映画『台湾、街かどの人形劇』を観た。
購読している毎日小学生新聞に載っていて、これは観なければと思っていた。
都内のどのトークイベントも来日イベントも逃してしまい、ようやくたどり着いた劇場は、横浜シネマ・ジャック&ベティ。
ようやく来られた老舗の劇場。
1991年の開館だから、わたしが10代で、BS放送やレンタルビデオで映画をみまくっていた頃からあるということだ。
この佇まい。大阪時代に行ったACTシネマヴェリテ、第七藝術劇場、扇町ミュージアムスクウェア、京都みなみ会館や、東京に来たばかりのときによく行ったシネヴィヴァン六本木、三百人劇場、中野武蔵野館などの映画館を思い出した。
いろんな映画館でいろんな映画を観てきたんだなぁ。
やっぱりわたしは映画が好き。映画館が好き。
しかしこの劇場、上演本数が凄まじい。
週替わり、2シアター、1日12〜14本の映画をかけている。
見間違いかと思ったけど、数えてみたらそうだった。すごい......。
この映画にたどり着くまでに、いろいろな支流があるが、うまく整理しては書けない。
書いてしまうと大切なものがこぼれ落ちるような気がする。
ただ、とにかく、わたしにとって特別なものがたくさん詰まっている映画。
そういう予感が強くあった。
そもそも、このドキュメンタリーで追っていたのは、あの侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の、あの映画『戯夢人生』で描かれた李天禄(リー・ティエンルー)の息子・陳錫煌(チェン・シーホァン)というのだから! これが特別でない、わけがない。
見終わっての第一感想は、とにかく素晴らしかった。美しかった。
なんと精緻な技芸、静謐な世界。
一人の人間の営みと芸を膨大な歴史に織り込んだドキュメンタリー作品。
原題は「紅盒子」。紅い小箱の意。英題は"Father"
血筋の父子、家の父子、伝統の父子、技芸の父子、国の父子…。
陳錫煌の枯れ木のように皺だらけの手。
繊細で詩的な指遣い。小さな人形に命が吹き込まれる。
台湾語と台湾語以外の言葉。薄れていく言語。一度「封殺」された言語。「言語も文化も奪うのは容易いことだ」という言葉に、胸が苦しくなる。かつてわたしの国の人は、他の国や地域の人の言語や文化を奪ってきたから。その「台湾語」も「わかる人も少なくなってきた」のだそう。
日常生活の延長、娯楽だった布袋戯が特別なものになってしまっている、風化。伝統として手厚く「保護」される対象にも、まだなりきれないでいる。その苛立ち。
激動の時代を生き抜いた人形遣いたち、楽師たち。迫害され、持ち上げられ。
でもまだ終わっていない、終わらせない、終われない。
天命だから。選ばれてしまったから、逃れることはできない。
10年の歩み。人の変化。関係の変化。人の死。過ぎ去っていく時間。
それでも、大切なものを受け取り、受け継がねばという切実さを持った次世代の手により、確かにこの伝統は続いていくことが予感される。
その一方で、次第に明かされていく親子の、兄弟の、家族の、あるいは血を超える師弟の愛憎。
映画を通した、それぞれの人と「父」との対話。「息子たち」はただ、「お父さん」に愛されたかった、認めてもらいたかったのではないか。
どのシーンも美しく忘れがたいのだけれど、とりわけラストの美しさはまったく文字での表現を放棄したくなるほどだ。
これが記録でありつつ、映画作品として、鑑賞対象としてあることに、心から感謝したい。
パンフレットも丁寧に作られている。映画の中の陳錫煌は芸神のような存在として映るが、インタビューを読んでいるとやはり生身の人間。気さくな人柄が見える。
それにしても人形劇というのは、どうしてこうもわたしを惹きつけるのだろう。
年末に訪れたエンパク(早稲田演劇博物館)の企画展『人形劇、やばい』の感想も書きたいが、どうしても書き出せないでいる。
今はまだわからない。
でもいつか、何か重要な根っこにつながる日がくるのではないかと思っている。