか、もうどうしようもない...)。

 

場は、すうっとはじまり、またすうっとおわっていきました。
ひたひたと生まれ、何かが咲き実り、そしてはらはらと散っていく。
美しかった。


一人のこえをただ聴く行為は、その人の話の内容を理解しようとすることではなくて、その人のこれまでの生の時間を思うこと、その人が今生きて、そこにいると感じることなのかなと思いました。こえを聴かせてくださってありがたいなぁという気持ちにいっぱいになりました。


映像自体は17分の短いものですが、わたしは長編映画一本観たぐらいのたくさんの何かがつまっていると感じました。観る前と観た後では、自分の立っている場所は座標がちょっとだけ動いているんじゃないかとさえ。その感じを存分に味わえるように、日常にいきなり帰るのではなく、場を通過してからゆっくりと戻っていってもらいたい。そんなことも意図しました。

 

今回のTrue North, Akita#3は、今のところネット上に公開しない形をとっています。ワンクリックでは伝わらないことを大切にして、別の方法でゆっくりと、しかし確実に伝わっていくことや、人々の記憶に断片として残っていくようにとの思いから。


会期中は、スタッフがお客さん同士を紹介しなくても、その場に居合わせた方同士で自然と会話が生まれる。思わず感想を話しかけても、オカシイとかヘンだとか思われない、思わない雰囲気が、この時間と空間にはありました。

 

わたし個人的には、True North, Akita#1 がリリースされてから念願だった、映像集団augment5さんとの場づくりという夢が叶いました。

 

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「こころのこえをきかせ展」(会期は終了しています)
http://true-north.jp/

True North, Akita #1, #2 はこちらで視聴できます
http://true-north.jp/about 

 

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リー・ミンウェイとその関係展を思い出す

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Facebookは検索性が低いかわりに(?)「過去のこの日」の投稿を出す機能を設置している。Facebook的には単により多くのユーザをアクティベートさせたいだけだと思うけど、忘れていたことが思い出されたり、今はちょっと違うふうに感じているなぁとか、時の流れが感じられておもしろい。

 

2014年の12月13日は、3回目の「リー・ミンウェイとその関係展」に行ったらしい。本当に好きだったし、わたしの思想や行動にかなりの影響を与えた展覧会だった。アート好きな友人たちがなぜかスルーを決め込んでいたので、絶対行ったほうがいい!とやたら熱く語ったっけ。

 

個人的には人生でも指折りのハードでタフな時期だったから、目にうつるすべてのものに微かにでも希望を見出して、お守りにしようとしていたのかもしれない。

 

そのときの投稿をこちらにも置く。

 

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関係性やつながりをさまざまな手段で可視化する試みは、「意識にのぼらせることによって、Lifeにおけるあらゆる行動や活動はArtと呼べる」ことを教えてくれる。

 

わたしとわたし自身、わたしを取り巻く人、わたしと世界とのつながりに思いを馳せるのも特別なひとときなのだけど、中でも見知らぬ人にお花をギフトとして渡す"The Moving Garden"の体験が何より大きかった。見知らぬ人とのあいだに、いきなり生まれる関係性。一瞬の出来事なのだけど、体験として残るものは深くて大きい。お花を渡した人にも、きっともらった人にも。

リー・ミンウェイって人は、なんて素敵なことを考えるんだろう!

 

わたしは、あの、見知らぬ人にお花を渡したときのような心持ちで生きていきたい。
無防備に、おずおずと、でも人とつながりを持ちたいという温かい望みを確かにもって。

 

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ムラのミライからはじまる本

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11月のはじめ、風邪を引いて一日家に閉じこもっていたときについつい買ってしまった本たち。
13時にポチして19時にはもう届くAmazon
ありがたいけど、誰か搾取されてやしないだろうかと心配になる。

 

 

「ムラの未来、ヒトの未来」はこちらで書いた「対話型ファシリテーションの手ほどき」の中田豊一さんが共著。

そういえば中田さんから、「一時期にあの本が一気に数十冊出たので、何事かと担当者が首をかしげていました」とお返事をいただいた。やはり事務局をお騒がせしていたらしい。

きのう会った方も「実は僕も買ってたんですよ」と言ってたので、わたしの知らないところでも、本当にたくさんの方が買ってくださっていたみたい。
なんというか、ありがとうございます。わたしもこの本をたくさんの方が手にとってくださることをとてもうれしく思います。

ムラの未来さんのファシリテーション講座にも、来年はタイミングが合いますように。


「看護管理」のほうは、その「対話型ファシリテーションの手ほどき」勉強会の参加者さんが教えてくれたもの。中野民夫さんのお名前も見える。

 

 

どんどん積ん読本になってしまって、読めていない本がたくさん。

「プリズン・ブック・クラブ--コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」、元かるたクイーン・楠木早紀さんの「瞬間の記憶力」、「外来種は本当に悪者か」etc...。

まともに本を読めない期間が続くのは、誠に遺憾である。

年末年始に山に籠ってまとめて読む。

 

 

「対話型ファシリテーションの手ほどき」自主勉強会/読書会をひらきました

 

 

9月と10月に「対話型ファシリテーションの手ほどき」という書籍をつかった勉強会的な読書会/読書会的な勉強会をひらいた。

 

この本は国際協力や国内外の地域づくりの分野で活動する、認定NPOムラのミライ代表理事・中田豊一さんの著作で、現場での試行錯誤の末に編み出されたファシリテーション(コミュニケーション)の手法・技術について書かれている。支援の現場で何に行き詰まり、それをどんな具体的なやり方で解消し、結局なにが課題だったのかを、そのときの会話の再現と共にわかりやすく、体型立てて説明してくれている。この手法を身に付けるためのワークも紹介されており、2、3人いればちょっとした練習をすることもできる。

 

わたしがこの本を知ったのは、心理カウンセラーの友人がおすすめしていたから。「ファシリテーションを学ぶのによい本をおすすめしてくださいと言われるとき、わたしはこれを挙げています」ということだった。

http://amzn.asia/d/11J7QvV


 

 

表紙に

「なぜ?」と聞かない質問術

「どうでした?」ではどうにもならない

と書いてあり、このフレーズがとても気になってすぐに注文した。

 

なぜ気になったかというと。


ある日小学生の息子が、「大人はどうしてすぐ"学校は好き?"って聞くの?好きかって聞かれたらそれ以外に言えない」というようなことを言っていて、わたしも確かにそれは嫌だなと思った、というようなことをFacebookに投稿したら、コメントが20ぐらいついて、ちょっとしたディスカッションの場になった。

 

その中で、「じゃあ、これからは"きょう学校どうだった?"って聞くようにします」というコメントが2、3あって、「なんだかそれも違うような気がするんです」とコメントをしてそのときは終わった。

 

けれどもその問いはわたしの中にずっと残っていて、その3ヶ月後にこの本の紹介を見て、この2つのフレーズ(「なぜ?」と聞かない質問術、「どうでした?」ではどうにもならない)を目にして、「もしかしてあのときのもやもやの答えがわかるかも?」とつながった。

 

実際に届いてみて読みはじめたら、今までになかったファシリテーションの切り口にすっかり夢中になってしまった。

 

そして「きょう学校どうだった?」ではダメな理由もハッキリとわかったので、「いつぞやの答えがこの本でわかった!」と興奮気味にまたFacebook投稿したら、今度はこの本を買う人が続出して、コメントやメッセージをくれた人だけで30人もいるというフィーバーぶりに。

 

そこで、「こんなにたくさんの人が同じ本を買っているなら、読書会ができるんじゃないのか?」と思い、投げかけてみたら、ぜひやってほしいという人が10人はいたので、場として設定することにしたのだった。これがひらくまでの経緯。

 

共同主催者も手を上げてくれ、2人で場を設計することになった。ファシリテーションをテーマに場をひらくのは実に3年ぶりで、正直なところファシリテーションのついての場をファシリテートするなんて考えたくもなかったぐらい、トラウマがあった。

 

わたしはかつて人にファシリテーションを教えるなどという仕事をしていた。

あんな無知で実践経験もろくになく、対人関係にも課題があったわたしが、人様にファシリテーションについて講義するなんて、今思うと全く恐ろしい話で…本当に今も冷や汗が出ている。

 

が、いざ流れを考えて詰めていくと、学びの場を組み立てていくその作業はなかなか楽しかった。「自分が参加したい場のイメージをただ形にしていけばいいんだ!」ということに、頭と手を動かしながら気がついた。

 

仲間内の気楽な勉強会、読書会とはいっても、いつもの小説の感想を自由に話している読書会とはまったく違う、場に来る全員が、「ここから何かを学びとりたい、疑問を解きたい」という気持ちをもっているわけだから、その全体のニーズを満たすためには、やはり設計図がないとうまくいかないだろうということで一致した。

 

とはいえ、2人のキャラクターや場の作り方が全然違うので、構成的にするか、非構成的にするかで若干意見の食い違いもあったりしたが、結局2人でつくって1回ずつファシリテートしてみることで解決した。

 

1回目にやってみて、わたしはベースの構成は決めておいて、当日は非構成的に進行したいタイプなのかもしれないという発見があった。

 

このメソッド自体は、「なぜ」「どうでした」を聴かない、いつ、どこ、だれ、なに、いくら、何人、何年、何回…等の事実を聴くのが基本。

シンプルだが非常にパワフルでであることを、本に載っていた3つのワークを実際にやって、ふりかえりをすることで実感することができた。やはり他者と共に体験し、ふりかえることは大きな学びになる。自分とは違う感想、感触、疑問を口にしてくれる他者の存在はありがたい。

 

さらにこの勉強会が終わったあとの日常での気づきも大きかった。

 

事実を聞いていくことで見えてくるのは、自分の浅ましさだったりする。

いかに
自分の描くストーリーに相手を乗せて運ぼうとしているか、
自分の設定した落としどころへ向かわせようとしているか、
自分が安心したいだけで聞いているか、
相手の進みたい方向ではなく、自分の興味、好奇心にのみ付き合わせているか、
相手の楽しそうな「様子」を見て、自分が満足したいか。

人も自分も、非難し追い詰める傾向にあるかも見えてくる。
よく、
いつも、
みんな、
全体的に、
絶対…

質問の言葉は、暴力になり得る。

 

「なぜ」「どう」が効くときもある。
でも、もう少し丁寧に分解すれば、もしかすると「なぜ」の中に、「何がほしくて」「何に対して」などが入っているかもしれない。

 

他の言葉で表現できるのに探索の手間を省いているということがある。
そして、その探索を相手にやらせている。

 

事実質問は、その点、脳が楽。
考えなくてよくて、思い出せばいい。
それでいて、今の、目の前の相手に近づいていけている感じがする。

 

尋問しているような、不躾な気がして戸惑う気持ちがあった、という声も出た。
質問されたほうに聞いてみると嫌な気持ちはしなかった、むしろ聞いてもらえてありがたかったというフィードバック。だから尋問とか不躾になるかどうかは、相手と自分との間の事実質問の言葉以外の、別の要素なのかもしれない。

 

今よりもっと熱心にファシリテーションの勉強をしていたときに、オープン・クエスチョンとクローズド・クエスチョンを使い分けるということを知り、それでも現場ではなにかとオープンクエスチョンが重宝されていたようなイメージがあり、わたし自身も偉そうに多用していたのだが、それは大きな間違いだったということにも気づいた。

 

なぜ場が意図と違い、漠として広がりすぎてしまうのかと言えば、事実質問が足りないという、ただそれだけだったのかもしれないのに、参加者のせいにする自分がいたのだった。当時の参加者さんに土下座して謝って回りたい気持ちになった。

 

相手に探索を促したいときでも、果たして目の前のその人にこの質問でよいのかという自問を経て行いたい。援助や支援を普段仕事で行っている人は、この点に注意が必要だという声も出た。相手を必要以上に揺さぶったり、疲れさせていないか、力を奪っていないか。

 

ファシリテーションとはなんなのか、未だにわたしもわからない。
このメソッドがファシリテーションなのかどうかもよくわからない。

 

けれど今回の勉強会がよかったのは、場をファシリテートするわたし自身があまりわかっていないということだった。教え授けることが目的ではなく、みんなで探求したかった。だからわかっている人が進行することで、場で生まれる学びを妨げる結果にならなくてよかったと思う。極端に構成的になりすぎることもなかった。

これは2人で場をつくったことも理由として大きかったと思う。

 

このメソッドは、他のファシリテーションの手法と対立しない。もし対立するとすれば、メソッドの利用自体に権力的な制限がかかっているはずだ。結局は話を聴く、話をする目の前の相手とどういう関係をつくりたいかだと思うから。

 

このメソッドをいつどの場面で誰を相手に使うのかや、これまで培ってきたメソッドやスキル、もともとのパーソナリティやキャラクターとどう組み合わせるのかは、使う人次第。その無限の可能性にわくわくする。勉強会に参加した人や、わたしの投稿を読んで本を買ってくれた人に会うと、その後の話を聞かせてもらうことが度々あり、そのドラマに心が揺さぶられる。中でも離婚一歩手前だった夫婦関係が改善するまでの話には、聴いていて涙があふれた。

 

後日、著者の中田さん本人にメールでご報告したところ、「国際協力や支援といった特定のシーンから生まれた手法であるが、日常で親子関係、夫婦関係に生かされているのは本当にうれしい」というようなお返事をいただいた。本の書きぶりと同じ、温かい人柄が感じられる文章に、一度お会いしてお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいになった。

 

「こういうシーンで使いたい」という動機はとてもよいきっかけなのだけど、特定のシーンだけでいきなり話がきけるようにはならないので、誰に対しても、そして会って話す以外にも実践し、瞬間瞬間の自分を内省していくしかないのだなと思う。

 

人と人との間に起こることは、果てしないけど、取り組みがいがある。

 

 

※この本をつかった有料の読書会や勉強会等を開催する場合は、事前にムラのミライ事務局へ連絡が必要です。

 

 

コファシリしてくれたまぁちゃんのブログ

http://www.uedamasatoshi.com/?p=4228

 

 

 

 

パシャパシャ散歩の集い、ひらきました

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Facebookに書いたものの中から残しておきたいことを選んで加筆修正していく作業を、年末はちょいちょいやろうと思います。この投稿もそのひとつ。

 

11月下旬に、友人のたいこさんと、上野公園で「パシャパシャ散歩の集い」をひらきました。

 わたしのなじみの場所にみんなを案内し、写真をパシャパシャ撮る。でも「会」というほどかっちりしていなくて、守られてるけど自由だから「集い」とたいこさんがネーミングしてくれました。

 

初冬まではまだいっていなくて、晩秋の気配のする上野公園の一角で、こどももおとなもタブレットスマホで、「お!」と思うものを写真に撮ってみる。遊びつつ移動して、国際子ども図書館の中庭で写真の見せあいっこしたり、お昼を食べて。最後に図書室で読み聞かせをしました。

 

こどもの撮るものっておもしろいなぁと常々思ってたけど、こうして場としていろんな子の撮る姿や作品を見られるのはもっと楽しかった。5歳のこどもから見える世界は大きくて広くて、地面は近くて葉っぱが大きい。たいこさんが、「5歳にもなると気になったものを撮る=世界を切り取る意思みたいなものがあるよね」と言っていて、そうだった、その境目みたいなのってどこにあったんだろう。わたしは見逃してきたのかな。

 

参加してくれた友だちが、「"こどもはそのときにやりたいと思ったことをやる生き物である”ということを前提に、こどもたちの反応を大事にして進められていったのが心地よかった」といってくれてよかった。

 

子連れイベントって、「こどもをこのイベントにちゃんと参加させて充実した時間を過ごさせなければ」みたいなプレッシャーを勝手に感じてしんどくなるのだけど、そういう必要がなかったとも。

 

子どもたちの楽しみを尊重した自由な時間でもあり。かといって、おとながこどもの付き添いで来たかんじにもならず、すごくよかったな。

 

こどもたちは写真を撮ったらすぐ見てもらいたくて、丁寧に見れば見るほどうれしそうだったけど、見せ合って楽しんでいたのは専ら大人だったかもね。でも別に失敗ってわけでもないし、そうか、そういうものなんだなというのもわかった感じ。わたしの好きな上野公園をみんなに案内できたのもとてもうれしかった。

 

「パシャパシャ散歩の集い」を別のところでやるとか、こどももおとなも楽しい場、またやりたいな。

 

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寺のあるまち

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まちを歩いていて、サッとお寺に入って手を合わせることができるのは、ほんとうにありがたい。

ここは寺町なので、とにかくちょっと歩くと寺、また寺、また寺...という感じ。
駅に向かう道すがら数えてみたら10もあった。まち全体では80ほどの寺があるそう。

そのどれもが手入れが行き届いていて、植栽も四季折々に工夫されていて、心が洗われる。

 

あーもうダメかもというときも、がんばりたいんですというときも、あの人をお守りくださいというときも、祈ることができるだけでホウッと落ち着く。

 

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"Merry Christmas Mr. Lawrence"のスイッチ

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学童に息子を迎えに行ったら、ピアノで"Merry Christmas Mr. Lawrence"を弾いてる子がいて、思わずウッ(泣)となってしまった。

あの曲はなんなんだろう。脳にものすごく刷り込まれていて、あのコードを聞くと暴発する感じがある。何かしかけがあるんだろうか。それとも歳を重ねると何を見ても何かを思い出すからなのだろうか。

この曲ですぐに思ったのは、ああ、デビッド・ボウイは亡くなってしまったのだなぁということと、中学生のときに坂本龍一のアルバムを買って繰り返し聴いたことと、友人と2年ほどやっていたFilm Picnic。

Film Picnicは、友人の家でみんなで映画を観て、そのあとにピクニックみたいに床に座っておやつとお茶をいただきながら、感想をあーだこーだと自由に話す集い。根底にはArt in Me(自分の中のアートを感じる、そこから言葉を出してゆく)テーマをもっていた。毎回毎回タイトルを選ぶのが楽しかった。映画はアップのカットが多くて、一人一人の眼差しが印象的。帰り道は何度も鼻歌を歌って帰ったのを思い出す。

定期的な約束はせず、思い立ったときに場をひらく気楽なスタイルで。今年は「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」で一度ひらいて以来、今はお互い忙しくてお休み中。

暴力の現場で自分になにができたか

場づくりとかアートとはなんの関係もない話だけど、この投稿を書いてから半年間寝かせてみて、やっぱり今これは出したいと思ったので、公開記事にした。

 

3,4年前に、公共の場で、パートナーと思われる女性から男性への暴力を目撃した。

先日ふとそのことを思い出し、そういえば男性のためのDVシェルターや支援団体ってあるんだろうかと思い、ググってみた。

 

が、期待していたような情報は出てこなかった。こういう支援につながる情報は1ページ目でバシッと出てほしいのに。簡単な検索だけで引っかかった情報は数カ所。でも機能しているかもわからないし、だいたい東京からだと遠すぎる場所だった。

 

東京都のDV相談窓口になっている東京ウィメンズプラザに電話して聞いてみたら、「男性のシェルターや支援はまとまってはないのが現状ですが、ご相談いただければケースバイケースで対応します」とのことだった。曜日限定で「男性のための悩み相談」という窓口があり、被害、加害にかかわらず相談できるようになっている。緊急の方は曜日にかかわらず代表電話にかけても大丈夫だし、もっと緊急の場合はすぐ警察110番へ、とのことだった。

東京ウィメンズプラザの連絡先はこちら⬇︎

配偶者暴力(DV)被害者ネット支援室

 

わたしが目撃したDV現場では女性が男性に対して、聞くに堪えないありとあらゆる罵詈雑言を投げつけていた。「お前みたいなクズでバカはみたことがない」「お前なんか生きている価値はない」「あんたのマヌケ面見てると腹が立ってくる」等々...。

 

男性はひたすら我慢しているようにも見えたし、何も感じていないようにも見えた。でもそのような言葉は、日常的に浴びせられているという感じがした。傍目には家族3人がハンバーガーを食べているのだけど、その向こうに見えるのは、男性を天井から吊ってサンドバックにして、女性がボッコボコに殴っている姿と、それを穴の空いたような目で表情もなく見ている子どもの姿だった。

 

普通じゃないという感じがしたし、子どもへの深刻な影響も想像できた。けれども、そのときわたしは女性が怖すぎて何もできなくて立ち去ってしまった。通報しなければ、と思った。でも一体どこに??暴力をふるわれているのが子どもなら迷わず警察または児童相談所。でも、男の人が被害者の場合は?店に?

当時のわたしには知識がなかったし、それ以前に意気地もなかった。

 

男性と子どもは、女性が作り出した透明な膜に飲み込まれているように見えた。その膜に包まれると、外にいても外界との接続が遮断されてしまう。そんな感じを受けた。

 

DVは密室で行われる。それは物理的にドアを閉めた向こう側で行なわれているという意味でもあるけど、そもそも関係性が密室だから、場所がどこであれ展開されうるんだということをあらためて思った。それが傍目にはわかりにくかったり、気づいても手を出しづらい状況。まして男性なら、女性よりも強いジェンダーバイアスが、本人の中にも社会にもあるのではないかと想像する

 

何度思い出してみても、あのときのあの男性に何ができるわけではないけれども。

ここに綴って、今の気持ちを置いておく。

 

ばななさんに会う〜作家はどうやって小説を書くのか

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 吉本ばななさんに会った。

 

会ったといっても、177人も参加者のいる講座の会場だけれど。

でも早く来て並んでいた友人のおかげで、壇上のばななさんのほとんど真ん前の席を陣取ることができ、わたしに話してくれてるんじゃないかというぐらいの近さだったので、会ったといってもいいことにする。

 

ばななさんの熱烈なファンとは決して言えないけれど、何年かの周期でばななさんの小説に救われることがある。

ああもうだめだ、というようなときに、図書館の913.6「よ」の棚へ行き、10冊ぐらいまとめて借りてきて、読み終わったらまた10冊借りて、とにかくくる日もくる日もばななさんの本を読む。多作な方なので尽きない。けれどそのうちある日ぱたっと、「あ、もう大丈夫」という感じになり、それ以降また読まなくなる、という感じ。

楽しみのためというより、お薬のように、加持祈祷のように、ばななさんの本を読んできたような気がする。

実際話の中にはオカルト的なものも多いし。

 

けれど本人は全然オカルトではなくて、呼び寄せそうな感じもなくて、なんだかとても健やかで、にこにこしていて、ふなっしーのスケジュール帳をもっていてかわいかった。

 

5歳から書きはじめたときコナン・ドイルがお手本だったとか、オチがない話はゆるされない地域に住んでたからオチがない話は書けないとか、30年間一度も〆切を過ぎたことはないとか、午前中に書くことが多いのは朝だと余計なことを考えないからだとか、書き終えるときは小説の方から「もう終わって!」って言われるから「え、もう?」って若干落ち込んだ雰囲気になるとか、日本では有名=金持ちと思われるのはなぜかとか……、そんな話を編集者の根本さんと対談形式で話してくれた。

 

根本さんから飛び出す作家との攻防の話も、おもしろかった。ライブじゃないと聞けない話って感じだった。

 

質疑応答の時間には、「根本さんに会いたくて来ました、"キッチン"は今朝はじめて読んだ」といってるおっちゃんがいてびっくりした。ばななさんに会いにきたわけじゃないんだ…。

 

最後の、50代のばななさんの決意は、力がこもっててカッコよかった。ばななさんのことが大好きなお友だちのえりこさんと行けたのもよかった。

ラジオはじめました

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ラジオをはじめました。ふくだけいさんと、
世の中のよしなしごとを気ままにことほぎます。

 

*Blogから(右上におたよりフォームあります)
http://doremium.seesaa.net/article/444539248.html


Podcastから
https://itunes.apple.com/jp/podcast/kotohogirajio/id1182629548?mt=2



何年も何十年も、人間や自然が生み出すたくさんの表現を吸収しながら、
自分の表現も模索してきていて、
文章を書いたり、
演じたり、
外国語を学んだり、

映画を撮ったり、
場をつくったり、
かるたをしたり、
Zineをつくったり、
歌ったり、
踊ったり、
短歌をつくったり、

あれやこれやしてきたように、またひとつあたらしいことを試してみています。
試してはいるけれど、「仮」ではなく、これひとつの作品也。

 

「ラジオはじめたよー」とお知らせした友人から、

 

アレハンドロ・ホドロフスキー監督の話を引き合いに、祝福と応援をしてくれた。

 

ホドロフスキーは映画も撮るし、絵も描くし、詩も書くし、タロットもやる、心理療法もやる人だ。あなたは何者かとインタビューでよくきかれる。

ホドロフスキーはそれに答えて、「昔は電話は電話、ラジオはラジオ、カメラはカメラだったけど、スマホはすべての機能がある。私も私の機能を使っている」

つまり、「自分は何者か、アレハンドロ・ホドロフスキーである」と。

 

そしてわたしたちもまた、それぞれが自分を十全に機能させ、つかい、この世に存在したい、そういう存在でありたいね、と。

 

うれしかった。

このラジオの配信者は「ことほぎ研究室」なんですが、この友人もまた研究仲間であろうなーとこっそり思っています。

 

こんなことでもいいし、こんなことでなくてもいいし、
おたより募集しております。

よかったら聴いてみてください。

 

*集いのお知らせ* ブックトークカフェ12月(武蔵小杉の読書会)

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2016/12/17(土)14:00- テーマ:「2016年をふりかえる本」

武蔵小杉で月に一度ひらいている読書会で、企画とファシリを務めています。

今年最後のブックトークカフェは、本を肴に2016年をふりかえりましょう。
みんなどんな一年だったんだろうか。

武蔵小杉周辺・沿線の方、お待ちしてます。

 

お申し込み・詳細>>

everevo.com

12月の読み聞かせ

久しぶりのブログ更新です。

 

今年の4月から息子の通う学校で読み聞かせのボランティアをしている。きょうは3回目の当番の日だった。毎回、こどもたちとの本を通じた貴重な20分の出会いをいただいている。

学校は、さまざまな背景や事情をもったこどもたちが集まる場でもあるので、普段よりもさらに心を澄まして本を選ぶ必要があると思っている。

12月なので、クリスマスやサンタクロースの絵本なども考えたけど、宗教上、経済的な理由、あるいは家庭の方針などで、クリスマスを祝わない家庭やサンタクロースが来ない家庭もあると想像する。それに、我が家はクリスマスの飾り付けっぽいことをしたり、サンタさんが来たりするが、学校での読み聞かせでは、「12月といえばクリスマス!サンタさんのプレゼント!」という価値観一色にこどもたちを染めるのは嫌だなという気持ちもあって、その題材は避け、結局この2冊に決めた。

 

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「ゆきのひ」は、友人がおすすめしていたもので、一人の子どもが、自分と自分を取り巻く世界のかかわりを、雪という自然の現象を通して様々に見出していくのが印象的だ。余韻を残す終わり方。とても美しい本。終わってすぐ「ああ、東京でもこんなにたくさん雪が積もったらいいのになぁ!」と声をあげた子がいた。
そうだねぇ。あこがれちゃうよね。

 

「フレデリック」は、ちょうど「スイミー」を読んだところでレオ=レオニはみんなのおなじみ、翻訳の谷川俊太郎もみんな詩をたくさん知っている、ということで選んだ。長い冬に備えて食料をせっせと集めはたらくねずみたちの中で、フレデリックだけが同じようにはたらかない。でもフレデリックは彼にしかできないやり方で冬を過ごす備えをしていた、さてそれは...?。説教くさいかもしれない。けれど、こういう価値観もあるよという、「アリとキリギリス」に対抗する気持ちも込めて。

 


今年4月に読み聞かせボランティアをはじめたときに、運営スタッフの方がしてくださった研修がとてもよかったので、わたしはなるべくその伝統を守っていきたいなと思っている。


例えば、読み聞かせでは地味な服を着ると教わった。黒、紺、茶、灰、白などで柄のないもの、アクセサリーやメイクは最小限にする。それはこどもたちが絵本・本に視線を集中し、お話の世界に入り込めるようにするため。読んでいる人はこどもとお話の世界の橋渡し役であって、読み聞かせはその人のショウではない。もちろんそこまでストイックにならなくても場自体は成り立つ。けれど、「何のための読み聞かせか?」を読み聞かせをする人がもつことは大切だと思う。


わたしは読み聞かせを通じて、この世は生きるに価するところだと感じとってもらえたらうれしいし、本の世界で育んだものが生きる力の源になり、長年にわたりこどもたちの芯を温めてくれることをいつも願っている。


ショウをしたい気持ちも否定しないけど、それはそれで別に場を自力でこしらえるほうがいいんじゃないかと思う。学校の読み聞かせの枠を使ってしまうと、こどもたちは選べない。必ずそこに座って聞かなければいけない。そこが一番の問題。


それから、わたしは読み聞かせでは「ウケる」のを目指さない。こどもたちの心に過度に衝撃を与える本は、興奮であれ恐怖であれ、避けたい。あくまでも本の世界の中で完結でき、日常にひきずり持ち帰らなくていいものを。絵本の世界から希望をもって日常に帰ってこられるような読み聞かせをしたい。その子のやわらかい心を傷つけない物語を。


特に「生きていくのに役に立つから」「知っておくべきことだから」という「道徳的」観点からのよかれと思う気持ちからの選書は、けっこう危険だと思う(発達・成長段階によってもその受け取り方も違うし)。そういう呪いに、いかにわたしたち自身が苦しめられ続けてきたか、そしてこれからの道徳の教科化によって、いかにそこが強化されようとしているか。(もちろん「フレデリック」だって、ひとつの価値観の押し付けかもしれないけれども。)先日知った「にんげんごみばこ」という絵本は、そうした発想が元になっていて、本当に恐ろしいと思った。こういう絵本をなんのために描き、出版したのか、そして支持しているのか、ほんとうにわからなくてしばらく辛かった。

 

そんな折、3年ほど前にインタビューをさせていただいたことのある、子どもの本の翻訳家で、高円寺で家庭文庫を主宰されている小宮由さんの講演会に行った。その中で小宮さんは、「絵本を通じてこどもたちに幸せを伝えたい。しっかりとした幸せの理想像を絵本で見せていきたい」とおっしゃっていた。そして「不幸を伝えることで幸せをわからせる反面教師的なものである必要はない」とも。それを聞いて、少し生傷がかさぶたになるぐらいまでは癒えたし、わたしも含め、こどもと接する人(大人全員だけど)は、もっと心をつかって生きていこうよ、と思った。


小宮さん夫妻が運営する「このあの文庫」は、こどもへの敬意と愛情に満ち溢れていた。わたしが今でも印象に残っているのが、文庫の本棚や、本の並べ方や、本自体が美しいということ。破れも汚れもなく、埃ひとつついていない本が整然と並んでいた。こどもがたくさん来るから、ぐちゃぐちゃでも、本がぼろぼろでも仕方ないよね、という妥協は一切ない。こどもに手渡す本は、物としても美しく、丁寧に扱われている必要があるのだと感じた。自然な流れで今の自分にぴったりの本を、こども自身の力で見つけていくことができるような書棚の構成にもなっている。小宮さんはこどもに媚を売ることもないが、指導的でもない。でも確かにこどもたちを支え導いている。

書いていたら、このあの文庫にまた遊びに行きたくなった。