ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

パシャパシャ散歩の集い、ひらきました

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Facebookに書いたものの中から残しておきたいことを選んで加筆修正していく作業を、年末はちょいちょいやろうと思います。この投稿もそのひとつ。

 

11月下旬に、友人のたいこさんと、上野公園で「パシャパシャ散歩の集い」をひらきました。

 わたしのなじみの場所にみんなを案内し、写真をパシャパシャ撮る。でも「会」というほどかっちりしていなくて、守られてるけど自由だから「集い」とたいこさんがネーミングしてくれました。

 

初冬まではまだいっていなくて、晩秋の気配のする上野公園の一角で、こどももおとなもタブレットスマホで、「お!」と思うものを写真に撮ってみる。遊びつつ移動して、国際子ども図書館の中庭で写真の見せあいっこしたり、お昼を食べて。最後に図書室で読み聞かせをしました。

 

こどもの撮るものっておもしろいなぁと常々思ってたけど、こうして場としていろんな子の撮る姿や作品を見られるのはもっと楽しかった。5歳のこどもから見える世界は大きくて広くて、地面は近くて葉っぱが大きい。たいこさんが、「5歳にもなると気になったものを撮る=世界を切り取る意思みたいなものがあるよね」と言っていて、そうだった、その境目みたいなのってどこにあったんだろう。わたしは見逃してきたのかな。

 

参加してくれた友だちが、「"こどもはそのときにやりたいと思ったことをやる生き物である”ということを前提に、こどもたちの反応を大事にして進められていったのが心地よかった」といってくれてよかった。

 

子連れイベントって、「こどもをこのイベントにちゃんと参加させて充実した時間を過ごさせなければ」みたいなプレッシャーを勝手に感じてしんどくなるのだけど、そういう必要がなかったとも。

 

子どもたちの楽しみを尊重した自由な時間でもあり。かといって、おとながこどもの付き添いで来たかんじにもならず、すごくよかったな。

 

こどもたちは写真を撮ったらすぐ見てもらいたくて、丁寧に見れば見るほどうれしそうだったけど、見せ合って楽しんでいたのは専ら大人だったかもね。でも別に失敗ってわけでもないし、そうか、そういうものなんだなというのもわかった感じ。わたしの好きな上野公園をみんなに案内できたのもとてもうれしかった。

 

「パシャパシャ散歩の集い」を別のところでやるとか、こどももおとなも楽しい場、またやりたいな。

 

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寺のあるまち

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まちを歩いていて、サッとお寺に入って手を合わせることができるのは、ほんとうにありがたい。

ここは寺町なので、とにかくちょっと歩くと寺、また寺、また寺...という感じ。
駅に向かう道すがら数えてみたら10もあった。まち全体では80ほどの寺があるそう。

そのどれもが手入れが行き届いていて、植栽も四季折々に工夫されていて、心が洗われる。

 

あーもうダメかもというときも、がんばりたいんですというときも、あの人をお守りくださいというときも、祈ることができるだけでホウッと落ち着く。

 

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"Merry Christmas Mr. Lawrence"のスイッチ

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学童に息子を迎えに行ったら、ピアノで"Merry Christmas Mr. Lawrence"を弾いてる子がいて、思わずウッ(泣)となってしまった。

あの曲はなんなんだろう。脳にものすごく刷り込まれていて、あのコードを聞くと暴発する感じがある。何かしかけがあるんだろうか。それとも歳を重ねると何を見ても何かを思い出すからなのだろうか。

この曲ですぐに思ったのは、ああ、デビッド・ボウイは亡くなってしまったのだなぁということと、中学生のときに坂本龍一のアルバムを買って繰り返し聴いたことと、友人と2年ほどやっていたFilm Picnic。

Film Picnicは、友人の家でみんなで映画を観て、そのあとにピクニックみたいに床に座っておやつとお茶をいただきながら、感想をあーだこーだと自由に話す集い。根底にはArt in Me(自分の中のアートを感じる、そこから言葉を出してゆく)テーマをもっていた。毎回毎回タイトルを選ぶのが楽しかった。映画はアップのカットが多くて、一人一人の眼差しが印象的。帰り道は何度も鼻歌を歌って帰ったのを思い出す。

定期的な約束はせず、思い立ったときに場をひらく気楽なスタイルで。今年は「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」で一度ひらいて以来、今はお互い忙しくてお休み中。

暴力の現場で自分になにができたか

場づくりとかアートとはなんの関係もない話だけど、この投稿を書いてから半年間寝かせてみて、やっぱり今これは出したいと思ったので、公開記事にした。

 

3,4年前に、公共の場で、パートナーと思われる女性から男性への暴力を目撃した。

先日ふとそのことを思い出し、そういえば男性のためのDVシェルターや支援団体ってあるんだろうかと思い、ググってみた。

 

が、期待していたような情報は出てこなかった。こういう支援につながる情報は1ページ目でバシッと出てほしいのに。簡単な検索だけで引っかかった情報は数カ所。でも機能しているかもわからないし、だいたい東京からだと遠すぎる場所だった。

 

東京都のDV相談窓口になっている東京ウィメンズプラザに電話して聞いてみたら、「男性のシェルターや支援はまとまってはないのが現状ですが、ご相談いただければケースバイケースで対応します」とのことだった。曜日限定で「男性のための悩み相談」という窓口があり、被害、加害にかかわらず相談できるようになっている。緊急の方は曜日にかかわらず代表電話にかけても大丈夫だし、もっと緊急の場合はすぐ警察110番へ、とのことだった。

東京ウィメンズプラザの連絡先はこちら⬇︎

配偶者暴力(DV)被害者ネット支援室

 

わたしが目撃したDV現場では女性が男性に対して、聞くに堪えないありとあらゆる罵詈雑言を投げつけていた。「お前みたいなクズでバカはみたことがない」「お前なんか生きている価値はない」「あんたのマヌケ面見てると腹が立ってくる」等々...。

 

男性はひたすら我慢しているようにも見えたし、何も感じていないようにも見えた。でもそのような言葉は、日常的に浴びせられているという感じがした。傍目には家族3人がハンバーガーを食べているのだけど、その向こうに見えるのは、男性を天井から吊ってサンドバックにして、女性がボッコボコに殴っている姿と、それを穴の空いたような目で表情もなく見ている子どもの姿だった。

 

普通じゃないという感じがしたし、子どもへの深刻な影響も想像できた。けれども、そのときわたしは女性が怖すぎて何もできなくて立ち去ってしまった。通報しなければ、と思った。でも一体どこに??暴力をふるわれているのが子どもなら迷わず警察または児童相談所。でも、男の人が被害者の場合は?店に?

当時のわたしには知識がなかったし、それ以前に意気地もなかった。

 

男性と子どもは、女性が作り出した透明な膜に飲み込まれているように見えた。その膜に包まれると、外にいても外界との接続が遮断されてしまう。そんな感じを受けた。

 

DVは密室で行われる。それは物理的にドアを閉めた向こう側で行なわれているという意味でもあるけど、そもそも関係性が密室だから、場所がどこであれ展開されうるんだということをあらためて思った。それが傍目にはわかりにくかったり、気づいても手を出しづらい状況。まして男性なら、女性よりも強いジェンダーバイアスが、本人の中にも社会にもあるのではないかと想像する

 

何度思い出してみても、あのときのあの男性に何ができるわけではないけれども。

ここに綴って、今の気持ちを置いておく。

 

ばななさんに会う〜作家はどうやって小説を書くのか

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 吉本ばななさんに会った。

 

会ったといっても、177人も参加者のいる講座の会場だけれど。

でも早く来て並んでいた友人のおかげで、壇上のばななさんのほとんど真ん前の席を陣取ることができ、わたしに話してくれてるんじゃないかというぐらいの近さだったので、会ったといってもいいことにする。

 

ばななさんの熱烈なファンとは決して言えないけれど、何年かの周期でばななさんの小説に救われることがある。

ああもうだめだ、というようなときに、図書館の913.6「よ」の棚へ行き、10冊ぐらいまとめて借りてきて、読み終わったらまた10冊借りて、とにかくくる日もくる日もばななさんの本を読む。多作な方なので尽きない。けれどそのうちある日ぱたっと、「あ、もう大丈夫」という感じになり、それ以降また読まなくなる、という感じ。

楽しみのためというより、お薬のように、加持祈祷のように、ばななさんの本を読んできたような気がする。

実際話の中にはオカルト的なものも多いし。

 

けれど本人は全然オカルトではなくて、呼び寄せそうな感じもなくて、なんだかとても健やかで、にこにこしていて、ふなっしーのスケジュール帳をもっていてかわいかった。

 

5歳から書きはじめたときコナン・ドイルがお手本だったとか、オチがない話はゆるされない地域に住んでたからオチがない話は書けないとか、30年間一度も〆切を過ぎたことはないとか、午前中に書くことが多いのは朝だと余計なことを考えないからだとか、書き終えるときは小説の方から「もう終わって!」って言われるから「え、もう?」って若干落ち込んだ雰囲気になるとか、日本では有名=金持ちと思われるのはなぜかとか……、そんな話を編集者の根本さんと対談形式で話してくれた。

 

根本さんから飛び出す作家との攻防の話も、おもしろかった。ライブじゃないと聞けない話って感じだった。

 

質疑応答の時間には、「根本さんに会いたくて来ました、"キッチン"は今朝はじめて読んだ」といってるおっちゃんがいてびっくりした。ばななさんに会いにきたわけじゃないんだ…。

 

最後の、50代のばななさんの決意は、力がこもっててカッコよかった。ばななさんのことが大好きなお友だちのえりこさんと行けたのもよかった。

ラジオはじめました

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ラジオをはじめました。ふくだけいさんと、
世の中のよしなしごとを気ままにことほぎます。

 

*Blogから(右上におたよりフォームあります)
http://doremium.seesaa.net/article/444539248.html


Podcastから
https://itunes.apple.com/jp/podcast/kotohogirajio/id1182629548?mt=2



何年も何十年も、人間や自然が生み出すたくさんの表現を吸収しながら、
自分の表現も模索してきていて、
文章を書いたり、
演じたり、
外国語を学んだり、

映画を撮ったり、
場をつくったり、
かるたをしたり、
Zineをつくったり、
歌ったり、
踊ったり、
短歌をつくったり、

あれやこれやしてきたように、またひとつあたらしいことを試してみています。
試してはいるけれど、「仮」ではなく、これひとつの作品也。

 

「ラジオはじめたよー」とお知らせした友人から、

 

アレハンドロ・ホドロフスキー監督の話を引き合いに、祝福と応援をしてくれた。

 

ホドロフスキーは映画も撮るし、絵も描くし、詩も書くし、タロットもやる、心理療法もやる人だ。あなたは何者かとインタビューでよくきかれる。

ホドロフスキーはそれに答えて、「昔は電話は電話、ラジオはラジオ、カメラはカメラだったけど、スマホはすべての機能がある。私も私の機能を使っている」

つまり、「自分は何者か、アレハンドロ・ホドロフスキーである」と。

 

そしてわたしたちもまた、それぞれが自分を十全に機能させ、つかい、この世に存在したい、そういう存在でありたいね、と。

 

うれしかった。

このラジオの配信者は「ことほぎ研究室」なんですが、この友人もまた研究仲間であろうなーとこっそり思っています。

 

こんなことでもいいし、こんなことでなくてもいいし、
おたより募集しております。

よかったら聴いてみてください。

 

*集いのお知らせ* ブックトークカフェ12月(武蔵小杉の読書会)

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2016/12/17(土)14:00- テーマ:「2016年をふりかえる本」

武蔵小杉で月に一度ひらいている読書会で、企画とファシリを務めています。

今年最後のブックトークカフェは、本を肴に2016年をふりかえりましょう。
みんなどんな一年だったんだろうか。

武蔵小杉周辺・沿線の方、お待ちしてます。

 

お申し込み・詳細>>

everevo.com

12月の読み聞かせ

久しぶりのブログ更新です。

 

今年の4月から息子の通う学校で読み聞かせのボランティアをしている。きょうは3回目の当番の日だった。毎回、こどもたちとの本を通じた貴重な20分の出会いをいただいている。

学校は、さまざまな背景や事情をもったこどもたちが集まる場でもあるので、普段よりもさらに心を澄まして本を選ぶ必要があると思っている。

12月なので、クリスマスやサンタクロースの絵本なども考えたけど、宗教上、経済的な理由、あるいは家庭の方針などで、クリスマスを祝わない家庭やサンタクロースが来ない家庭もあると想像する。それに、我が家はクリスマスの飾り付けっぽいことをしたり、サンタさんが来たりするが、学校での読み聞かせでは、「12月といえばクリスマス!サンタさんのプレゼント!」という価値観一色にこどもたちを染めるのは嫌だなという気持ちもあって、その題材は避け、結局この2冊に決めた。

 

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「ゆきのひ」は、友人がおすすめしていたもので、一人の子どもが、自分と自分を取り巻く世界のかかわりを、雪という自然の現象を通して様々に見出していくのが印象的だ。余韻を残す終わり方。とても美しい本。終わってすぐ「ああ、東京でもこんなにたくさん雪が積もったらいいのになぁ!」と声をあげた子がいた。
そうだねぇ。あこがれちゃうよね。

 

「フレデリック」は、ちょうど「スイミー」を読んだところでレオ=レオニはみんなのおなじみ、翻訳の谷川俊太郎もみんな詩をたくさん知っている、ということで選んだ。長い冬に備えて食料をせっせと集めはたらくねずみたちの中で、フレデリックだけが同じようにはたらかない。でもフレデリックは彼にしかできないやり方で冬を過ごす備えをしていた、さてそれは...?。説教くさいかもしれない。けれど、こういう価値観もあるよという、「アリとキリギリス」に対抗する気持ちも込めて。

 


今年4月に読み聞かせボランティアをはじめたときに、運営スタッフの方がしてくださった研修がとてもよかったので、わたしはなるべくその伝統を守っていきたいなと思っている。


例えば、読み聞かせでは地味な服を着ると教わった。黒、紺、茶、灰、白などで柄のないもの、アクセサリーやメイクは最小限にする。それはこどもたちが絵本・本に視線を集中し、お話の世界に入り込めるようにするため。読んでいる人はこどもとお話の世界の橋渡し役であって、読み聞かせはその人のショウではない。もちろんそこまでストイックにならなくても場自体は成り立つ。けれど、「何のための読み聞かせか?」を読み聞かせをする人がもつことは大切だと思う。


わたしは読み聞かせを通じて、この世は生きるに価するところだと感じとってもらえたらうれしいし、本の世界で育んだものが生きる力の源になり、長年にわたりこどもたちの芯を温めてくれることをいつも願っている。


ショウをしたい気持ちも否定しないけど、それはそれで別に場を自力でこしらえるほうがいいんじゃないかと思う。学校の読み聞かせの枠を使ってしまうと、こどもたちは選べない。必ずそこに座って聞かなければいけない。そこが一番の問題。


それから、わたしは読み聞かせでは「ウケる」のを目指さない。こどもたちの心に過度に衝撃を与える本は、興奮であれ恐怖であれ、避けたい。あくまでも本の世界の中で完結でき、日常にひきずり持ち帰らなくていいものを。絵本の世界から希望をもって日常に帰ってこられるような読み聞かせをしたい。その子のやわらかい心を傷つけない物語を。


特に「生きていくのに役に立つから」「知っておくべきことだから」という「道徳的」観点からのよかれと思う気持ちからの選書は、けっこう危険だと思う(発達・成長段階によってもその受け取り方も違うし)。そういう呪いに、いかにわたしたち自身が苦しめられ続けてきたか、そしてこれからの道徳の教科化によって、いかにそこが強化されようとしているか。(もちろん「フレデリック」だって、ひとつの価値観の押し付けかもしれないけれども。)先日知った「にんげんごみばこ」という絵本は、そうした発想が元になっていて、本当に恐ろしいと思った。こういう絵本をなんのために描き、出版したのか、そして支持しているのか、ほんとうにわからなくてしばらく辛かった。

 

そんな折、3年ほど前にインタビューをさせていただいたことのある、子どもの本の翻訳家で、高円寺で家庭文庫を主宰されている小宮由さんの講演会に行った。その中で小宮さんは、「絵本を通じてこどもたちに幸せを伝えたい。しっかりとした幸せの理想像を絵本で見せていきたい」とおっしゃっていた。そして「不幸を伝えることで幸せをわからせる反面教師的なものである必要はない」とも。それを聞いて、少し生傷がかさぶたになるぐらいまでは癒えたし、わたしも含め、こどもと接する人(大人全員だけど)は、もっと心をつかって生きていこうよ、と思った。


小宮さん夫妻が運営する「このあの文庫」は、こどもへの敬意と愛情に満ち溢れていた。わたしが今でも印象に残っているのが、文庫の本棚や、本の並べ方や、本自体が美しいということ。破れも汚れもなく、埃ひとつついていない本が整然と並んでいた。こどもがたくさん来るから、ぐちゃぐちゃでも、本がぼろぼろでも仕方ないよね、という妥協は一切ない。こどもに手渡す本は、物としても美しく、丁寧に扱われている必要があるのだと感じた。自然な流れで今の自分にぴったりの本を、こども自身の力で見つけていくことができるような書棚の構成にもなっている。小宮さんはこどもに媚を売ることもないが、指導的でもない。でも確かにこどもたちを支え導いている。

書いていたら、このあの文庫にまた遊びに行きたくなった。

*集いのお知らせ* 「こころのこえをきいてみる時間」(True North, Akitaの新作を観て語る場)

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2016/11/12(土)11:00-  

「こころのこえをきかせ展」の展示会場にて、映像を観て語る場をひらきます。

 

 

「こころのこえをきいてみる時間」

映像を観たあと、心に浮かんだ風景や思いを言葉にしたり、他者の物語を聴く時間をもちます。語る人は、ただ自分の中から出てくるままに、些細な話やまとまらない話を声にしてみましょう。聴く人は、その声をさえぎることなく、聞こえてくる音に静かに耳を澄まします。日常に戻る前の余韻のときを、皆さんで味わえたらと思います。

 

 

事前申込不要、入場無料です。ぜひお立ち寄りください。

 

"True North, Akita"は、世界150カ国以上、70万人以上から視聴されている映像シリーズで、世界的に活躍する映像集団"augment5"が製作しています 。秋田の中山間部の暮らしや豊かな自然風景 を捉えた1作目、2作目に続く3作目は、男鹿半島が舞台。漁師の一家の暮らしや海辺に広がる風景を描いた約17分の映像です。

 

▼「こころのこえをきかせ展」公式HP
会期、True North, Akita #1, #2 視聴、今週末のイベント情報

true-north.jp

 

▼アクセス
日比谷線 小伝馬町駅 1番出口 徒歩4分
http://true-north.jp/access 

 

True North, Akita #1

augment5.com

 

True North, Akita #2

augment5.com

夜道にて

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 夜の帰り、道の真ん中でぼーっと立っているおじいさんがいた。車がよく通る狭い道なので「車来ますよ」と声をかけて、同時に白杖を持っていることに気づいたので、手を引いて道の端に誘導。フエルト帽をかぶり、やわらかく肌触りのよいコートを着た身なりのよい紳士。80代ぐらい。

 

「どちらまで行かれます?」と聞いてもなんとなく話が噛み合わない。ちらちらと近くの駅名が出てきたので、「駅までお送りしますよ」と言ったら、「いや、○○まで(駅とは真反対の地名)だから。大きな通りまで出てタクシーを拾う」とのこと。何がどのぐらい見えているかわからなかったから、「タクシーが来たら何でわかりますか?」と聞いたら「赤い光(空車の)がついていればわかる」と。でも足も悪そうな感じだったので、「ここでタクシー呼びますね」と配車アプリを立ち上げているうちにタクシーが通ったので、止めて乗るところまでサポートした。

 

が、見送ったあと、タクシーを降りたあとは大丈夫なのかな…と急に心配になってきた。「お迎えはありますか?」と聞けばよかったな。たぶんただの外出で、徘徊ではないと思うけど。でも交番に行ったほうがよかったのかな。サポートのつもりで余計なことをしてたらどうしようとか。うーんうーん、どうか無事におうちに帰られていますように。

 

息子は「こっちですよ」と声をかけてくれてたんだけど、その方の様子で声のするほうがわからないとか、耳が遠いとよく聞こえないとかもあったので、手を引きながら「こっちが道の端ですよ」と言ってあげると安心だよとか、そのときに手をさわりますねとか言ってあげるとよりいいねと話した。

 

視覚障害の方や認知症の方(この方はどうかわからないけど)が今、自分の身近にいないので、きょうみたいに日常で遭遇したときに、知識とか技術を元に、そのときの状況、様子で判断、行動して、その人の役に立てたらいいなぁと思う。今後、体験したり練習できる機会があれば積極的に参加しよう。自分なりの善い気持ちからだけだと、とんちんかんなことしたり言ってる可能性もある。

 

*集いのお知らせ* 一箱古本市に出店します

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「上野桜木あたり」で開催される一箱古本市に出店します。

古本を売りますが、不用品処分のつもりではない。

好きだけど、もう自分たちの手元になくてもよい本をあたらしい人へと手渡す。

その些細な出会いの場をつくります。

 

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『ろじの小さな一箱古本市

http://uenosakuragiatari.jp/archives/917

2016年11月13日(日)
11:00~15:30 予定
※雨天決行。雨天時は同施設内「ざしき」で開催します。

 

この日は『Table Marche』も開催しています。
http://uenosakuragiatari.jp/archives/646

 

「君の名は。」を観た

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君の名は。」観てきました。大ヒットしてますね。わたしは特にこの監督のファンでもないのだけど、「こんなにも人の心をとらえる何がこの作品にあるのだろう?」と知りたくて観に行きました。

 

友人の中にもこの作品が大好きな人も多いと知っている中で、こういう感想を書くのは非常に勇気が要りますが...

自由な感想を表現できる場をつくっていきたいわたしとしては、やはり書きます!

 

ネタバレがありますので、これから観ようと思っている方は読まないでくださいね。

 

わたしの感想は、「これないわ〜」でした。

 

身体が苦しかった

のれない、のれない、これはのれないわーとぐるぐる思いながら観て、観終わったあとは、ぐったりと疲れていて、全身がこわばって、動悸とめまいがして、吐き気もあった。家に帰って座って、唐揚げをつまみながらビール飲んだらちょっとホッとしました。

その身体の反応っていったいなんだったんだろう?と考えると、

画面が始終揺さぶられている感じに酔ったのかなとまず思いました。あとは、中盤からの展開の速さが過呼吸になりそうでしんどい。そして突然ぶち込まれた震災を彷彿とさせる自然災害に、胸が苦しくなりました。(それを題材にとったという意図を想像してなお気分が悪くなりました)

 

いつまでも像が立ち上がらないキャラクターたち

 個々のエピソード、シーンやカットから、人物たちの背景、性格、心情、人物と人物との間にある関係性を立ち上げようとしたり、このシーンの意味は?と読み解こうと努力し続けていた。でも、どうやら作品のほうから、「そういうのはこう感じとけばいいから!」とか、「今はそれ考えなくていいから!」と言われているような感じを受け取って、そうしたら、もうだんだんどうでもよくなった。伏線とか謎かけがあってそこがおもしろいという話は観た人から聞いて知っていましたが、人物にもストーリーにも映像にも入れなかったので、それを探そうという気にもなりませんでした。見えているんだけど、この時間に「のる」ために、感じない考えないようにしていたら心が疲れました。

人物や関係性の像が結べないというのは、わたしにとっては物語に入る上ですごく辛いことです。しかしわたしの努力なんかよそに、キャラクターののっぺりとした感じは徹底していた。ステレオタイプなキャラクター。セリフも、印象的な言葉も聞こえてこなくて、「アニメの登場人物はこういうことをしゃべりそうだ」っていうことしか言わない。友だちもバイト先の人も「アニメではいそうな人」なだけで、全然リアリティをもって迫ってこない。例えば「お前が心配で」とバイトを休んで旅についてくるほどの友情は見えなかったり。そもそもが運命の二人なのに、その二人でなければならない必然性が一向に感じられませんでした。その普遍テーマはわたしも好きだから、もっと没入したかったんですけどね。

 

着地点へ向かうためのジェットコースター

エンディングがさらにがっかりでした。特にセリフは、「はい?」という終わり方で。やっぱりこれはアニメーションでつくられた人形(ひとがた)たちがお芝居をやっていただけなんだなぁ(やらされていたんだなぁ)という残念さ。「生きていない」人たち。このシーンは「秒速5センチメートル」の決着のように思えて、新海さんはこのシーンのためだけに膨大な110分をわたしに付き合わせたのかなと思った。

いや、結局はそのシーンに至るためにどう構成していくか、その効果を上げるために何をパッチワークしていくか、どう盛り上げてどう落としてどう回収するか。そういう設計図があって、その中をジェットコースターに乗せられて進んでいくだけ。話のつくりとしてはそのような印象を受けました。ちなみにわたしはジェットコースターが大の苦手なのですが、終わった時の疲れはほとんど同じでした。身体のこわばり、吐き気、動悸、めまい。

 

設定、装置としてだけの死、喪失、暴力

その中では、人の死、不在、喪失、性暴力というものが、盛り上げるための装置としてだけ使われているところが、非常に冒涜というか蹂躙だと感じました。

息子と一緒に行ったのですが、「あんまりいいお話だとおもわない。ほとんどの人が助かったってことは、死んだ人もいるんでしょ?それにまちもつぶれちゃったし、悲しいよ。君の名は。って事故とか、そんなお話だと思ってなかったから...」と終わってからすぐに話してくれました。普段はあまり感想を言わない子ですが、それを聞いて、そうだよなぁと同感でした。

この部分は友だちから、「誰も死なずに災害を回避するなんてできないからこそ、そこを"悲しいね"って作中でも感じている物語じゃないのが悲しいよね。"このシークエンスはもう終わりました!"感半端ない」というメッセージをもらい、そうそう、そうなんだよ、そこが。

悲しむ必要はない、感情を味わうためのエピソードではもはやない、「設定」でしかない。びっくりさせる(新海さんの言葉を借りるなら「おもしろくする」)ための仕掛けとしてだけの自然災害でした。もし仮に助かった人が多かったとしても、あのラーメン屋のご主人のように、故郷を失った人がいる。観客も一度は町の壊滅を見せつけられ、まちの半分の人たちが亡くなったことに多かれ少なかれショックを受けている。本来ならばその悲しみを表現するはずの物語の主人公は、運命の相手探しに没頭している。それを追わなければならない観客の辛さは考慮されていない、ということだと受け取りました。

この3年ずれていた、その3年前に何があったか。びっくりしたでしょ?おもしろいでしょ?という刺激を与えつづけることに腐心しているつくり手の顔が浮かびました。

物語の展開上、必要だから据えられたキャラクター設定としての人物。ゆえに、三葉の母親は病死している、父親とは別居している。瀧は父と二人暮らし(母の生死も所在も不明)という「設定」です。現実で考えればその状況は決して当たり前ではなく、そのことが彼らの内面に与えている影響は大きいはずなのに、物語の進行上、ラストシーンへ突撃する途上では不要な「贅肉」として切り捨てられていました。

 

不快だったことはまだありました。

・三葉の妹が三葉に、「口噛み酒に生写真をつけて売れば」と言い、それに対してみつはが赤面し、「あんたよくそんなこと思いつくね」と言うシーン。

・瀧のバイト先のレストランで、いいがかりをつけた客に場をおさめるために入った奥寺さんが、スカートをカッターナイフで切られる。それを他のスタッフに指摘され、奥寺さんが赤面するシーン。

これは、特にこどもが観る映画として完全に間違った描写だと思います。女性が自らの性を売り物にして自分のやりたいことを成し遂げる方法をもっているなどと小学生の女子に言わせる。女性は公衆の面前で暴力を受ける対象になることがあるが、それは「不運」であるから同じ女性性で優しく慰めて終えることができる。そういうストーリーを刷り込んではいませんか。

ここは恥ではなく、不快であり恐怖であり怒りではないでしょうか。不用意に不必要なエピソードを混ぜ込む。これを悪意なく垂れ流した責任をどうとるのでしょうか。

 

はっきり言うと、わたしと息子はこの映画を観て深く傷ついたし、わたしは息子に対して申し訳なく思っています。

でもウケている人には、そこは別に気にならなかったんだろう(むしろそこがよかったりする人もいるのかも?)と思うと、余計に傷が深く広くなる感じがあります。

「作品から想起される自分固有の物語に思いを馳せた(「作品を味わう人」と「作品をフックに自分の中を味わう人」の違いじゃないか?)、「謎解き感覚が楽しい」、「映像美を楽しむ」、「キャラが空虚だからこそ自分でもある、という感じでスムーズにのれた」とか、それぞれの理由でウケてるのは友人たちとのやり取りで見えてきましたが、「人を軽んじてる点はやっぱり気にならなかったんだ」...ってところにわたしはまだショックを受け続けています。多くの人が求めるエンターテインメントとは、このような姿をしているのだ、ということなのでしょうか。

 

 

フィクションであっても人を尊重する姿勢

アニメーションだから・ファンタジーだから(「つくりもの」の意味で)いいんだ、運命なんだ、結びなんだ、だから細かいところはいいんだって丸め込まれる感じがあったのかもしれない。でもわたしは、ファンタジーだからこそ、その世界の中ではありありと生きていないと、日常から離れてそれを信じることはできないと思っています。それがないファンタジーは生きる力になりえない。つじつまがあってないことへの粗探しがしたいのではないのです。

きのう友人が「フィクションの中の人間を、安易に扱わない。人に対する尊重があるものだけ見たい」とSNSで書いていて、ほんとそうなんだよなぁと思って泣きました。

物語の中の人間は生きていてほしい。その人の生を生きていてほしい。自分がつくりだした虚構だから何をしてもいいってことではない。それは、そのまんまそのつくり手の人間に対する態度だと、わたしは見ます。

そもそもの物語のつくり手としての姿勢に対して疑問をもっています。

わたしは人間を一人ひとりとしてみる、存在を感じるということを場でもそうだし、日常の中で大切にしています。人は誰かのために存在しているのではないということ。それはフィクションの中の人間であっても同じで。わたしのために空っぽの三葉が存在していて、三葉という乗り物に乗って違う世界を見たいと思わないし、物語の中でも三葉のために友だちのさやちゃんがいたり、早くに病気でなくなったりするお母さんがいるような「設定」が辛いです。

人がそういう描き方をされていること、観客が「こういうのが好きでしょ?のれるんでしょ?」と扱うこと。それら両方によって、深く傷つきました。

 

 

彩やかな色の寄せ集めの映像「美」

映像については、「秒速5センチメートル」と「言の葉の庭」を観ていたので、ある程度わかっていたところはあります。でも色数が多くて繊細な描き方だけど、心に響かないのはどうしてだろう。前作の2本はやっぱりPVとして観てたんだと思います。わたしはニュータウン的田舎で主には育っていて、でも里山的田舎の風景も自分の一部としてあるし、「こんなとこ出て行ってやる!」とは思っていた上京組ですが、なぜかわたしの心象風景にいっこもアクセスしてこないので、「美しい」と思えませんでした。「いつもの都心の風景が違って見える」という感じもなかった。

それはたぶんキャラクターが空虚すぎたから。キャラクターの心情を通して風景を見るということができないので、それはわたしにとってはただの彩やかな色の寄せ集めでしかありませんでした。

 

 

わずかながら思い出したこと

作品から想起されたわたし自身にまつわることが2カ所ありました。

・国語の先生。「言の葉の庭」の雪野さんですよね?ここに転勤してたんだ〜と思って、知ってる人に会ったみたいでうれしかったです。そういえばこの作品は、読書会の参加者さんが以前DVDを貸してくれて観たのでした。彼は元気だろうかとちょっと思い出しました。

・西新宿の歩道橋ですれ違ったり、すれ違いざまの総武線と山手線の車両にたまたま相手を見つけたり、、するかぁ?と思ったときに、20代前半に通ってた映画学校でこういうのと似たような脚本出してきた人がいたのを思い出しました。山手線内でばったり友人に会って、そこから話がはじまるっていう設定。「あなたは山手線内でお友達に会ったことがありますか?それは描かないほうがいい。その確率はものすごく低いから。あまりにもありえないことを描くと観客が物語に入れないんだよ。あまりにリアルだったり卑近すぎても入れないけど、ありえなすぎてもダメなんだ」と言われてました。その講評はすごく覚えています。

 

 

まとわりつく気持ち悪さ

書いてみたり、友だちとメッセージのやり取りしている中で、「なぜ多くの人にウケているのか」を考えてもきました。これが爆発的にウケているということは、「わたしこれまで何をやってきたんだろう」とか「これから何をやっていけばいいんだろう」ということとも大いに関わるように思ったので。でもこれを考えてくると、なかなか暗くなってきます。

自分も他の人も「みんな」と同じでならないとは思いません。でもなにかこう、、気持ち悪さがまとわりつくのです。

例えば、つくり手の生い立ちや家族の物語などが出てきて「まだ精神的に子どもなんだからしょうがない」というニュアンスの会話になるのはどうしてでしょうか。あるいは、「でもそういうふうに話題にさせるという点でマーケ的には成功してますよね」という話の終わらされ方をすることもありました。諦めというのか、話題をズラされて黙らされているような気持ち悪さがあります。作品の受け手、観客には一次的には関係ないことなのに。

この「君の名は。」にまつわる気持ち悪さは話題作の中にとりわけ現れ、「おおかみこどもの雨と雪」や「ちはやふる」にも見受けられました。人物を物語の進行上、必要な「設定」としてだけ扱っていて、人格をもち生きている人間として尊重していない。それは翻っては観客や読者への態度(暴力的な)でもあると、わたしは思っています。

 

深く傷ついたので、当分この映画のことは思い出したくないなぁとさえ思っています。

芸工展2016に出展しました。

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芸工展での二日間が無事に終わりました。

ご来場、応援、ご協力くださった皆さま、本当にありがとうございました。
いらっしゃれなかった方もメッセージうれしかったです。

最後の撤収までお手伝いいただいてしまった。ありがたし。

 

前週に高熱が3日以上続き、熱が下がっても体力もガタ落ちでほとんど声が出なくなり、準備も十分にできないのでは、という危機感の中、なんとか持ち直しました。馴染みのお店へ「フライヤーを置いてもらえませんか」のお願いも、必要以上に切羽詰まり感が出てました。「無理せず!でも楽しみにしてます!」と方々で声をかけていただき、感無量でした。

 

本当に開催できてよかった。ああ、楽しかった。

 

いつものワークショップやイベントだと、ふりかえりをやって、「あそこはよかったけど、ここはああすればよかった」となるんだけど、今回は「丁寧にチューニングした場では、何が起こってもそれはアート」と思っていたので、今ここには楽しかった感覚しかなく、わぁぁぁあい!と力一杯この幸福を噛み締めています。


ネタを50ぐらい仕込んでおり、来た方にくじ形式でネタを引いてもらいました。そのときに何が出るかはわたしにもわからない。何回も出るネタもあれば、日の目を見なかったネタもありますが、それはまたどこかで。(どこかできるとこないかな…。)


二日間でやったこと。

百人一首
芭蕉旅かるた
・神経衰弱
・トランプ
・朗読(詩や小説を読んだり聴いたり)
・読み聞かせ(絵本と紙芝居)
・ぬりえ(せいこの朗読をBGMにする若仲ぬりえ)
・エンパシーサークル
・切手を鑑賞しながらせいこの切手愛を聞く
・夏休みの自由研究「琵琶湖」を聞く
・星占いを読んで2016年のここまでをふりかえる
・アイスブレイク本にのってるワークをやってみる
・打楽器奏者がオススメする萌え曲を鑑賞する


夢中でやってたので、ほとんど写真が撮れていないですが、雰囲気だけでも伝われば…。


その日、その時間、そのメンバーでしか成り立たない場がわっと生まれて、わっと散っていく。
あれは何だったんだろう。
あれは誰だったんだろう。
それさえも、残ってもいい、残らなくてもいい。
目的や結論や名前をつけることなど何の意味も成さない、「なにでもない時間」をただ感じ受け取ることができたら。


きっとわたしはずっとこういうことがやりたかったんだな。安心できる場所・場で、信頼し尊敬し愛する人々とのつながりを感じながら、全自分を総動員し、めいっぱい機能させる。当日だけではなく、前後の時間も含め、小さい頃からの夢をいっぺんに叶えたような、そんな気持ちです。


折しもきょうは満月。


こんなことができたらと思っている。それが今すぐには叶わなくても諦めなくてもよくて、大切に心にもっていたらよくて。今すぐに実現できない悲しみや悔しさと一緒にもっていたらよくて。それをもっていることをちらほらと人に言ったり書き留めたりしていると、ある日急にぱたぱたと叶ってしまう、ということが起こる。


少なくともわたしのドライブしている人生では、たまにこういうことが起こってきた。それでわたしは、人生ってほんとうにわけわからないけど、すごくおもしろいなと思うし、またやっていこうと思える。よい時間でした。

 

芸工展に出たことで、「せいこさんて興味深い人ですねぇ」と何人もの方から言っていただけて、すごくうれしかったです。その言葉を、ようやく心からの喜びをもって受け取れるようになってきたのだな。


最後になりましたが、芸工展実行委員の皆さまへ感謝を。

このワケわからない企画をおもしろがり、当日の呼び込みやお客さんの対応をしてくださり、ありがとうございました。皆さまの情熱と優しさと懐の深さがとにかく素晴らしいなと感銘を受けました。残りの芸工展期間、今度は参加者として楽しみます!

 

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*集いのお知らせ* 10/15(土), 16(日) 芸工展2016に出展します

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*集いのお知らせ*

 

谷中・根津・千駄木・上野桜木・池之端・日暮里界隈で行われる「芸工展2016」に初めて出展します。今回が24回目となる芸工展、96の企画が出展されます。市井の人々の表現への愛を感じに、ぜひお越しください。

 

◎日程:

10/15(土)11:00-17:00
10/16(日)11:00-17:00

 

◎会場:

香隣舎(こうりんしゃ)
谷中7-17-6
芸工展期間中、本部が置かれているところです。
JR日暮里駅北口から徒歩5分、明治時代の商家(酒屋)の趣を残す、谷中らしい建物。

 

◎事前予約:

不要

 

◎参加費:

投げ銭制。体験の味わい度を投げ銭の形で表現していただきます。(投げないで箱に入れてくださいね)


◎内容:

ライブ・パフォーマンスともいえるし、みんなが参加してつくるワークショップともいえますが、わたしの構えとしては「芸をする」です。

常々、場づくりってアートだなぁと思っていて。

おみくじ(ネタ)を一人ずつ引いてもらい、その中から、そこに居合わせたメンバーで何をしたら一番おもしろいかとか、あるいはみんなで相談してこれやりたいで決まる……。

その日、その時間、そのメンバー限りの場が
わっと生まれて、
わっと散る感じを起こしたいなと思っています。

 

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芸工展とは】
「まちじゅうが展覧会場」のキーワードを掲げた谷中芸工展(現在は芸工展)は、平成5年(1993年)に産声をあげました。毎年10月、2週間にわたり、谷中・根津・千駄木・日暮里・上野桜木・池之端界隈を舞台に開催されています。

芸工展はまちに暮らす人々の日常の創作活動や表現を大切に紹介し、まち内外の多くの人がまちの魅力を語り合う場を、また「日常の延長としての表現」を通して、まちの様々な人が互いの生活を理解し、認識を深めていく交流の場を目指しています。

芸工展の参加者は、筆や彫金、せんべい、鼈甲といったこのまちに根付く職人の技の他、まちに点在するギャラリーでのジャンルを問わない展示やアーティストのアトリエの公開、路地や街角でのワークショップ、また自宅の一室で行う展示などの自主企画からなります。十数店の参加者とはじめた芸工展は、現在100近い企画数までに拡がり、訪れる人々にとってまちの未知なる魅力を発見する場となっています。
(公式HPより:http://www.geikoten.net/

問題の本質は、長時間労働ではなく、暴力


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亡くなられた高橋まつりさんに、心からご冥福をお祈りします。

 

ここから先は、現時点での、わたしの憶測が多分に混じった考えです。

 

この苦しみから物理的に逃れる。それは絶え間ない、精神的、身体的暴力を受け続けた末に、彼女がとることができた唯一の退避の手段だったのではないかと思います。なんという残酷な人生の終わり方なのか。ほんとうに悲しく、辛いとしか表現のしようがありません。

 

これは明確な加害者の存在する「暴力事件」ではないのか。類似の事件が起こる度に思います。なぜこれを暴力と表現しないのか。なぜ関わった者を特定して加害者と呼ばないのか、亡くなった方を被害者と呼ばないのか。

 

「なぜ逃げなかったのか?」「もっと早く辞めればよかったのでは?」という素朴な疑問は、DV被害の実態がまだまだ世の中に知られていない証拠だと思います。職場のような、毎日顔を合わせ、一日の時間のほとんどを過ごす場での、つながりの強い人間とのあいだで起こるものもDVと名付けることができるならば、今回の件もそれにあたるのではないかと推測しています。なぜ逃げなかったのかと問う前に、彼女のような優秀な人でさえも、逃れられない暴力の恐ろしさがあるということを意味している、とわたしには取れるのです。いつの間にか絡めとられているという恐ろしさが。

 

残業や休日出勤を命じて身体の自由を奪い、否定や無視や罵詈雑言や嘲笑による恥辱と恐怖で精神を支配し、外部との交信を絶つ(そんな余裕も気力も与えないという方法で)ように仕向けられれば、どんなに精神が屈強な人間も簡単に正常な判断ができなくなってしまうでしょう。

 

耐える、しのぐ、回避するということが最優先課題になってしまうと、目の前の安全確保に精一杯になり、自分がほんとうに感じていることがわからなくなってしまう。彼女なりに努力もしたはずです。しかしもし一度でも暴力の報復を受けてしまうと、そのダメージに恐れを抱き、二度目を企てられない可能性も高いと思われます。あるいは、訴訟も考えていたというツイートも残っているのだから、そんな中にあって証拠を集め、世に問おうとしていたのかもしれません。

 

学校でのいじめを苦にした自殺と全く同じ構造なのに、大人であるとか、働くという要素が入っているだけで、なぜ報道が突然、「長時間労働による過労、ストレスによるうつ病」と「長時間労働を指示した労務管理の不行き届き」のほうへ大幅に引っ張られるのか。これらの職場での暴力の問題を労働時間のほうへ転回せざるを得ない理由は、恐らく現在の日本において、職場におけるいじめ、ハラスメントなどの暴力を取り締まり、罰し、企業の責任を問う法律がないからではないでしょうか。

 

知人からカナダの現状を教えてもらいました。職場での「いじめ」と「ハラスメント」

 

問題の本質は、長時間労働そのものではなく、それを手段としてふるわれた暴力のほうではないか。

 

日本においては、「なにが暴力にあたり、企業がどんな責任を負うのか」も明確でない上に、強固な自己責任論が、暴力の被害者であるにもかかわらず、個人の性格や資質や容姿にまで責任をかぶせていくように日頃の報道の中でも散見されます。うつ病を発症したのは生真面目な性格(仮にそうだったとしても)に問題があるからではなく、先に暴力があったからです。彼女の残されたTwitterをたどっていけば明らかです。

 

そういう企業の体質だ、そういう業界だ、という声もある。けれど、それを容認していては何も解決していかない。直接的に間接的に手を下していた具体的な加害者がいる「犯行」があり、その者たちが組織の傘をかぶって、守られ逃れられているという現状を報道すべきです。

 

加えて、この企業にとって二度目の事件です。過去の企業自身のDV加害者としての責任は果たされたものとみなされ、「加害者の更生プロセス」の重要性を誰も注視していなかったということなのではないでしょうか。本来は誰に監視の責任があったのでしょうか。

 

わたしはこの事件が「働きすぎ日本企業の病」や「失敗を恐れる若者たちと失敗を容認できない社会」などに問題がすり替えられたり、吸収されることもまた恐ろしいと思っています。

 

もしも今、時間が戻って、彼女のツイートをリアルタイムで見かけて、何か言えるとすれば、どんな言葉がかけられるでしょうか。

 

「あなたが受けているのは暴力です。だから一秒でも早く逃げて。安全な場所へ避難して。あなたを心から愛している人を頼って。うまく説明できなくていい。説明はあとでいい。ただ逃げて。あなたは力の限りを尽くした。なんの落ち度もない。間違ってもいない。まずはそこから物理的に離れよう」

 

。。。

 

 

本件に関しては怒りしかありません。