久しぶりに「場」の勉強に行ってきました。
リフレクティング。家族療法の一種、対話の手法、コミュニケーション・モデル。
主催していたのは、NPO法人マザーハウス。犯罪からの回復とグループセラピーを行う団体です。https://motherhouse-jp.org/
講師は矢原隆行さん。リフレクティングの研究者であり、リフレクティングが実践されている刑務所への視察や、実践してきた方々との交流もされています。
募集の文章はこんな感じでした。
単に矢原さんがずっと話しているだけの講演のようなものではなく、マザーハウスの岩崎さんやスタッフさんや協力者や参加者がみんなでつくる講座であり勉強会でありイベントでありワークショップであり、もっとシンプルに「集い」という趣のあるあたたかな場でした。
とにかく時間がゆっくりとすすむ。
友人も参加しているからとはいえ、はじめて参加してこんなにしっくりくる場は久しぶりでした。
急がず、焦らず。自然のコールにしたがって。一切の無理がない。
配慮されていてうれしく、心地良かった。
場をつくるということに真摯である人と一緒にいる、
真摯につくっている人の場にいると息がしやすい。
来てよかった!と何度も思った。
この体感を忘れないようにしようと思います。だから書いておく!
まとまらないからいつものようにメモを並べる。場で見聞きしたこととわたしの感想が混じっています。すみません。うまく分けられなかった。
・話せる場。正直になれるところ、裁かれないところ
・一人ひとりに語りかけられているか、たくさんいても一人ひとり
・生き生きとした場であるために場←→間、互いに生み出しあっている
・藤岡淳子さんのグッドライフモデル。性犯罪者の回復ワーク
・回復。人間は生きている限り必ず回復する
・観察を観察する
・「あれかこれか」から「あれもこれも」へ。(「それをやめてこれをしろ」から「今までやってきたことに加えてこれもやってみたら」へ)
・話し合いのプロセスの新しい共有の仕方
・目の前にその人たちがいたらしないような失礼な話を、専門家同士では平気でしている。それを見られているところで配慮をもってしてみるとどうなるか
・舞台を鑑賞する
・みるーみられるの逆転。演者と鑑賞者の入れ替わり、行き来
・コミュニケーションとは情報を渡す行為ではない
・How you are、一人ひとり全く違うという前提
・専門家のあいだでも意見が分かれている、その画を観る
・アイディアとアイディアの間にあるもの、出たアイディアからずれたもの
・矯正プログラムとしてではなく、「刑務官が入所者との会話をうまくできるように、またその機会を最大限に生かすことができるように手助けするために」
・場の設定。形式だけではない、その場をどうやってつくりあげるのか。言ってみれば当たり前のようにも見える数々のことが、実際にやろうとすると難しかったり抜けてしまったりする。何をやるかよりも、設定し、人とつくりあげていく。葛藤や対立も含め、やり取りしながら場をつくる中で生まれるものが価値、意味、成果。
・Trialoguesの有効性(話す、聴く、観る)
・「囚人と職員のどちらの味方か?」「私はそこに橋を架ける者だ」(Wagner, J.)
・入所者の家族、出所者と出所予定者およびその家族をリフレクティングに招いたら来てくれた。そのことが最大のエビデンス。こんな豊かなエビデンスがあるだろうか?
・プログラム化、マニュアル化ではなく
・「私自身は刑務所の"雰囲気"に注目しています」(Wagner,J)
・そもそも場をつくること自体が変容。単なる対話実践、形式のことではない。対面的な相互行為を実現させ、実質あるものにするための地域変革、社会変革。
・一当事者の姿をありのままにみること。偏見や先入観や既成概念を排除して聴く
・囚人化されない
・話す人を主役にする、どこまでも話し手が主人公、話し手のためにある場
・展開や解決をしようとしない(感想をあーだこーだ話す、に近い?)
・喫茶店の隣の席でしゃべっている人がいるようにいる、聴く
・「言いたいことが言えるっていいですね」
・病院につながると、ソーシャルワーカーが住所をつくってくれる。まずは病院につながれれば
・リフレクティングの型をライセンス化するようなものではなく、これがいいと感じた人がやる、マニュアル化したものをコピーするのではなく、それぞれのオリジナルで広がることもまた、リフレクティング・プロセスでは。「自分たちの現場でやりたい」という思い、情熱。同じ場所で同じ形がただ続いていくために続いていくことよりも。
・安全に内側にいられる状態
・黙っているからといって考えていないわけではない
・ここでの「会話」があなたたちの「会話の」役に立つかもしれない
・可能性をそっと置く
・「わたしにとってよい会話とは、わたしの言ったことについて答えることである。わたしに対して考えていることを言うことではない」
・ちょうどいい違い。次の一歩が出しやすい(まったく違うと鑑賞できない。「オネアミスの翼」のちょうどいいズレ感は意図してつくっているから)
・「縦の関係が残らないフラットな場ってほんとう?ぬぐいがたくあるからこそ斜めの関係を入れていくことができるのでは」あるものをないように見立てることへの違和感。
・「人を見て、自分であることを続けていく」
・〜が印象的、〜な感じがした
・繰り返す言葉
・やったことのないものはイメージできない、イメージできないものはやれない
・計画を一緒に立ててくれる
・自分の経験を話せると、聴いてもらえると、うれしい
「場をつくっています、つくり方を教えています」と自己紹介すると、空間プロデュースやPlace Makingのほうに捉えられることもあって、「あーそっちじゃなくて関係性のデザインや設計のほうです」と言っているんだけれども(それもまだ遠い気がするけど)、そうそう、わたしが言ってる場ってこういう方向です、ということが全面に満ちていて、説明不要でそこにいていい感じがありがたかった。
もちろん何者でいてもいなくてもそこにいられたと思うけれど、「人の集まる場を設計していて」とさらっと言っても、「ああ、それね」と思い至ってもらえる感じ。
それから、わたしにとって非常に大きかったのは、リフレクティング・プロセスという概念。
「僕らがどんなふうにやっているか、つまり僕らが見つけた結論じゃなく、どんなふうにそこにたどり着いたのかを見せるのは、彼らの役に立つんじゃないだろうか」(トム・アンデルセン)
矢原さんも繰り返しおっしゃってたのが、どういう形式、どういうトークをするかだけではなくて、リフレクティングの場が立ち上がっていくまでのプロセスや、リフレクティングが起きたあとに起こるプロセスこそが本質なのだということ。
このあたりは、わたしが去年から少しずつ取り組んでいる、つくり方を見せる、経過を共有する、その経験をふりかえる、それらを発表したりすることを講座という学びの場にしたりアート作品にする、ということにとても非常に近い。
あるいは、これはまた別途書こうと思うけれど、みるーみられるの逆転。演者と鑑賞者が入れ替わる、行き来することによる新しい創造の開花ということでもある。そこには素朴な感想を安心安全に話す場が不可欠。
これはぜひ他のアーティストとチャレンジしてみたいことです。
リフレクティングの可能性は非常に大きい。
とてもとても勇気づけられる場でした。
わたしの持っている文脈を並べてみると……
一日保育士体験、映画「むかしmattoの町があった」上映会、映画「夢の間の世の中」、裁判傍聴、証人尋問、映画「望むのは死刑ですか?〜考え悩む世論」、冤罪、極限芸術(クシノテラス)、「生きていく絵」、「プリズンブッククラブ」やまなみ工房、自死遺族、聖書、宗教、多職種連携、医療、介護、看取り、ジェンダーギャップ、リスニングママ・プロジェクト、カウンセリング、セラピー、周産期医療、産後ケア、子育て、Family in Transition(FAIT)、Meditation, Facilitation、ワークショップデザイン、コミュニティデザイン、インターフェイス、表現、離婚、シングルマザー、リブトビ逆噴射トークライブ、演劇、鑑賞、虐待、DV、モラルハラスメント、グリーフ、発達障害、プレイバックシアター、インプロヴィゼーション、オープンダイアローグ、ファミリー・コンステレーション、ポッドキャスト、十五分文庫……
......ほかにもたくさんたくさんある、数々のものが、きょうこの文脈で、わたしの内で語り直される爽快さがありました。
(わたしが個人的に体験したものとそうでないものが混ざってます)
帰宅して息子とバトル。
「おかあは二重人格だ。悪いおかあと、ままのおかあがいる。悪いおかあは一度キレるけど、20分黙っていたらままのおかあに戻る」らしいです。
確かにキレたけど、ケンカふっかけてきたのは息子だぞー!思春期めんどくせぇ。
対話って大事だよねって勉強してきて、でも帰るとちゃっかりこんなで、まぁこれはこれで愛おしい日々...なのかな。
勢いで矢原さんの著書「リフレクティング」を購入しましたが、パラパラ見ていて、ぬおー、これはおもしろい!!対話という見えにくい現象をこうやって言語化できる人はすごいなぁ。でも関心がない人から見たらなんのことかさっぱりわからないかもしれない、ひとつの「道」の感じもまたオタクっぽくて好きです。