ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

ピーター・ドイグ展 鑑賞記録

2020年6月16日、3ヶ月ぶりの電車に乗って、東京国立近代美術館へ。
ピーター・ドイグ展を観に。

 

美術館の前で思わず涙ぐんでしまった。

本物に会えることの喜びよ。すべてが愛おしい。

 

前週に東京国立博物館にも行っていたのだけど、鑑賞可能なエリアに制限がかかっていて、企画展の再開前で、まだまだ緊張感があったから、こうして全面再開されているのを見ると、喜びひとしおである。


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とてもよかった。前評判どおり。やはり行ってよかった。

水、海、川、森、夜、星、雪、空といった自然物から、卓球、四角、など様々なモチーフが少しずつつながりあい、一人の作家の表現世界を曼荼羅のように示している。

ヤゲオ財団コレクション展で観た作品に再会したこともうれしい。あれもこの美術館での開催だった。

 

 

はじめて見るのに、いつかどこかで見たような、経験したような景色、表情。

自分で旅をした場所かもしれないし、映像や映画で観たのかもしれない、小説や人の話から自分が立ち上げたイメージかもしれない。

 

これらをどんどん思い出して勝手につなげていくような鑑賞時間だった。

お能を観ているときのように、自分の経験のストックをぜんぶ使って観られる。逆に言えば、何も美術の知識は要らないということ。鑑賞者自身があるだけで、自分自身を使えば使うほど、果てしなくおもしろがれる。

「静止画」なのに、非常に動的に観られる。

もちろんドイグが「どういう経緯から、どういう作法で、どういう意図で」それを描いたのかも知っていれば、そのストックに加えてもいい。より鑑賞が多角的になる。

 

パッと観た印象 → 細部の観察 → 数歩下がって俯瞰 → 再印象 → 再観察

これを繰り返しながら辿っていくと、さらに物語の想像が膨らんでいく感じ。

ずーっと観ていられるし、いくらでも楽しめる。

隣で観ている人は、きっとわたしとは全然違う記憶を巡らせて、物語を描いていただろうと思うと、一人ひとりに声をかけて回りたくなる。

 

一つの作品から、一瞬にして世界とのつながりを感じられる。これぞコンテンポラリー。ピーター・ドイグが世界で注目されている理由がわかったような気がする。

 

 

のんさんのオーディオガイドもよい。とつとつとした話しぶりに思わず聞き入ってしまう。担当学芸員さんのお話もよい。ほんとうに「ガイド=連れて行ってくれる」感じ。

 

あまり美術館に行き慣れていない人におすすめしたい展覧会。

自分の好きな音楽をイヤホンで聴きながらまわるのも、おすすめ。

 

全作品が写真撮影OKになっていたけれど、撮らなかった。

外出を自粛していたこの3ヶ月、モニターばかり見ていたから、自分の目で観て身体全部で感じることを優先したかった。本物を間近で見て、この鮮やかさと立体感を得たあとでは、撮ったとしても何も映らなそうだ。

とにかくもう、鮮やかさが全然違う。

そのことにもまた涙腺が緩む。
ここに帰ってこられた。

 

数点だけ、ドイグがトリニダード・トバゴでひらいていたという映画上映会のための絵がよくて、それだけ撮った。

ドイグがピックアップした作品をみんなで観て、終わってから感想を話していたらしい。同じことをしているわたしとしては、親近感!

 


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どんな領域の芸術も、「もう出尽くした」と言われることがあるだろうけれど、こうして馴染みのある形式でも、新しい表現はどんどん生まれ続けていくのだな、と思った。

同時代を生きている感覚と求めが、作り手にも受け手にもあり、出会える場があれば、いくらでも成立していくのではないか。

 

 

会期はもともと6月14日までの予定が、10月11日までに延長された模様。関係各所・貸出元の協力もあって可能になることだと思うので、ありがたい。

peterdoig-2020.jp

 

 

コレクションのほうはわたしの大好きな小倉遊亀、吉田博、小原古邨もあり、満足。

 

▼こんな"椅子"あったっけ?と思って撮った。


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