喜多能楽堂で観能。
http://kita-noh.com/schedule/9109/
先月末から通っている能楽講座があって、その講座の先生が出演されるので楽しみにしていた。
先生がシテを務めるのは、「善知鳥(うとう)」。
想像していた以上にとても痛々しかった。
こんなお話>>http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_063.html
その狩猟の残酷さをこれでもかと再現して見せてくれる
善知鳥の猟は、雛鳥を捕る。
猟師が「うとう、うとう」と呼ぶと、雛鳥が「やすかた、やすかた」と答えるので居場所がわかる。
親ではなく、親のふりをして子を誘い出す。
その狩猟の残酷さをこれでもかと再現して見せてくれる。
猟師の、「うとう、うとう…」と呼ぶ声。
善知鳥の親が雛を殺されて流す涙の血の雨、それを避けるための傘。
殺生の後悔を描いた「三卑賤」の他の曲、「鵜飼」と「阿漕」を以前観たときは、反省よりも、禁猟区とわかっていて猟をすることの興奮や欲望や熱狂をわたしは感じた。
でも「善知鳥」の猟師は、「わたしはこんな酷いことをやっていたんですよ、ほんとうにどうしようもないクズです」というふうに、自虐していた。
もうわかったから、もういいから。
あなたも傷ついてたんでしょう?
あなたは優しすぎてこの仕事には向いてなかったんだよ。
家族を食わしていくための仕事だとしても、他の仕事を選べなかったの?
善知鳥の雛を獲らないでもいい猟はできなかったの?
…そんな言葉がわいてくる。
ああ、でももし家が代々その仕事、親もその仕事だったら、それ以外の仕事を知る機会がなかったら、選ばないかもしれない。
猟師の死は、良心の呵責に耐えかねた自死だったのではないか、という気さえしてくる。
一周忌を前に(おそらく)家族に会いに来たけれど、善知鳥の子を獲っていた罰として、自分自身の子には会わせてもらえない。
そして、死後の世界では、鷹になった善知鳥から、雉になった猟師へさまざまな報復、責苦がある…。
この曲、作られた当時は、仏教における殺生の説話として観られていたのかな?
人があのようになる前に、なにかできないか。
地獄に行ってから祈祷してもらうのではなくて。
今、苦しんでいる人をもっと具体的に助けられないか。
舞台の上では猟師は幽霊なのだけど、わたしの住んでる現実世界では、精神があの猟師のような人たぷんいる。
もしかしたら、組織の中で、偽装や殺戮の一端を担ってしまった人の苦しみにも見えてくる。
このところ犯罪や更生、生き直しについて考えているからか。
やりきれない思いでいっぱいになったので、寄り道して帰宅した。
今、本館14室で〈伝説の面打ちたち〉という展示をやっている。
9室には能装束の展示。
ちなみに法隆寺宝物館の1階3室には金・土曜日のみ公開の伎楽面も。
売店で買った図録。
この本も。
https://www.amazon.co.jp/dp/4872591488/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_w3-rEb5YZNGJZ
ああ、知りたいこと、学びたいこと、究めたいことがたくさんあって、人生の時間が足りない…。
他の講座参加者の皆さんはどんなふうにご覧になったかな。
感想聞くのが楽しみ。