2月の半ば、「梅が盛りです」とのツイートを見て居ても立ってもいられず、出かけてきた。元々行く予定にはしていたのだけれど、こういうきっかけがあるとうれしい。
大田区立龍子記念館『時代を描く 龍子作品におけるジャーナリズム』展。
https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi
日本画家・川端龍子(かわばたりゅうし1885-1966)は、「大衆と芸術の接触」を掲げて、戦中、戦後の激動の時代、大衆の心理によりそうように大画面の作品を発表し続けました。そして、「時代を知るがゆえに、時代を超越する事が出来る」という考えから、これまで日本画で描かれてこなかった時事的な題材を積極的に作品化しました。それらの作品には、龍子が画家となる前に新聞社に勤めていたことから、時代に対するジャーナリスティックなまなざしが強く表されています。本展では、太平洋戦争末期の不安や憤りを赤富士に表現した《怒る富士》(1944年)や、終戦間際に自宅が爆撃にあった光景を飛び散る草花に表した《爆弾散華》(1945年)、多くの犠牲者を出した狩野川台風の被害から復興を目指す人々の力強さを伝える28メートルの大作《逆説・生々流転》(1959年)等、龍子が時代を力強く描き上げた作品群を紹介します。世界が大きな不安を抱えたこの時代に、川端龍子のエネルギッシュな作品の数々をぜひご覧ください。(公式ウェブサイトより)
芸術を補給している……生き返るわ……。
今回の企画もとても良い……良いよ……。
「戦中戦後の人々の心に芸術を」と描かれた作品の数々。
確かにわたしも、「今、あの大画面のエネルギッシュで美しい絵を観たいッ」と思って来たものね。今の自分も命の危険にさらされていると言える。
鼓舞だけでなく、理解、共有、労り、鎮魂も感じられた。
今回は28mもある「逆説・生々流転」も展示されている。よくそんな作品の入るスペースあるね!という疑問も、龍子自身が設計した記念館だからと聞けば納得。
ここは作品と館が一体で楽しめる。広々として、静かで。お庭も観られる。
時間をとってゆっくりと訪れたい場所。
龍子が洋画から日本画への転向を決めたのが28歳、国民新聞社社員時代のアメリカ遊学。きっかけの一つがボストン公立図書館のシャヴァンヌの壁画とあった。
気になってググッてみたら、最初に出てきたどなたかのブログに小さな写真がある。これが龍子的新しい日本画、大画面作品の源泉か?
今回は、学芸員の木村さんが、目玉の展示作品について、詳細な解説をしてくださっている。現地で聞けばオーディオガイドだし、記念館に足を運べない方には、オンラインツアーのようになっている。
展示パネルにさりげなく書かれていた記念館としての思いは、「どんな困難な状況でも、芸術を必要とする市民がいる」という龍子の芸術家としての覚悟とも呼応するステイトメントになっている。
「龍巻」これが一点目。モニターや図録で見ているときはカッコいいなと思っていたけど、実物を見ると、苦しさしかなかった。
画面は全部水で埋まっていて、構図は完璧。上も水が反り返って落ちてくる。水流と重力の両方で、首をもたげながら落ちていく魚やサメ。怖い。
1933年。日本が国際連盟を脱退した年。
『龍巻』で不穏な予感を描いたのちの『海洋を制するもの』。軍艦の製造競争に入った時期に、川崎造船所を取材して描いたもの。作品は作品として活力、一心不乱、神聖ささえ感じるものだが、今の時代からは、観ていて非常に複雑な思いもある。
龍子は1939年に軍の嘱託画家としてノモンハンに渡っている。過酷な紛争があったところだ。そこで何か心境の変化はあったのだろうか。
藤田嗣治や小早川秋聲の作品などを思い出す。
観たかった作品。
散華とは、「花を撒いて供養すること、弔い」と「花と散る」を掛けた題。千切れていく野菜。まだ生きている途中のものが突然ぶった斬られる瞬間のストップモーション。
1945年8月13日。自宅が空襲に遭う。アトリエは幸い難を逃れたが、野菜を植えていた畑が被害にあった。終戦間際のぎりぎりまで空襲が続いていたのか。
龍子は自分の画号にちなんで龍のモチーフを愛したというが、空襲の「襲」に「龍」が入っているのは、切ないことだなと思った。
表立って批判することのできない時代だったのか、あえてこの表現を選んだのか。
2ヶ月後の10月には、市民を励ますために展覧会をひらいたという。エネルギッシュな作品の鑑賞の場をつくるという信念。
杉村学園衣裳博物館を訪れたときにも、戦後すぐに学校を始めたときに、待ってましたとばかりに学生たちが列を成したというエピソードを展示で見た。あの頃の人たちの立ち上がる力の強さを思う。
横山大観の40mの絵巻『生々流転』へのオマージュとのこと。自然の恵と自然の脅威、それに晒されながら、自然の一部として生きる人間の姿が描かれている。
起こっていること(リアル)を見つめながらも、あくまでも芸術的手段で表していく
挿絵が報道写真の代わりだった時代から下積みをしていたから、リアリティは、龍子にとって得意中の得意だったのだ。
子どもってわかりやすく笑ったりしない、その感じが出ている。
画面右上に乗車している機関士の横顔が描かれているが、表情がとても怖い。子どものいる生命力あふれる世界に対して、ゾッとするような冷ややかさを感じる。
1944年。妻を病で亡くした後の作品。これの前にいると、どことなくやり場のない感情が湧いてくる。黒雲の下は奈落のようにも感じられる。
1945年6月に龍子と弟子のアトリエで展覧会をひらいた。会場が確保できなかったため。意地でも制作し、展示した、その執念。戦時中の人々の暮らしは、わたしが想像していたより、ずっと多様だった。
子どもへの眼差しが優しい作品。
「象を再び上野公園にと、台東区の子どもたちが行動し、周囲の大人たちを巻き込んで実現した」とキャプションにあって、驚いた。『かわいそうなぞう』のあとにそんなことがあったとは。(どなたかのブログにも書いてあった。インディラの骨格標本が科博に展示されているのですか?!)
今回は他にも、龍子が美術を志すきっかけから変遷の概略が追えたこと、カッパをモチーフにしたユニークな作品群(黄桜のカッパっぽい)、南洋点描なども良く、見所が多かった。個人的には、1934年の南洋視察と翌年の個展「南洋を描く」が気になるので、まとめて展示があるとよいな。
南洋は、"遠いという予想に反した到着ぶり" だったという感想も意外だった。わたしにとってこの頃の南洋と言えばつながるのは中島敦で、彼は1941〜1942年の赴任だったので、同じようにそれほど苦労せず現地には着いたのかと想像したりしている。
青龍社の展示会場を東京府美術館から三越に変えたときの言葉も印象深い。
美術館のみを檜舞台とする古い観念から開放され、文化大衆との接触面をより広く。
権威を嫌い、独自の道を行った龍子のさまざまな一面を見ることができる。
やっぱり個人美術館はおもしろい。
一人の作家の限られた所蔵品の範囲の中でも、語る視点は無限にあるという点が特に。
企画する学芸員のバックグラウンドにもよるし、鑑賞者からのフィードバックが人の数だけあるし、何より時代の移り変わりによって、語る視点がどんどん生まれて続けていくから。
作品の鑑賞のあとは、龍子公園(自邸とアトリエ跡)の見学。わたし一人のためにスタッフさんがついてくださって、恐縮しきり。ほんとうに花盛りだった。
前回11月の訪問時はワサワサしていた「龍子の庭」も刈り取られてすっきり。(前回の記事こちら)この時期に一旦綺麗に刈っておくと、春になってまた新しい芽が出てくるのだそう。
今、恵比寿の山種美術館で川合玉堂展をやっているので、こちらも観たい。
【開館55周年記念特別展】 川合玉堂 ―山﨑種二が愛した日本画の巨匠― - 山種美術館
館内の年表に「1952年(67歳)横山大観と川合玉堂と川端龍子の三人で展覧会を開催」とあったのを見て、日本美術院を離脱したけど、大観と引き続き交友はあったのねということと、川合玉堂さんて誰?と思ったので覚えていた。
最近、人間関係を観にミュージアムに行っている気がする。
百人一首の世界と一緒で、交友関係が見えてくると、自分と同じ人間の営みの中での創作なんだ、と身近に思えるし、同時代性も見えてきておもしろい。
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