NTLive『夜中に犬に起こった奇妙な事件』を観た記録。観たのはだいぶ前。2021年8月23日。
▼予告編
全世界で一千万部を超えるベストセラー小説を舞台化
並外れた頭脳をもつ15歳のクリストファーは、その才能を活かして隣人シアーズさんの犬を殺害した犯人を探そうとする。2013年のオリヴィエ賞で作品賞を含む主要7部門(最優秀プレイ賞、最優秀演出賞(マリアンヌ・エリオット)、最優秀主演男優賞(ルーク・トレッダウエイ)、最優秀助演女優賞(ニコラ・ウォーカー)ほか)を独占し、ブロードウェイ公演では第69回トニー賞プレイ部門最優秀作品賞や最優秀演出賞などを受賞した。(NTLive Japan公式ウェブサイトより)
NTLiveの名舞台『戦火の馬』のマリアンヌ・エリオットが演出を手掛けている。
今予告を見ると、めくるめく映像に目眩がしそうだけど、実際の舞台はここまで激しくなかった。冒頭にぎゅおーーんという大きめの音がしたり、途中光の点滅などもある。主人公のクリストファーから見えている世界を描く目的で、映像効果が入っている。心配な方は耳栓とかあると安心かも。特に冒頭はけっこう音が大きかった。
※ここから先、内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
冒頭のインタビューで、クリストファーの人物設定の説明があり、「自閉症スペクトラム症」で、「表情から感情を読み取ったり、想像したり、気持ちを理解することが難しい」ということだった。そういう前提で見てしまったけれど、劇中でも原作中でも、明確に「自閉症スペクトラム症」という単語は出てこなかったように記憶している。
クリストファー自身の説明や、周りの人の対応などを見ていて、彼にとってどういうことが難しいのか・つらいのかを舞台を見て段々と知っていく。「こういう人なんだ」と自然と理解していく。中には、「自分と似ている部分がある」「周りのあの人と似ている」などの心当たりも出てくる人もいるかも。
この「クリストファーから見えている世界」の描き方がすごくて、自分の身体が拡張したような、使ったことのない身体機能を使っているような気持ちになってくる。自分は普段どんなふうに世界を知覚しているのか。一旦解体し、一から点検していくような感覚をおぼえる。絶妙なカメラワークで観ているせいもあるのだろう。劇場で固定した視界で見ているときとどんな違いがあるのか、生の舞台を観てみたいと思ってしまう。
「お隣さんの飼っている犬を殺した犯人をつかまえる」を軸にした冒険物語なのかと思いきや(タイトルもそんな感じだし)、事態は思わぬ方向へ転換していき、隠されていた家族の秘密が暴かれていく。これがなかなか衝撃だったけれど、物語が進むにつれて、「ああ、あるだろうな」と思った。あり得るし、聞いたことはあるし、つまりこれはとても微妙な話題だ。それを物語の形で綴っていくところに唸る。
自分にも10代の子がいるからか、親との関係にどうしても目がいってしまう。
親が子の特性を受け入れられなかったり、あるいは思わず言いすぎてしまったり、対処がわからず追い詰められてしまったりしている様子は、見ていてつらかった。理解やサポートが足りなくて、家族で抱えてしまったところがあったのではと思えてならない。
我が子に触れられない、抱きしめられないことに苦しんだ経験のある親の人は多いのではないか。「ハグの代わりに五本指を合わせる」という習慣は、お互いに譲歩しながら「こうしようね」と決めていった道のりがあったんだろうなと想像すると、愛おしいような、切ないような気持ちになる。家族の関係は短期間の間にぐんぐん変わっていく。最後は希望をもって終わるので、とても温かい気持ちになった。
クリストファーがパニックになったときに先生が言っていたことを思い出して「使う」シーンにもグッときた。先生が心の中にいて支えてくれる。だからいつまでも親や先生がつきっきりじゃなくても、一人でもできることは増えている。そういうクリストファーの自立心が少しずつ育っていく様子が描かれているのが頼もしかった。反抗心が芽生えていくのがイイ。
「合理的配慮」という言葉がある。
合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるよう、一人ひとりの特徴や場面に応じて発生する障害・困難さを取り除くための、個別の調整や変更のことです。日本では、障害者差別解消法や改正障害者雇用促進法において、事業者に対して合理的配慮の提供義務が課されました。https://snabi.jp/article/30
『合理的配慮』の「配慮」が「特別な親切」や「思いやり」という意味も含んでいるため誤解されやすいが、アメリカで生まれたこの概念を表す言葉はもともとは"Reasonable Accomodation"で、Accomodationは、「調整」「調節」を意味する。思いやりではなくて、片方が我慢したり、優遇したり、「負ける」ことではなくて、単なる「調整」なのだという話をとある講座で聞いたのを『夜中犬』を観ていて思い出した。
「障害」がある人は特殊な能力を持っている人と解釈されないといいなと思う。そういうふうに描かれてきた映像作品もよくあったので。
クリストファーの場合は、自分の好きな数学で周りの人や社会とつながるきっかけを得ている。それが彼を幸福にしているといいなと思う。
また、これが転がって、「何かができるから居ていい」とか、「能力があるから社会から存在を認められる」というふうにはなってほしくない。何かの力によってそちらに寄せられないように、自らも寄らないようにしたいと思った。
見る人によって共感する人物が変わってきそうだし、抱く感想も違いそう。
数学が得意な人が観たらどう思うんだろう。
金沢での上映チラシ。高校生(15歳〜18歳のユースを含む)は500円で観られるのがよい。金沢21世紀美術館の企画。
翻訳『夜中に犬に起こった奇妙な事件』
翻訳を通らず、原文に当たってみてもいいかも。たぶん10代ぐらいの若い読者向けに書かれていると思われ、少々わからない単語があっても、ぐいぐい読める。(Kindleなら辞書機能もついている)
たまたま同じ時期にこの記事を読んだので、クリストファーの「想像」の難しさについて想像することができた。
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